潮騒の森
威岡公平
第1話
薄闇の中、俺はゴム手袋をはめて自宅の側溝にしゃがみ込んだ。
冷たい空気が頬を刺すが、潮の匂いがしないことに安堵する。竹ぼうきで泥をかき出すと、澄んだ水が流れ始め、静かな音が耳に心地よい。汚れが消えるのを見て胸が軽くなり、ここは海じゃない、安全だと感じる。背後で草鞋が擦れる音がして振り返ると、地元の老人が杖をついて立っていた。皺だらけの顔に笑みが浮かぶが、どこかぎこちない。俺を見下ろし、低い声で呟く。
「おはよう、毎朝よくやるねぇ」
老人の声が掠れ、目が泳いでいる。俺はほうきを動かしつつ返す。
「気持ちがいいですよ、水がきれいだと」
表面上は和やかだ。老人は頷き、笑う。
「確かに」
だがその表情に違和感があり、口元が引き攣っている。俺は愛想笑いを浮かべ、心の中で引っかかりを覚える。風が木々を揺らし、ざわざわと音が響いた。老人の視線が一瞬、側溝の暗い水面に落ちた気がする。
「天気がいいと気分もいいね」
笑顔が広がるが、どこか不自然だ。
「こんな朝早くに…嫌な場面にでくわした」
老人は唐突に呟き、黙り込む。笑顔が消え、顔が硬直した。俺はその言葉に引っかかりつつ、聞き流すふりをする。老人の視線が俺を刺すようで背中がぞくりとするが、水を見つめ直し心を落ち着けた。
俺が返事をしないと、老人は杖を突き直し踵を返し、草鞋の音が遠ざかる。その異様な雰囲気が頭に残るが、側溝の水が澄みきり流れが整うのを見て深呼吸し、安心感が広がった。
「気にしない」
俺は呟き、作業を終える。老人の足音が完全に消え、霧が濃くなり山々がぼんやりと霞む。水が静かに流れ汚れが一つもないことに救われ、ほうきを握り直した。老人の言葉が耳に残りつつも、清らかな流れを見ていると不安が薄れていく。朝霧が村を包み、山々が重たく立ち尽くす中、不穏な気配を感じるが側溝の水が流れていることに安心し、海じゃない、ここは安全だと自分に言い聞かせてドアを閉め、薄暗い朝を背に家に入った。
都会の喧騒に疲れ親戚に相談した俺がこの村に引っ越してきた決め手は、「A県の山奥なら海が見えない」と勧めらたことだった。仕事を辞めて荷物をまとめ、親戚の伝手でこの村の空き家に移った。
窓を開けると山の稜線しか見えず、波音も潮の気配もない。荷解きをしながら初めて心が軽くなり、ここなら大丈夫だと感じた。山の風が頬を撫で、土と草の匂いが鼻を満たす。塩気がないことに感謝しながら深呼吸し、木々がざわめき緑が目に鮮やかだ。海の記憶が遠ざかり胸が安堵で温かくなり、この村ならやり直せるかもしれないと思った。
家の周りを歩くと側溝の汚れが目に付き、ぬめった感触を想像してぞっとする。海を思い出させるものは排除しなければならず、ほうきを手に取り掃除を始めた日からそれが習慣になった。汚れが流れれば安全が保たれると信じ、村人たちが遠くから挨拶してくるが俺は軽く会釈するだけだ。深入りせず静かな暮らしを守りたい気持ちが強く、山に囲まれたこの村で誰にも邪魔されず過去を忘れて生きていける。そんな確信が俺をここに留めていた。
夜、俺は台所で鍋をかき混ぜていた。テレビの音が部屋に響き寂しさを紛らわしてくれる。鍋から漂う山菜を煮るよい匂いに、俺は静かな夜に日常が戻った気がしていた。
テレビから「海洋ドキュメンタリー」という言葉が飛び込んできた。画面に目をやると深い青の海が広がり、波が揺れ泡が弾ける。心臓が締め付けられ息が止まり、あの感覚が蘇って手が震え鍋から目を離してしまった。頭がチカチカし、お玉がカタンと鍋に落ちる。足がもつれて一歩後ずさり、画面の海が俺を嘲笑うように揺らめく。あのぬめった感触、塩気が脳裏にちらつき全身が冷たくなる。
ここは海じゃないのにどうしてこんな気分になるんだ。波音がザザーッと響き、ぬらりと動く海藻が映し出され吐き気がこみ上げ喉が締まる。子供の頃の恐怖が頭をよぎり、あの暗い水面、あの影、もう見ていられない。俺はよろめきながらテレビに近づき、床に落ちたリモコンを足で蹴っ飛ばしながら慌てて電源を切った。
