バラバラに刻み埋め文字を彫む
彼氏に振られた。
その夜、月の見守るベランダで、私は明け方まで泣いた。泣き疲れ寝て、起きたらもう夕方だった。何も食べたくないと思ったけれど、先日実家からもらった、季節前の高級さくらんぼをぽつり口にする。乾いた胸に家族愛が染みた。
『このサイドカーのカクテル言葉は、いつも二人で、だよ。誕生日おめでとう』
乾杯のときカッコつけたくせに。去年彼がくれた虹の写真集を独りぼんやり眺め、「嘘つき」と呟いた。
『二人でお出かけして美味しいもの食べて。このままだと太っちゃうね』
そんな心配なぞどこかに吹き飛び、ひと月経っても食欲がわかない。
長雨が続いたある日、ふと元カレに電話をしてしまった。雨音のせいだ、きっと。
夕食を一人食べ終えた頃、私の部屋を久しぶりに彼が訪れる。二人で音楽を聴き、彼の持ってきたお酒を少し飲み。そして。以前のように、何事もなかったかのように、彼は私の体を求め始める。
『これはどういうことなんだろう』
弱い私は何も聞けぬまま、戸惑いと喜びを持って。私に沈み込む彼を黙って受け止めた。
朝がきて、まだ眠る彼の横をそっと抜け。彼の好きだった苺シェイクを作り、起こした。目を合わせず、ありがとうとそれを飲む彼から、罪悪感の香りが立ちのぼり、瞬時に私は何もかも悟る。
『元カノに会いに行くなんてタダでやれるからに決まってるだろ』どっかの小説で読んだセリフが、脳裏を駆け巡る。
ばつが悪い顔とギラつく卑しい本性を隠すように俯き。
相変わらずだね。喧嘩や都合が悪いときの、だんまり手口は。うやむやにして逃げる彼の定番の狡さと弱さに、私は苛立つ。
たぶん私はあなたよりも弱くない。優しく振舞ってあげるから。早く消えてくれ。
「寄りを戻すってこと?」
私は水を向けてやる。案の定『いや……俺は新しい世界を求め出発したのだから戻れない』的な、別れのときと同じように、自分が悪者にならない綺麗な言葉を選び。目を泳がせつつ並べた。
はは、ちゃっかり避妊具持参でウチに来てるし。
この男、有罪。『じゃあどうして昨夜は私を』など問うこともできない私は、やっぱり弱いのか。心が滅多刺しで虫の息。その後の彼との会話は記憶にない。
彼が去り、独りになった直後。耐えきれず電話に手を伸ばし、震える声で「助けて」と言った。
突然の私のSOSを受け、歯医者の予約をキャンセルして、速攻で駆けつけてくれた順子。赤ワインのボトルを握り締めたヘベレケの私を抱きしめる。
「これはもう別れの悲しみじゃなくて、ド屑に尊厳を殺された哀しみだよ。チェロの音楽留学中に
綺麗で優しい親友、私の救世主。
何年か経ち、結婚を控えた恋人と幸せに過ごしている私の目に。共通の知人繋がりの関係か、SNSで元カレの海外旅行投稿が飛び込んできた。
時を超え、踏み躙られた屈辱が、猛然と鮮やかに噴き上がる。
ああ! ちんけなあのクソ野朗を。一夜を許した私ごと、二度と思い出さぬよう。記憶を引きちぎり抹殺したい。
パソコンに向かい、私は詩を書き殴る。
横書き文の頭に、縦読みで「ヤリチン」と記し、バラバラにした名前を密やかに詩に潜ませていく。誰も詩の確信に近づけなくたっていい。耽美さでけむに巻き、当時の私を綴っていく。
あの朝、私の目を見ることすらできなかった
あの夜、男が持ってきたバーボンの瓶に描かれた四輪の薔薇。
ある日、『ドライブに行こう』と男が親に借りてきた真っ赤なクーペの色。
土をかけ埋め、薔薇の花を植えて。
秘密に、という意味の英語。『under the rose』
と題名を書き入れ。
ネットの海に解き放つ。
お前の所業を白昼の元に晒してやる。
仄暗い思いは土の下。
今を咲く薔薇の養分にもなりゃしないゴミ。
アンダーザローズ。
UNDER THE ROSE 蜂蜜ひみつ @ayaaki
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