終幕 約束の夜

 韓烈の寝室、片隅のテーブルに静かに腰を下ろす。


 薄灯りの下、紅潮した頬に手を添えながら、落ち着かぬ気持ちをどうにか抑え込もうとしていた。

 それは、先ほどの夕食の酒のせいだけではない。


 燕での一件が終わり、すべてが落ち着いた今——

 二人で交わした「約束」が胸の内に熱を灯していた。


「これが終わったら——本当の夫婦になろう」


 あの言葉が脳裏をよぎるたび、心臓が跳ね上がる。


 これから、何が起こるのか。

 その想像だけで、体の奥から熱が込み上げてくる。


 夜の静寂を破るように、扉がそっと開いた。

 はっと顔を上げると、入浴を終えた韓烈が部屋に足を踏み入れる。

 湿った髪を無造作に拭いながら、こちらへと視線を向けた。


「……まだ起きていたのか」


 小さく頷く。


「ええ、なんとなく……」


 言葉に乗せた声が、ほんの僅かに震えているのを自覚する。

 その頬の赤みに気づいたのか、韓烈の眉がわずかに動いた。


「酒がまだ残っているのか?」


 慌てて首を振る。


「ち、違います。ただ……少し、考え事をしていただけです」


 しばし無言で様子を見つめたあと、韓烈がゆっくりと歩み寄ってきた。


 心臓が再び高鳴る。


 ほのかに漂う湯の香りと、体温を思わせるやわらかな匂いが鼻先をかすめる。


「考え事?」


 目の前の椅子に腰を下ろし、手拭いをテーブルに置く彼が静かに問う。


「何を考えていた?」


 咄嗟に視線を逸らしてしまう。


「……えっと……」


 目を合わせるのがどうしても恥ずかしく、両手の指先をいじる。


「燕のことも、いろいろありましたし……その、これからのこととか……」


 彼の黒い瞳が、私をまっすぐに捉える。


「これからのこと?」


 小さく息を吸い、囁くように口を開いた。


「……韓烈さまと交わした、約束のことを」


 恐る恐る彼の表情を伺うと、そこには穏やかな微笑みが浮かんでいた。


 戦場では見せることのない、柔らかで静かな笑み。


 彼の手がそっと指先に触れる。


「忘れていたのか?」


 驚いて目を瞬かせる。


「えっ……?」


 その指がやさしく包み込むように手を握った。

 温もりが、じんわりと肌に広がっていく。


「俺はずっと、この時を待っていた」


 鼓動が跳ねる。

 彼の唇が手の甲に触れ、そっと口づけを落とす。


 深い視線に見つめられながら、彼が立ち上がる。

 手を引かれ、導かれるままに立ち上がった。


「玲」


 名前を呼ばれ、顔を上げる。

 韓烈の目に宿るのは、確かな決意と深い愛。


「お前を、愛している」


 その言葉に胸が揺れる。

 体が熱に包まれていく。


「……私も、韓烈さまを愛しています」


 抱き寄せられる。

 広い胸の中は、すべてを受け止めてくれるような安心に満ちていた。


 顎に触れた指が、顔を上げさせる。

 彼の顔が近づいて——


 ——唇が、触れた。


 深く、熱く、互いの存在を確かめ合うような口づけだった。

 これまでのどれとも違う、ためらいのない、強く求め合うもの。


 韓烈の腕が背にまわされ、そっと力が込められる。

 指先は熱を帯び、鼓動が重なり合って響いてくる。

 その熱に包まれながら、ただ彼の存在を感じていた。


 やがて体がふわりと抱き上げられ、寝台へと導かれる。

 彼の瞳がじっと見つめてくる。


「玲。好きだ。お前が欲しい」


 低く抑えられた声が、胸の奥に深く響いた。

 そこにあったのは欲望だけではない。

 大切にしたいという、真っすぐな想いだった。


 その視線に包まれ、全身が熱を帯びていく。


「はい。私は、韓烈さまのものです」


 まっすぐに彼の目を見つめ、微笑む。