画面が暗くなり波音が消え部屋が無音に包まれるが、心臓の鼓動が耳に響く。頭がぐらりと揺れ膝が震え、壁に手をついてなんとか立っていられたが、耳に残る波音が消えず心拍が速まる。
あの海の底、あの目が脳裏に浮かび恐怖が全身を包む。目を閉じても暗闇が広がり、鼻に塩気が漂う気がして喉が締まる。あの生臭い水が口に流れ込んだ記憶が蘇り、全身が硬直する。
「喰われる」という感覚が甦り体が冷たくなる。
「ここは海じゃない」
呟くが声が震え、汗が背中を濡らし心拍が収まらない。あの記憶が現実を歪め俺を追い詰める。
あれは子供の頃の夏だった。海辺で遊んでいた俺は波の音に笑い声を混ぜていた。親戚が近くで泳いでいて浅瀬の水が気持ちよく、太陽が照りつけ海がキラキラ光る。あの瞬間までは何も怖くなかった。親戚と笑いながら泳いでいたら突然波が強くなり、足が地面から離れ水に引っ張られる感覚が襲う。水面下に引き込まれ鼻に塩気が突き刺さり、喉が焼けるように痛み息ができない。足にぬるりとした海藻が絡みつき引きずり込まれる感覚にパニックが襲い、目を開けると暗い海中に蠢く影が。「それ」がこちらを見つめている気がして、ぬめった感触が全身を包み海水が口に流れ込む。生臭さが舌を覆い吐き気を覚え、「喰われる」と確信し恐怖で叫ぶが水面下で泡になるだけ。頭がチカチカし視界が暗くなり、足がもつれて泳げず意識が遠のきかける。親戚に引き上げられ砂浜で咳き込み、吐き出した水が塩辛く鼻腔にこびりつく。
テレビを消し静寂が部屋を包む中、俺は台所に戻り味噌汁を見つめた。啜ると山菜のぬるりとした感触が舌に広がり顔が歪む。緑色が海藻を連想させ鼻の奥に生臭さが漂い、胃がキリキリと締まる。塩気が舌に残り喉が締まり、あの海水の味が甦ってえずきが止まらない。俺はすぐさま茶碗の中に中身をそのまま吐き出すと、よろよろと洗い場に向かい、やっとの思いで中身をシンクにぶちまけた。吐き気が収まらない。頭がぐらりと揺れ足がもつれて壁に手を突き視界が一瞬ぼやける。
「海じゃない」
呟くが鼻に残る匂いが現実を歪め恐怖が這い上がる。シンクに水を流し洗い流すが、指に触れた滑った感触が、実際よりもリアルさを増して俺の手を這い回る感覚がした。食欲が消え台所を後にし、よろめきながら寝室へ向かう。布団に潜り込み目を閉じるが暗闇が海のようで、そのまま眠りに落ちた。
「祠の手入れを頼みたい」
翌朝、村人からの申し出に「気分転換にいい」と頷いた俺は、森へと向かった。田園の中に孤立する、四方100メートルほどもないささやかな森だ。空気が澄み潮の気配がない。胸が軽くなり昨日の不快感が薄れる。祠に着くと小さな石造りが佇み、冷たい石に触れると土の匂いが安心感を与える。周囲は清澄で木漏れ日が地面に模様を描き、木々が風にゆらりと揺れ鳥のさえずりが響く。海の記憶が遠ざかり、祠の縁に腰掛け深呼吸する。山の空気が肺を満たし穏やかな気持ちが広がり、緑の深さが目に優しく風が頬を撫でる。
「ここなら大丈夫」
呟き、祠の前で手を合わせ静かに祈る。自然に守られている感覚が強まり、太陽が昇り森が明るくなる。光が祠を照らし影が柔らかく揺れ、木々のゆらめきに別れを告げ軽い足取りで帰路につく。安堵が全身を包んだ。
祠の掃除を終えほうきを手に森の出口へ向かうと、心地よい疲労感が体に残る。背後で草が擦れる音がして振り返ると、先日の老人が杖をついて近づいてくる。祠を一瞥し低く言う。
「よくやってくれた」
俺は軽く会釈し、老人は話し出す。
「この祠、妙な縁起があるんだ」
興味半分に耳を傾けると、続ける。
「遥か昔、この辺は海だったんだよ」
その言葉に頭がチカッと光り、心臓が締まる。
「海神を祀った祠さ。何かを鎮めるために建てたらしい」
「海」という単語が耳に突き刺さり足がふらつく。視界が一瞬歪み老人の声が遠ざかり、耳鳴りが波音のように響き始める。頭がぐらりと揺れ周囲の木々がぬらりと揺れる海藻に見えてくる。緑が暗い海底の色に変わり、風が強まり木々のざわめきがザザーッと寄せる波のようだ。鼻に塩気が漂い喉が締まり、トラウマが現実と混じり合い吐き気がこみ上げる。老人が何か言うが声が水泡のように弾けて届かず、頭がチカチカし続ける。祠の石がぬめった岩礁のようで足元がぐにゃりと揺れ立っていられない。
