(2)

 甲斐田律。八歳。

 遺体の身元はすぐに割れた。近隣の小学校で、該当しそうな児童として浮上した名前とそのまま合致したからだ。

 容疑者が絞られるのは、さらに簡単だった。魚住洋介うおずみようすけ、三十四歳。子供の母親の交際相手で、元暴力団員という経歴を持つ無職の男だった。


 殺すつもりはなかった。子供が生意気なので、しつけをするつもりで数回手をあげたところ、やがてぐったりして動かなくなった。ぶたれるのが嫌で気を失ったふりでもしているのだろうとそのままにしていたら、いつのまにか息をしていないことに気がついた。すぐに救急車を呼ぼうと思ったが、自分まで虐待を疑われて責任追及されるのは嫌だと母親である女が泣いて止めるので、しかたなくふたりで河川敷に遺体を運び、深夜のうちに埋めて隠した。

 魚住はあっさり自供し、母親ともども逮捕された。子供の母親である甲斐田朝美――本当に二十五歳だった――は、最後まで容疑を否認しつづけたが、魚住が犯行を認めたことで、みずからの罪を認めたという。


『戒律の「律」なんだって。だからぼく、自分に厳しくしないといけないんだ』


 ふたりが子供を殺して埋めたのが二月中旬。俺がクソガキとはじめて会ったのは、三月中旬。

 時系列が、まるで噛み合わない。

 他人のそら似かとも思ったが、各報道で取り上げられる写真には、いずれも見慣れたクマのぬいぐるみが映りこんでいた。いま現在、間違いなく俺の住むボロアパートに置いてあるやつだ。最初はボロッちくて触るのも躊躇するほど小汚かったが、いまは洗濯されて、多少はマシになっている。

 俺はたしかに、あのガキと二回、あの土手で会っていた。それから、この病院で目を覚ます直前にも。


 それはちょうど、河川敷であいつの遺体が発見された日――


『おじちゃん、奇跡は起こるよ』


 ――んでだよ……っ!

 どうしようもない怒りと悔しさがこみあげてくる。


『クマゴローはお守りなんだ。すごく頼りになるんだよ。だから、おじちゃんが持ってて』


 なにが頼りになる、だ。なにが奇跡を起こせるだ。

 おまえ結局、守ってもらえなかったじゃねえかっ。奇跡なんか起きないまま、酷い目に遭わされて、痛い思いして、苦しい思いして死んじまってたんじゃねえかっ!

 なんで自分が守ってもらわねえんだよっ。なんで自分に奇跡起こさせねえんだよっ。俺なんかに大事な大事な宝物預けちまって、そんでなんであんなふうに笑えるんだよっ。ありがとうとか、全っ然意味わかんねえっ!

 俺はおまえに少しも優しくしなかったし、親切にもしてやらなかった。俺のまえに現れたときから鬱陶しいクソガキとしか思えなくて、さっさと追い払うことばっか考えてた。その俺に、おまえはよりによってあんな大事なもん預けて、励ましてまでくれて。


『ぼくね、思うんだけど、生きてるとときどき、苦しいことも悲しいこともいっぱいあるでしょ? だけど、それでもやっぱり、「ここ」にいられるのっていいなあって思ったりするの』


 なあ、おまえ、クソガキ、なんで俺だったんだよ? ほんとはおまえが生きたかったはずだろ? まだたった八つかそこらでさ。なのに、赤の他人のおっさんに酷い目に遭わされて、じつの母親にまで惨い仕打ち受けて。それでなんで、それでもこの世界がいいなんて思えたんだよ? どうして俺に救いの手を差し伸べてくれたりなんかしたんだよ?


『おじちゃん、元気でね。ありがとう……』


 テレビ画面の向こうで、クマのぬいぐるみを抱いたあいつが幸せそうに笑う。


「結城さん、おはようございます。朝食、今朝はひとくちも手をつけられなかったそうですね。調子悪いですか? 吐き気がある? それとも痛みかな?」

 担当医が、病室に入ってくる。その顔が、不意に大きくぶれた。


「先生っ」


 ベッドサイドに立った医師の腕を強く掴む。


「どうしました? あれ、かなり具合悪いかな? 大丈夫? いま、どんな感じ――」

「先生っ、助けてくださいっ」

「結城さん?」

「俺、手術受けます! 手術受けるから、だから頼むからっ、頼むから助け……っ」


 すがりつくように医師の腕を掴んで、必死の思いで願いを口にして。だけど結局、最後は声が詰まって言葉にならなかった。


 死にたくないっ。死にたくないっ。この先も生きていきたいっ!

 律、俺はおまえが望んだ世界で、もっともっと生きつづけていきたい―――





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