氷鬼鏖殺ヒロイズムディープダウン

@Tatsumi6

第1話 鬼退治

 解らんなあ、と桑原は下を向いた。「解らなくていい」と渡辺はただ静かで、僕が君を好いているのを知っていてくれたら今はそれでいいと言った。何かが決壊した発露としてはとても穏やかでいつも通り自然だった。劇的で衝撃な告白でもなくて、するりと受け入れざるを得ないただの事実だった。

「今は、ってことはさ」

 桑原は慎重に確認した。

「この先は、なんだ、それだけじゃよくないことにもなるんかね」

 渡辺がどのように返答するかを見るために目だけ上げて様子を伺った。桑原がたぶん、この世で最も信頼する親友は、とても静かな顔をしていて、桑原を見ている。視線については、熱っぽいというのとは違う気がした。ただ、とても真摯である。真面目な態度で、冗談ではないのは確かだった。

「そうだね。でも、今はまだ、解らないな」

「解らんのかい」

「うん。こういうのは、愛だ恋だと言ってしまえれば得心も早い気がするけれどしっくりこない気もする。困るな」

「困ってるようには見えない顔なんだよなあお前は」

「桑原にドン引きされてたらもっと困った顔してたと思うよ」

「かー」

 そこで、桑原はこたつの上にビールの缶を置いた。

「酔った勢いで告白。まさかのまさかだよ」

「そこまで酔っちゃいない」

「どうだかな」

 ぐつぐつおでんが煮える音がする。冬といえばおでんだ、と言い出したのは桑原で、大学入学を機に一人暮らしの渡辺の家に当然の如く鍋セットを持ち込んだのも桑原だ。渡辺とは長く友人で、ちょっと周囲から浮いたところもあるような、教室の隅で一人マイペースに書籍を読んでいて、ようやっと成人だと皆が浮かれて頻繁に行われる飲み会にも滅多に顔を出さないような、そういう渡辺と何がきっかけで仲良くなったか、桑原は実は覚えていない。

 なんとなく遠巻きにされる渡辺は案外気さくでいいやつで、意外なことに可愛らしいマスコットのヨンリオシリーズのファンで、そういう渡辺の、皆が知らない一面を知っていることは多少の優越感もあった。

 が、それが恋愛感情かと問われれば首を傾げざるを得ない。

 渡辺のことは好きだが、そういうふうには見てこなかった、が正直なところだ。

 渡辺がなぜこのタイミングで改まって、「桑原が好きだよ」となんだか含蓄深げな哲学的な顔をして言うのかちょっと解らなかったし、流してしまいたいような気もしたが、酔っ払いの戯言として右から左にして忘れるには渡辺の声音が真剣だったから、桑原としても微妙な気分になりながら解らんなあ、と正直に零さざるを得なかったのである。

「あ、大根煮えたよ。食べるかい?」

 渡辺は別段気まずそうでもなく、普通に大根など勧めてくるので、これは真面目に考えた自分が愚かかと一瞬桑原はムッとしそうになったが、渡辺の顔をもう一回見て、なんだかその気も失せた。ちょっと困ったように眉を寄せて、桑原の様子を見ている。(ドン引きされてたら——)。

「引いたりはしねえから。ただ、まあ、そういうふうには俺も考えたことなかったし、なんか今どうこいういうのはなしな。俺、友達としてはお前のことすげー好きだし」

「うん」

 渡辺が少しだけ俯いた。

「ごめんね。まあ、いいよ、忘れたって。ちょっとスッキリはした」

「すんなよぉ。俺がスッキリせんわ」

「ごめんな」

「あやまんなー」


 長く政権を握る首相の十期目の当確のニュースが、頭の外から聞こえてくる。

 非常に不愉快だった。

 ニュースの内容はどうでもいいが、二日酔いの頭に響く。

 どんな素材でも集合住宅はどうも音が伝うから、周囲の部屋のどこかからだろう。渡辺にテレビを流すような習慣はなくて、その習慣には桑原も同感だった。だいたい、朝の一番に無粋な政治のニュースなど聞きたくはない。政治に無関心なアナーキストを気取るつもりもないが、朝というのはもっと、しんと静かで鳥の声が混ざるような、そういうものを期待してしまう。そうは言っても、そういう環境にいたのかと言われれば微妙ではある。何処かから引っ張ってきた「素敵な朝」の印象を勝手に心に持っていて、実現したらいいな、と思う。

 そろそろ、渡辺の家の環境AIから音楽が流れる頃だ。クラシック好きの彼が決まって目覚めに選ぶそれはペール・ギュントの『朝』というのだ、ということは聞いたことがある。桑原にはさっぱりだった。だが、渡辺はいい趣味をしている。自然豊かな、というのも望むべくもない街中で、朝の名を冠したその曲は確かに、目覚めにふさわしい一種の雰囲気をもっている。渡辺は、すごいのはそういう曲を作った作曲家であり、演奏するそれぞれの奏者であり、統一する指揮者であるという。別段蘊蓄を押し付けて偉そうにするでなくて自然とそういうことを言うので、桑原としてもなんとなくそうか、とうなずく。お勧めを教えようかと控えめに聞かれたことはあるが、それは断った。無碍にするのもなんだが、桑原としては音楽を、ことにそういうクラシックと称される美しい古典を聞くときに、一緒に渡辺の存在があることが欠かせなくて、だから、ひとりで自分の部屋にいるときに名演奏のオリジナル音源に目を閉じて没頭するのも何か違うのである。そういうのはうまく説明はできなかったが、渡辺がそういう桑原に気を悪くするようなことも少なくとも見た目にはなかった。音楽が流れるまでもう一度目を閉じようか、迷った視界に妙なものを見つけて桑原は瞬いた。空間に線のようなものが見えて、目にゴミでも入ったのかと疑ってうかうかとしているうちに、その線は傷口を広げるように開いた。

 ずるずるずるずる、と景色が上滑りに眼前をねじ曲げる。見慣れた朝が崩壊し、赤く焼けた空が顕現する。桑原がじっとその様子を眺めていると、眼前の異相はまぼろしとも思えないような生々しさで、一瞬も目を離させない。(渡辺)。桑原はすぐそこでまだ目を閉じているはずの、そろそろ起き上がってくるはずの友のことを思った。悲鳴を上げるだろうか?彼が?眠たいあくびをして、それともまだ夢の中と思うのかもしれない。その方が良いかもしれなかった。また亀裂が走った。

 夕焼けのようなもうひとつの朝から腕が伸びてきて、桑原は不思議なことに既視感を覚える。それが見慣れた腕であることの証左であるように、ぐっとその次に半身を乗り出してきた人影の顔は桑原自身のものだった。桑原は目を逸らすことを試みたが、胸騒ぎがそれを抑えて、縫い付けられたように目が離せない。鏡を覗いたようにそこにいる桑原は険しい顔をして、焦った様子で唸った。

「もう一度だ」

「はあ?」

「もう一度、もういちどだ! 俺は未来から来た!」

「はあ?」

「頼む、もう一度だ!」

 もう一度と繰り返す桑原——のように見える自称未来人——は、消沈した様子を滲ませていた。桑原は理解した。彼は、この目の前の彼は、彼自身は、間に合わなかったのだ。「なにか」はわからない。ただなにか、とりかえしのつかない、なにか、に手遅れになった。

「渡辺を頼む」

 亀裂は逆回りのように塞がり始めていて、後ろから引っ張られるように現れたばかりの彼はもう退場の時間に急かされて、何かから引っ張られてでもいるのか、短い舌打ちとともに背後を気にした。

「頼んだぞ」

 ずるずるずるず、と再び景色はかき混ぜられた。絵具をぶちまけてからその様子を後ろから再生するようにもとの景色が侵食する。正しい時間はこちらであって、歪んだ介入を排除すると宣言するようだった。数秒で亀裂は跡形もなく塞がり、息を飲んでいる桑原の前には元の、ごくごく見慣れた、少々酒臭いいつもの朝が戻ってきた。開いた口が塞がらないと言うのもそうで、そこでフルートの音がした。るるるるるる、るるるるるる、るるる、るるる、るるるる——ペール・ギュント。

「渡辺!」

「おはよう桑原」

 桑原の隣、ベッドの上から声がした。眠けのかかった普段通りの渡辺の声だった。

「無事か?」

「なにから?」

 欠伸まじりにのんびりと、そっと渡辺が身を起こした。伸びなどするが、その辺りの空間に先ほどまで亀裂があった。跡形もない。

「いや、この場合無事じゃないのは俺なのか——? ドッペルゲンガーに会うと死ぬんだっけ」

「うーん、ちょっとまってね」

 渡辺は左右に揺れて、低血圧気味の彼は起き抜けの話について来られない様子だった。とはいえ、起き抜けでなかったらすぐについて来られる話かと言えばそれも疑問だった。

 桑原が少しの間考え込むと、その間に頭をかいたりなどしてもう一度大あくびをして、渡辺は桑原に向き直った。

「ドッペルゲンガーに会ったのかい?」

 あまりにも落ち着いて問われると、桑原は先ほどのことを「いや、夢を見たらしい」と一笑に伏して引っ込めたくなった。そうだ、夢だ。あんなものは夢であるに違いなかった。突然空が裂けて、未来の自分が忠告を——今時しろうと映画でも流行らない。

「いやあ、その」

「未来が変わった?」

 桑原は驚いて渡辺を見た。「未来」。そんな単語は出さなかった。

「いやだなそんなに驚くなよ。ただ君が付き合ってくれるっていう話になったから、」

「いや待て待て待て」

 桑原は片手を上げて制した。それはそれで新しい問題だった。確かに昨夜桑原は、渡辺に告白された覚えはあった。告白というにもちょっと控えめで、好意を知ってくれていたらいいという、奥ゆかしい親友らしい気遣いのある言い回しで、それに対して桑原は即断でどうこう言うことはできないとか、そういった返答をしたように思う。それが、「付き合う」話にいつ育った。

「あー」

 鈍い頭痛で酒を思い出した。飲み過ぎたのは否めない。多少の二日酔いの気配を一瞬忘れていたが、きっちりアルコールは飲んだ分の余計な仕事まで忘れない。最近のこの手のアルコールは、その悪酔いの仕方まで一定の基準で再現性を持たないと商品化できないから、桑原が適切な行動——白湯でサプリメントを飲んで、楽しんだ分の反省をするところまで——をしないとすっきりとはしない。それでもって、渡辺の方と言えば、その確率の中にはにはもちろん存在するラッキーな引き、つまり酒豪だ。生来の寝汚さを差し引いても、寝覚めは幾分桑原より良いだろう。桑原より十分素面の相手がしらっとそう言うのだから、冗談とも思えないし、桑原は自身が考えていたより不実な自分に顔を覆いたくなった。酔っ払いの戯言で済まされる類の話題ではなかったはずで、うかうかとして適当に調子のいいことを抜かしたのだとすれば桑原は相当最低な部類の人間に思えた。

「桑原? 顔を洗っておいでよ。白湯とサプリを出しておくよ。ついでに味噌汁もつけようか」

「うーん」

 がしがし頭をかき混ぜて、考えが上手く纏まらない。渡辺を直視するのも憚られる気がした。普段と同じトーンの友人のことを、こんなふうなことで失いたくないと思う。土下座で許されるかどうか。いや、そこは胸にしまって口から出たであろう返答の責任を取るべきだろうか。目の前の問題の重みが頭を支配すると、あれほどに生々しく迫った赤い空がやはり嘘だったようにも思われた。引き潮のように目覚めに消える夢のような儚さとは行かなくても、現実に経験したと確信して揺るぎなくいるにはあまりにも突飛だった。己が例え渡辺の立場であったとしても、相当に自分を信頼してくれているとは信じていることを前提にしても、桑原の話を受け入れるかは微妙だろうと思う。

 背中から声がした。

「出かけるんだから、しゃきっとしなよ。なにしろ僕ら、」


「突破。3、4、——だめか。桑原、せめて、今まで悪かった、君だけでも緊急脱出を」

 宇宙の只中で何に気を逸らせたと言うのだろう。しかも今は危機の最中にあって、ぼんやりしている時間はコンマもないはずだった。しかし、桑原は確かに一瞬、あるいは数秒虚脱のような不思議な思考の谷間にいた。——そうだ、谷に落ちたのだ。「今」だった。

「まて、渡辺」

「桑原、時間がない」

「いや、だめなんだそれじゃ。俺たちは離れちゃいけない」

「桑原」

「ドッペルゲンガーだよ。やり直しはここだ」

 お互いの顔は確認できない。複座のコクピットは距離は近いが、バイクの二人乗りのような格好だから、顔を見るのはモニタ越しだ。渡辺は眉を寄せて、考える風だった。そう長い間ではない。タイムは失われていて、一刻の猶予もない。

「わかった。もう一度試そう。桑原、起死回生の案はあるかい」

「ねえよ。もうちっと役に立つアドバイスが欲しかったな」

 そこで渡辺が何かに気がついたようにモニタを確認し始めた。

「どうした」

「そうだ——おかしいんだよ、僕らが今まで保っていることが、すでにおかしい——蓄積ダメージはとっくに限界を超えてる計算なのに——あべこべだ」

「渡辺?」

「僕らの一撃は届くかもしれない。桑原、鬼切丸はまだ折れていない」

「ああ? 当然だろう」

「それが大事だ。それだけだ」

 渡辺の声に希望が灯ったので、桑原にも光明が見えた気がした。

「諦めない、弛まない。その一撃だ。近道もなく、遠回りもない。桑原、わかるかい、僕らどんどん重くなっていってる」

 計器の類を確かめて、桑原は目を疑う気分になった。二千トンの機体であるはずが、いつのまにか数万トンに相当する数値を出している。コクピットが潰れてしまわないことが不思議なくらいだ。

「なんだこれ、何が起こってる」

「ドッペルゲンガーさ。未来の僕らの置き土産だ。攻撃は過去に。ダメージは未来に重ねて、今、殺しきる。その未来だ」

 玉将を囲んだ声音だ。

「桑原、見て、オーロラだ」

 緊迫した場には不釣り合いな、うっとりとした、とさえ言える渡辺の声が桑原に聞こえた。すぐそこにいるのに通信しているのがもどかしい。

(渡辺はここにいる)

 大切なことをもう一度繰り返した。

 複座の機体がどうして複座なのか、それはそうだ、この機体は存在を希釈して搭乗者へのダメージを誤魔化している。自分の存在が薄くなって、いつ消えてもおかしくない。だから、互いに見張るのだ。観測し合うことによって、存在を維持する、それがこの機体のセーフティだ。

「時空の歪みだ」

「おいおい、しゃれにならねえな」

「殺しきるなら今この時だよ。なるほど桑原、彼らからのプレゼントをきちんと受け取ろうじゃないか。もう一回、同じ場所だ。いけるよな」

「いい加減どうにでもなれって気分だよ。渡辺、死ぬのはごめんだし、お前が死ぬのもごめんだからな」

 間に合わなかった、届かなかった桑原と渡辺はどれほどいたのだろうか、と、桑原は詮ないことを考えた。未来、たった今現在になり、あっという間に過去の狭間へ消えていった、幾重にも折り重なった自分たちの「可能性」。ようやく勝ちを引けるそこに、自分たちがたどり着いたことを信じきれない気持ちもあった。泣いても笑ってもここで終わりの、最後の一撃なのだから、もうどうしようもない。腹をくくれと自分に言い聞かせた。渡辺の示すオーロラは緑に赤にと輝き、空恐ろしいほどの美しさでひらめいている。ここは、どこの宇宙なのだろう。自分たちは元の場所へ帰れるのか、そのような心配をするにはまだ状況が終わっていない。桑原はほとんど透けた感触の唇を噛み締めた。


 渡辺に対して、不誠実な答えをしたのかどうか、桑原は自問したが、二日酔いの頭はまともな答えを返してこないことに絶望した。

「渡辺え」

「なんだい桑原」

 いや、なんだかできたてカップルになったにしては、渡辺の様子も通常すぎるような気もした。しかし、渡辺という男がどうにも昔から「そう」いうところがあるので、なんともいえない。昨日の渡辺は真剣だった。桑原の記憶にある限り、酔っての勢いとかそういうのとは別で、渡辺はその点について真摯だった。故に、逃げるように桑原の方が酒を過ぎるほどに煽った感はあった。だからと言って、それこそうわごとにでも付き合ってみようとか、とりあえずでひとまずの軽い提案をしたとは思えなかったし思いたくない。

「桑原、ほら、白湯だよ」

「さんきゅ」

 サプリととともに差し出された白湯は胃に染みる。体は思ったより冷えていて、そう広くもない家でコタツで寝落ちすれば背中は床だ。氷の迫りくる今に迂闊と言えば迂闊だった。

 部屋の中は暖かい。一見暖かいし、昔から繰り返されたいつもの冬で、コタツにおでんとみかん。家族とでも友人とでも囲んでのんびりできる。朝の放送を思い出した。一向に真実味のない、どこか離れたようなところから聞こえる首相演説。迫りくる、氷、寒さの時代に、我々は何もかもが足りない!(確かに年々冷え込む。でも、それが、それが)。手の施しようのない氷河期がそこまで来ているといわれてそうかと緊張感がない。いつものコンビニで肉まんを買って、課題に頭を悩ましながら春——春は、就活、とか——そういうのを思う。桜が二度と咲かなくて、川は凍って、川どころでなく海が止まるのだという。めっきり映像には姿を表さなくなった政治家たちが音声でしきりに騒ぎ立てるのは、なにか物語の中のような隔絶があった。太陽が爆発して、それで?氷河期が?教科書で教わった歴史の授業はどこか御伽噺めいていて、居住区はのんびりと、成長期とは言わずまでも緩やかに箱庭のなかだ。


 俺たち自身がゆっくり死んでいく最中にあるのに、俺たちに迫りくる死の姿というのはとっくのとうに無痛で、怪しげではあっても穏やかで、不愉快な隣人ではない。

「だからと言って」

 きりりと眉の涼しい、渡辺がそういう。だからと言って。

「だからと言って、それが僕たちの戦わない理由にはならない」

 なんて格好のいい奴だろう、と桑原は思った。消えゆく薄れゆく己が輪郭を取り戻し、渡辺の隣で、それが彼の隣であるなら、桑原は桑原でいられた。「おまえが格好いいこと言うとカッコつけざるを得ないじゃんか、俺もさあ」。

「桑原のそういうところだよ」

「なにがだよ」

「好きだよ」

 おいそこでぶりかえすか、やめろ、とは言えない。渡辺は真面目な顔をしていたし、ジョークでないのは知っていた。かと言って、今しなくてもいい話であるのもまた真実で、そこに桑原は甘えてまた答えをそっちのけで誤魔化す。

「んで、その骨董品は動くのか」

「骨董品どころかオーバーテクノロジィだよ。滅亡前のね」

「滅亡前ねえ」

 高度な知的生命体はすでに何度も滅亡し、神話の中に痕跡を見る——というのは、まことしやかに語られる。渡辺もそのクチのようなことを語り出したからいよいよついていけそうになくなるか、桑原は引き際を思った。ちらりと外の様子を見ようとする時窓の結露が目に入る。だらしなく冷え冷えとしていて、べったりと迫りくる、メンヘラの暗い目をした女のような悍ましさがある。捕まったら逃れられない。渡辺はどうだろうか。妄想に譫妄に囚われて、ありもしない誇大な夢に取り憑かれて、この「世も末」な事態に順応して、一種の、よくあるカルトの陰謀論とか。そういうものと、やはり一線を画すようには思われた。そのこと自体が桑原の希望的観測で、友人を信じたいと言うひどく夢見がちな根拠に基づいた程度の信頼で——それがどうだ。立ち向かわんとする渡辺がいるのなら、まあついて行っても良い。(そう思うだろう、そう思うだろう)。顔の見えない政治家たちより、氷のことなど知らぬ顔で面接に一喜一憂する同級生たちより、渡辺は誰よりしっかりと桑原の中に存在している。

(結局、信じたいものを信じる)

 鬼を斬ろう、という。

「渡辺は鬼斬りの家系だよ」と渡辺自身が言うのを、何とも言えない顔で聞いた。よくいる方の名前に思われた渡辺であるが、由緒は正しく、なんだか、そういう演目が芸能にもどうこう——桑原のあずかり知らぬところである。冗談めいてそれなら俺もかと笑えば真面目な顔をしてこれも頷かれたのでまた表情に困る。「くわばら、くわばら、っていうのさ。鬼除けの一種だね」「はあ、そうですか」「からかっているわけじゃあない」「そうは思うが」

 渡辺は別に、桑原を裏切らない。そして、なぜか、渡辺は桑原のほうも渡辺に対してそう言う心持ちであることを疑いもしないのである。

「斬る、倒す? なんていうか、鬼退治? 結局、どういうことだ」

「鬼は鬼さ。星々の向こうから氷を引き連れてやってくる」

「氷を?」

 当たり前のように渡辺は言った。外を一瞥もしなかった。迫りくる驚異それ自体。氷。政府もただ連呼する、それは「氷」だ。「寒さ」と言い換えられることがたまにある。それを退けると言うなら、救国の英雄だ。