 優しく落とされた口づけが、首筋へと降りていく。


「んっ……」


 初めての感覚に体が跳ね、息が漏れた。

 触れられるたび、肌は次第に敏感になっていく。


 衣の結び目に指がかかり、ゆっくりと解かれる。

 柔らかな布が滑り落ち、月明かりの中で肌が露わになる。


「……綺麗だ」


 囁く声に、羞恥が頬を染め、思わず身をよじる。


「そんなに見ないでください。恥ずかしいです」


 けれど、肩に触れた手が優しく押し戻してきた。


「隠さなくていい」


 低く、優しく囁かれた声に、心が震える。


 彼の指が、鎖骨をなぞるように滑り、脇へ、腰へとゆっくりと降りていく。

 体の輪郭を丁寧に辿るように、温もりが肌を包む。


 くすぐったさが、徐々に甘い快楽に変わっていく。

 その感触に耐えきれず、小さな吐息が漏れる。


 韓烈の目が、私をとらえている。


 その目は、普段の穏やかさを失い、まるで獲物を見据えるかのように熱を帯びていた。

 私は、その視線に射抜かれたように、動けなくなった。


 韓烈の熱情に絡め取られ、心も体も余裕を失っていく。


 唇が胸元に落ち、ゆっくりと吸い付き、優しく噛まれる。

 全身が、炎のような熱に包まれていく。


 呼吸は乱れ、彼の手によって全身が快楽に沈んでいく。


「……韓烈さま……」


 潤んだ瞳で、かすかに震える声が漏れる。


 その声を受け止めるように、手を強く握られた。

 まるで、決して逃がさないと告げるように。


 ——愛しい。


 長く堪えていた想いが、張り詰めた琴の弦がはじけるように解き放たれ、彼は私を強く求めた。

 私もまた、その熱に抗うことなく、身を委ねる。


 唇が重なるたびに、指先が肌を這うたび、甘い震えが全身を駆け抜けた。


 夜は、春の柔らかな風に包まれていた。

 障子越しの月光が、揺れる薄紅の花を映し出し、遠くから鶯の声が響く。


 舞い込む夜気はまだ冷たさを含んでいたが、重なり合う肌の温もりが、それすらもかき消してゆく。


 儚くも甘い春の夜。

 静寂の中で、二人の心はひとつに溶けていった。


 ◇


 朝の光が、静かに部屋に差し込んでいた。


 目覚めると、隣には韓烈の安らかな寝顔。

 昨夜、彼の腕の中で眠りについた心地よい余韻が、まだ体に残っている。


 戦場で見せる厳しい将軍の面影はそこになく、穏やかで静かな息遣いだけがある。


 そっと、彼の頬に触れた。

 指先の動きに反応するように、韓烈がゆっくりとまぶたを開く。

 まだ少し眠たげな瞳が私をとらえ、かすかに微笑んだ。


「……おはよう」


 低く優しい声が、胸に染み渡る。


 朝起きると、大好きな人が横にいて、何気ない朝の挨拶を交わす——

 それが、こんなにも幸せなことだったなんて。


 私は、ふわりと微笑んで、彼の隣でそっと身を寄せた。

 その仕草を受けて、韓烈の腕が自然と腰を引き寄せる。


 ぬくもりに包まれながら、そっと囁く。


「私……とても幸せです」


 韓烈はその言葉に微笑み、そっと私の髪に唇を寄せる。


「……俺も、幸せだ」


 これからどんな未来が待っているのか、まだ分からない。


 でも、もう一人ではない。

 これからは、二人で共に生きていく。


 朝の光に包まれながら、互いの存在を確かめるように、もう一度抱きしめ合った。


 ——終幕。

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【中華×恋愛】剣華の姫 ~戦神の妻となりて~ 結陽 詩根(ゆいひ しいね)*12月多忙 @shioriche

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