言葉と時間
坂本忠恆
言葉と時間
X大学図書館棟別棟の四階部分の窓掛けの奥にひとつだけ燈火があった。別棟は五階建ての幅狭な鉄筋造で、雨だれと白華の夥しい老朽を呈していた。春の黄昏の微温な大気の中に聳えた痩躯なビルディングの発するこの鈍磨した眼光を、厚雲のように垂れた老爺の瞼の奥に発見する心地で、私はそれを確かめた。光は六等星の弱さで瞬いていた。
別棟に備わった唯一の狭いエレベーターには、古い空気が大切に仕舞われていて、不埒者の進入を危うい軋み音で抗議した。引きずられるように上昇する小さな箱の鈍間さは、物ぐさな奴隷の仕事を私に夢想させた。そこで、手持無沙汰な私の視線はいつも操作盤上の検査証に留まるのだが、その度に、毎年律儀に更新されているその日付に、私は新鮮な驚きを覚えるのだった。
目的の四階に到着したことを知らせるベルは、まるでトースターのようにチープな音を響かせたのち、退出を急かす無骨さで扉を開いた。そこから、全体として薄暗い、窮屈で煤けたような景色が眼前に開けた。
この階には卒業生の修博士論文が収蔵されている。それらを収める本棚が、閲覧を顧慮しない間隔で横二列続きで櫛比している。その中央に辛うじて開けた通路を奥へ進むごとに、経年による退色を取り戻す紺の表紙の一様さには、凡そ知の若々しさ、奔放さなど感じさせない義務作業へのマンネリズムばかりが看て取れた。それら倦怠の面持ちをした数多もの列が、斯様な徒爾への強制力をもった学問権威、引いてはそれを礼賛する文明社会への意に反した従順さをアジテーションするように機能していた。ここに収められたものは、意図せず権威主義への改宗を迫られた学生らの心的病巣を筒抜けにするカルテなのだと私たちは考えた。私は歩きながら、通り過ぎざまに手を伸ばしてその“カルテ”の一つを抜き取り、表題も確かめないまま小脇に抱えると、そのままさらに奥へと進んだ。四階閲覧室の最奥にある、わずか数本の蛍光灯だけが、この空間の唯一の光源だった。
その灯りの下には、私がただ「先輩」と呼んでいる人物がいた。先輩は遊休の事務机で間に合わせただけの閲覧台上の隅に腰掛けて、腕を組んで私を待っているようだった。
私が到着すると、先輩の視線はさっと、私が抱えていた紺色の装丁のあたりを往復した。私は先輩が座る閲覧台の上にそれを開き、初めてその題名を確認しながら読み上げた。
「何年前の?」
「五年前です」
私がそう答えると、先輩は小さくあくびをした。
「新しいのでは趣がないよ。せめて十年は前のものでなければ、きみの言う時間の重さとやらが適切に測れないではないか。たった五年ぽっち、誤差に過ぎないよ」
「しかし、この説の援用部分には時代的な誤りがありますよ。すでに否定された過去の通説を骨組みに、この論は組まれています」
私は反論のつもりで返した。それを聞くと、先輩は心底嬉しそうに笑った。まわりに憚る必要もないはずだが、その笑い声は肩の揺れに緩衝されて見た目ほどには響かなかった。
先輩の喜怒哀楽には、暗号機のような未知の法則があるらしく、私にはその真意を測りかねていた。それは、若さが成熟へと到達する前に未知の領域へ追いやられているがゆえの解き難い感覚だった。先輩は幼少と老年のあいだ、ぽっかり開いた空白地帯に生きる詩人のようだった。それはあらゆる達観や諦観を認めない姿勢に支えられ、生から死へ直結する肉体的架橋だった。抽象知が往々にして直感による産物であるように、詩人の言葉は具体化寸前で踏みとどまった言語的幻影だ。先輩が詩人に思われるのは、私よりずっと若くもあり、同時に遥かに老いてもいるように見えるという二重性ゆえだが、その根本部分は正しくその時間矛盾によって隠されてしまっていた。そもそも詩人の言葉が思想的価値、すなわち言語的再現性を獲得する過程に、いかなる論理的道筋がありうるのか。もしそれが可能だとして、それは本当に時間的な積み上げによって到達できるものなのだろうか。