「それはおまえの——俺たちの仕事か?」「まあね」。そんなに軽々しく頷かれても困るのだが、渡辺はいっそう清正としていて、それがなすべきことだということへのあるべき疑問、葛藤、それら全てに、桑原がなにかを差し挟むまえに答えを出してしまっていて、それを窺い知れるほどには桑原は渡辺に対しての共感を持ち得ていたので、反対の意向、反論らしきもの、あるいは、荒唐無稽を囃して、そういった態度は出すことができなかった。あまりにも渡辺は真面目だった。毒気を抜かれてしまうほど素直すぎるほど素直だった。肩肘張った緊張感がなくて、だからすっと吸い込まれてしまう。

「無理強いする気はないんだけれど」。渡辺はそうも言ったが、桑原がでは知らん顔をするのかといえば、そんなことはないことを信じ切っているのもわかった。悔しく思わないでもなかったが、実際、勝手にやってくれと突き放す気にもなれないのだった。

「氷を」「鬼を」。

 スケールが計りかねて、桑原は唸った。雲を掴むような話といえばそうだった。「準備はされていて、僕らはそれを使って、鬼斬りに行くんだ」「宇宙船で?」「居住区の中で戦うのはよくない。できなくはないけれど、居住区へのダメージは避けたい」「そりゃあそうだろう」。渡辺がどこに重きを置いて、どういう風に優先順位を置いているのかがふとわからなくなる。人々を守りたいとか、日常を守りたいとか、ささやかで大切なヒーローの条件を、なんだかべつに気にしていない。倒そう、鬼を倒そう、それはわかる。それが目的だ。氷を退ける。なるほど世界を救えそうだ。でも、別段それはどうでもいい。

「どうかな、桑原」

 渡辺は熱く鼓舞するようなことをしない。静かで、悪魔が囁くような穏やかさである。

「その気にならないかい」

 外の寒さを思う。コートを重ねても火を焚いても、氷の接近は人類の努力を尽く叩き伏せた。共生するには厳しすぎる到来は、手を緩めることなく刻々と近づく。うんざりの相手だ。だからといって、己がどうこうできるでもない。そう思うのは自然だ。相手の意味するところは大きすぎて、たかだか桑原に、その辺の大学生である自分に何ができるはずもない。国とか軍とか、社会とか、もっとカテゴリの大きい存在がカテゴリの大きい相手と対峙する場面だ。そのはずだ。

「横っ面を殴ってやりたくないかい」

「鬼の?」

「全てのさ」

 そそるといえばそそる誘いであることも否定できない自分を桑原は認めた。鬱屈とした街、萎縮して凍えて、「死ぬなら楽に」いたい。政治家の言葉は上滑りして苦笑いするにも及ばない。ぺてんともいえない。彼らは彼らで、彼らの足元にも氷が迫っていて、靴先を必死に引っ込めて誤魔化して——。ああ殴ってやりたい、と思うだろうか?結局正直になればそうしたいと思った。殴りつけてふざけるなと言いたい。どいつもこいつも、どいつもこいつも。

「物騒な顔をしている」「物騒なことを言ったのはお前だろう」「でも実際、何も考えずに暴力に走る桑原でもないからね」「わかったふうに」「うん。知ってるんだ」

 だからね、君を誘うんだ、唆す。そんなふうに続ける渡辺の顔があまりにも涼やかなので、やはり混乱した気分になる。横っ面を——殴りつけて——全ての。

「僕は結構怒っているんだ」

「そんな風にも見えないが」

「桑原にはね。本当はあまり格好わるいところを見せたくなかったし」

「イメージでないと言われたらそうだが」。そこで渡辺が眉を下げて、はにかむように照れた。「そうだろう」。案外突然ににそんな可愛い顔をして見せるのもどうかと思うが、可愛いと思ったのもどうかと思う。ゆえに桑原は沈黙した。

「どうしても僕じゃなきゃいけないわけはなかった。だって、渡辺の血筋は別に僕一人ではないし——でもそうだね、なんだか、皆牙がなかった」。「牙が?」「震えるばかりで、僅かな暖かさから離れようともしない。腰抜けと謗るつもりはないけれど、それでは鬼切丸を振るえない」「振るう、で合ってるか? それ」。それで見せられた小さく縮小された「オブジェクト」の3Dを眺めやり、ずんぐりしたカブトムシのようなフォルムのそれが「刀」とは程遠い。「まあ今どき日本刀でどうこうはしないさ。鬼切丸は、その時代の最適化をきちんとするから、今だとまあこんな具合」。画面の端に表示されている縮尺サイズを計算すれば、まあまあ巨大な、腕と足の部分もついた一応の人型、。往年の巨大ロボット映画ファンなら泣いて喜びそうな代物ではある。「こんなんどこに隠して」「まあ普通に地下かな」「普通かそれ」「ありがちではある」

 居住区の地下は、シェルターでもあるから空間は広い。その他にも、貯水槽などがあり、件の「鬼切丸」は貯水槽にあるとのことだった。

「錆びていないか不安なのは人間の方だね。つまりは僕らさ」


「カフェに行った時のこと覚えてるかな」

 ネオンというほどでもない、時折かすめる外灯の光を眺めやっている。バスに揺られてそこまで数十分だと言った。渡辺も桑原も免許の類を持っていないので、移動は公共交通機関が常だった。鬼退治に行くのにバスで。普通のバスで、例えば秘密組織の秘密の交通手段だったりそういうのはない。拍子抜けといえば拍子抜けしないでもなかったが、どこか現実味のない話をしながらいつものバスは妙に現実的だった。

 渡辺は窓側に頬杖をついていた。反射で窓に映った表情は見えるようで見えない。桑原が無言でいるとかまわずに続けた。

「桑原と、もうひとり誰か——女の子だったかな。覚えていないや。僕は紅茶を注文した。桑原はコーヒーを頼んだ。角砂糖がテーブルの端に積まれていて、コーヒーが運ばれてきたと思ったら、君は角砂糖に手を伸ばして取って、躊躇いなく包装紙をビリビリに破いてコーヒーに入れた。僕は内心びっくりしてたけど、君は全然気がつかないで、結局二、三個砂糖を入れて、ようやくみられているのに気がついてどうかしたかって言ったんだ」

「それがどうかしたかよ」

「そうそう、そういうところだよ」

「なにが言いたいのかわかんねえぞ」

「面白いやつだなって、僕が初めにそう思ったのはその時だったなって」

「角砂糖の包装を破くのが?」

「僕にはできないことだったんだよ」

 なんだか羨ましいというよりは悲しげだった。角砂糖の包装紙がなんだというのだろう。確かに、渡辺は丁寧な男で、彼は角砂糖をきっときれいに剥いて、屑となった紙も畳んで捨てるのだろう。

「——気が向かないのか、ほんとうは」

 なんとなく、前後に脈絡もなく、桑原はそう言った。

「なんでかそういうところばっかり鋭い」

「勇ましいこと言ってたじゃねえか」

「だから、格好つけだよ。正直になれば——そう、正直になっておくべきだと思った。桑原にいて欲しかったんだ。一緒に来て欲しかった。それと同時に遠ざけなければいけないとも思っていたんだけど、うまくいかないな」

「まあでも、お前に頼まれるより先に、俺は頼まれてるからな、俺に。だから結局、その方が後悔ないんだと思うぜ」

「桑原に後悔がなくても、僕に後悔が出るじゃないか」

「エゴイストめ」

「軽蔑するかい」

「しねえよ」

 目的のなんとかいうバス停までどれほどだろう。元からそれほど多くはなかった乗客はさらにまばらになり始め、二人がけの席に並んでいるのは見渡す限りには桑原と渡辺だけになった。

「僕らふたり、どこまでもどこまでも——」

「それ片方死ぬやつだろう俺でも知ってる」

「溺れるのは苦しそうだ」

 桑原は渡辺を小突いた。頬杖をやめて振り向いた渡辺はいつもの渡辺である。

 ふぁん、とバスのクラクションが鳴った。ブレーキ、アクセル、緩やかな左折、右折、直進、そうして目的の場所へ運ばれる。

「ああ、ほらみてごらんよ、氷だ」

 いつのまにか、渡辺の顔をわずかにでも反射していた窓は氷の結晶に覆われている。動いているバス、そういう少々の熱源にも氷はまとわりついてやがて——全てを凍らせる。

「こいつらが全て敵か」

「すべてではない。寒さとも、氷とも、人間は生きてきた。ずっとずっと。でも増えすぎた。全部凍らせてしまったら、その先はない」

「滅ぶ、滅亡? なんだっけその」

「ニュースでそういう言い方はしないだろうけどね」

 シェルターの居住権は「等しく平等」。表の居住区がだめになったらそっちに引っ込んで、政治家の演説だ。大丈夫、氷河の季節を越えるまで我々は耐えるでしょう。蓄えは十分に用意されています。みなさん、この氷は一時です。待ちましょう、我々はまた地表に出て、人間の季節を迎えるのです——。

 それにしてはいっこうに、シェルターの完成の話だとか、そういうのは聞こえてこない。

「根本的に、倒さなけりゃだめなんだ」

「鬼を?」

「そうだね。ぐんぐん近付いてるんだ。愛しい恋人に会いにくるみたいにまっすぐに、脇目も振らず、僕たちのもとにやってくる」

「迷惑な話だな」

「実際僕らは仇敵というよりもなにか——もっと別のつながりだったのかもしれない。いつか、いつのことかはわからないけれどね。織姫と彦星みたいなロマンチックと言っていいような。惹かれているのは本当なんだから」

「でもぶった斬るだろう?」

「もちろん」

 渡辺は頷いて、膝に置いていたカバンから最新式の超断熱サーモボトルを取り出した。

「飲むかい、紅茶だけど」

「ああ、なんだ準備が、お前だけなんだかいいなこのやろう。ああでもなんだ、俺は手ぶらでついてきちまったのか。それはそれで正気を疑う」

「じゃあ、正気じゃなかったんだろう」

 静かにバスがまた止まった。ずぶ濡れの客が乗り込んできて、一瞬だけ二人のことを見た。コートの襟を立てて、吐く息は白い。せめて温まっている方に行きたいのか、通り過ぎて一番奥の方へ行った。渡辺が、「あと三つ先だよ」と囁いた。


「鬼切丸はお前には荷が重い。黙って帰れ。小旅行したと思って。桑原くんだけ置いてけ」

 バス停の先、寂れた立ち入り禁止の看板の前に先客が立っていて、去っていくバスに乗らない。

 待ちくたびれたと言わんばかりに結晶まみれのコートを払って「どうもお二人さん」と首を傾げた。その声も、顔も、渡辺に酷似していた。

「なんだこいつ」

「今更出てくるのか、兄さん」

「しゃしゃってんのはお前だろお、弟君」

「まてまてまて、渡辺、こいつ、いやこの人兄? お前の? 聞いたことねえけど」

「話したことないからね。渡辺の恥だ」

「言うねえ、ミソッかすの根暗隠キャがよ」

「倫理の崩壊した人格破綻者になんと言われてもね」

 傍目にもギスギスしていて、二人の間には嫌な緊張がある。

「腕っぷしで決めとくか」

「桑原、鞄を頼めるかな」

「ステゴロで俺に勝てると思ってんのかよ」

 すると渡辺はさっと鞄を桑原に押し付け、片手にした傘を——桑原には理解の追いつかない動きでひゅるりと一閃してなんらかの「構え」になった。特定はできないが、薙刀であるとか、古風な武術の一種か、脇に挟み込むようにきれいに持ち手側を相手の方に向ける形で、ぴたりと止まる。

「いや傘は無理があるんじゃ」

 流石に桑原が口を挟んでも渡辺は涼しい顔でいる。「間合いがちょっと短めだけど」

「そうじゃない」

 この氷の時代に、傘はそもそも、大した効果を持つものではないのだが、それでも渡辺がグレーの長傘を常に持ち歩いていたのは、備えであったとでも言うのか、そうなのだろう。

「特注素材の傘骨だ。まさかまるっきりの武器を持ち歩くわけにもいかないから」

「小賢しい」

 渡辺が一歩前に出た。足はほとんど上がっておらず、ほぼ摺り足である。前進しながら腕はまた桑原の目に追いつかない動きをして鋭い突きの一撃が放たれたが、わずかに首を引いた「兄」の喉元に柄がぎりぎり届かない。

「喧嘩の仕方がわかってねえんだよ、根本的に。なあチェリーボーイのヨンリオ野郎。ファンシーが好きなのは否定しやしないから、せめて引っ込んでろよ」

「いやだ、僕が桑原と行くと決めた。兄さんのその目——奴らと取引したね?」

「兄」の瞳は薄青く、寒々とした氷から垂らしたような色をしている。なまじっかに見た目が似ているからか、違和感は相当にあった。

「駆け引きは大事さ。まさかお前本当に鬼切丸だけで、あの氷を引き連れてくるあれらをどうにかできるとか本気の本気でそう思ってんかよ」

「言い訳が見苦しいね、腰抜け」

「いきがるな」

 桑原は一定の距離に離れながら手出しもできずにいた。初撃で渡辺が前に出たのは、おそらく桑原を守るためでもあった。「兄」はいまだ武器のようなものを見せてこそいないが、では翻って桑原に何かできるといえばそれは否だった。特に鍛えているわけでなく、気が向けば多少の筋トレくらいはしても本格的なスポーツも——まして武術の経験は皆無だった。その辺のいち大学生にすぎない。

「渡辺っ」

「心配しなくても桑原くんに手は出さない。大事なパートナーだ」

「渡さないよ」

「話が見えないぞ」

「なんだ、説明して連れてきたわけじゃないのか。弟ながらいけずずうしい、どっちが人でなしだ」

「桑原——騙して連れてきたみたいでごめん。でも絶対、説明はする」

 内実のわからない桑原は態度を決めかねていた。しかし、対峙するよく似た二人は、しかしどう足掻いても確実に異なり、そして、桑原は、己の親友を、不穏な空気が流れた瞬間に自分の前に立った男を疑うのは不実であるという気持ちになった。そもそも、積み重ねてきた友人との時間と、ぽっと出の不審な「兄」とやらの言葉と、天秤にかけようと言うことが馬鹿馬鹿しくなった。

「渡辺、俺をみくびるなよ。お前のことをす——もとい、信じてなけりゃ、ここにはそもそもいなかったさ」

 好きでなければ、といいかけて慌てて言い換えた。デリケートにまだ棚上げされた問題であり、してみると桑原の感覚からすればそれがよほど問題だった。

「おい、その変な兄貴にのされたりとか、すんなよ。俺はお前にオールインだ。お前から聞きたいことがまだまだありそうだ」

「ありがとう桑原」

 振り向かず、厳しい表情のまま渡辺の声だけは優しかった。「兄」がふんと鼻を鳴らす。

「三文芝居だ」

「兄さん、気が削がれたなら、それを理由にここから立ち去るなら今だよ」

「お慈悲のつもりで言ってるか? それを? お前が? 俺に?」

「兄弟のよしみさ」

「そういう甘いことばっか言って、あまーい生活を夢見て、未来なんかに縋るから、おまえは隠キャなんだよ。ばっかじゃねえの、これから鬼切丸を受け継ごうって時に、後生大事に抱えてるのがヨンリオのバッグとか」

「キョーちゃんとミーちゃんの魅力は、兄さんには一生わからなくて大丈夫だよ。兄さんに限っては、同担拒否だ」

 話す間も渡辺の手の中の傘は高速で動いている。突き、上段からの打ち下ろし、下段から切り上げ、息つく暇もない。その全てを、「兄」は拳で弾いている。あるいはいなしていると言うのか、その辺りの違いも桑原にはおぼつかなかった。暗いのでよく判別がつかないが、素手ではなく、なにかナックルのようなものを握り込んでいるようにも思われた。

「お前にパートナーが見つかっただけでも——まあそこは、なかなか頑張ったんじゃねえか。どんな甘言でたらしこんだかは知らんが」

「黙れ」

「なあ、桑原くん、俺にしとけよお。なに、ツラは同じだし、俺の方が頼り甲斐だってあるってもんさ。オタク趣味に無理して付き合わなくてもいいしな——」

 桑原は訳がわからないなりに、その台詞に対しては看過できないと奮起し、白い息を吐きながら抗議した。

「渡辺に俺が無理して付き合ったことなんてない。そりゃあ、ヨンリオに詳しくて大好きってわけじゃあないけど、渡辺は好きだからこのバッグ大事にしているし、そういうのも知ってるし、オタクとか馬鹿にすんのがダサい——っすよ」

「兄」は氷の眼差しを桑原にも投げて、渡辺であれば絶対にしないような歪んだ表情をした。そのことに目を逸らしたくなった。顔が似ているだけに見るのが苦しく思われた。

「同類項ってわけかよ、はん、おもしろくもない。弟君がゾッコンだからどれほどの、とおもったけど、奪っちゃいたいようないい男でもないらしいな、なんだその前髪、トサカつけんの格好いいとか思ってるわけか」

「兄さん、桑原への侮辱は許さない」

「熱くなるなよ、熱くなっても熱くなっても、この氷の世界の前じゃあ、無駄なんだからなあ」

「黙れ!」

 渡辺が急に傘を回し、これまで持ち手側を——おそらくそちらに重心があるのだろう——攻撃に使っていたのを、自分の手元に掴み取り、一見、ごく普通の傘を持つその姿勢になった。

「お前の技じゃ届かねえのを理解したか?」

「加減はしてるさ、お情けで」

「なんだと?」表情がまた歪み、兄弟の様相はどんどん印象を変えていく。はじめに表面上は見違えるほどに似て見えた顔も、もう間違えようがないほどに異なっていた。渡辺が桑原を後ろに前に前に攻撃し続けたせいで、最小限でとは言え交わし続けた「兄」の後ろはもうほとんどなかった。それ以上は、貯水槽だ。ちらりと二人が同時にそれを見て、おそらく「兄」が前に出ようとする、その瞬間。

 傘が開いた。

「む!」

 これは警戒の外の行動であったようだった。

 渡辺は傘を前向きにして一気に開き、「兄」の視界は完全に奪われる。渡辺の次の行動はシンプルだった。迷うことのない前進である。いつでも巻き返せる余裕を見せていた「兄」だったが、背後にぎりぎり崖っぷちの位置にいたのは、おそらく渡辺の確信からの行動だった。まともにダメージが入るとは思ってはいない。しかし、「誘導」して、一瞬視界が取れればいい。パラソルとは行かずとも、紳士用の傘を開けばそれなりの大きさであり、材質は「特注」、それに突貫されたのだ。

 文字通り後がなかった。

 呆気ないほどに簡単に「兄」は足を踏み外し——たぶんだ、桑原からは傘が目隠しになり見えなかった——がつんとかすかに音がした。貯水槽の減りに靴を擦った音か、本当にかすかだった。

 寒々しい風が吹き抜け、ごうごうと無遠慮に去った。渡辺は傘を閉じずに放り投げると、その先に先ほどまであった「兄」の姿はない。

「落ちた、か?」

 流石に桑原もゾッとした。貯水槽の水は管理されており、この時代にあって表面が凍りついていると言うことはない。に、しても、かなりの高さからの自由落下は、その衝撃が緩和されることを意味しない。渡辺がぎりぎりまで近づいて下を覗き込む隣に行く勇気はなかった。

「も、戻ってこいよ、渡辺! お前まで落ちちまったら」

 すると渡辺は振り向き、厳しくしていた顔を少しだけ和らげ、ゆっくりとではあるが桑原の方へ戻ってきた。

「風の音で着水音までは聞こえなかったが、おそらく落ちたろう」

 なんと答えていいかはわからなかった。「兄」を殺した? 今? 渡辺が? 混乱している桑原に渡辺は頭を下げた。

「軽蔑して構わない。引いたと思うし——。ただ、氷の力に手を出したあいつをあれぐらいで倒せたかは怪しい——目眩しも一度きりの手だったし——確かに、素手でも武器でもまともにやり合って勝てた試しはない相手だったんだ——言えないでいた——そもそも、あの人のことを——」

 悔やむ響き、懐古と懺悔と、いろんなものが入り混じっていて、桑原は何も言えなくなった。複雑すぎる感情についていけないのもあったし、渡辺の事情に関してそもそも何も知らなかった自分がどうこう言えた義理もないと言う気持ちもあった。

「まあ、あのよ、なんていうか——お前がそうしたなら、そうするしか、なかったんだろうって」

 それだけ口にするのが精一杯だった。


 貯水槽の中に静かに佇む「鬼切丸」は、最初桑原の目に、そのような巨大なものがどこにあるのか見当もつかなかった。「ここだよ」と渡辺に先導された先にあったのはただただ広大な貯水槽に湛えられた水であり、なんらその、ロボットなりそういうものは見えなかった。

