第8章 また会う日まで

(1)

 結果として、奇跡は起こった。

 余命を宣告された時点で、手術をしたとしても成功する確率は一〇パーセントにも満たないと言われていた。それどころか、仮に成功したとしても重い障害が残ることは避けられないとまで断言されていた。

 どう転んでも、俺の目の前には絶望的な未来しか示されず、希望は欠片も存在していないはずだった。だが。


 具体的に手術を受ける方向で話が進みはじめると、いつのまにか親のほうが後込しりごみする様子を見せはじめた。場合によっては、手術の最中にそのまま息を引き取ることも充分ありうる。そんな話も出ていたからだ。だが、起こりうる最悪の可能性をどれだけ示されても、俺の意思は変わらなかった。

 不安も躊躇ためらいも、いっさいなかった。

 どうせこのまま行けば、確実にあとわずかで終わる生命なのだ。それが手術中であったとしてもたいした違いはない。むしろ、全身麻酔が効いてなにもわからないうちにすべてが終わるなら、苦痛がなくてありがたいくらいだった。

 それに、もしそこで俺の人生が終わるとしても、向こうの世界にはあいつがいる。先に行って、俺を待ってる。そう思ったら、不思議と恐怖は感じなかった。


 生きたい。あいつのぶんまで生きて、この世界にしがみつきたい。そう思う気持ちと、見事に矛盾するやすらいだ思い。


『大丈夫だよ、おじちゃん。奇跡は起こるから』


 神に祈るよりも、遙かにあいつのあの言葉を信じられる。そう思った。

 そうして落ち着いた気持ちで手術に臨み、結果、俺は残りの人生を手に入れた。

 医者が見立てた障害も、いっさい残ることなく術後の身体は回復し、予後も良好。予定よりずっと早くリハビリを終えて退院することとなった。


 こんなことが実際に起こるなんて。

 みずからが執刀しておきながら、担当医は信じがたい様子で呟いた。うっかり本音が漏れていることにすら気づかぬ様子で。そのぐらい、あり得ないことだったのだろう。

 俺は、病院内でひそかに『奇跡の人』と噂されるようになった。そしてその噂に、内心でそのとおりだよと深く頷いては、あの小さな子供に思いを馳せた。


 入院中、とくに手術前後の昏睡中に、あいつがもう一度会いに来てくれるんじゃないかと期待していた。だけど結局、あいつはあれっきり姿を見せなかった。



 退院した俺は、一度アパートに戻って、それからすぐに川に向かった。

 あいつとはじめて会った土手の上から河川敷を見下ろす。ブルーシートはすでに取り払われ、遺体が発見されたことはおろか、現場検証が行われた痕跡すらどこにも見当たらなかった。

 あの日とおなじように、眼下に望む景色は平和そのもので、だけどたしかに、季節は移り変わっていた。

 いつのまにか今年の桜はシーズンを終え、ゴールデンウィークすらも彼方に過ぎ去っていた。頭上から降りそそぐ陽射しはいっそうの目映さと熱気を帯び、空気の中に、夏の気配を漂わせはじめている。


『ねえ、なにしてるの?』


 いまにもなれなれしい口調で声をかけられる気がして、その瞬間をただじっと待ち侘びた。だが、いつまで待っても、待ち望んだ瞬間は訪れなかった。


「早く、出てこいよ」


 ポツリ、とだれにともなく呟いてみる。

 まえを向いたまま、河川敷のグラウンドで野球をするガキどもを見下ろしながら、それでも意識だけは背後に集中する。


「なあ、いるんだろ? わかってるから出てこいって。クマ、取りにこいよ」


 訪れる静寂が耐えがたくて、ややトーンをあげてみた。その自分の声が、妙に切迫して余裕がないものになっている。気づいた途端、バカみたいに狼狽うろたえた。

 病院にいるあいだは、まだ自分の存在が生と死の狭間はざまにいるような気がして、生き延びたことを他人事のように眺めていられた。だが、こんなふうに日常を取り戻してしまったら、もうダメだった。

 知らず知らずのうち、腕に抱えていたものを強く握りしめる。


「なあ、クソガキ、早く取りこいって。捨てちまうぞ、おまえの宝物!」


 いいよ、とか、やっぱり返して、とか、なんでもいいから早く言いにこい。

 祈るような気持ちで抱きしめた。

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