「きみにとって、時間は如何なる官能を刺激するものだろうか」
「端的に言えば、それは今における過去との差異への洞察です」
「それは、具体的には何のことだろう」
「留まりないもの全てです。そして、そのような性質を持つ事象を看取し得るあらゆる官能です」
「きみが話す。私が聞く。これによって、私の時間への官能は正しく目覚める。そのことを、きみは認めるというんだね?」
「如何にも、その通りです」
「でもね、私にはどうも、今この場所に流れているときみが認める時間というものを信じることができないんだよ」
「時間は臨在的な、しかし厳然とした事実でしょう」
「だがね、臨在的事実が事実としての本質を担う時点で、それはすでに時間的な臨在性を逸脱した"形式的抽象空間"に属してはいないか。抽象的モデルに組み込まれた事象は、かろうじて“過去の再現”として時間を呼び戻すかもしれないが、それはあくまで思考のゼンマイ発条としての時間にすぎず、事象自体がかつてもっていたはずの生々しい時間性とは異質だ。例えばここにある論文や書物の情報を読む際に、私たちは必ず時間を費やすが、そこに費やした時間それ自体と、読み取った内容の本質的関連を、いったいどこまで立証できるだろう。多分に錯覚ではないかと思うよ」
この問答によって、先輩の思想のおおよその輪郭が見えてくる。先輩はいかなる存在了解の手段においても、時間的事物を材料にしようとしない。時間は、自身の生から死に至るまでの道筋、そのすべてを流れ去る独立した物理現象として扱われるだけであり、自己の存在了解の手立てに時間的臨在性を組み込むことを固く拒んでいる。そこに、先の"詩人"としての先輩の思想の端緒があった。
「私は時間的な特別性というものが嫌いだ。特別なのは事象そのものであって、時間ではない。だからこそ、毎年繰り返される慣例行事なども苦手だ。時間的な繰り返しにこじつけて作られる特別性には、一切同意したくないんだよ」
先輩にとっての命題は、「論理的前後関係は果たして時間的前後関係を模したモデルでしか表現し得ないのか」という問いに要約できる。詩人の言葉によって、恰も時間軸を飛び越えるかのように呈示される抽象知をひとつの事実として据えること、それが先輩の一貫した態度なのだ。言葉が用いられるとき、その時間的表層が言葉の存在を時間へ結びつけてしまうという見方は、言葉本来のニュアンスというよりも、それが使われる状況の制約によって暫定的に付加された仮説にすぎない、と先輩は考えているらしい。
先輩は続ける。
「知識は時間とともに蓄積される。だが、それは表層的な事実にすぎない。現代文明における知は、その表層を起点に逆算的な解析を繰り返してきたが、そうして因果を反転させた結果、いつしか"時間的なものこそ言語知の本質"であるかの錯覚を生みだしてしまった。だが本来、言語というものが時間的である必要がどこにある? 時間を内在する言語構造が、言葉のもつ膨大なニュアンスを、すべて"時間的整合"へ押しこめるなどとは到底断言できないはずだよ」
言葉は必ずしも論理にのみ従属しないし、同様に時間の表層をもった観念が必ずしも論理性を帯びているとも限らない。論理的整合性が時間的前後を伴うように見えるのは、私たちが知を扱う際に常に時間軸の上で思考しているからにほかならない。“存在する”という自明性と、“それを時間に媒介して解釈する”自明性は、はたして質的に同一だろうか。私はこの点において、先輩の考えを支持していた。仮に時間性が不可避の事実であるとして、それが宇宙に偏在しているならば、なおさら私たちは“特異的領域をどう捉えるか”という問題を免れないだろう。