「光学迷彩だよ」

「あ、ああ」

 教科書のどこかで習ったことのあるようなないような、普段の居住区での生活で、おそらくどこかには使われているが気にしない程度の技術だからつまりよくわからない。とはいえ、その原理がわからなくて問題ということもなかった。

「かといって、鬼切丸が本当に存在しているか、という問いに対しては、ほとんど古典的な答えになる」

「どういうことだ?」

「シュレディンガーの猫さ」

 渡辺は無表情のまま、腕を胸の前まで上げて両手の指を曲げて見せた。ご丁寧に「にゃあ」と鳴いた。

「可愛かった?」

「ノーコメント」

「君を誘惑する気はあるんだけど」

「それ本気なのか本当にわかんねんだよ」

 桑原は割と本気でおそれていたが、それはそれとして、渡辺は腕時計型のデバイスから立ち上げたホロスクリーンになにかしらタイピングしている。何重もにロックされたパスワードに次ぐパスワード、渡辺は一度も淀みもせずに黙々と打ち込み、やがて小さくアンロックの表示が出たのを桑原も横目で見た。なんらかの事態が始まることに身構えたが、特にこれといって変化はない。すると渡辺が向き直って、桑原に目を合わせた。

「これからもう一度確認する。僕と一緒に、鬼切丸で鬼を斃してほしい」

「何をいまさ——ら」

 すっと渡辺が手を差し出し、その右手は、それこそホロであるかのように透けていた。

「どういうことだ、渡辺——」

「僕たちが猫になる、のさ。鬼切丸のなかに、僕は、いるかもしれないし、いないかもしれない——でももちろんいるよ。君が見ていてくれればね、桑原。鬼切丸には、どうしても、二人で乗り込まなければいけないんだよ——」


 きらきらと遠くで光が瞬いた。「居住区だ」。

 あのどこかに、あれらごときに、桑原の、渡辺の、日常の全てが行われて収まって匿われている。あんなにちいさな光の集まりごときが、氷に囲まれながらそれを見ないふりをしている。

「そういえば昨日おでん食ったっけ」

「そうだね」

「おまえは出汁で酒を割るよな」

「具は君が食べてくれるからね」

「お前時たま俺の胃袋を当てにしているよな」

「いっぱい食べる君が好きだよ」

「言ってろよ」

 鬼切丸に乗り込んでからふわふわしていて、ふわふわしているな、と思ったそばからいつも整髪料で上げている前髪が落ちてきた。

「え、こういうことあんの」

「ピンあげるよ」

「知ってた?」

 可愛らしい髪留めを渡された。渡辺のヨンリオ通いに付き合わされた桑原はちゃんとキャラクタの名前がわかる。グッドガイだ。渡辺の最推しのキョーちゃん・ミーちゃんペアではないとは言え、大切なものだろう。

「これは、おまえの、」

「だから、桑原に」

 グッドガイはキョーちゃん・ミーちゃんとのカップルキャラではないが、その気にさせようというような鞘当ての仄めかしがある。そこまで考えて、渡辺があえてそのヘアピンを選んだかは本当に——彼の性格上——わからなかったが、どこかに向かって今にも吠えそうな、あるいはただ澄ましてぴんと背筋を立てた犬の姿をしたグッドガイがあしらわれたヘアピンで前髪を留めた。

「さんきゅな、ちゃんとあとで」

「返さなくていいよ。あげるって言った」

「——返す約束があった方がいいかと思ったんだけどよ、今は」

「案外ロマンチストだね」

 背中しか見えなくなった渡辺の顔は、しかしコクピット内に展開されるホロスクリーンには映っていた。しかし、直接その顔を見たかったと桑原は思った。これまで数えきれないほど見てきた親友の顔が、今、すぐそこにあるのに見たい。直接面と向かって話したい。ざわつく心はなぜが渡辺に通じたのか、ホロ越しに彼は笑った。

「手の感覚が強くなったよ」

「どういう意味だ?」

「今、君が僕のことを強く思ってくれているってことだね」

 あたりまえだ、渡辺は箱に入った猫ではなくて、きちんとここに存在している。桑原が腹を立てると、桑原の方もなんだか妙に体の感覚がクリアになって、周囲がいまいち見て取れもしなければぎゅうぎゅうに押し込められているだけの鬼切丸のコクピットで自身の存在を強く意識した。

「僕も、桑原の存在をとても強く感じるよ。なんて心強いことだろうね。きっとそう、今度こそ言うよ、きみとならきっと、どこまでもどこまでも、いけるだろう」

「ばか、だから、それじゃ、片一方は死んじまうだろ」

「そうとも限らないさ。いいじゃないか、いいとこ取りしたって。それに——僕らがむかう空はもう、南十字星なんてとっくに越してしまったんだよ」

 遠くに輝く氷が見えている。


「硬い!」

 思わず口から漏れた。びりびりと振動が伝わってくるようだった。鬼切丸の存在の仕様を思えばそんなことはないようにも——または、だからこそあるのかもしれない。「あるとおもえばある」。

「察しがいいよ桑原。ダメージをどれくらい喰らうかは、わりと、僕ら次第」

「まじで俺よくついてきたわ!」

「ほんとにね」

 軽口を叩けばなんだかいなせてしまって、まだやりようはありそうに思えた。

 眼前——メインモニタ——に、まるで燃え上がるかのような氷の塊が見える。角があるでない、虎柄の褌でもない、しかし、ただただ氷のその塊だけではなくなにかが意志を持って向かってくるのをひしひしと感じる。

「ん、おい——」

 桑原は違和感を感じ、その、氷の太陽の黒点とも言うべきなにかを、メインモニタにズームで映すよう操作した。鬼切丸の標準操作が脳波思考連動式で、感覚的に行えることは大変ありがたい。さておき、渡辺の目にもくっきり映ったはずのそれを、やはり、という心持ちで確認した。

「あれ、兄貴じゃねえか。さっき貯水槽に落としてなかったか? なんでまた生身で宇宙で氷の中に?」

「思っていたより深く同化していたみたいだ——と、いうか、自分を鬼に食わせて、その分を氷で補った」

「兄貴にゃ世界に恨みでも?」

「享楽主義者かな。というのももったいない。ただクズなだけ」

「お前がコテンパンなのも珍しいけどよ——」

「気をつけて、桑原、さっきの人間同士の戦いの範疇じゃない。今は——鬼切丸があっても、あの規模の氷を砕くのにそうそう簡単に行かない。ついでに面白がって邪魔してくる馬鹿がいる。双子シンクロの嫌がらせが脳波経由で伝わったら悪いんだけど、怒りはあいつにぶつけるでオーケー?」

「お、おう」

 こと兄の件に渡辺は熱くなりがちのようにも見えた。桑原には知り得ない過去の確執だとか、そういうのがあったりなかったりしたのだろう。いつかきちんと聞かせてくれる日もあるだろう。——ここを越えられればの話だ。

「しっかし、こいつは殴る以外の選択肢なんかないのか。一応、爆撃装備とかもあるっちゃあるっぽいけど」

 コンソールを叩き続けているのは渡辺で、そもそもが正当なパイロットの訓練などは受けていない桑原には細かいことは土台無理だ。どうしても「二人」必要なシステム上居て、脳波思考連動式でどうにかなるところだけどうにかする。「む」ざざざ、と不意にノイズが混じった。直接の頭痛に近い。

「なんだこれ」

「嫌がらせだよ。さすがに性格が悪い」

 舌打ちほど下品な真似はしなかったが、渡辺は不愉快な様子を隠さない。と、言うより、思考連動の副産物で、感情の動きはかなりダイレクトに響く。渡辺の様子は、これまでに桑原が把握していたよりずっと情熱的で熱くて、それは今の状況のせいかもしれなかったが、はっとするほどきりりと力強かった。いつもの無表情であの時「告白」してきた渡辺は、してみるとひょっとして、表面上そうは見えなかっただけで——「桑原」。モニタ越に目が合う。「考えが逸れてるよ」「お、おう」きまり悪く、しかし目を逸らすのも違う気がした。今戦っていて、氷とだ——巨大な、渡辺の言うところの鬼——まるで夢の中のようだ。現実味がない。

「気をつけて、自分がいないと思ったら、いないんだよ。桑原、僕の後ろに君はいるだろう」

「いるとも、渡辺、お前が俺の前にいるのと同じに」

「そう、その調子」

 頭痛がやや緩和された気がした。

「僕らの間に入り込む隙がなければ、兄さんも嫌がらせは難しいんだ」

 すこし、嬉しそうに感じたのはたぶん気のせいではなかった。桑原はドギマギしてしまうのを、この極限下での錯乱かとも考えたが、もう現実は確かについていくのが難しい状況に陥っている。感情で動くことが最終的に心残りが少ないならば、開き直っても構わないようにも思われた。

「な、渡辺」

「なんだい桑原——」

 閃光が走った。正確には光ではなく、氷の発する歪な輝きの棘のような、触手のような、曰く言い難いなにかだ。それはただひたすらの敵意のような悪意のような、しかしそのどちらでもなくどちらにも及ばない、おさない赤子が何も考えずに蟻を潰して回るような残虐にして雑な攻撃として続く。まともな思考が働いているよりは反射的に「鬼切丸」に反応して、冷たい指先で掴んで砕こうと千本の手を伸ばす。

「回避行動!」

「正面砕け!」

 同一にして異なる思考の渡辺と桑原の命令を、「鬼切丸」はただしく実行した。

 回避行動をとりつつ正面を砕く。

 千本の腕のせいで、正面が薄くなっていた。

「核みたいなものはあんのか」

「おそらくね、僕の見たことのある設計図が本物なら、中心部さ。心臓だね」

「設計図——またツッコミどころが増えたな」

「すまないと思っているよ」

 結局、何をどう説明されたら、桑原はこの場へ「納得して」訪れ、この得体の知れない「鬼切丸」に乗っていただろうか。

 だからきっと正しかったのだ。渡辺が正しかった。

「見えた! あそこに、もう一発——!」

 がぢん、と、真空の世界に音は響かなかった。

「突破。3、4——」


 桑原が目を覚ますとコタツに頬がべったり張り付いていて片側だけ熱い。

「大根が煮えてるよ、桑原」

「ああ、えっと、ごめ、寝てたか」

「起こすのも悪いみたいだけど、それじゃ体を痛める」

「ん、ああ」

 ぐつぐつ卓上鍋で煮えているおでんの湯気の向こうで、渡辺が盃を傾けた。

「ごはん食べるかい? 茶飯あるよ」

 なんだかぼんやりしていて、飲み過ぎだろうか。たしかに、何かしっかりしたものを食ったほうがいいかもしれない。

「ああ、食うよ——」

「これ飲んだらね、それから大根も食べて」

「うん——」

 のろのろ起き上がって、箸置きから転がっている箸をつかむ。可愛らしいキャラクタは渡辺の趣味のヨンリオだ。くじだかなんだかで当てたとか——(あの日、朝から並ぶのに付き合った)。

 オンラインくじで引けばよかろうに、こしきゆかしく店舗でカードだか引換券だかを買って、渡辺は満足そうにしていた。(箸があたったよ。キョーちゃんとミーちゃんのセットだ。片方は君の分にする——)

 表情が変わりにくくて誤解を与えがちだが、渡辺ははしゃぐときはしっかりはしゃぐし、楽しいものには乗っかる。割と素直に喜怒哀楽があって、でも、引きずることをしないからさっぱりした性格に見える。冷めている、と言われたりする。

(冷めてるやつがこんなに喜んでくじの景品なんか集めねえだろう——)

 桑原は、それを知っているのが自分だけのような気がして、それがなんとなく悪くない気がしていた。渡辺のそう言った一面を知っているのが、他にいなくても自分が知っていれば。自分であれば。

 箸のセットは渡辺の家で、宣言通りふたりそれぞれの専用になっている。いつの間にやらそれはそれとして箸置きのセットも増えていて、渡辺は桑原が渡辺の家で食事するたびせっせときちんと並べては満足そうだった。なにがそんなに嬉しいのかわからなくとも、渡辺にとってそれが嬉しいことなら桑原に止める理由はなかったし、渡辺が満足ならばそのほうがいい。消極的に、消去法に考えていたつもりで、でも桑原の方が積極的にそういう渡辺を好ましく思っていたのかもしれない。

(渡辺が嬉しそうにしてんのが、結局のところ、俺も)

 頭を抱えた。コタツに温められたばかりではない。ぐしゃぐしゃ頭をかき混ぜる。前髪を上げてセットするようにしているが台無しだ。別にいい。いまどきはどこも重厚なつくりになって、外側には氷の結晶が張り付いている窓の外から誰かが覗き込むようなこともない。

「なんかよー、勘違いしてんかもしんねーけどよ」

「どうしたの、桑原」

「ああ、俺もばかなんだろうな。結局。それは認めるよ。見ないようにしてた。居心地良くて、ずっとそれは——気がつかないふりで」

「桑原、ねえ、君、ひょっとして」

 なんだかはにかんだ目の前の彼は、桑原からなにかあるらしいと期待するのか。

 それに対し、桑原はしっかり目を合わせた。

「——まあ、その辺のことはよぉ、渡辺にきっちり、話すから。ああ——でも渡辺、ではあるのか? まぎらわしいな。とにかく、アンタに話すことじゃねえから、引っ込んでくれっかな、兄貴よお」

「何言ってるんだよ桑原、悪い夢でも見たかい?」

「現在進行中だな。だいたい、作りが雑だばかが。顔が一緒だからって手ぇぬきやがって。いいか、キョーちゃんの箸が俺ので、渡辺のはミーちゃんのだって決まってんだよケアレスミスどころじゃねえぞばかやろう」

 そういう点のこだわりに関しては、そういう類の人間は絶対に間違わない。桑原は自身こそ積極的な凝り性ではないが、近くで接していれば理解できている。箸も箸置きも、コップも湯飲みも豆皿から茶碗に至るまで、ニコイチキャラのキョーちゃんミーちゃんグッズを自分と桑原用に揃える渡辺は、キョーちゃん柄を桑原用と定めている。これに関しては覆らない決定だし、万が一の桑原ならともかく、準備した渡辺自身が間違う、または気にしないことなどあり得ない。

「そう——」

 はにかんだ表情を消して俯いた彼は、ぶるぶる震え出した。肩が大きく揺れて、それから耐えきれないとでもいうように「ぐ、ふ、はは」と唸り声のような笑気のような声をあげる。響きが下品で桑原は眉を寄せた。桑原の親友の渡辺は、決してしない。

「わざわざいい夢で仕舞いにしてやろーと思ったんだけどよう。これでも厚意だぜ——? なんだ、おまえのほうだって熱烈じゃねえかそんな」

 片手にしていた猪口を置いて、俯いたまま数秒にわたる深いため息をついた。それから跳ね上がるように半身を上げて拳でコタツテーブルを殴った。

「知るかよ! キョーちゃんだかミャーちゃんだかどっちも似たような猫じゃねえか!」

「まったくちげえよばかやろう」

 ぬっと空間に亀裂が走る。星々の向こう、切り裂いた闇、己の腕が己を掴む。

 ——もういちど、だ。


「渡辺ぇ!」

 桑原は腹の底から叫んだ。目の前の存在は薄く儚くなりかけていて、コクピットの構造上腕は伸ばせないが視線を強く定めた。

「悪い! しくじった!」

「いや、僕も油断してた。双子アドバンテージがあるから狙うなら僕だと——思い込んでいた」

 ずず、と鼻を啜って、鉄臭い空気が喉を通る。脳への直接攻撃と言っていい。なかなか器用だと言ってやってもいい。

「よく戻ってくれた、桑原。やっぱり僕一人では荷が重いみたいだ——悔しいけど」

「おまえが、ほんとうは俺を連れてきたくもなかったなんて、そんなことはわかってるから謝るだけ無駄だぜ」

「桑原」

「前言撤回だ。よくぞ連れてきたよ、むしろおまえがな。その覚悟はきっちりうけとる」

「——なんかキマってない? 大丈夫?」

「アタマに直接食らうのって最悪な気分だな。おまえあれが兄貴でよく耐えるよ」

「苦労を少しわかってもらえたら嬉しい」

 軽口を叩く頃には輪郭もしっかりしている。危ないところだった。思考を外に放り投げることで、コクピットから締め出され、桑原の観測がなければ渡辺も存在を維持できない。

「なあ、あのおでん」

「うん?」

「昨日のおでんだよ。おでんを」

「またかい」

「大根食いそびれてたよ」

 渡辺からの返事に数秒かかった。意識が半分共有されているせいか、こどものような無邪気な笑い声の響きを聞いた気がした。

「どこまで引きずるんだよ。でもじゃあ、またやらなくちゃだね」

「おう」

 氷がモニタに迫っている。桑原の籠絡に失敗した兄は顔を歪めて、不機嫌で露悪な態度だ。いちいち、それは彼の弟が決してしない表情だ。やはり、似ているからこそ似ていない。桑原が好ましいと思っている渡辺の美点をまるでわざわざ逆張りに逆さまに歪めて、損なっているような——「桑原」はっとした。案の定、ダダ漏れもいいところに伝わっていて、照れ隠しもできずに桑原は無闇にモニタに視線を彷徨わせた。

「好かれているのは嬉しいよ」

「その話もあとでな」

「うん」

「やることがいっぱいあるなあ」

「そうだね」

「そうしたらこんなところでは負けられない」

「そうとも」

 とはいえ、作戦プランは唯一ひとつこっきり、シンプルだ。鬼切丸で殴り続ける。砕けるまで殴り続ける。鬼切丸の一撃が「氷」より重いことを信じて、狙いを定め、叩く。結局、最小にして最大効果の方法がそれだ。向かう相手、細かく大きく氷は撃ち放たれ、鬼切丸を丸ごとひと飲みに氷漬けににでもするつもりのようだ。小さな破片は自動照準で撃ち落とせるようにも慣れてきた。氷が来る。破砕する。


 人はなぜ、勝てなかった。打ち勝てなかった。勝負を放棄し、敗北をそうとは口にせず濁しつつも、取るものもとりあえず逃げる逃げる逃げる。桑原に政治はわからない。ただ、そういう連中、人と社会とを動かしていると言って憚らないそういう連中、モニタにはずいぶんとなにか思慮深げに眉に皺を寄せて重々しく表情を作りながら——あるいは、はじめからもう、そういう顔は合成の結実で——シェルター。シェルターだ。居住区はシェールター。あなた方を守る(俺たちを?)どうにも嘘くさい。打開する術を知らない。ねっとり嘘の気配を感じながら、その薄っぺらい嘘よりも「氷」の方がよほどに分厚い。海から波音が消えても、氷は進む。がりがりがり、ひたひたひた。窓のすぐ外にはもうぴたりとその指先が、結晶が張り付いているのに、こたつでぬくぬくとごまかされながら過ごしている。近年、こたつで死ぬ人間がばかに多い。そう、ばかげた多さで、ばかげた事実で、一種の自殺もきっと含まれていた。寒い寒いと凍えて死にたくないから、ゆっくり暖かく死ぬというのも妙だ。それとも、最後に残った選択としては上等の類なのだろうか。「こたつ死」がのどかな印象を与えるのも、現実の凄惨さから目をそらさすにはうまい具合にはまってしまったのかもしれない。昔の言い方なら、大昔の言い方なら、「畳の上で死にたい」とか、そう言った類。実際は、戦争はしていない。氷からひたすらに逃げている。逃げていることから逃げている。日常は欺瞞の上に築かれていて、もう誰もどうしようもできない。根底にはそういった暗黙の諒解、捨て鉢な諦めがあって、桑原もそれはわかっていて、でも半目を明らかになにかしら、——何をすることができるだろう? では政治家に、お前たちの嘘を、と詰め寄ったところで、結局のところほかに打つ手など持たない彼らから、何も引き出すことはできない。おそらく、何一つ、何一つとしてだ。それで、意識的な不穏分子として扱われ、あるいはもっと、狂った思考、過激にカルトに染まった人間と仕立て上げられるかもしれない。無為だ。まったくの無駄だ。引き換えてどうだ、訳もわからぬままに「鬼切丸」に乗り込んで、桑原は今直接殴りつけてやれるのだ。思えば愉快なことである。

 横っ面を殴りつけに行こう——

(そうだな、渡辺)

 横っ面を殴りつけてやろう。

 あのモニタに映る政治家も、目の前の氷も、ついでに、嘴を挟んでくる兄だとかも。

 箱庭のような、実際、そこは箱庭なのだ、あの居住区は。そこで、可愛らしいキャラクタが好きで、古典文学を読んで、ペールギュントをかけ、桑原を誘って鍋をする、渡辺はそういう友人で、間違っていない。きっと桑原がそれを一番近くで見ている。それでも気がつけなかった、気が付かなかった、見せなかった、内側の感情が肉薄していた。

