木曜日のブックマーク
さちゃちゅむ
第一話
本の匂いが優しく漂う。
木漏れ日が古い本棚を照らして、少しだけ埃が舞っているのが見える。
毎週木曜日の午後3時。
図書室の扉が開く音と共に、泉くんは現れる。
「今日もよろしく。望月さん」
泉くんの声は、いつだって図書室の空気に溶け込むように柔らかい。
わたしたちは木曜日が、図書当番なのだ。
図書当番というのは、返却された本のダメージを確認して正しい配架に戻したり、探しやすく本を並べたり。図書委員がペアで日替わりで行う。
「この本、面白かったよ」
彼が差し出す本には、
きっと、夜遅くまで読んでいたのだろう。
その仕草も、物語の一部のように愛おしい。
「望月さんは、どんなのが好きなの?」
答えられない。
だって、今一番好きなのは
“木曜日の午後3時“。
泉くんとの何気ない会話。
この時間そのものが、
私の大切な物語だから。
本棚の影に隠れて、
こっそり彼の横顔を見る。
永遠に続くはずのない
この時間の中で、
私は静かに恋をしている。
窓の外では桜のつぼみが膨らみ始めている。
まだ誰にも気付かれていない、
私の想いのように。
*
「これ、ブックポストから回収してきた」
差し出された本を受け取る指先が、少しだけ震える。
彼は早速、本の背表紙を丁寧に拭き始めた。
「この本傷んでるな」
修理コーナーに座って、
一緒にページを糊付けをする。
集中している時の泉くんの横顔は、
どこか大人びて見える。
夕暮れが近づくと、書架の間を巡回。
迷子の本を探しながら、
時々目が合って。
「当番日誌、私が書くね」
「じゃあ、僕は照明確認するよ」
終業時刻が近づいても、
急ぐことはない。
静かな図書室で、
私たちはいつものように、
それぞれの仕事をしている。
本の匂いと、
彼の気配と、
午後の光と。
木曜日の図書室は、
私だけの宝物。
「今日も、お疲れ様」
帰り際の挨拶が、
また来週ここで会える確認のようで、嬉しかった。
「望月さん、この前の小説読んだ?」
「うん。最後、切なかったね」
「そう? 僕は希望があると思ったけど」
解釈の違いを知れるのも、嬉しい。
彼の優しい目が、私の方を見つめる。
その瞳に映る私は、どんな風に映っているのだろう。
“あのね、泉くん“。
言いかけては飲み込む言葉が、
何回あったかな。
*
「あ、この本なんだけど……」
私が迷子の本を抱えていると、すぐに気付いてくれる。
番号を確認しながら、二人で正しい棚を探す。
「ここかな?」
「うん、その場所で合ってる」
背の高い彼が上の段に本を収める姿を、
こっそり見上げている。
「望月さんは、進路決まったの?」
本を棚に収めながら、泉くんが何気なく聞いてきた。
「まだ。合格発表待ち」
言葉の端々に不安が滲むのを、必死に隠した。
でも、彼にはバレてしまうのかもしれない。
「大丈夫だよ。望月さんなら」
優しい言葉が、図書室の空気に溶けていく。
「泉くんは、どんな大学生になるのかな」
「そうだなぁ……きっと図書館で本を読んでると思う」
二人で小さく笑う。
その笑い声は、誰にも聞こえないように。
ここだけの秘密みたいに。
「泉くんは?」
「仙台の大学、合格した」
その瞬間、図書室の空気が凍るような気がした。
「そう……良かったね!」
笑顔を作るのに、こんなにも力が要るとは思わなかった。
「第一志望だったんだ。行きたい学科があってね」
嬉しそうに語る彼の横顔。
今までよりずっときらきらと見えた。
それなのに、どうして胸がこんなに苦しいの?
「望月さんは、東京?」
「うん」
二文字で答える。
これ以上言葉を続けたら、
きっと声が震えてしまう。
「また会えるよ。東京に帰ってくることもあるし」
優しい言葉なのに、
なぜか余計に切なくなる。
私は黙って本を抱きしめる。
本棚の間を歩きながら、
今まで何度も通った道のりが、
突然見慣れない景色に思えた。
「仙台……遠いよ」
小さくつぶやいた言葉は、
誰にも聞こえないまま
図書室の空気に溶けていった。
*
最後の木曜日。
いつもと同じ午後3時。
でも、もう二度と来ない時間。
「じゃあ、整理始めようか」
泉くんの声が、いつもより少し低く響く。
私は無言で頷いた。声を出せば、きっと泣いてしまう。
本を並べる手が震える。
背表紙に刻まれた文字が、涙で滲んで見えた。
「望月さん、この本覚えてる? 去年の夏に話したやつ」
彼が手にしているのは、私たちが初めて感想を語り合った本。
あの日から、どれだけの言葉を交わしただろう。
「……うん」
喉の奥が熱くなる。
言いたい言葉は、たくさんあるのに。
「ありがとう」も「さようなら」も、
「幸せでした」も、「好きでした」も。
窓の外では、桜が咲き始めていた。
新しい季節の始まりを告げるように。
私たちの終わりを告げるように。
「これで終わりかな」
最後の本を棚に収めながら、泉くんが呟いた。
「望月さん」
「なに……?」
「この一年、ありがとう」
私は深く息を吸い込んだ。
言わなきゃ。今なら、まだ……
泉くん、私……
その時、下校の予鈴が鳴った。
言葉は、途切れたまま。
「じゃあ、また」
彼は微笑んで、いつものように手を振った。
私は、いつものように見送った。
でも、今日は違う。
もう、次はない。
図書室のドアが閉まる音が、
やけに大きく響いた。
春の夕暮れ。
私は誰もいない図書室で、
言えなかった言葉をつぶやいた。
「木曜日の放課後が、私は、本当に幸せでした」
図書室で過ごした彼とのあたたかな記憶は、
ここにずっと、残っていく。
本たちと一緒に、永遠に。
木曜日のブックマーク さちゃちゅむ @sachuneko
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