そう考えていくうちに、愚劣なほど当たり前の疑問が、まるで熟れた果実が自然と落ちるように、私の口からこぼれ出た。
「でも、なぜ時間は繰り返さないのでしょう。どうして一方向にしか進まないのですか? あるいは、本当は繰り返しているのに、私たちの認知器官がそれを捉えられないだけなのでしょうか」
先輩はちょっと考えるように沈黙してから、口を開いた。
「もしかすると、そうかもしれない。きみの疑問は正当そのものだと思う。しかし、さっき私が指摘したことをもう一度思い返してほしい。そもそも、言葉が時間的だとされる根拠は、本当に、その言葉が発生する瞬間、いわば水際を凝視することでのみ洞察できるのだろうか。たとえば、知識や作為、さらには考究を尽くして生まれる多様な知的創造が、あらかじめ言葉の時間性を前提にして“時間的な性質”を付与されていると想定してみよう。そこで言語がもつ時制や相の機能を用いて論を展開すると、いつのまにか『言葉には時間的本質がある』という前提をさらに補強する方向へ流れてしまい、結局はその前提自体を疑う余地がなくなってしまうリスクがある。言い換えれば、“言葉は時間的である”という視座から再び言葉そのもののあり方を論じようとすることで、無限に循環する論法に陥りかねないわけだ。あらゆる言語的手段、たとえば単純相や完了相をはじめとする各種の時制は、当然のように現在を結節点として構成されているからね。
それに、私たちは時間と聞くと往々にして『流れ』を思い描く。けれども、その“流れ”という発想自体が、そもそも私たちが時間的事象から逆算して導き出した概念を、あらためて不可侵の前提としてしまう危うさをはらんでいるのではないだろうか。異なる二点を設定して『流れる』という説明を組み立てる以上、その二点がもつ時間的差異をあらかじめ確認しているとも言える。すると、時間がなぜ繰り返さないのかという問いは、実のところ『流れ』を措定したとき生じる自己言及の矛盾を暫定的に解消するために作られた一理屈に過ぎないのではないか。
つまり、流れという観念を自己参照的な時間観念として扱う以上、そこには無限後退や自己言及を避けるための慎重さが働き、私たちは『時間は繰り返さない』という結論を安易に疑えなくなる。あることを“絶対に不可能”と仮定することで、一方で『ならばこれが正しい』という側を保持しようとする構造にもなっているわけだ。しかも、そうした前提や理屈の正否は確認のしようがないからこそ、一種の確かさをもって受け入れられてしまう。『承知しない』という姿勢、あるいは『ここから先は測りようがない』という境界意識が、むしろ最終的な安全域を築き上げているに過ぎないのかもしれない。
もしこの領域が、結論を得ることなく永遠に免れ続けるものであるなら、わざわざ問題として俎上に載せる意味がどこにあるのか、私はそう思わないでもない。議論の帰結をどう扱うかは、それが実際にどの程度の現実的必要性をもつかによるだろうが、いずれにしろ“演算不可能”な領域というものは、どのような論理空間にも存在し得る。時間という観念もまた、そのような不可能性を本質に含意しているのだよ」
閉館の時刻が近づいていた。私たちは明日もまたここで会うだろう。そのあいだに一度別れ、日は昇り、また沈む。その一日間と、私たちが生涯を終えるまでに費やす数十年とが、本質的にどれほど違うのか。時間の特徴は、それの長さによって規定され得る性質を何らか持つものなのか。
どうして詩人は詩人足り得るのか。先輩は、一日と一生の共有する時間的尺度の中を生きて、いつかは死ぬのだろう。
私もきっと同じに違いない。そのように考えることが、今の私にはまだ恐ろしいのだった。
言葉と時間 坂本忠恆 @TadatsuneSakamoto
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