 怒っている。

 立ち向かうことも向き合うこともしないで、ぬるい棺桶に引きこもって耳を塞いでいる連中に、憤り、諦めに腹を立てて、——同時に、憐れみ哀しんでいる。突き立てる前から折れてしまった剣の丘に彼は立っていて、たった一人で鬼切丸を目指した。「一人じゃないよ」。するりと滑り込んだ、まぼろしのような声の方が現実だった。「君を連れてきた」。そうとも、桑原はついてきた。(なんだかおまえとなら、俺は、そう思っていた)思っている。説明は十分とは言えず、覚悟を決める間も無く、ひどく理不尽で、あんまりな状況だ。それでいて一向に渡辺を恨もうとかいう気は起こらなくて、そうだ、愉快なのである。どこか芯の方から桑原はもう渡辺のことを信じているというよりは受け入れていて、時に予想もつかないようなことを急にしでかすが、他の誰が呆れるようなことであっても、桑原には小気味が良くて、そういう男だった。

「俺さ結構へらへらしてるとか、言われるんだけど」

「へえ誰に」

「んー、そのへんのやつ」濁しておかなければ、渡辺は執念深く覚えていつか制裁しそうだった。その考えもまた面白いからたまらない。

「いやでも結構、お前のせいもあると思うんだよな」

「僕のせい?」

「うん。お前があんまり面白いからさ」

「珍獣みたいに見えてたの」

「どうだろう。もっと格好いいと思う」

「ストレートに照れることを言うね」

「今の状況で隠すことに意味あるか?」

「居直ったね」

「そういうのもお前の影響ある気がするんだよなあ」

「嫌かい?」

「それがちっとも」

「それなら良かった」

「俺が、心地よかったから、そういうのいいなって思ったから、そうなった」

「そういう君が僕も好きだよ」

「ストレートなのはどっちだよ」


 ぎいんぎいんと歌うような悲鳴がする。悲鳴、鳴動、なんなのか。それが合っているのかはわからない。氷が鳴くのである。ひたすらに殴りかかる鬼切丸に焦れ、うるさいと振り払おうとする。氷は己の優位を疑っておらず、こまかく氷片を打ち出すのも、そのくらい、袖を振るくらいの気軽さで、相手は振り落とされると信じている。氷は圧倒的であったのだ。いまのいままで、人類に対し、あるいは、ほかの何者かに対してであれ、圧倒的であったがために、傲慢で、驕り高ぶり、つねに一個の人間などはその価値であるとかは一顧だにせず、虫けらもなにもかもが同等である。氷以外の全てが、氷に支配されて、氷を畏れ、氷に奪われる。それが当然だった。

 鼻を明かしてやろう、と勝ち気な気分が迫り上がってくる。

 鬼切丸は折れていない。折れない。宇宙にぽつんと、巨大な氷を前に、桑原は妙に、楽観的と言うか、「負ける気がしない」でいられた。なによりも、渡辺がそのことを芯から疑わずにいるので、思考連動している桑原にもその揺るぎない意志が流れ込んで強固になる。

 ——こいつは斃せる敵だ。

 驕慢であるからこそ、人間をあまく見ているからこそ、付け入れられて滅ぶのだ。自分達二人はすこしも、ちっとも、油断していない。最大最高の出力で、出来うる限りの全てで、叩き潰すつもりで鬼切丸を振るうのである。氷にはそれがわからない、理解できないから、警戒すると言うこともできない。なんという「まぬけ」だ。本来それを補うはずの手足がつまり「兄」であるのだろう。しかし、兄は兄でこいつも結局、弟にしろ、桑原にしても、馬鹿にしてやまなかったから、氷に対してもシンパシーで一致していて、警鐘を鳴らす役にはならない。犬の役にもたちはしない。氷の側についた時点で、人類からいち抜けして上から目線で、その実、そういう本人が誰よりも道化ている。気がついていない、これもまぬけだ。甘い夢ごときで桑原をうやむやに引き込むことができるとか、そういうことを思っている時点で幼稚ですらあった。全然似ていない渡辺の真似も、怒りを通り越して呆れる。そんなんじゃない、そんなんじゃない、そんなんじゃあない。でもあいつは気がつけない。いっそ気の毒ですらある。危機意識がなくて、自分が強いと——他の何よりも強いと——根拠なく思いこんでいて、疑うこともできないし、教えてくれる相手もいない。臣下も民もいない王様だ。ましてや友など得るべくもない。

 斃せる敵だ。勝てる相手だ。的はデカくて動きは鈍い。鈍くなってきたと言うべきか。他方、鬼切丸は鋭さを増し、重さを増し、相対する。

「桑原」

 また、するりと渡辺の声がする。

「引っ張られてるよ、気が緩む——」

 思考の方向が、くるりと自分に返ってきたことにハッとした。渡辺は用心深いままでいる。桑原は恥じた。


 ぴんぽーん。


 玄関のチャイムが鳴って、宅配便だろうか。昨今、宅配は遅れがちだ。氷の寒さにやられてドローンも故障が続く。結局個人で請け負う人力の宅配が便利は便利で、でもやはり人だって寒さにやられているから慢性的に人手は不足している。届けてもらえるだけましだ。何を頼んだろう。家主は渡辺で、なんだか船を漕いでいる。


 ぴんぽーん。


 立ち上がって、こたつから出て、すぐにでも受け取らなければ。再配達の有料オプションは結構痛い出費になるのだ。不在ではないのだから、受け取ってしまえば問題ない。もうすでにチャイムは二回鳴った。忙しい配達人に見限られてしまう。「はいはい、いま——」。行きますよ、と思うのに、どうにもこうにも動かない。自分も眠気にやられているのかと考える。金縛り。頭は起きているのに、体が動かない。最悪受け取れなくても渡辺は恨みはしないだろう。渡辺への届け物だ。それにしても——。ドアの向こうに巨大な怪物がいるでもあるまいに、妙に背筋が寒い。「くわばら」いつのまにか渡辺が目を覚ましている。それでいて彼も動く気配がない。「渡辺、宅急便」「うん。」しーっと指を立てた。静かにしろのジェスチャだ。しー。しずかに。しずかに。行ってしまうのを待て、と言うようだった。表情は平らで、たとえば、桑原自身が感じているような悪寒であるとか、そういうのを感じている様子でもない。なにかを恐れている感じではない。ただ、やりすごしてしまおう、という、それだけだ。


 ぴんぽーん。


 三回目。配達人は、配達人にしては気が長い。だいたい過重に仕事を抱えていて、彼らはいつも苛立っていて急いでいて、そういう人種が多い。再配達が手間でもオプション料金は小遣い稼ぎには割がいいと聞いたこともある。なんだかこいつは諦めない。電気がついているのがわかって、人がいる気配を悟って、そういうことだろうか。いないふりなんかで誤魔化そうとするんじゃあない。お前たちの誤魔化しを、見逃してくれるだろうというのが——許されない。「くわばら、くわばら」渡辺は小声で二度、呼ぶと言うよりは呟いた。


 そういえば、キスをしたことがないな、と渡辺は回顧した。連続に連想する。恋。キスの理由に例えば恋があるとして、ではキスをすることが可能な相手が恋の対象なのだろうか。嫌悪を懐く相手には進んでしたいと思わないのは確かそうだった。頭の中をよぎっていった自分と同じ顔の兄に、舌打ちしたい気持ちがあってもキスはしたくない。考えを改める。最悪の相手をまず想像したことを反省する。極端だった。しかしキスだ。もし、もしも初キスが物語のそれのように特別だったとして、それを誰になら納得できるだろうか。こたつにおでん、酒が入って陽気になった桑原がにこにこ頬を染めていて、要するに彼は酒にさほど強くはない。強くはないが陽気になる。二日酔いとは無縁の代わりにそのあたりの感情の緩み、気が大きくなったりだとか、急に笑い出したり泣き出したり、そういったこともない渡辺にとって羨ましくもあった。それで、そのにこにこしているところの桑原に、直前の疑問を当てはめたのである。

 キスはどうだ?

 桑原と?

 嫌悪は湧きあがらず、それはそれでありな気がした。好意があるのはある意味では当たり前で、家に入れて一緒の鍋をつつくような間柄だ。だからと言って——キス。キスか。渡辺はもう一度考えてみる。初めてのそれが——桑原だったとして——それは——嫌なことか——(ノーだな)。さっぱりと、答えは出た。桑原にキスをしても、嫌な気持ちにはならない。ファーストキスだとしてもだ。ではそれは恋情なのだろうか?友人だと思って接してきた。いつしかなにかの閾値を超えて、もっと違うものになっていたのか。

「君を好いているのは間違いないんだけれど」

「はあ?」脈絡のない渡辺の言葉に桑原が首を傾げるのは、たとえば、それを可愛いと思わなくもない。強引にカテゴライズするとして、だ。

 「まあ、今は僕が君を好いている、ということだけ知っておいてくれれば」

「今はってことは」桑原が酔っぱらいなりに理性をかき集めて渡辺の言葉を吟味しているようだ。悪いことをしたなと思う。

「この先は、なんだ、それだけじゃよくないことにもなるんかね」

「そうだね。でも、今はまだ、解らないな」

「解らんのかい」

「うん。こういうのは、愛だ恋だと言ってしまえれば得心も早い気がするけれどしっくりこない気もする。困るな」

 キスのことを考えていた。桑原の顔をジロジロ見るのは、このタイミングでは不躾に思われた。額、頬、そして唇。

「困ってるようには見えない顔なんだよなあお前は」

「桑原にドン引きされてたらもっと困った顔してたと思うよ」

「かー」

 ここにきて警戒した風も、それこそ、桑原の方こそ困って然るべきであるのにそんなそぶりも見せない。ビールの缶をコトンと置いた。何本目だっただろう。音からすると半分は減っていて、もうへべれけだ。

「酔った勢いで告白。まさかのまさかだよ」

「そこまで酔っちゃいない」

「どうだかな」

 それで唇を尖らせるような仕草をする。なんだかおさないそういう仕草をする癖が——特に酔った時に——桑原にはあって、だから、つまり。(やっぱり可愛いやつなんだな)。そういうふうに結論づけた。

 まあ気にしないでほしいということを続けて、桑原の方が真面目な顔をして友達としての渡辺は好きだとのたまう。素直で裏表がなく、ざっくばらんなようでいて、人の気持ちには割と敏感な男で、桑原はいいやつだ。そこは疑いようもなかった。

(僕がキスをできたら)桑原に?もっとふさわしい相手はいるような気がした。男であれ女であれ、渡辺よりも「いい相手」はきっと居るだろう。そう、そしてその誰かさんは桑原を、けして死地には誘わないだろう。みしみしみし、と遠くでどこかで音がしている。深々と冷え切った氷が打ち寄せて全てを覆う。渡辺は「戦る気」でいる。この一夜の盃は、明日の戦場のための前夜祭である。鼓舞すると言うほどでもないが、覚悟を決めるにはちょうどいい。本来であれば説明を——事情を、桑原にきちんと詳らかにして、そうすべきだとわかっているのにだらだら飲んで、ビールの空き缶、日本酒の空き瓶ばかり増えた。切り出せない、というか、現状に甘えていて、この空間が心地よくて、「篭って」しまいたい。閉じこもって、目も耳も塞いで、そうしてひたすらにじりじりと後退を続けるやつらを心底軽蔑するのに、その心のかけらは自分にも一片ある。逃げて仕舞えばいい。このこたつの暖かさだけ、目先の温もりに安寧してしまえば、辛いことなど後回しにしてしまえる——それではいけない。どうしてもいけない。後回しにするということは、結局問題の先送りでしかなく、それ以上でも以下でもない。例えば「運良く」渡辺のあと何年だか何十年だかの寿命の間中逃げ回ることに成功したとして、それで、それは一種の勝ちだろう。逃げ勝ちだ。自分だけは一抜けしてしまえる。けれども、それでは氷の勝ちだ。圧勝だ。完膚なきまでにヒトを打ち負かす。抱きしめ殺されてしまう。幾度となく、そうした試みは繰り返されてきた。百年、一千年——もっと、もっとだ。そしてまたその度にヒトはそいつを打ち払った。血が流れている。濃い血だ。渡辺に流れるのは鬼斬りの血だ。笑ってしまうような伝説の、大真面目な英雄は、古くに己が斃した鬼を、根絶できていないことまで見抜いた。あいつらはやがてやってくるだろう。営々と力を蓄えて、まったく約束のように現れるだろう。しかし、ヒトの寿命は短くて、英雄はもうそこには手が届かない。それでも何世代にも渡って追うことを決めた。思えばクレイジーな狩人だ。諦めなど初めから排除している。そういうクレイジーさが、渡辺にも受け継がれている。執念深く、周到な相手に対して、自分もまた迎え撃つ。鬼切丸は刀でなくともいい。あの時は鬼だったが、次は、次は、次は——そうして律儀に懲りずにやってくる敵を、いちいちその度に迎え撃った渡辺の一族はなんだかやっぱり麻痺していて、今回は氷か。別にいい。「合わせて」やろう。今回、今度こそは根こそぎにしてやれるだろうか。一滴も残さずに、一欠片も残さずに?一方で、それが不可能なことも知っていた。一定の条件になるまでは、鬼とヒトは共生関係だ。そうとしか結論づけられなかった。お互いに殺し切ったら共倒れになるから、延々と泥試合をしている。うんざりするような茶番である。倦怠したパートナーがドメスティックに争うのが、つまりは自分達の戦いだ。

(——でも、)

 その気になれば、その気にさえなれば、「根こそぎに」できるのではないか。

 相手もそうだし、自分たちもそうだ。

 そのことにだって薄々勘づきながら、最後の一線を超えない最後の戦いが連綿と続く。


 ばかばかしい


「おまえも結局、こっち側の人間なんだよ」

 燦々と降り注ぐ光を背にして、妙に親しみやすい笑顔を浮かべた兄が、少年の姿でいる。おさない二人は共に遊んだり学んだり——しただろうか。したような気もする。それとも、互いにあんまり関心はなくて——嫌いあっているのもきっかけは——どうだったか。意識は散漫になる。覚えていたいことだけをはっきりさせたいから、ほかはおざなりでもいいのだが、薄情と言われればそれまでだ。選んで捨てて、選んで捨てて。兄は選ばれなかった。明白に邪悪だったからである。怪物を倒すものは怪物になることを気をつけないといけない、にしても、はじめから怪物だと言うことがわかっているならばそもそも行かせられない。臍を曲げた彼は軽々と気軽に氷に寝返った。冷たい友だちが彼には似つかわしい。

「おまえも一緒じゃないか」

 にこにこと微笑む。幼い少年は宗教画の天使に似て醜悪だ。

「本気で根こそぎにするために、俺たちが超えられない壁を超えるために、あんな犬っころを連れてきてまで」

 なあ、弟君。

「俺たちじゃだめだ。無論おまえだってだめだ。知ってるだろう、茶番だ。八百長のプロレスを、重々しく使命だとかなんとか口当たりのいいこと言ってさあ。神妙にしてるの笑えんじゃんかよう」

「そんなだからあんたは見限られるのさ」

「ああ、願ったりだね。俺はもっと楽しくやらせてもらう」楽しく楽しくやらせてもらう。瞳の色が冷たく冴えて、ニンゲンであることなんてやっていられない。

「おまえが本気をさ、ほんとうに本気をさ、出すならよう。それはさ、面白いかも、しれねえなあ」けらけらけら、笑い声がどこからか響いている。今の自分達よりももっとちいさな子どもたちの声。けらけらけら、けらけらけら。


 ————————————て、引きずり落として首を狩ると、ざんばらに髪が目にかかって、汗も滴って視界が悪い。わたなべどの、わたなべどの、と呼びかけられて、馬上から弓を射かけた鎧武者が駆け寄ってくる。その一矢がなければ危うかった。渡辺は振り向き、笑って見せた。

「応」

「ご無事であらせられたか」

 かれは渡辺の腕にずしりと重く引っ提げられている首などもう興味を失っているようで、渡辺の方ばかりを気にしている。

「馬をやられた。帰りは徒歩だ」

「鬼斬りの英雄にそれはあんまりでありましょう。己が馬をおりまする」

 言ったが早いかひらりと降りた。それで手綱を渡そうとしてくる。「ああ、首桶を。むん、入りますかな」手をあかそうとしてようやく手元を見て、「荷」を受け取ろうとした男は、戦果が思ったより大きかったもので、手持ちの首桶に収まるかどうか心配する。渡辺は妙に可笑しく思えて笑った。ははは、と思ったより大きく陽気な声が出て、戦いの昂揚の余韻を感じる。

「御見事でございます」武者は膝をついた。渡辺はそういうかれに対して、しゃちほこばるなと言いたかった。

「貴様の弓の腕前を、間近に、誰よりも間近に確かめたぞ。私一人の功績ではない」

「勿体ないお言葉です。未熟者の、がむしゃらな一矢でございましたが、報いられたのであれば師にも顔がたちます」

「せいぜい自慢してやれ」

 頬を掻いた武者は、渡辺より上背があるがまだどこか顔立ちに幼さが抜けなくて、褒められて喜ぶのが一層素直に表情に出る。好ましいと思っていたので、渡辺は口にはしない。武人として威厳ある佇まいをしたいであろうから、そうすると悪気はなくても侮辱に取られるのもなんだった。

「おお、日が昇りますな」

 山の頂に近いところにいる。開けている場が、戦いの後で余計に、邪魔になるような木立らが一掃されてしまっていて、朝日を見るにはうってつけの具合だった。月が星が西の空に引っ込み、東から光がせり上がり、あまつかみの刻限であることを知らせる。渡辺はだらりと両腕を下げ、目を細めた。この瞬間は気にならない疲労は、半刻もすれば気の落ち着きと共に重くのしかかってくるだろう。厚い脂肪とふとい骨を斬って砕いた名刀も、刃こぼれがひどく血と脂まみれだ。

「むなしいものだ——」

 零れ落ちたその言葉を、しかしもう一人の武者が聞き付けていて、なんだか狼狽えるような唸り声を出した。

「渡辺どの?」

 鬼退治の英雄となった人が、敵の首を獲って「むなしい」とはいかに。そうだろう。武者として正しい。誉を取ったのだから、喜ぶべきところだ。主人にも、民にも、ふんぞりかえっても礼を尽くして迎えられるだろう。どんな褒美を求めても首を横に振られることはないだろう。財宝だろうとおんなだろうと、なんだろうと——それがどうした。

 ふっと首を振って、渡辺は朝日を眺めやるのをやめた。せいぜい五回も深呼吸すれば、朝の山の空気などありがたくも思えなくなる。早々に下山してしまいたい。差し出された首桶に、鬼の首はぎゅうぎゅうだった。なんだかぶよぶよのただの肉塊であって、生きている時も醜かったが、なお醜く見える。視界から遮ってしまいたい意味でも蓋をしたくて無理に押し込んだ。幸い桶が割れることはなく、鞍に括ってしまう。刀の方はいかに血ぶりせどもこうなるとどうにもならない。刀鍛冶に任せるしかない。——鬼切丸は、よくやった。その役目を全うして、与えられた名の通り鬼を切ったのだから。渡辺自身よりもよほどこの刀になにかしてやれることもないかという考えが訪れたが、齢経て物が魂を持つことがあったとして、鬼切丸が「そう」であって、言葉でも発さないことには希望はわからない。立派な拵えでも与えることは、たとえば女人に衣を与えるような意味を持つだろうか。わからなかった。

「貴様はどのような褒美を望む」

 だれた声でなんとなく問うてみると、武者は驚いた様子で目を丸くした。

「己でございますか」考えてもみなかった、そんな声だった。かれには、かれにとっては鬼を打ち倒すことそのものが誉で褒賞であって——ただ愚直に、そう思っていた様子で、ほんとうに素直に考えていなかったようだった。「貴様も十二分に働いた。なんなら、私からもお上に取り計らうし——」顎に手をやって少し考えた武者はしかしさほど迷いはせずに顔を上げた。

「では、湯治でもいかがですかな」

「温泉が好きだったのか」

 ぐったりする前に譲られた馬上に上がり、会話は別に妨げにならない。戦は済んで、凱旋なのだから。

「湯殿に浸かって、酒を酌み交わしましょう」

 渡辺は武者を見た。なにか命令でもあるかとすっと言葉を控えたかれに、不思議な気持ちで尋ねた。

「私も行くのか」

「行かれませんか。湯治はお嫌いですか」

「いや」

 背中に朝日を感じる。首桶がつくりの想定外の大きな荷物を詰め込まれて不機嫌に軋んでいる。渡辺は血と汗に塗れていて、つまり、とても、すっかり——

「そうだな。湯治にしよう。名湯を巡って、うん、私は雪がみたい。雪見酒だ」

「よいですな」

 からっと笑った。

 かれは。


 宇宙でふたりして氷に押し潰された「ドッペルゲンガー」は、果たして不幸だったろうか。死ねば終わり。敗北という意味では決着がついて、氷は「最後の一口」だけ残して人類を凍てつかせて食い尽くす。

