第2話 旧図書室で
夕暮れの光が、彩雲学園の旧図書室に斜めに差し込んでいた。
埃っぽい空気が薄暗がりの中で踊り、古い本の匂いが鼻をくすぐる。
窓から見える薄暗くなった空と大地の境界がまるで燃えるように赤く染まっていた。
霧島葵は、息を切らしながら旧図書室の扉を開けた。
放課後の教室、演算室、中庭のベンチ、図書館——いくもの場所を全て探し回った末に、ようやくたどり着いたのがここだった。手の中で握りしめていたスマホが、まだ画面に表示された簡素な返信を示している。
『遠慮しとく』
たったそれだけの言葉が、葵の胸の中で燃え上がるような怒りを呼び起こしていた。
旧図書室を奥へ奥へと進むと、窓際の一番端にある机に、見覚えのある後ろ姿が目に入った。
桜井陸は、夕陽に照らされた窓際の席で、分厚い洋書に目を落としている。その姿は、まるで周囲の空気から切り離されているかのようだった。
「何よこの返事!」
突然の声に、陸は読んでいた本から視線を上げた。スマホの画面を突き出した葵の表情には、怒りの他にどこか諦めたような影が混ざっていた。
「送った通りだよ」
感情を殺したような平坦な声に、葵の怒りは更に膨れ上がった。
二人の間にある机を、葵は両手でバンと叩いた。
「一言、『遠慮しとく』は、ないでしょ! 」
葵の声が書庫に響き渡る。
古い書架の間で反響する怒りの声に、陸は眉をひそめた。
「静かにしろよ、一応図書館だぞここ」
「誰もいないでしょ!こんなとこ!」
確かにその通りだった。旧図書館の地下書庫には、使われなくなった古い資料しか置かれていない。学生はまず来ないし、職員でさえめったに足を踏み入れない場所。だからこそ陸はここを好んで使っていたのだ。
「まあ・・・だから、ここを使ってるんだけどな」
陸は本を閉じ、窓越しの景色に目を向けた。
西の空に沈みゆく太陽の光が薄れ、校舎の長い影は、暗さを増す校庭の中へと溶け込んでいった。
「でも、ちょうどよかった。リクゥーと二人で話がしたかったの」
小学生の頃、葵は、陸の名前を、クを強く、後ろを引き延ばして「リクゥー」と独特なアクセントで呼んでいた。
何度注意されても直らず、そのうち陸もそれが葵だけの特別な呼び方なのだと諦めていた。
高校に入ってからは普通に「陸」と呼ぶようになっていたが、思わず口をついて出た幼い頃の呼び方に、陸の表情が一瞬だけ緩んだ。
葵は一枚の紙を取り出した。学園長からの依頼書だった。
「とりあえず、これだけでも読んで」
陸は渋々それを受け取ったが、目を通そうとはしない。その仕草には、警戒感が見えた。
「俺にはもう関係ないだろう。暗号倶楽部は・・・辞めたんだ」
その言葉に込められた痛みを、葵は感じ取っていた。
「辞めるなんてできないこと、わかってるでしょ」
葵の声が震える。沙也加がいなくなってから、暗号部は彼らにとって単なる部活以上の意味を持つようになっていた。それは、失われた仲間への約束であり、答えを見つけるための手がかりでもあった。
「それでも・・・もう、関わる気はない」
陸の声は低く、どこか遠くを見つめるような響きを持っていた。旧図書室の古い蛍光灯の薄暗い光が、彼の表情に深い影を落としている。
「でも、これは沙也加に関係があるかもしれない事件なんだよ!」
「じゃあ、なおさらだろ」
「なんでよ?」
「葵まで・・・いなくなってほしくない」
その言葉に、一瞬の静寂が訪れた。
陸の声に含まれる本当の感情が、重たい空気となって二人の間に漂う。
窓の外では、夕暮れの空がさらに深い赤に染まっていった。沙也加の姿を最後に見たのも、こんな時間だったことを、二人は思い出していた。
「7年前にも暗号倶楽部の部員が失踪した事件があったでしょ。この時も『嘆きのパズル』って騒がれたんだって」
陸の瞳が揺れる。過去の記憶が、まるで古い傷を抉るように蘇ってくる。
「沙也加の失踪、そして、その後に始まった奇妙な数式の事件・・・この事件も今、生徒の間で『嘆きのパズル』だって噂になってる。どれも無関係だとは思えないの」
「だからこそだろ!」
陸の声が突然強くなる。
その声には、普段の冷静さを打ち破るような感情が溢れていた。
「二人もいなくなってるんだぞ!」
「でも学園長からの依頼だよ。沙也加の失踪に関連があるかもしれないの」
「危険すぎるって言ってんだよ」
陸の声には、いつもの理論的な冷静さではなく、純粋な心配が滲んでいた。
「私は一人でもやるよ」
葵の決意に満ちた瞳に、陸は言葉を失う。
「なんで一人やろうとするんだよ!美月は?」
「生徒会長選挙に出るって決めたみたいだから、巻き込めない」
「他の1年たちは?」
「沙也加がいなくなってからは、あんまり部に顔出してくれてないの」
その現実が、二人の間に重く横たわる。暗号倶楽部は、もはや以前の活気を失っていた。
「私、部長引き継いであげたよね。何も言わずに」
葵の声には、かすかな非難の響きが混ざっていた。
「・・・・・・」
「これって、貸し一つだよね」
「あー、クソ!・・・なんでそう頑固なんだよ」
陸は頭を掻きむしりながら、諦めたように天井を見上げた。
長い沈黙の後、深いため息が漏れる。
「わかったよ。ただし調査だけだ。それ以上は約束できない」
その言葉に、葵の表情が明るく変わる。
「本当?」
「危険だと判断したら、絶対やめさせるからな」
陸の声には、まだ迷いが残っていたが、それでも決意は固かった。
葵の顔に、小さな安堵の表情が浮かぶ。
薄暗くなった図書室に、もう夕暮れの光は届かなくなっていた。古い書架の間に漂う埃は、天井の蛍光灯の薄暗い青白い光に照らされ、かすかに浮かんでは消えている。
この瞬間、二人は新たな物語の扉を開けたことを、まだ知らなかった。
暗号倶楽部と嘆きのパズル ばんぶう @suot
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