(2)

「なあってば、聞いてんだろ? 俺、助かったんだよ。おまえがくれたクマゴロー、ほんとに奇跡起こしやがったんだ。だから俺、おまえにちゃんとお礼が言いたいんだよ。そんでおまえに奇跡のクマ、ちゃんと返したいんだよ。おまえにももっとすごい奇跡が起こるように。なあおい、聞いてるか……? クソガキ……――律!」

 声に出して名前を呼んだらもう、我慢できなくなった。


 立ち上がって、一気に斜面を駆け下りる。入院生活で体力がすっかり落ちて、すぐに息が上がった。足も無様に何度ももつれて、そのたびに転げ落ちそうになった。それでも速度を落とさず、一気に駆け下りて河川敷の端まで走りきる。川岸に近い、ブルーシートが張り巡らされていたあたり。


「おいってば! 出てこい、クソガキッ! いるんだろ? 隠れてないで姿見せろっ。そんで一緒に帰るぞ! おまえが幽霊でもなんでもかまわねえ。俺がクマゴローごと引き取ってやる。面倒見てやるよ。ちゃんと育ててやる! だから遠慮しないで出てこいっ! なあクソガキ……――律っ!」


 呼びかけながら、必死で探しまわる。


「頼むから返事しろっ。律っ! 律っ! どこ行っちまったんだよ、おまえ。帰ってこいってっ。俺んとこ戻ってこい! 律――律っ!!」


 いい年したおっさんが、ぬいぐるみ抱えて叫びながら走りまわって、挙げ句泣き崩れてそのまま地面に座りこんで号泣とか、はたから見たら奇っ怪このうえなかっただろう。イタすぎるにもほどがある。どっからどう見たって、イッちゃった奴以外のなにものでもない。それでも俺は、諦めきれずにガキを呼びつづけた。


 ――律、おまえに会いたいよ。


 会ったのは、夢の中も含めてたったの三度。

 それでもあいつは、俺の心に強烈な印象を残して刻まれた。


『ぼくね、思うんだけど、生きてるとときどき、苦しいことも悲しいこともいっぱいあるでしょ? だけど、それでもやっぱり、「ここ」にいられるのっていいなあって思ったりするの』


 どういう基準であいつが俺を選んでくれたのかはわからない。だけど、あいつが生きるはずだったこれからの時間を、俺はあいつから、こんなかたちで譲り受けた。プレゼントしてもらった。そのことだけは、はっきりとわかる。

 かぎりなく望み薄な確率であったにもかかわらず、俺は手術を受けることを決断し、揺らぐことのない確信をもって最後には奇跡をこの手に勝ち取った。その勇気を、医者も看護師たちも、こぞって褒め讃えてくれた。だが、真に讃えられるべきは俺なんかじゃない。

 あいつに出会わなければ、俺は間違いなくその辺でのたれ死んでた。だから、本当にすごいのは俺じゃない。本当の意味で強く、勇敢だったのは、最後までだれも恨まず、己の運命をただ穏やかに受け容れて、俺に希望を托していったあいつだった。


 律――ちっこい奇跡で、とてつもない勇者。



 いつしか陽が西に傾き、夕闇がひろがりはじめていた。

 野球をしていた子供たちの姿も、すでにない。

 俺のボロアパートでの生活も、今日で終わる。明日には部屋を引き払って、当面は実家に戻って親もとで療養することが決まっていた。親も知らないうちに離婚して、会社をクビになった挙げ句に生命に関わる大病を患って行方をくらまし、さんざん心配をかけたのだ。このぐらいの頼みは聞き入れなければ、親不孝が過ぎるというものだろう。

 しらばくの療養も兼ねた経過観察を経て、問題がなければいずれは社会復帰をする。

 あいつにもらった生命で、今度は悔いがないよう、もう一度生きなおしてみようと思う。


 俺はこの世界に、勇敢な天使が起こした奇跡によって転生した。


 クソガキ――……律、ありがとな。俺、おまえが救ってくれた生命で、もう一回頑張るから。だからいつかまた、必ず会おう。そのときまで、待ってろよ――



 泣きすぎて腫れぼったく熱を持った目で、腕の中のぬいぐるみを見つめる。俺はそれから、ゆっくりと立ち上がった。



 これは俺に起こった、本当の奇跡の物語である。






     ~ end ~ 

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奇跡のクマと勇者の話 西崎 仁 @Jin_Nishizaki

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