(でも、ひと口は残すなら、それを知ってるなら、結局、縮こまっている奴らはそれで正しいんじゃないかって——)

 渡辺たちが今氷を倒せば何百万かが助かるとして、氷にやられても百は残るのだろう。——それで——べつに——

「渡辺!」

 頭に響く声はしっかりしていて、首を振った。いまさら——今更だ。そう、そのために、だから、で、あるからこそ、桑原だ。

 鏖殺しよう。

 鏖殺しよう。

 鏖殺してやろう。

 てごころをくわえずに、一切の躊躇なく、一部の隙もなく。

 それは渡辺たちが、それに連なる「英雄たち」が成し遂げられなかった、「最後のひとひら」だ。みなごろしだ。根こそぎに刈り取って、再び蘇ることはけしてない。けしてけしてない。祖先の血の悲願にして、最も恐れた失敗。そいつを超えて、台無しにしてやろう。

 横っ面を——殴りつけ——すべての。

「渡辺!」

「わかってる、桑原!」

 氷にはもう後がない。表面のひび割れが顕著で、修復も追いついていない。砕け散るのはもうすぐだ。兄が目を血走らせてこちらを向くのがモニタの一つには映し出されているがどうだっていい。腕がちぎれて飛んでいてもあれはもうヒトではないし、ヒトであることを辞めると自ら宣言していたのだから本望だろう。庇い立てするように氷の中心あたりに張り付いているのが笑えた。兄の背中にひび割れが集中線のように集まり、ステンドグラスが割れ剥がれて落ちるように降りかかる。——核があるのだ。一蓮托生だから、兄はそれを守らねばならない。それだけだ。それだけで——

「おい——」

 もうほとんど回避は必要なくなっていて、「重い」一撃を重ねていた鬼切丸の、そのコクピット、運命に共生する桑原の声が感情を伴って揺れる。あちこちが欠けた兄の背中にそれが見えている。

 臍の緒も取れてない赤ん坊。いや、臍の緒で氷に繋がっている。

「渡辺——」

 動揺が直信する。あまくてやさしい男だ。桑原は、気の優しい、ほんとうは、そういう——だから、渡辺は彼を——それなのに——連れてきた。

「エイリアンの心臓があると思ってた?」

「——いや」

 桑原の返答が揺れた。

「みてくれだけだよ。同情を誘う手段だ。ああいうのは——」


 渡辺にそっくりの見てくれの男が、満身創痍で背後の赤ん坊を守っている。自分達はそれを粉々に押し潰そうとしている——


「いいんだ、桑原、君がそんなに気にやまなくても」渡辺はやりきれない気分になった。好戦的な性格というわけでもない、一般人に、この状況は精神を濁らせる。過ちだったろうかと再度自己に問答した渡辺は否を出す。それでも、桑原以外をこのいくさに伴わせることは考えられなかった。でもそれは十割渡辺の都合だから、桑原にこのまま赤子を縊り殺せというつもりはなかった。鬼切丸の操作系はもともと渡辺がリードを取っていたが、一呼吸して桑原が知覚できる外部モニタを全て切った。

「渡辺?」

 リアルな風景は全て消えて、平たい盤面とオブジェクトにデフォルメされた戦況の3Dを映す。的を狙うには十分で、余計な情報は入らない。「おい——」。(しくじったな)。一瞬でも見せるのではなかった。別に核が赤子の姿をしていることをあらかじめ知っていたわけではないから不可抗力と言えばそうだ。にしても、かなりの「ダメージ」だ。兄は内心せせら笑っているに違いない。(そういうところ、そういうところ——)つけ込んで、つけ込まれてしまう。

「桑原」

 渡辺は冷静な声と、揺れない感情を意識した。

「ああ言うのも、戦術だ。戦術というのにも足りない。なんていうか——」

「わかってる」

 桑原は先取るように言葉を繋いで、べつに虚勢をはるでもなく落ち着いていた。

「ぜんぜん、べつに、あんなの、あんなものでいまさらだ」

 心の動揺こそが細やかに伝わる状況だからこそ、不気味なほどに桑原は平坦だった。「いまさらあんなものに惑わされない」


 ひゅうっ


 耳元で矢羽が鳴る。渡辺の耳をすれすれにして、的確に敵を狙う。その時射手は己の腕前を過不足なく信頼しており、渡辺にその矢はけして当たらない。(おい、邪魔をするなよ)騎馬武者二人の影を追い払う。あんな朝焼けも、今の自分達には関係がない。そんな感傷に浸りたいのか、己の血が?

 渡辺の胸中で揺れるものがあるとすれば、そういった不慮に訪れる祖先のなんらかの断片であったり、却ってそれは厄介だった。血に残っている。細胞に残っている。遺伝子に残っている。かつて相対した、斃してきた鬼。そして——傍にいつもいた「誰か」。弓を射った幼顔の武者は桑原ではない。しかし、鬼を切った武者渡辺が振り向いて、現在宇宙の渡辺がその思い出を掠め見る時、かれの顔は桑原のものになってしまう。

 あるいは、超古代文明の精神体での激戦。そこでもやはり、渡辺の隣に「いた」のだ「かれ」は。「渡辺、どうした」

 動揺が振動する。桑原がいぶかっている。彼自身はそれを知らず、彼は全員別人だ。そのはずだ。いつも、渡辺はいつも、自分にとってのただ一人を選ぶ。それが、それまでもが、ただの「渡辺の性」であったならあんまりだ。自分で選んだ気になって、じつは選ばされている、刻まれている通りにしか動けないなんてあんまりだ。

「おい、渡辺」

 不意に、操縦のリードを持っていかれた。一瞬混乱して渡辺は息を呑んだ。「なにを動揺してやがんだ。余計なことだろう? 大丈夫だよ、俺はあんなのに、騙されてもやらないよ」

 違う、そうではない。そうではなくて。

 考え込むのは危険だった。精神的に高度にリンクした状態で、全て晒してぶつけ合っている場合ではない。

「わかってる。ありがとう、僕のほうが不甲斐なかった」

「悪趣味なのは違いねえけどな」

 臍の緒のついた赤ん坊、血まみれにも守って張り付く兄。どちらが悪に見えるだろう。


 忌子と言うにも古臭い。

 討伐には絶対に——必ず、かならずだ——二人、必要だと聞いていたから、生まれた時から二人揃っていた自分たちはいっとうに特別だと思っていた。着るもの、住むところ、食べるもの、成長の速度、全てが同じ。同じだった——筈だった。弟が冷ややかな目で見ている。こどもっぽい趣味を無断で始めたから、全部捨ててやっただけなのに。

 ——一緒に鬼を斃すことが自分たちの全てだ。

 それ以外いらないから、俺のこと以外を見るんじゃあない。

 足早に去っていく、弟が去れば、周囲の大人たちも、他のすべても、だれも自分を見向きもしなくなった。どころか、失敗だの、鬼子だのと囁かれる。鬼子というのがまた傑作だった。

 散々に鬼を斃すのだと言含めておきながら、掌を返すのもいいところだ。

 いいだろう、それなら、それなりに期待に応えよう。むしろおかしいような気持ちになった。鬼になって、反旗を翻そう。

(先に裏切ったのはおまえらじゃあないか)

 氷は誰よりもそばにいてくれた。かつて繋いだ手の温度をもう覚えてはいない。鋭く睨まれた絶対零度だけ覚えておけばよかった。

 氷が、寒さが、自分のはらからになった時、価値観が覆り、うじうじと傷つかなくて良くなった。傷跡からは血も流れない。全てを氷が凍らせてくれるから、なにも感じなくて良いのだ。してみると氷は心地よい道連れだった。

 これから、全てを凍らせていく、全てを覆っていく、愛しい連れ合いは、ひたすらに隅々までを隷下に置いて静寂の世界を作る。居住区の腰抜けたちはすこしでも時計の針を遅らせるためにあれこれと滑稽なものだ。氷そのものに対する手立てを持たない。彼らはむしろそれを放棄した。

 兄弟が揃ったままであったなら、鬼切丸が振るえたろうに、その可能性を自ら潰した。

 しっぺ返しをくらってなすすべない小さな存在を消していくのは気持ちがいいことだ。

 それなのに——それなのにだ。

 鬼切丸は動いた。

 鬼切丸は、渡辺の血と、もう一つの異物をつれてやってきた。

(俺の席を誤魔化して埋めやがって)

 二人乗りの鬼切丸!

 一人ではどうしても動かせない。

 その一人を捨てて、補充をしてきた、そんなことが許されてはたまらない。

 渡辺の血がいつだって、鬼切丸を振るってきた。それではあいつは何者なのだろう。

 ああ、そうかあの日あの時、弓を打った。

 首桶を持ったなあ。

 ある時は、別のある時は——

 根本的なしくじりは、渡辺にはつねに双子がいた試しの方が少なかった。替えは効いたのだ。

 だから、あっさりと捨てられた。

(でもよ、忘れちゃいないかい——)

 すげ替えが効くのなら、それは、弟だって同じことだ。


「おまえはそんな顔をしていたのか、雪女」

 ほぎゃあほぎゃあと赤子が泣く。体温はない。どころか周囲のものを凍て付かせていく。悪意はない。作意はない。ただ、そういうものであるから、そうしているだけだ。人間が息をするように、息をしなければ死んでしまうようにそうする。

「よしよし、よしよし、俺はお前を見捨てないよ。なにしろあいつらのほうから俺を捨てやがった。同族同士、仲良く傷を舐め合おうや。いない方がいい、隠した方がいい、壊した方がいい、殺した方がいい。そんなことを言う奴らは全部全部、凍らせて、永久凍土に閉じ込めてやろうぜ」

 ほぎゃあほぎゃあほぎゃあ。

「だって俺たちにはその資格があるだろう、理由があるだろう、権利があるだろう。俺たちはちゃんと愛してるのに、そんなものはないと突き放したのは向こうだ。間違った愛だと決めつけたのはあいつらだ。挙句にシェルターに引きこもって——心の扉を閉ざして、そうまでもして、お前から逃げたいのかな」ああ、と彼は言い直した。「今からは、俺たち、だな。よろしく新しい相棒。いとけない妹、運命の花嫁。近いのキスは流石にまだ早いかな? よしよし」

 赤ん坊はふくふくとした頬をしているが、抱く腕から凍てついて折れて落ちていってしまいそうに冷たい。薔薇色にほど遠く青ざめた、最初から死の中にある生である。

「滅ぼされるなら滅ぼし返してやらなくちゃな。仕掛けたのがどっちかなんて、叩き合いになったらそんなのは勝ったやつの理屈が通るに決まってら」機嫌よく呟き、白すぎる頬を指でなぞる。指先は壊死を始めている。抱いていてやることもままならない、生身の人間のままではそうだ。だが、一切捨てるつもりであるので問題にならない。だいたい、氷の寒さに包まれ切って仕舞えば痛みなどは感じないのだ。齎せるのは優しい死だ。そうだ、まぬけな「こたつ死」なんかよりも、尊くて優しい。真実の優しさだ。平等で、一切の容赦なく注ぐ。

「皆々負けるまでは勝つ勝つから勝ち戦だと信じる。次もその次もそのまた次も勝ち戦だと信じてる。英雄っていうのはそういうもんで、そうだから勝つ。負けたらそこでおしまいで、英雄でなくなる」

 独り言を延々と呟いているようでいて、腕の中の赤子は耳をそばだてて彼の言葉を聞いている。慎重に値踏みしている。異種の、鬼斬りの一族の、怨敵の一族であるはずのその男が本当に己に身を翻すことがあるのかどうか、それ以上に、愛を語るのが真実であるかどうか、それにとって、求めて求めてやまないものを、彼が持っているのかどうか——

「ゆりかごの中でしくじったと、産まれたものが胎には還れないのだと、ぎゅうぎゅうに、ミンチになるしかないってことを、思い知らせてやろうぜえ」


 りんりんりん——


「ああ——いいとも、持っていけよ。俺の心臓くらい、なんとでも、契約の証にどうぞ。お目が高いな、こいつは——見る目のないやつが投げ捨てたが、なかなかいい出来の細工なんだぜ。優しく頼むよ」

 ノータイムで氷柱が胸を貫いた。男は口から溢れる血に構わずにっこりとした。赤子は肺を避けたし、そもそも——この一撃に「痛み」は存在しない。

「いいねえ、ゾクゾクするよ。一緒にいいことしようぜ、お嬢さん」

 よしよし、とあやす指先は壊死の黒ずんだ色から肌に近い、しかし肌にしては妙に白い中途半端な色に落ち着き直して、彼の爪先から髪先までがパキパキと小さな音を立てて変容していく。背筋を悪寒が這い上がって、それは受け入れるべきものだ。変容、それよりは進化と呼びたい。まさしく新たに生まれ変わるのである。それは性的な興奮、その絶頂に似ていた。今、まさに一つにならんとしている。「いいね、情熱的だ。いいぜ、探れるだけ探ってくれ、気が済むまで」形而上の存在に産まれ直して、負けを喫して敗走してきた、過去のすべての鬼たちに替わり、此度この戦では英雄たちを叩き潰す。完膚なきまでに——そうして、もちろんその恩恵に、英雄の勝利にフリーライドしてすまし顔で日常にぶら下がっている人類全てを、皆殺す。鏖殺だ。鏖殺しよう。氷の鬼姫は優しく、どこかで人を恋しがっているから、いつも手心を加えて結局——敗走し、潰走し——人間などよりもっともっと優れた生命であることからの「仏心」で、学芸会のヴィランを引き受ける。斬られ、射られ、謀殺される。その物語で最も陰惨に踏みつけられて惨たらしく血を流しながらも拍手喝采を受ける。そうとも、常に敗北する敵、それだけが求められている。英雄を英雄たらしめるのは、その行いであり、華々しい戦果である。獣の首では足りない、その辺の民の首では足りない、大将首でも足りない——では鬼を獲ろう。(おまえたちがただ、正しく勝利していられるように、ずっとずっと、負けに負けていたやつが、負けっぱなしでいたから調子づいて、世界を覆って、欺瞞を吹聴して、それでいて被害者ヅラして縮こまって震えている)心臓を貫いた氷から、冷え冷えとした絶望の、深淵の心が染み渡っていき、必死に手を伸ばす赤子のその狂おしいほどの呼びかけが、いつもいつも確かに跳ね除けられてきたことに頭に来て——冷えた。自分のために怒らなくていいと、優しい赤子は実に見事にクールダウンしてくれる。

「冴えざえと、最高の連れだよ。俺はもうおまえに首ったけだ」


 りんりんりん


 人間の音域にない言葉がよりクリアに聞き取れるようになる。胎の底で煮え滾っていた暗い怒り、暴れ馬に追い立てられているような焦燥は鳴りを潜めて、代わりに荘厳な氷の世界の入り口に立っているのを感じた。みなひとしく凍っているから、平等で公平で、ただただひたすらに——鬱蒼と絶望していられる。責め立てるものはなく、無言でいれば人間の耳には痛いほどの静寂、実のところ底冷えした世界の澄み渡った空の住人たちの騒めきに満ちた世界。一人であり万人である、赤子の眷属で埋め尽くされ、いまや自分もその一員である。「寂しかったろう」そう呟いた声がやはり、りんりんりん、と鈴のような微細な振動で仲間たちに語りかける言葉になる。寂しかったとも。口惜しくあったとも。恨みに思ったもの。あの人間たち、暖かな世界に、偽物の箱庭に籠ってまで自分たちを否定するものたち。凍えながらに愛しく抱きしめようと追い縋って、一向につれなく足蹴にされ続けている。

「いいじゃあないか、俺がいるよ」

 疑問を抱く音が鳴った。

「もういいじゃあないか。百万の人類がお前を、お前を愛さなくても、俺が抱きしめていてやるよ。引き渡した心臓にかけて誓うよ。離れないで抱きしめて口付けて最後まで付き合うよ。滅ぼし尽くしてもそばにいるよ。それで——英雄の手から、くそっくらえな英雄だとか言う奴らから、お前を守るよ。俺が、この俺が」

 冷えた頭での静かな告白を、喜ばしく受け止めた氷が、透明で濁りのない、全く嘘の入り込む余地のない無垢な心で応えてくれる。結局、与えられなかった愛を与えられたのはお互い様で、この瞬間固く契った「元」鬼斬りの一族と氷が手に手を取り合い、後のことはもう何一つどうでも良かった。

「ちょっと不便だ。お前を呼びたい。お前の名を、紅葉としよう」


 紅葉狩りというのがあって、風流なのだと言う。

 風流というのはなんというか、含蓄があり、格好良いというか、もうすこし硬いが「深い」ような印象がある。紅葉はわかった。もう咲かなくても、色づくことがなくても、春夏秋冬は人々の記憶に残っていて、秋、真っ赤に山袖を埋め尽くす舞い落ちるそれを観覧する習慣が昔にはあった。にしても、紅葉を狩るとは穏やかでない。どうして狩りなどと言うのか、と素直な心持ちで尋ねたら、鬼だよ、と教えられた。紅葉は鬼女の名なのだ。山に棲み、狩られてしまう紅葉とは、あわれな鬼女のことであるのだという。そうして一緒に語られる英雄たち。どのように勇ましく、強く、鬼を狩ったのか語られ、演目として披露され、連綿と伝えられる。(紅葉はなにか悪を働いたのだろうか)(紅葉は狩られる理由があったのだろうか)そのような疑問を持てば、尋ねた相手であるところの——渡辺のものは言うのである。「鬼は敵でございます」。敵。かたき。仇。では、それに値するものを渡辺の一族は奪われたのだろうか。鬼に、例えば何かを、宝でも、命でも。「ご下命により渡辺は鬼を斬ってまいりました」。そんなつまらない、くだらない、自分の意思ですらない。いつぞやの貴人の、いつぞやの命令に、百年万年と従っているのか。そんなものをありがたがって、渡辺の名を名乗るのか。疑問すら持たないことに不気味を覚えた。軽蔑を覚えた。考えることをしない。停止したままで役割だけを後の世代に重々しく引き継いで、鬼を斬っては栄誉を与えられる。「与えられる」のだ。どこまでもどこまでも渡辺は犬だ。走狗だ。自らそれを選んで、それらが血筋を繋いで現在の自分にまで及んでいる。ある意味では見上げた執念ではあるのだろう。怨念かもしれない。しかし一方で、兎角、ご大層なお題目をいくら説かれようとも、渡辺の一族が皆口揃えて言う「鬼斬り」は、ようするにただの惰性なのだ。惰性で追い詰めて、惰性で斬っている。敵と定めているから、触れ合ってみることを思いつきもしない。いや、思いついた時点でまた、その者は渡辺から排除される。一塊になった使命感の連帯は、異物を許さない。そうやって、いくばくかの落伍者は消えていったのだろう。あるいは——あるいは、渡辺以外の人間に溶けるより、鬼に溶けていった者もきっとあったろう。一歩踏み外せば、最も近いところにいるのは彼女なのだ。

 あの日、家を去る朝、音楽が聞こえた。弟が目覚ましにしていたペール・ギュント。

 るるる るるる るるるる るるる るるる るるる るるる——


「結局のところ——」

 亡霊が枕元に立つように、兄の囁きは自分の頭の中からする。この時、二人同時に聴いている。

「俺たちは——べつに——今、お前らを殺しきれなくても——そうそう、頭を冷やして、退がってもいい」

「敗北宣言かい。殊勝なことだね」

「違う。まるで違う。というか、本当はお前だってわかっている、弟くん」

 渡辺の、存在と非存在の間の体が揺れている。つっと汗が伝って、コンソールを叩き続けていた手の動きが鈍る。

「お前の——お前たちの次の英雄はいつだろうな。鬼切丸を振るうのは誰だろうな。はっきりしているのは、今は、お前たちが握っているから、他の可能性はない。鬼切丸は同時に複数を選ばない。お固くて大真面目だ主人は常に一人。ん? 二人かな」

「なにが言いたい」

「決定的に、氷とお前たちは違う。ニンゲンは違う。そりゃあ、ゴキブリ以上にしぶといのは認めるが、それでも、長い長い年月をかけて、俺たちはお前らを皆殺しにできる。俺たちには時間がある。お前たちが爺さんになって、孫の代を繋げるかどうか怪しいもんだが、俺たちはお構いなしでいられる。未来を掛けてゆっくり潰す」

「結局、それでいつもいつも敗退してきたんじゃないのかい」

「否定はしないさ。いつもすこしの手心で、今一つ殺しきれていないのがお姫様のご機嫌次第たまたまでな——だが今回は俺がいる」


(兄さん、兄さん、何をしているの。)

(蝶だよ。羽化に失敗したんだ)

 ぐしゃりと手を握って、兄の手で蛹が潰される。

(なぜそうするんだい)

(夢を見ているかもしれない。こいつは蛹の中で羽化する夢を見ながら死んじまって、ずっとずっと蛹のままで夢を見続けるかもしれない。実際にはもう羽化することはないのにな。だから潰してやる。お前にもう、未来なんてないと——)


