忘却のカナタ

佐海美佳

忘却のカナタ

 お気に入りのピアスが、片方無くなっていた。

 多分、昨日の夜だ。

 夏の終わりの、秋に片足かけてるような、過ごしやすい空気に誘われて、知らない居酒屋に入った。

 初めてのお店で食べる料理は、いつもより美味しくて。それで、ちょっと飲み過ぎた。

 酔っ払って、隣に座っていたお兄さんと意気投合して、そのまま持ち帰られた。

 一人暮らしのお兄さんの家がこざっぱりとしてたことは、なんとなく覚えている。

 ヤることヤって、私に背中を向けてゴムの口を縛っているお兄さんの背中が寂しそうで、見ていられなくなってさっさと着替えてタクシーで自分の部屋に帰った。

「まぁ、いいか」

 気に入っていたけど、無くなったのならしょうがない。

 ついでに言うと、そのお兄さんの顔も、名前も、歳も、職業も、全部忘れている。

 自慢ではないが、私は昔から忘れることが得意だ。

 学生時代、あまりにも忘れ物が多くて親が学校に呼び出されたぐらい。

 忘れることって、そんなに悪いことなの?

 誰だって嫌なことは忘れて、心を守っているのに。

 忘れ物を嫌う人は、忘れた時に「あれがあれば良かったのに」とか「あるはずなのに」と思うからいけないのだ。忘れてしまったものは、そもそも無かったものだと考えれば気が楽だ。

 だって無かったんだから。

 だから、お気に入りのピアスも、もう無かったものだと思うことにした。

 新しいピアスを買う理由ができたと、喜ぶ。

 昨日会ったお兄さんのことも、無かったものだと思うことにする。

 他の新しい人と、出会える自由さが手に入った。

 

 なのに。


 朝、会社に出勤しようとして家を出たところで呼び止められた。

「おーい、忘れん坊のカナタ」

 私の名前を呼ぶ声に振り返ると、無くしたはずのピアスを持ったお兄さんが立っていた。

「なんで?」

「相変わらず忘れん坊だな、お前」

 できの悪い子犬を叱るような顔をして、お兄さんが近づいてくる。

 なんでお兄さんが私の家を知ってるの?

「お前が実家にまだ住んでて助かったわ」

 ピアスが、揺れながら私の掌に戻ってきた。

 急な展開すぎて言葉が出てこない私の顔を覗き込むお兄さんは、濃いめの眉毛を綺麗に整えていて、その直線に視線が吸い込まれる。

「もしかして、お前、俺のことも忘れたのか?」

 こういう時、本当のことを言うと男の人は突然怒り出したりするから、頷いたか頷いてないのかわからないぐらい、微妙な角度で首を縦に振った。

「はぁ……忘れん坊のカナタは本当に変わらないんだな。昨日の夜、しっかり最初から説明したのに。俺はお前の同級生のハルトだよ。高校生の頃、お前に告白したけど振られた、あのハルトだよ」

「どうしてあんたは……忘れたことにしてくれないのよ」

 私は最初から覚えてた。

 居酒屋で見覚えのある横顔が見えたことも。酔っ払ったふりして、のこのこついて行ったことも。高校生の頃、大好きすぎて失いたくなくて、付き合うという現実から逃げたことも。

 全部、覚えてた。

「そりゃ、俺はカナタのことがずっと忘れられなかったから」

 出勤前にしては少々派手にハルトに抱きつかれ、それが全然嫌じゃなかった自分に驚いた。

「高校の頃から私のことが好きだったって、本当なの?」

「あんま何回も言わすなよ……いや、そうか、何回でも言うわ」

 朝日に負けないぐらいキラキラした笑顔のハルトが、抱きしめる手に力を込めた。

「毎日でも言うよ、お前が好きだって。忘れん坊のカナタが忘れないように、毎日」

「止めてよ。そんなこと言われたら、私だって言わなきゃいけなくなるじゃん」

 高校生の頃のハルトも、社会人になったハルトも、私が忘れたピアスを律儀に持ってきてくれるハルトも、全部好きだってこと。言わなきゃいけなくなる。

「俺、毎日聞きたい」

「ばか」

「ばかでいい」

 忘れることで心を守ることもできるけど、忘れないことで守ることもできるのかもしれない。

 楽しい思い出は、きっと私を守ってくれる。

 優しく頭を撫でてくれる、ハルトの手がきっと守ってくれる。

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忘却のカナタ 佐海美佳 @mikasa_sea

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