「海じゃない」
呟くが言葉が空しく響き恐怖が全身を包む。木々の影が「それ」の触手のように伸びる幻覚に心拍が耳を圧倒し、眩暈が強まり膝がガクンと崩れる。地面に手をつくが冷たい感触が不気味で、老人が近づき声をかける。
「大丈夫か」
老人の声は、今や朧げにしか届かない。意識が遠のき、森が海中に沈んだように感じられ「それ」の目が浮かぶ。絶叫を堪える力がなくなり、安心していた景色が一変し「ここは海の底だ」という感覚が、俺の意識を支配していた。恐怖が腹の底から這い上がり老人の姿が霞み、現実と幻覚の狭間で意識を失いかける。
俺は立ち上がり、祠の森から逃げ出そうと走り出す。恐怖が背中を押し木々の間を抜け、息が荒くなる。頭がチカチカし足がもつれて何度もつまずく。空が暗くなりポツリと雨粒が落ち、頬を冷たく濡らし心臓が締まる。雨が強まり地面がじっとりと湿り気を帯び、ぬかるみが足にまとわりつく。鼻の奥にツンと塩気が漂い喉が焼けるように痛み、海の記憶が現実を侵食する。
「現実じゃない」
呟くがぬめった苔が足を滑らせ膝をつく。雨音がザーザーと耳を叩き波音のようで、頭がぐらりと揺れ視界がぼやける。木々がぬらりと揺れ海藻のようで恐怖が全身を硬直させ、ぬかるみに足を取られドサッと転ぶ。手が泥に沈みぬるりとした感触にえずき、口の中を切り血の味が広がる。塩辛さが混じり吐き気が止まらず、雨が顔を叩き水滴が目に入る。視界が歪み「それ」の影が浮かぶ幻覚に襲われ、這うように立ち上がるが足が絡まり再び転びそうになる。心拍が暴れ鼻に漂う塩気が強まり、トラウマか現実か分からない。現実感が薄れぬかるみが靴を飲み込み、ズルリと滑る。冷たい感触が足首を包み、
「逃げなきゃ」
と呟くが声が雨に掻き消され、頭がチカチカし続ける。周囲が海底のようで木々が蠢き、恐怖が腹の底から這い上がる。雨が頬を流れ塩水のようで喉が締まり息ができない。転んだまま這うがぬかるみが指に絡みつきぬめりに耐えられず、意識が混濁し現実と幻覚が溶け合う。逃げる力が尽き森の出口が見えず、雨の中で立ち尽くす。絶望が心を覆った。
ぬかるみに膝をつき動けなくなった。頭がチカチカし足がもつれて立つことができず、ぬかるみが体を飲み込む。鼻にツンと塩気が漂い口に泥が流れ込み、生臭さが舌を覆ってえずく。ぬめった感触が全身を包み「それ」に喰われる感覚が甦り、恐怖がピークに達する。目を閉じると暗い海底に沈むような錯覚に襲われ、現実か幻覚か区別がつかない。
ぬかるみがドロドロと這い上がり指先まで絡みつき、不快感が全身を支配する。「よだれの中にいるみたいだ」と頭に浮かび、海の腹の底にいるような感覚が広がる。頭がぐらりと揺れ視界が暗転し、心拍が耳を圧倒し息が浅くなる。ぬかるみに沈み手が泥に埋まり、ぬるりとした感触に自我が溶けていく。雨音が遠ざかり耳鳴りが波音のように響き、現実感が薄れる。
「ここは海だったんだ」と悟り、安心感が崩れ落ち恐怖が腹の底を満たすが、抵抗する力が尽き不思議な安堵感が忍び寄る。闘う意志が消えぬかるみが体を包み、「それ」に飲み込まれる妄想が現実と混じる。
意識がぼんやりとし頭のチカチカが収まり、足のもつれも感じなくなる。雨が頬を流れ塩辛い味が口に残るが、もはや不快に思わない。自我が泥に溶け境界が曖昧になり、恐怖が奇妙な静けさに変わる。目を閉じ暗闇に身を委ね、ぬかるみが温かく感じ始め抵抗が消える。遠くで木々が揺れる音が聞こえるが耳に届かず意識が遠のく。
「もういい」
と呟き、奇妙な安堵の中で息を吐く。全てが溶け合う感覚に包まれ、俺はぬかるみに沈んだまま意識を手放した。
潮騒の森 威岡公平 @Kouhei_Takeoka
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