 猛烈に、桑原は腹を立てていた。メランコリックな「兄」の言葉は時間稼ぎで詭弁で、弟に付け込もうとしているだけだ。そうやって、そうしてまで生き残って、そうだろう。言う通りに鬼斬りの子孫に重々気を払いながら、できるだけ丁寧に、ゆっくりと隅々までくびり殺して、気の長い勝利を得るのかもしれない。人間の寿命のたかが百年そこら、体が自由になるのはもっと短い。その間は逃げ隠れして、渡辺が——あるいは、カウントされているのだとしたら桑原も——いない世界で氷が勝利する。一時の茶番で見逃してもらえることを学んだならば、容赦無くそのカードを切って逃げ切ってしまうつもりだ。モニタを切り替えたと同時に精神の干渉度をギリギリまで下げたその一瞬の渡辺の心情を、桑原は嗅ぎ取った。あの赤子に手を下すことにひどく動揺して、そんなことに悲しく思った優しい心の持ち主は、渡辺の方だ。拳を握って叩きつけたくなったところに、そっと上から手が重なる。半分透けた手は、自分のものでなく、しかし渡辺のものではない。複座の操縦席はしかし二人用で、その後ろに三人目の席はない。はずだ。それなのに後ろから何者かの息を拾う。

「熱い心は良いものだ、若者」

 顔は見えない。しかし、耳の真横で囁かれているように近い。張りのあるテノールで、自信ある口調である。重なった手の輪郭も桑原より一回りも大きかった。

「おまえのまっすぐな心根は小気味良い。それでなくては、それでなくては」

「ドッペルゲンガーの次は幽霊か」

「そんな曖昧模糊としたものにしてくれるな。私は——そうだな。ある時は弓、ある時は盾、ある時は槍。傍に添うもの。英雄は孤独だ。しかし、それだけでは悲しいだろう?」

「いやぜんぜん判然としたものにはなってねえですけど」

「うん、肝の座り方も良い。今代の渡辺の目は確かだ。信頼できるものをきちんと選んだ。選ばれたからには応えねばならんだろう? そう思わんか」

「発破をかけてんのか邪魔しにきてんだか、なんなんだあんたは」

「渡辺は、いま大きく傷を負った。会心の一撃を喰らったんだ。あの優しい男のことだ。それは、おまえのほうがよく知っているだろう」

「どの立場からものを言ってるのかわかんねっすけど」

「私はおまえだよ」

「やっぱりドッペルゲンガー?」

 インスピレーションだ。と奇妙な男の声は言った。

「いつもいつも、いつだって、鬼切丸を振るう英雄は、一人であったわけではないのだ。たった一人でただ鬼を刈り取るのであれば、それは、そうだな——そういうのは、人間から、やはり、外れていってしまうのだ。だれかがそばにいてやらなければならない。私でも、おまえでも。ただ私は渡辺のように血を繋いできたわけではないからな」

 だから、インスピレーションだ。と繰り返した。

「印象だけが残ってる。いいか、閃きも、霊感も、それは歴史あってのことなのだ。あるただ一人が思いつき、そのただひとりが誰にも話さず伝えず見せず、死んでいったならば、繋がっていくことはないのだ。常に、伝えられたから『印象』が残っている。それが我々流の永遠なのだ」

「ご高説がなんか色々あるみたいですがさっぱりだし、俺は今忙しいんすよ」

「ここで何人のおまえたちが『詰み』になったかわかるか?」

「は」

(頼む、頼むぞ——)ドッペルゲンガー。過去にメッセージを残し、おそらくは敗れた。それはそれらのふたりもまた、自分たちではあったのだ。

「宇宙の藻屑になり、そして居住区は氷に包まれる——」歌うような物言いだった。そういう演目があって、なんだかよくわからないがオペラとか——そういうのだ。そういうのの一場面を朗々とする、不思議なテノールにはそういう空気がある。

「結局邪魔しにきたってことで良いんすかね」

「そう結論を急ぐなよ。私は、鬼斬りではなくて、その傍らにあるものの——」

 インスピレーション。インスピレーションだ。

「今、渡辺は目が曇っている。心を痛めた故に、狙いが定まっていない。それはおまえがカバーせんとな」

「つったって、ほとんどの操作はあいつ任せですよ」

「ふん。私に言わせればまあ、付喪神に直談判すれば良いのだ」

「つくもがみ」ほとんど呆れた。付喪神、という単語は知っている。しかし——

「たまたま今生ではこんな形をとるとはいえ、鬼切丸ははるかはるか昔から、常に鬼斬りの人間とともにあったのだ。魂くらい宿らんでいる方が不思議だ」

「そんなもんすか」

 半ば投げやりな気分になって、桑原は見える範囲での計器の類をチェックする。それから時計。何十秒、何分経った。その間が「停止」であったなら、痛恨の隙だ。氷は容赦なく鬼切丸を覆い、流石のこの機体も幾重にも閉じ込められてしまっては——。

「心配はない」

 心を読んだように、男の声は落ち着いていた。

「ここはおまえと私の虚空間だから、ほかの時間とは関係がない。一瞬にも満たない。最悪数秒を要したとして、それくらいでは渡辺は潰れない。おまえも知っているだろう。——ああいや、すまん。私よりもおまえが知っている」

「それで」

「だから、付喪神に。鬼切丸自体におまえが直接語りかけろ。あるじが鈍るようであれば、切れ味も鈍る。鬼切丸はそれでは不安だ。だが鬼切丸にもインスピレーションが残っているから、渡辺が少々自失の時間を要したとして、私たちの積み重ねが、その時間分少々肩代わりしてやることはできる」

 桑原に重ねられた手が、心なしか濃くなった。

「私が手伝ってやろう。結局のところ、鬼切丸に必要なのもその確信だ」

 おまえは一人ではない。

「ずいぶん、なんていうか——」

「子どものようで、感傷的で、そんなふうに思うかな。でも案外、案外、つよいモノは反面に弱さを抱えている。完璧な強者は存在しない。たとえ——鬼と鬼斬りであっても。天敵だ。鬼は人間の天敵。鬼切丸は鬼の天敵——」

 いちいち歌うような言い回しは気になる。友人だったらちょっと距離を置きたいと言うか、気に食わない、の一歩手前にいそうな相手である。桑原は耳元に声を聞きながら、その方に顔を向けようとか、確かめようと言う気は起きなかった。そいつがどんな顔をしていようと——あるいはまたドッペルゲンガーであろうと——別に構いはしない。

 それより、渡辺がメンタルを揺さぶられたことで攻撃の手が緩んだに違いない鬼切丸と、その隙を見逃すはずのない氷たちが気がかりだ。

「そう、そうだ、それでいい」

 声が上機嫌になっていくのもなんとなく苛ついたが、怒りを向けるべき相手は目の前の敵だ。もうあとわずかなところまで来ている——はずだ。核を見せて、ぼろぼろで、情に訴えかけるなりふり構わない態度。

「ほら、鬼切丸にも語ってやれ」

 鬼切丸にずっと触れている。感覚を共有している桑原と渡辺をそもそも繋いでいるのが鬼切丸だ。

 桑原はため息を吐いた。

「自分はまだやれると言ってやってくれ。おまえを奮ってやって、振るってやれると信じさせてやれ。ナイーブな武器なんだよ。そこをさあ、おまえがカバーしてやらないとな」

「あんたはほんとうになんなんだよ——」

「何度も言っている。インスピレーションだ。過去から——あるいは未来から。お前に伝えるために繋いできた誰かの執念だよ。なんでもかんでも一人で背負おうとする英雄を、おまえが一人になってはいけないと教えてやるのが役目だ。打ち取った挙げ句の果てに、鏡の中の天敵を失った果てに、返す刀で自らの喉を突くような危なっかしい英雄の、俺たちの大事な友人を、連れて帰るのが俺たちの仕事だ」

 死んでもいい、だ。

 怨敵と踊るように戦う渡辺の中にある、「死んでもいい」。皆殺しにする代わりに、己くらいは差し出していい。そんな時だけ勘定を一人分にしている。

(ふざけるなよ。最期まで、俺は、)


 僕らきっと、どこまでもどこまでも——


 南十字星で讃美歌が鳴っている。

 手を振ってなんかやるもんか、カンパネルラ。お前の死は美しくなどない。ただの残酷だ。役目を終えたらはい終わり、なんて確かに潔くってなんだか素晴らしいことみたいでも、そんなのは欺瞞に過ぎない。

「帰って、鍋するって決めてんだよぉ。それしきのことと思うか、鬼切丸。なあ、それしきのこが叶えられなくて、なにが英雄だよ。一人の犠牲でとか、トロッコがどうとか、俺は知ったこっちゃあねえんだ。鬼切丸。おまえが鬼を斬る刀なら、あいつの胸に取り憑いた分も斬ってやってくれよ。そのくらい、朝飯前だろう」

 そうとも。

 ひとのこころとはかようによわいもの。

 で、あるからこそ。

 で、あるからこそ。

 鬼切丸はひとをあるじとさだめる。

「頼もしいねえ」

 重なっていた薄い手が溶けて消えた。

 閃光が走った。

 稲光が、コンマ以下の時間を切り裂き、桑原に激励を送った男との虚空の時間は「無」としてカウントされた。

「渡辺! スクリーンを戻せ!」

「桑原?」

 目の端に光のしっぽが消えていくのを見送りもせずに、桑原は渡辺を見定めた。

「君はなにかしたか? どうしてだろう、なんだか心が軽いんだよ」

「そいつは良かった」

「君のおかげなんだろう、それは、わかる。君と——鬼切丸のおかげなんだろう」

「よくはわからん」

 知ったかぶりをしてもどうしようもないし、ハシから桑原はわけがわからないままにこんなところにまできて、こんなことをしている。いっそ笑えるのは、桑原の余計な苛立ちまで鬼切丸は斬って捨ててくれたのだろう。

「モニタ類を全部戻してくれ。狙いが定めにくい」

「ああ。あいつらまだなにかする気かな」

「その気だろうな。俺たちに、引きずってくような、そんな一撃を与えられたらあれらの勝ちなんだろう」インスピレーション。永遠の一つの選択肢——。

「粉々にしてやろうと思ったがどうかな。まだまだ、かな。溶かしてしまうのはどうかな。まだまだかな。なあ、渡辺、どう思う。どうすれば殺し切れる」

「心中する気はないんだけれどね。結局千日手を狙ってるのさ。長く長く——気の長い奴らだよ。それが強みで——強みだったのに、わざわざ兄なんて取り込むから、焦ってる。人間の焦りまで取り込んでしまって、自分の優位を無意識に疑ってしまっている。これからの百年を一千年を、嘯きながらも」

 ふと、足元を見てしまった。

 そこには深い深い谷があり、長い長い道がある。

 永遠を渡る方法を、呼吸のように諒解していたのに、それを「意識して」しまった。

 脇目も降らずに追い続けてきた道程、その道のりの永さ、そして——これからもゆくことになるかもしれない時間。

「アドバンテージで、有利だと思ってたことが、足枷になる。ここで僕たちを一旦退けても、殺しきってしまっても、その先の永遠について考えている。いまごろ兄が口説くのに必死だろうね。自分さえいれば問題ない、問題ないってさ」

「——兄貴の方はきっと本気なんだろうな」

 渡辺はその瞬間すこし黙った。

「——そうだね」

 それは、渡辺を見ていればわかる。渡辺は、桑原がいれば耐えられてしまう。そう、ずっとずっと、一緒にと、物語になぞらえる言葉を何度も発している。だからこそ弱気になりもした。英雄が本当に恐れているものの正体を今の桑原はもう知っている。

「兄貴を哀れだと思う必要は別にねえよ。自分で選んだ道だろう。おまえが道連れに選んだのは、鬼切丸と、俺だろう」

「そうとも」

「あれはおまえの、俺たちの、弱い心そのものなのかもしれないな。怒りだけでも、悲しみだけでも、ほかになんだろうな、恨みとか? ひとつこっきりでなんとかなる——そんな時もきっとあるんだろう。百年が一晩で過ぎることもあるだろう。でも、いつまでもそれじゃだめだ。いつまでもいつまでもそうしてはいられない」

「蛹は——羽化できるだろうか?」

 抽象的な物言いを渡辺はした。思考連動のせいで、彼が何かを連想して、その、走馬灯の一瞬を切り取ったような感傷がわずかに流れ込んできた。しかし、無遠慮に踏み込んでいい領分ではないと判断し、意図的にそのスクリーンはデリートした。

「すると思った時にはしてるようなもんなんだろうと思う。眠る時、ちょっと不安になることがあるかもしれない。次は目が覚めるのかどうか。ずっと夢の中なんじゃねえだろうかって。でも、そんなのはいっときだ。見ろよ、世界は広くてさ、そんな浸ってられねえだろう? ましてやこんなにガツガツ攻撃してこられたんじゃ、ぶん殴り返さないわけにもいかないし、もしもおまえが眠っているならとっくに俺が叩き起こしてる。——まあ、お前の方が早起きは得意だろ。二日酔いもなくてさ。アラームをいつもかけてる。ペール・ギュントだよな。俺もすっかり頭に染みてさ、あれがかかると、ああ、起きなけりゃあなって思うんだ、お前の方が先に目が覚めている」

「僕の正気を保証するのはペールギュントかい?」

「べつにそんなものに保証されなくたって、おまえはすっかり羽ばたいているよ」

 潰されてしまった蛹を思う。とろりとした何にもなれない濁った液体ではなくて、自分は蝶になれたのか、と渡辺は自問した。

「渡辺、不安にならなくていいよ。お前はちょっと自分に厳しいけど、そのくらいのことは、もしも、保証がほんとに欲しいなら、それは俺がするよ。お前は、自分で気がついちゃあいなかっただけで、とっくに羽ばたいて、ほら、みてみろ、こんなところまで来たよ。俺と一緒に」

「君と一緒に」

「どこまでもだ。それで、また帰るんだよ。あの狭っちい部屋に帰って、いつも通りになるために、俺たちは——」


 ひゅるるるるるるるるる


「回避行動!」

 一瞬で切り替えた渡辺の刹那の判断は結果鬼切丸と、その搭乗者二人を救った。

 いつの間にか砲撃のように真上に打ち上げられた硬い氷が鬼切丸をかすって消える。

「べらべらと。なかなかに余裕だな、お二人さん」

「そっちは余裕がなさそうだ」

「なに、こんなもの、いまさらだよこんなもの。お前たちが斬って捨てて顧みなかったものは、いつもいつだってこんなもんさ。負けて負けて、追われて追われて、逃げに逃げて、じいっと長い間を耐えて、それからまた、何度でも何度でも——」

 氷の目をした兄はそこで咳をした。掠れた咳は、まともな人間であれば喀血でもしそうな具合ではあったが、彼の口からそういった温かみのあるものは吐き出されず、代わりにきらきら輝く結晶が浮いた。いかにも、この男が人間を辞めてしまったことはいくらでも明らかになる。赤子を背に、しかし赤子もまた、赤子というには脅威の存在にすぎた。

「もみじ」

 兄がそう呟いた。

 赤子に向かって呼びかけたのだと、二人が気がつくのにすこし時間がかかった。

「紅葉、だいじょうぶだ、俺がついている。さあ、まっさらにしてしまおう。最後の二人になろう。あいつらは自ら楽園を出て行ったのだから、もう一度戻ってくるなんて許されない。紅葉、おまえも、未練を捨ててしまえ。いくらおまえが健気に追って行っても、結局、みなおまえを打ち倒しては喜ぶじゃないか。物語の悪として、百年千年嘲って笑い物にするじゃあないか。そんなやつらに取り縋ってなんになる。お前をけして受け入れはしない人間だとか、ましてや鬼斬りなんて、」

 凍らせて粉々にして、塵芥も残らないようにきれいさっぱりけしてしまおうよう、なあ、紅葉。

「兄さん! あんたは!」

 小さな幼子が遊んでいる。かくれんぼ、おいかけっこ、かげふみ——ころころ笑いながら、もう一人の自分をかけらも疑わない。

 ふっと兄が目を細めた。

「おまえなんか、大嫌いだよ」

 絹を引き裂くような悲鳴がした。否、悲鳴ではなかった。氷にヒビが入り、擦れあって引っ掻きあって、まるでソプラノの女の悲鳴のように聞こえるのだ。崩れ落ちていくような、広がり膨張していくような、その動きは得体の知れない不安とともにあった。

 実際、それはその動きそのものの音ではないのだろう。宇宙にいて、何かが崩落しようとなんであろうと、普通に音が響く方がおかしなことだ。ただ、今この場の戦闘の参加者たちは、どこかで思考を連動しているから互いの意思が却ってクリアに「聞こえて」いるだけだ。であるから、この音は真実悲鳴なのだろう。「兄」が鬼切丸を完全に背後にして、腕を広げて中心部の赤子へと向かう。

「い、か、せる、か!」

 鬼切丸の重たい一撃は、破壊力に申し分ないが、精密をいくらあげても人一人分の体がすり抜けるのを十全に止められない。的が小さ過ぎる。かといって純粋な粉砕より他、火器の類であるとか、それらはどうにもサブの武器であり、「氷」本体を貫くには火力が足りない。

 兄の姿が急に溶けた。

 文字通り、なにか氷が熱いものに触れてしまったが如くにとぷんと溶けて、次の瞬間には黒々とした球体のようなものが兄と、彼が抱いた赤子のいたあたりに顕れ、そして、桑原があの朝見たような亀裂が走った。そこから青白い指が一本二本と滑り出て、どこか元の面影を残してももう渡辺と見間違えることのないような、人の形態に近くとも人ではない、巨大で透明な女が顔をだす。眉間のあたりにその巨体——鬼切丸とほぼ同様のサイズであることを計器は示していた——には似つかわしくない、ただ本当に飾りのような「人間サイズの」脳が浮いていて、そこからカタツムリのようににょっきりと眼球が伸びている。額に目をもつ女は彼女自身の瞳は閉じられており、口を開ける。また例の高い悲鳴のような音がした。閉じられた瞳から涙が流れ、頭の両端から角が伸びる。鬼として相応しい、ふさわし過ぎる姿になる。亀裂から身を乗り出し、彼女が全身を表そうとしている。

「渡辺!」

 桑原は、しかし彼も焦っていた。「あの亀裂」が、桑原の見たそれと同じなら、次の攻撃は「どこに当たるかわからない」のだ。あるいは過去、未来につながるのかもしれない。

「お前たちがすることを、俺たちができないと思うのは傲慢だ」

 兄の声は相変わらず響いた。姿はない。

「おまえがらがこそこそなんかしていたのはこっちだって、百も承知だ。残念だったな」

「桑原?」

 渡辺の疑問が飛んだ。渡辺はあの亀裂を見ていない。かといって、桑原が仔細に理解しているかと言われれば難しい。

「ドッペルゲンガーを見た時、今みたいな感じだったんだよ」

「——あいつらの攻撃が、時間を越えるかもしれない、ってことかな」

「俺たちの状況を見れば、そうなんじゃないかと思う」

 鬼切丸が、破れ去った未来の攻撃をこの時間に重ねているように、あるいは「未来」あるいは「過去」からのなんらかの干渉をしてくる。

 桑原は勝ちを引けると確信したはずの瞬間からまたひどく取り乱す自分を感じ、唇を噛んだ。自分たちにできることが、相手にできないと思うのは、兄の言うとおり傲慢だった。

「桑原、焦るのは早い。たぶん、調子のいいことを言っても、兄たちに僕らと同じことは、おそらく不可能だ」

「なんでそう言える?」

「『照準が合わない』んだ。僕たちは、鬼切丸は、きっかりこの戦闘に合わせてダメージを蓄積している。そういうふうにしているのは、正直なところ、たとえば僕の血脈か、鬼切丸の力であるのか、即断定はできない。でも、同時並行世界の失敗から、必要な分だけエネルギー量を掻っ攫って、都合よく『当てる』なんて芸当は、兄たちには無理だ」

 なにかが必要なのだ。道標のようなものが。繋がっていないといけない。そう、たとえば、(インスピレーションだ——)。七十二枚のカードの中からたった一枚を引き当てる、それよりも気の遠くなる確率、無数の岐路。

「あれは、ひょっとして、自滅するかもしれない」

「自滅?」

「『時間』そのものに引っ張られたら、曲がりなりにも三次元空間での存在が——形を保てなくなる。その上、高次の世界にアレが繋がっていたとして、僕らを捕捉できるかは別問題」

 また悲鳴が聞こえた。黒い亀裂は放電でもするかのように時折輝いた。それは「見える」ようで「見えていない」。桑原たちには、時間そのものを観測することができないので、理解可能な範囲でそれっぽく「見ている」気になっているだけだ。実際には亀裂でも放電でもなんらかの輝きでも穴でもない。ただの隙間だ。「あそこに——」

 桑原は息を呑んだ。不安定な状態に存在する肉体が、冷や汗をかく。

「あの『隙間』に、押し込む」

「思いっきり、砕いてね。おそらく今は、本体が見えている今なら、可能だ——と、思う」

「やってみる価値はありそうだ」

「鬼切丸も腕の一本くらいは持っていかれるかもな」

 そこで渡辺は上を向き、さまざまなモニタ、計器類を見渡しながらふとコンソールから手を離して中空に手を伸ばすような仕草をした。

「僕たちはいつでも、お前に無理をさせているね。お前の力を頼り、乱暴に戦っても文句の一つ言わずついてきてくれた。桑原同様、大切な道連れだ。並行世界からの無茶なブーストでただでさえ重たくなっているのに、さらに無理をさせようとしている。僕はお前の使い手として相応しいとは言えないのかもしれない。でも——どうかどうか、この戦いの最後まで、僕たちと来てほしい。きっとそうだね、桑原の言うとおり、腕を一本持っていかれることだってあるかもしれない。全て終わったら、また僕が渡辺が、——たとえ僕らが絶えたとしても絶対に、絶対に鍛え直してみせるから、どうか」

 急に、鬼切丸の中が闇になった。驚いた渡辺の言葉は途切れたが、全てが暗くなったのはほんの一瞬で、全ては元通りになる。桑原が笑って言ってやった。

「『みなまで言うな』ってさ」

「——君の方がよほど鬼切丸の主人だね」

「いいや、俺はあくまでもおまえのおまけだよ」

「おまけっていうのはあんまりじゃあないのかい」

「実際何かできるかっていうと、居るだけっていうか」

「だから、それが一番大事なんだってば」

「工学系行っときゃよかったかな——」

「当代一の科学者だろうが、鬼切丸を理解するには無理がある。半分は科学で、半分は魔法みたいなものなんだから」

「行きすぎたなんちゃらは、ってやつ?」

「それとは違うよ。鬼切丸は明確に、半分はこの世のものではない」

「うん、ツッコむのやめとくわ」

「それがいいよ。もし聞きたかったら後日に渡辺の本家筋を訪ねなよ。うんざりするくらい聴かせてくれるから」

「遠慮しとくわ」

「さて、頃合いかな——?」

 隙間から乗り出そうと必死の鬼女が、あまりに巨大で、そして動きは鈍く幼くつたない。そのせいで、縁に指の垂れた手をかけながらもがいている。それこそ、うまく脱皮できない幼虫のようだった。彼女は思い通りにならない状況に憤慨し、癇癪を起こしていて、目の前に敵がいることを忘れてしまっている。

「隙だらけだ」


 ぴんぽーん。


 お届け物です——


「いいんだ桑原」

 こそこそと密やかに渡辺の声がする。

「あれは放っておいて——いいんだよ」

「だって、宅配だろう。受け取らなきゃ、」

「いいんだ」


 ぴんぽーん。


 いやにしつこいのだ。

 とっくに不在と——あるいは居留守と諦めて、この寒い寒いなか、配達人がぼけっと一件の前で立ち尽くしている理由がない。理由がないのに、呼び出し続けている。してみると不思議だ。不気味でさえある。そもそも、宅配の予定など初めからなくて、渡辺はそれを知っているから出ないのかもしれない。あの呼び出しは宅配業者などではなくて、詐欺とか強盗とか、そういう危険があるもので——

 しいっとまた渡辺が指を立てる。

「くわばら、くわばら」

 呪文を唱えるようなのだ。自分を呼んでいるようには思われなくて、それもなんだか桑原には座り心地の悪い、なんとなくもやもやとした気分になる。

「いいんだよ、桑原」

 こんどは自分への呼びかけと感じた。

 渡辺の静かな瞳が桑原を見ている。こたつで横になって寝落ちして、互いに床に頬がくっついている。あんまりの寒さの中にいるから、こたつがあっても床暖房で、そういうふうにだいたいの居住区の建物はそうなっているから、実際眠気を纏って体温を上げた自分自身のからだは暖かさが少し過剰になっていて汗ばむ。それとは別に、嫌な汗、冷や汗のような気配を感じる。扉一枚隔てた向こう。箱を持って宅配人が立っている。外を頻繁に動き回る彼らは帽子どころか目出し帽を被っていることもザラだったし、もっと昔であれば確かに、強盗とか——ドラマに出てくるような——そういうのに見られても仕方がないような姿ではある。もこもこのジャケットに、でかでかと配送業者のロゴプリントを入れて、目出し帽の上にさらにつばの帽子。それにもロゴプリント。不審者ではありませんというアピールと、宅配会社のサンドイッチマンを兼ねている。にしても、余計に怪しく見えると言えばそうかもしれなかった。割のいいアルバイトとして大学生にそこそこに人気があるが、桑原はどうもあの格好がいやだな、と思っていた。

「——宅配、って、呼ばれたらつい、はーい、って返事しちゃうよね」

 渡辺が頬を床につけたまま囁く。近くで観察すると彼の目はなんだか赤い。綺麗な色だ、と思う。綺麗な石のようだ。燃えるような色かと言われれば、そういう形容はどうも渡辺にに合わない。

「だって、返事して出ないと、頼んだものが受け取れないだろ」

「そうだね——だから、しっかり見極めないとね」

「何を」

「ほんものを」

 ほ、ん、も、の、は一音一音区切られていて、なんだか不安を煽る。なんだか泥棒や詐欺よりも、お化けや幽霊でも出てきそうな口ぶりだった。べつに迷信深いわけでもない。それこそ、「本物」だったら、強盗の方が怖いと思う。それなのに渡辺の静かな声は怖がらせようというふうでもないのに——そうだ、怖い。怖いのだ。

 渡辺の声も、呼び出しのインターフォンも、掠れて聞こえるお届け物です、の声も。

 怖い。

(どうして今まで平気でいたんだろう)

 胸の奥がざわざわと嫌な予感に震えているのを、ぴんと張り詰めた頭の隅の糸に何かが引っかかったような、そういう、違和感。その名前は「怖い」。恐怖するということだ。

「くわばら」

 赤い目がこちらを見ている。

 桑原は喉を鳴らした。

「いいじゃないか、べつに。開けてやらなければ入っても来れないものなんて」

 招かれなければ入れない、それこそ妖怪とか、吸血鬼とか、そういう——

「諦めが悪くても、朝までなんてとても耐えられない」

 そうだろう?

 そうだろう。

「くわばら、くわばら」

 またこれは呪文の音だ。

 しかし、なぜだか励まされるような気もする。幾度となく呼ばれ慣れた自分の名前だ。桑原。

「君が遠ざけてくれるよ。他ならぬ君だよ。頼りにしているよ」

 ここで彼は笑い、くすくすと呼気が震える。

 そうかなあ、そんなもんかなあ。でも渡辺が言うのならそうかもしれない。

 桑原の恐怖は頭を通ってそのまま足先までするりと撫でて、それでそのまま通り抜けてしまった。後には残らない。

「まあ、なんかうるさいだけか——」

(それに面倒だ)

 今ここから立ち上がるのは面倒くさくて、渡辺に心当たりがないのなら誤配なのだろう。だって立ちあがろうとも返事さえしようともしないから、渡辺にはきっとはじめから自明だったのだ。なんだ、勝手に脅かされたような気分で仕方がないなあと反省する。

 いっちまえよ、と、たかが誤配に、立ち上がって扉を開けてやるにはどうにもここが居心地が良くて、相手してやる気にもならない。

 無駄な時間を使って徒労を重ねるのはべつに——別に桑原のせい、と言うわけでもないだろう。そんなことにいちいち責任感を持つのもばかばかしい。諦めて去っていくのを待つだけだ。部屋の明かりが漏れていれば、「いるけれど受け取るつもりがない」ことを教えるには十分だろう。親切であるように心がけてはいるが、年がら年中いつでもと言うわけでもない。今は面倒臭さが勝ったから、どうにも応じない。


 ぴんぽーん。

 ぴんぽーん。

 ぴんぽーん。


 無駄だ。でないことを決め込んでしまったから、別にもうなんともない。なんだかちょっと眠い。眠ってしまったら、寝息しか残らないから、もっと静かになって、結局配達人だかなんだか知らない、扉をぶち破れもしない相手が諦めるしかない。

 すると怖い、という気分はすっかりかけらもなくなってしまった。


「どこに、一撃加えるならどこにだ」

 渡辺がコンソールを叩き、桑原は相変わらずじりじりと立ちあがろうとして四苦八苦の鬼女を外部モニタで観察する。指先や体が、形をとっては崩れてやり直し、を繰り返している。

「どうしてわざわざ人型になろうなんて思うんだろうな」

 なんとなく呟くと、渡辺は手を止めないままでいて、話は聞いている。

「どっちが先なんだろうな、って思うことはあったな、僕も」

「うん?」

「追ってくる、って教わったんだよ僕は。鬼は人間を追ってくる。ずっとそうだって。でも、僕は鬼側の言い分を聞いたわけじゃないからね」


 ——そうだね。ぐんぐん近付いてるんだ。愛しい恋人に会いにくるみたいにまっすぐに、脇目も振らず、僕たちのもとにやってくる


 ——実際僕らは仇敵というよりもなにか——もっと別のつながりだったのかもしれない。いつか、いつのことかはわからないけれどね。織姫と彦星みたいなロマンチックと言っていいような。惹かれているのは本当なんだから


「『どうして』っていうのは、渡辺では禁忌なんだよ。理由なんてない。疑問を持たない。僕たちはただ鬼斬りで、切先を鈍らせるようなことはしない」

「十分疑問を持ってんじゃん」

「話しているのは桑原だからね」

「なにか別の理由があったら、この鬼退治を——」

「辞めはしないよ。氷に人間が圧迫されてるのは事実だし——仮に、妙な方向に捩れた愛情表現だったとしたって、迷惑もいいところで、そんなものは受け取れないって分かりきってるんだから」

「まあそりゃそうだな」

「だから——ほんとうは僕なんかより、兄の方がよっぽど優しいのかもね」

「そう言う話になる?」

「なんだか愛しげにしてたろう。ああいう顔は見たことなかったな」

「お前が絆されてどうするよ。それに、それこそあの兄貴の方がなんか歪んだ感じだったし、なんつーか、共依存? にしかなんねえ気がするぞ」

「君結構急に現実的になるよね」

「なるべきときはなる。ちょっとわかるぞ、渡辺、お前がいまちょっと、うんざりした気分になってるのがさ」

 渡辺は手を止めなかった。止めている時間はないのだろう。この鬼切丸を細かく動かすことには膨大な情報を処理せねばならず、桑原が操縦者としては補助の一端くらいしか担えないことを考えれば、渡辺がしなければならない仕事がとんでもないのは想像がついた。思考連動とか、一部の「便利な」機能はあるが、全てがそれでは賄えない。「照準を定める」などは最たるもので、一撃とともに自身も重く重くなっている今の鬼切丸が、腕を上げて粉砕する、その挙動に夥しい信号を出さなければいけない。眠くて眠くて体が重いのにゆっくり体を起こす、瞼を開ける、そんな時の重さに似ている。渡辺は鬼切丸に語りかけ、励ます。お前の一撃で滅ぼすために、終わりにするために、横っ面を殴りつけてやるために、だから、お前の腕を上げてくれ。振り上げて、粉々にするために。

「実際、あの脳みそだろう、きっとそうだろう。分かりやすいもんな。ブラフかな? とも思うけど、兄貴の声もあそこから。あと鬼は——鬼はさ、なんか、あの赤ん坊を見たからってわけじゃないけど、なんかこどもだよな。てんで子どもだ。今は兄貴に夢中で、だから一番大切な頭の中において、理想の女になって、あそこから生まれるんだろ」

 何千年も、何億人にも、一顧だにされなかったら、悪い男にくらくらっときてしまった。そんな世間知らずの少女のようなことを、いまさらしているように見える。それはうんざりした気分にもなる。大魔王のように悠然と構えろとも言わないが、「氷」は実際散々だ。打ち砕きながら近づいていくほどに、おそれをいだきながら縮こまってやり過ごし、ただ逃げに逃げてシェルターに引きこもろうとしている部類の人間など、馬鹿馬鹿しいとしか言いようがない。

 この誤解は、誤謬は、どこで生まれたものなのだろう。

 包み込んで窒息しそうになりながら、相手のことを知ろうともしなかったのが長い冬の理由なら、一概に鬼の——氷の脅威のせいでというには疑問が残る。

 何を恐れたのだろう。個々には考える頭もあっただろうに(中には、だが)、人類全体を恐怖に陥れて、そうしてしまったのはなんなのだろう。


 ——では考えよう。


 囁きが頭の後ろで教師のような問いを発する。


 ——得をするのは誰だったんだろうね。


 皮肉が込められている——と、感じるのは、恣意的な解釈すぎるだろうか。

 得をするのは誰だ。

 考え込まなくてもわかる、非常に簡単な答えには辿り着く。

 鬼斬りは、鬼を斬るから鬼斬りなのだ。

 敵を撃ち倒すから英雄なのだ。

「いまさら、」

 唇を噛み、桑原は空虚になることを意識した。

「用意された答えだ。俺にだってわかる。英雄が英雄であるために、必要なのは」あからさまな誘導だ。

「卵が先か鶏が先か、信じているか、おまえ試そうとしているだろう。人が悪いというかそういうレベルでもねえな」

「もちろんだとも。私はインスピレーションだ。『誰か』が疑問を持たなければ生まれない。伝わらない。鬼斬りは渡辺はよく続いてきたよ。そして君も。だが、あそこで人ならざるものに姿を変えようとしている、彼、彼だって、あれが最初だ、とは君も思わないんじゃないかね」


 ——どうして、鬼はいつでもいつのときも、倒されなくてはいけないの。


 二人の少年が顔を上げる。

 純粋な疑問で、素朴な問いを口にする。

 絵本を読んでやっていた大人が眉を顰めて、たった今のいままで微笑んでいた口を歪めて怒りの様相を呈する。


 ——そのような不心得をいたしてはいけません。鬼は斃すべきものです。


 いっさいの躊躇なく。いっさいの迷いなく。

 疑問を持つことすら禁じられている。

 だってそれが誤りであったなら、輝かしい英雄譚はハリボテの茶番に成り果てる。八百長試合の潰れかけのプロレスみたいな——


 ——いけません。口にするのももちろん、思うこともいけません。忘れてしまいなさい。


 そう言って聞かせるものの面こそ、あの般若の様である。たじたじと少年たちは自分たちのしくじりに気がついて押し黙る。


 ——ええ。もう言いません。


 ——それで良いのです。


 それで一人は本当に忘れた。清清と宿命づけられたようにそうするように。何しろ素直な性根であったのだ。

 では、もう一人の少年は違ったのだろうか。彼がのちのちに語られるように、邪悪で破綻していたのだろうか——最初から?

 おれたちを追ってくるあの鬼は、おれたちが追い立てたのではないか。髪を振り乱し、白く凍える吹雪を纏って裸足で駆けてくる、そのうしろにもおれたちはいるのではないか。

 この追いかけっこは無限の中にあり、完成されている。

 繰り返し、繰り返し、繰り返し繰り返し繰り返し繰り返し。

 おお、此度も首を——

 ああ、あなたこそが——

 使命でございますれば——

 なぜ——

 まこと名も轟きましょう——

 なぜ——

 悪鬼を見事に、御美事に討伐されました——


「ああ、そうだね。うんざりだ」


 ぽつんと渡辺は言った。

 渡辺は言った。横っ面を殴りつけようと。「全ての」。

 追い追われてこんがらがっている鬼は氷はもちろん、兄も、そのほかの家族とか、閉じこもりきりの政治家たちとか。

 そのすべての横っ面を殴りつける。


 ——ほら、また不安定だよ。君の渡辺は


(うーるせー)

 心中毒付いて、インスピレーションとやらはどこかまとわりついている。

 こいつはこいつで油断ならない。

 励ますようなことを言うかと思えば、こうやって不安を掻き立てる。


 ——善とか悪とか、そう言うのとは別のところにあるんだよ。印象は印象。


 桑原はふと思う。

 善悪について思う。

 人間として考えれば、人間を寒さの季節に追いやり緩やかに死をもたらす氷の鬼は敵で悪だ。

 戦ってくれる渡辺は——仮に成功したとして——善だ。

(でもそんな簡単なことか?)

 わかりやすい役柄、わかりやすいシナリオで進んでいくそれらは「間違いない」のか。

「桑原?」

「おう」

 渡辺に「感化」されたかもしれない。あまりそう言った考えに陥らない。桑原は、だからここで渡辺を観測している。


 ——あまり迷うのもいかがなものか。そんな覚悟でついてきたのかね。


 桑原は困惑と怒気の半々を微妙に口の端に乗せた。「覚悟も何も——事情もなにもほとんどわからんままでここにいるよ——」


 ——器の大きい男だ。それとも、阿呆なのか。


「どっちかっつったら阿呆なんじゃあねえかな。俺は。実際のところ、事情がどうあれ、歴史がどうあれ、鬼がどうあれ、鬼斬りがどうあれ、結局、どうでもいいんだよ。渡辺が助けてくれつったから、俺には——それ以上のことはべつに」

 がが、ざざ、というノイズが混じった。

 コミカルなカートゥーンの悪役ピエロの笑い声がする。

 その声は「兄」とよく似ている。

「それそれ、結局それだよなあ」

「敗因を語るのは月並みだから、お前の勝因を教えてやる。そういう、覚悟が

 お前以上に覚悟がガン決まったバカを連れてくるからだ。連れてきたからだ。なあ、弟くん。なんでだろう。なぜだろう。お前には現れて、俺には現れない」

「現れているじゃないか。彼女が」

「紅葉は本当は連れて行きたくないよ。俺を置いて千年先に——花が咲くのを待っていて欲しい」

「そそのかしておいてなんだ。責任取るつもりないのか下衆だね」

「ばっか、もっとロマンチックな話だろう」

「だったら、一緒に夢の中に行ってしまいなよ」

「夢の中へ、夢の中へか。夢としりせば覚めざらましを——。お前の方が得意分野だ」

 からからから、とやけに軽い声で笑った。

 彼はもう頭の一部しか無い。氷に溶けてしまった。


 ——溶ける。


「このけなげな、けなげな存在を、まるで撃ち方の先の扇的のように——なあ、どっちだよ。ひとでなしは、どっちだよう、なあ、弟くん」

「それはもちろん、兄さんさ」

 渡辺は落ち着いている。呼吸も乱れる様子はなくて、手は動き続け、全てが澱みなく、桑原の胸の内の不安をきっと感じているのに、それでいて強くあり続ける。

「わかろうなんて思ってはいけない。なまじっか、言葉が通じたら、会話もできるだろうなんて、そんなのは、だいぶだいぶ甘えた考えだね」

「紅葉は俺と話すことができる。紅葉は俺の意志を感じる。俺は紅葉の意思を感じる」

「誰が証明できる? 兄さん以外にそれを誰が?」

「悪魔の証明か? 鬼でなければなんでもいいのか。とにかく、おまえは、お前たちは、紅葉が悪では無いと言うことを認められない」

 渡辺はみじんも動じなかった。

「悪では無い? 定義によるけど、百万規模の人口を減らして、シェルターに残りの人類を押しやって、悪気はありませんでした、と言われてもね」

 兄の声がどこから響くのかもうわからなかった。鬼切丸の集音は機能が良かったし、なにしろ——はんぶんは魔法の存在が、科学的に齟齬のないシステムで言葉を拾っているかは微妙だった。同じ言語の類を話しているかも怪しい。

「どうおもう、えーと、くわ、くわばら、くん?」

「え、俺すか」

「巻き込まないでくれるかな」

「お前が言うか」

 だらだらと、学生同士でだべっているようなおしゃべりが続いて、桑原は妙な気分になった。カフェで三人並び、よく似た——同じ顔の——双子のきょうだいは侃侃諤諤、喧嘩腰のようでいて、実は互いによく分かり合っていて、半分はふざけて笑い合っている。桑原は横目にそれを見ながら、ああこいつらはいつもこんな感じで——頼んだラーメンが伸びるじゃねえか、ああ、なんだかそこまで味噌と醤油で分かれるのかよなんだこいつら。おかしくなってきて、コーヒーを口に含みながら笑いを誤魔化す。「笑ってただろう、お前!」そういう時ばかりばっちり息を合わせて四つの瞳が桑原を睨みつける。赤、赤、青、青。全然怒っていない。二人とも、桑原の親しい友人であり、仲の良い兄弟で——そんなものはもうとっくに失われた、顕現しなかった未来の中に閉じ込められてしまった。

 テラスが明るくて、太陽が輝いて、なんだか見える景色に違和感を感じたら、渡辺兄弟ときたら薄手のシャツ一枚だ。桑原もマフラーすらしていなくて、上着もなくて、物語や映像の中でしか見たことのない春や夏、秋そういった、「すこしばかりかそれ以上」暖かい季節にいるようだ。手元のコーヒーはいつのまにか氷の入ったグラスに注がれた液体になっていて、アイスコーヒーなんて、そんなものを飲んだこともないのに。とても美味い。

「人間を減らすのが悪だったら、同じ人間がもっとも悪じゃねえか。相争ってばかりで、戦争戦争戦争。なあ、桑原くん」

「そもそも、根底が違うんだよ。領土の争い、宗教の違い、そういったものと、全くの異類が生存競争でもするかのような事態は並べられない」

 会話の内容だけは続いていた。

 相変わらずここは鬼切丸だ。

「兄」は鬼女の透明な頭に脳と眼球を浮かべている。

 一方で、どこかの——おそらく大学内とか、そういう類の——カフェで、ラーメンを啜り、アイスコーヒーを飲んでいる三人はあかるい光の中に存在している。

 あらかじめ失われた未来は琥珀のように閉じ込められてしまって、それが現在に混ざり込んでいる。「パスト」になっている。なかった未来。なかった過去。冬が過ぎ去り、寒さが過ぎ去り、凍ついた街はすっかり姿を変えて、ぬるく包み込んでくる。

 夢だ。

 箱の中にいる、鬼切丸にいる限り、桑原たちは「いるかもしれない、いないかもしれない」。そこに、切り取られた未来が無理やりねじ込まれて陽炎のように浮いている。それも「兄」あるいは鬼の仕業だった。

 醤油ラーメンのなるとを残す「兄」は焼豚を真っ先に食べてしまうので、弟から奪ってやろうという気が見え隠れして、狙われている側もわかっているからそうそう取らせはしない。手癖がわるいどうのこうのというよりも、食べ物の恨みは怖い。味噌ラーメンにはもやしがたっぷりで、そのカサを減らすのがすこしゆっくりだ。でも焼豚は食べるだろうし、万が一ラーメンを食べきれなくなったら兄ではなくて桑原に打診するだろう。兄もそれをわかっているし、兄は兄で取りたいのは焼豚だけだから、それがなくなったらすっかり関心をなくすだろう。追加トッピングで増やしておけ、と思わなくもない。こいつらがなかなか古き大きい名家のお坊ちゃんなのを桑原は知っている。けちる必要などないのだ。それでも、端金で追加トッピングした焼豚よりも、弟の丼から拝借した焼豚の方が比べるべくもなく価値が高くて、桑原は一人っ子ではあるのだが、なんとなくそのことに一定の理解は示すことができる。こいつらこんなこといつもいつも、でも、なんだかんだで飯を食ってわいのわいのして、こないだのヨンリオのくじがラストワンまで数枚の奇跡の店舗を把握して速攻連絡してきたのも兄だった。

(なんだ、こういう幸せってふつうにあるじゃんか)

 桑原は思う。

 アイスコーヒーは冷たくて、それは、普段なら忌々しいことだ。何しろ全てが凍るのだから、冷たいのだから、わざわざこれ以上冷えたくない。喫茶店の飲み物に常温以下のメニューがあることはほぼなくて、それは——それが桑原たちの実際のところの普通だった。湯気をたてるラーメンは好むところだ。熱いうちに啜ってしまおう。ちまちまとなにをあそんでいるのか。でも冷め方も緩やかで、だいたい渡辺は猫舌気味だからそれでなくてもゆっくり食べる。

(こうやって、こいつらと並んで、——三人で?)

 小さい電子音で、誰かの端末に連絡が入る。誰よりも早く反応した青い目の男が腕につけた端末を覗いて、にっこりする。

「紅葉?」

「講義終わった」

「迎えに行きなよ」

「合流しようって。飯食ってるから」

「待ってる間に食べ終わるんじゃない?」

「デザートでも頼んだらいいだろ。席移動してレポートしてもいいし」

「おんなじ班を選ぶんじゃなかったよ」

「桑原くんは俺を見捨てないよなあ?」

「二人とも俺より頭いいくせに——俺にどうこう言えないぜ。紅葉、迎えに行かなくて大丈夫か?」

 桑原の口からは勝手にそのような台詞が出た。そう、紅葉は大変な方向音痴で、入学以来そうそう広大とも言えない校舎ですぐ迷子になる。それで、おっとりとしていて、よろよろと人にぶつかっては謝り、時にはつまづいたり、そういったあぶなかっしいところのある女で、その紅葉は兄のベタ惚れの彼女で、だから、兄はきっと彼女を迎えに行って、手を引いて席に戻るだろう。そうするだろう。渡辺もそれを許すだろう。席を確保して、教材を広げ、桑原に愚痴ともつかぬ愚痴をこぼしながら、ラーメンで少々焼けた舌をアイスティーで休めながら、四人分の椅子のある席で、二人を迎える。


 ——どうしてそうはならなかったんだろう。


 ぎゃあ、と外で鴉が鳴いた。

 ぎゃあ、ぎゃあ、ぎゃあ。


 嘘っぱちの箱庭でも、そっちのほうがずいぶんと上等に見えた。

 ラーメンは美味いだろ、別に専門店でもない、アルバイトの作った安っぽい味。

 コーヒーも紅茶もインスタントで、深みも香りもあったものではないし、酸っぱいし渋い。

 でもそれらは美味くて、たとえば、あの時渡辺の家で食っていた——


「それはちがう、あれは違うんだな」

 桑原は俯いた。手元に影を落としたのは、光に背を向けていたからではない。

 最初からそこに光がなかったからだ。

「そうだね」

 渡辺の声は隣からではない。コクピットの形態を考えれば至極当然だ。

「俺たちの代わりに一撃を残してくれた、何人かは知らねえが、そういう——俺たちになれなかった俺たちの、そして、今ここにいる俺たちが食ったおでんとは違うよ」

「そうだね」

「お前、それがちょっと寂しかったり、本当はしたか? ん、いや、無理に答えなくてもいい」

 渡辺は即答はしなかった。モニタ越しの鬼女に与えるダメージの蓄積は着々と進んでいる。

 自己が多重構造になり、次の瞬間には、「終わった」未来から消えていく。最後の最後の一撃の、その重さだけをバトンタッチしていく。渡辺と桑原の、今世の鬼斬りの、長い長い戦いの、これはまだ最中であった。

「そういう、弱さが僕にあることは否定はしない。いつも、いつも、そういう詰めの甘さみたいなものが、結局のところ僕の——僕たちの最大の弱点だったんだろう。それでいつもつけ込まれる。千日手になる。ドローだ。文字通りの泥試合の後、それじゃあ今回はそろそろ終わりにしようって、なんとなく睨むでもなく笑うでもなく互いに逃げてく」

「——武者は首を獲ったろう」

 渡辺は瞬いた。

「でも彼はうんざりした気分で、そう、君の言うとおり——だからね、きっとその影に隠れていたんだね。ひとかけらでも」

「斃し切れると俺は思うぞ」

「そうかい?」

「そのつもりを、確かにお前から受け取った」

「そうかい」

「一方で、迷ってるのもそうだな、やっぱりお前だ」

「そうだね」

「あんな弱々しい赤ん坊の横っ面はべつに——だって、あんなのは木偶だろうが。見てくれで見せつけて、あわれっぽくしてるだけだぜ。そう言う意味じゃ、顔を出しもしねえどっかにはいるんだろう政治家とも、俺にはあんまり変わんねえ」

「守るべき相手では?」

 桑原は長く息を吐いた。

「俺は、お前と、『横っ面を殴りにきた』けどよ、そのおまけでたまたま人類が救われようが、そう言うのは別に良くて、ほんとうにただ、殴りてーから、その部分に賛同してついてきたよ。よう、こんなはるばるな」それができたら肩をすくめたに違いない。桑原も、渡辺とは別の意味でうんざりしている。むしろ、渡辺がうんざりしながらこんなところまで来て、最後の一振りに悩みに悩み抜かねばならないこと、そのことの方にうんざりしている。

 別に、そんなのは普通だった。

 そうせよと言われて育ったにしろ、渡辺はふつうの——いいやつだ。大人になるかならないか、そういったちょっと半端な世代の自分達、そのくらいにふさわしい、普通の青年だ。

 大昔ならいざ知らず、救世救命の胡乱な大義ではいそうですかと頷いて突っ走れる方がどうかしている。

「なんかよ、そういうのさ、噛み合ってねえなとは思ったよな。お前が鬼切丸にしろ『渡辺』全体の話をするにしてもよ——『お前の考え』は、そりゃあ、そいつらにはどうでもいいどころか、邪魔くさかったんだろうけど——」

「兄のほうが、真っ当だと思うかい」

「それもちょっと、おいおい、自虐的になるなよ。お前は十二分に仕事をしてるだろ。どっちみち、俺たちだって氷をどうにかしないことにはどうにもならんのはそれこそ、他のどの人間とだって変わらねえんだから——正しい? まあ、当然と言うか。お役目投げ出してシェルターに篭っても仕方ねえくらいのところをきっちりここまで追い詰めてんだから立派だろ」

「そうかな」

「そうだろ」

 渡辺は少し笑った。きっぱりと明るいものではなかったが、それでもやはり、どうしてもどことなく邪悪が混じっている、それこそどうしようもなく陰鬱が覗いている、あの兄とは違う。

「なにかが変わっていたら、どこかでピースが違ってたら、みんなで同じレポートでも仕上げてた。そうかもな。でもそうじゃねーんだから。実際には。それで、アイスコーヒーを飲んだ俺と同じかそれ以上には、このコックピットで凍って砕けたか、存在が希薄になりすぎたかは知らねえが、そうして命を落とした俺もいる——んだろう。その分を、使っていまさらだぜ」

「そのとおりだね。ねえ、あの氷、砕いて砕いてどんなに細かくなっても、ひとっかけらでも残ろうとすなら、君ならどうする」

「そうだな。溶かして雨にでもするか?」

「水が残るかな」

「じゃあ、それも蒸発させちまおう」

 できるのか? できるのかな——

 望めばそうするだろう。鬼切丸は鬼の天敵。鬼切丸は、そのときそのとき、鬼の急所を突くようにできている。だから、重く重くぶんなぐって、あの「次元の隙間」に押し込んで、それでも逃げようとするのなら、それにも対応するのだ。押し込んで砕いて、残りは溶かして蒸発させて、ひとかけらも残さない。「頭は拳。砕かれた分は火器管制の自動照準でフォローできるか——自動照準から漏れた分を手動の照準で落とす、感じかな。君ゲーム得意だっけ」「どうかな」

 しゅるしゅる落ちてくる敵をひたすら撃ち落とす系のシューティングゲームを、全く触ったことがないとは言わないが、上手い下手、ではどうだろう。スコアの後に表示される、いつか見たランキングが中央値からどれほどのものだったろうか思い出そうとしてもはっきりしない。

「自信満々とはいかねえが」

「なんだかんだ器用だから大丈夫だよ。それに手は四本だ」

「まあ、やるしかなねえからな」

 その前に一撃を。

 重い重い一撃を。

「いけそうか? 腕は」

「なんとかね。鬼切丸が頑張ってくれてる。幸い的は小さめだけどしっかり見えてて今なら動きは鈍い。当たるよ。当てる」

「よし、頼もしいな。やろうぜ。俺にできることは?」

「いくつか。そっちに送ったよ。パネル出てる?」

「オーケー。この通りに。あとはタイミング合わせか」

「カウント。もったいぶる必要ないから、数えるよ、十カウントだ」

 それで澱みなく渡辺はスッと息を吸ってカウントし出した。視界の端、鬼切丸のモニタにも数字が表示される。


 ——7・6・5・4・3・2・1


「砕け!」

 ぶうんと太い腕が、それでもずいぶんゆっくりした動きで鬼の「頭」を目指した。額の目はぎょろぎょろこちらを見ていて、なにか、ひょっとしたらなにかしようとはするのかもしれない。氷の膜は不意に幻のように現れた。しかし、鬼切丸の拳の前には紙以下の強度で、一撃は鈍りもしない。渡辺と桑原は息を呑んで待った。一瞬と言えば一瞬なのだろう。しかし、鬼切丸が拳を振り切り、鬼女の頭を砕き、めちゃくちゃなブラックホールに吸い込まれて間に圧縮されて潰されていくのを確認するまで油断はできない。あるいは、死なば諸共にと望むかもしれない、腕を伸ばし、鬼切丸を引き摺り込む——

「しないさ、それは」

 渡辺は言った。

「兄さんがいるから、僕らを連れてこうなんて、思わなくて良くなったんだよ、彼女は」

 拳はとうとう氷の頭にめり込み、すいと透明な檻の中を逃げるようにした小さな脳も、巨大な拳の前には無意味な回避だった。逃れられない。鬼女の指が縁から浮くと、ばちばちと黒く輝く光輪は閉じ始める。

「彼女が転げ落ちたら、いいね、桑原。破片は全て、消し飛ばす」

「おうよ」

 鬼女は何が起こったのかわかっているのかいないのか、兄の脳が潰れて指図をしなくなって迷っているのか、しかし、決定的にダメージを受け、数回に分けてめり込むように潰れた。鬼切丸の太い腕が狭間にそのままの勢いで叩きつけた時には、上半身は人型を保っていなかった。きらきらと周りが輝きだす。

「くるぞ。破片だ」

 モニタにびっしりと自動照準のマークが点灯した。

「鬼切丸が殆んど落としてくれる。僕らは撃ち漏らしを。オーケー?」

「了解だ。たしかにこいつはゲームだと思った方がいいかもな」

 なるほど桑原に送られたパネルは殆んどゲーム画面と言ってよかった。強固で巨大な氷本体にはほとんどダメージを期待できない火器系統も、氷が砕けて細かな破片となってしまえば十分役にたつ。

「撃ち落とす——つうか、消す、消す、消す」

 熱に触れて文字通り氷は消える。

 人類がシェルターに逃げ隠れてこのかた、これほど「熱」が「氷」に対抗する場面を見た者もないかもしれない。桑原は愉快な気分にすらなった。

 押し寄せる氷。寒さ。陰鬱な夜。

 その全てが片端から消えていく。文字通り片端からだ。

 素早く丁寧に丁寧に、一つ残らず。

「逃げようとする気配があるとか、どこかに付着しようとするとか、それがたとえ僕らに対してだとしても気をつけて」

 とりつく相手としてもっともそばにいるのは鬼切丸であるのは確かだった。

「僕ら自身が氷を持ち帰るのは避けたい」

 モニタやレーダー上に、多少のデブリなどはある。それらは鬼切丸が氷ごと「消して」しまうには問題ない程度のものだ。隕石が高速で横切って行き、そこに乗る——まあまあに稀な可能性だろう。しかし全く排除はしない。

「消えろ、消えろ、消えろ、消えろ、消えろ——」

 自動照準の漏らした塊に照準を定め落とすのは、なかなか難解なピアノの曲でも弾いているようだった。桑原もけして遅くはないが、渡辺の処理速度はさすがだった。ぱぱぱぱ、と表示された破片は消えていく。だがあとはまだまだ続く。大小のそれを撒き散らしながら潰れていく鬼女が、狭間に吸い込まれてしまうことが「まずい」とようやく気がついたのかもがいている。遅すぎる焦りだ。

 悲鳴がまた響いた。

「兄」は沈黙している。まともに鬼切丸の拳を喰らったあの頭が、真実彼の脳であったなら、血を撒き散らして死んだのだろう。実感は薄かった。貯水槽に渡辺が突き落とした時の方がよほどゾッとした。慣れてきたのだろうか。それとも、桑原にとって、あの「兄」はもうその死をどうこういうような、感じるような存在でなくなっていたのかもしれない。なんにせよ、今はどうしようもない。目を皿のようにして、鬼切丸の腕がめり込んだ端から花びらが散るように吹き飛んで来る氷を撃ち落とす。

 靄のようなものが出るのは一瞬以下で、跡形もなく消え去る。

 鬼女はこの宇宙から丸ごと排除さる最中である。

 本体は鬼切丸を押し返そうとする気配があったが、あまりにも「重い」その拳は、跳ね除けられない。その重さの分だけ自分たちも負けてそして死んだ。

(だからまあ、お互い様なんだろう)

 どこかの宇宙で、氷が勝利し、どこかの時間で、自分たちが死んだ。「ここ」ではそれがひっくり返る。それだけ、それだけだ——

 多重の世界について、未来、過去、現在、それらがどう作用するか関わり合うのか構造を桑原は知らない。この現在のたったの一勝が、その後の未来全てを変えるのか、それはわからない。し、実のところ変わりはしないのだろうとも思う。べつに、どうでもいいこととしてしまえた。だからと言って、それが諦める理由にはならず、むしろ鼓舞したいところだ。桑原が、自分自身を認識しているこの世界において勝利を収めたなら、桑原が認識できる範疇ではそれが真実、正史なのだから。


 ぎしぎしぎしぎし


 狭間に折り畳まれるように鬼女の姿は崩れて、彼女はなにかしようとしているように見えた。

「僕らと同じことを、試しているんだ」

 聡く察する渡辺が言った。

「兄がそう言ったから。ダメージを、攻撃を、スライドさせる——さっきも言っただろう。彼女にそれはできない」

 よく見ると、元は頭部だったあたりにたらりと青いものが垂れている。あれは——青い——あの——兄の——目。

「仮に兄が手伝ってもダメだったさ。あれは鬼で、人間じゃないし、鬼切丸じゃないんだから。僕らがここで勝てば、彼女が勝つ未来は潰される」

 多重な世界のありよう、時間や層に関しては、どうこういえるほど桑原には知識がないし、仮に説明されてわかるともあまり思われない。だから、渡辺が語ることに対してはそうなのか、と思うだけだ。変わらない。桑原が「今」勝てばいいのは変わらないのだからそれでいい。照準を当てる。消す、消す、消す。何もなかったかのように、最初から存在しなかったように。根こそぎにして、これ以上は追えなくする。凍てつく冬を終わらせた後、春が来るのかはわからない。そんなことまでは考えていない。そんなことは自分たちの仕事ではないのだから。

 ただ、頼んだ、とバトンを渡したのは自分自身で、それには応えなくてはならないだろう。

 一緒に行ってくれるかと頼ってくれたのは渡辺で、それには応えなくてはならないだろう。

 ことごとくシンプルだ。

 鬼女が崩れて隙間に押し込められていく。燦々と輝き細かく広がる氷がひとつのこらず捕捉されて消える。浮いていた巨大な氷は明らかにぐんぐん小さくなっていき、そして、鬼女のとろけかけた片腕は己を殴りつける鬼切丸に縋りついた。

「まあそうくるだろうね」

 なにしろ、ほかにとりつくようなものが存在しない。ぱきぱきと鬼切丸の拳から腕へ纏わりついていく。

「遅い。これが最後の一撃だ。桑原、ダメージが完全に氷に当たったら、片腕をパージする。多分揺れるから、気をつけて」

「おう」

 腕の一本。まさしく渡辺の見立ては正しい。無傷で済むほどには甘くない。

 乗り込んでいる二人にしても、全く負担がないとは言えない。

 思考連動で夥しい数の手動照準をしていれば、初めは軽く鈍く、今はもう鋭い頭痛がしている。

(いるけどいない、いないけどいる。あると思えばある、ないと思えばない)適当なおまじない程度に桑原は心中唱えた。実存の間にある肉体の疲労や痛み、それこそ「あるかどうかわからない」。

「なるべく明るく考えようよ」渡辺が言葉通りの明るい声を出した。モニタの彼は滴りそうに汗をかいている。

「外に出るのは無傷の僕たちさ。どんなに今がしんどい佳境で、なにかやぶれかぶれの一撃を、仮に氷が出したとしても、僕らには届かない。鬼切丸は僕らを守るよ」

「そうだな、きっとそうだろう」

 頭痛が引くような気がする。霞みそうだった目が冴えて、どんなかけらも見逃さない。そもそも、優秀な鬼切丸はメインの腕でシンプルに殴りつけ砕きながら、戦いが始まった頃にはろくに役にもたたないかと疑った、背面に多く配置された火器を存分に生かして目指す「完全な」勝利に近づけてくれている。

 終盤戦だ。油断さえしなければいい。気分は不思議と落ち着いている。補足、消す、それだけに集中し、渡辺の方はメイン操作を鬼切丸の腕のパージに切り替えようとしているようだった。

「左腕、肘関節からパージ」

 ごうん、と内側から何かを叩く音を聞いたような気がした。鬼切丸が悲鳴を上げたとしたならば、これがそうだろう。

「ごめんな」

 渡辺が鬼切丸にそう声をかけるのを、妙な感傷だと言う気もなかった。

 相当の揺れがきて、一時的に照準を定めるどころではなくなった。大きな鬼切丸の構造のバランスが崩れて、予想外の方向にあっちこっちと傾いて、口を開ければ舌を噛みそうになる。渡辺はどうにか状態を復帰させるためにコンソールパネルを叩いている。

「できるだけ早く、距離をとる。もう一度掴まれたらたまらないからね」

「了解」

 そう言うのが精一杯だったし、桑原には渡辺にお任せ以外の選択肢が基本的にない。モニタもノイズが走っているが、確認できる範囲ではもう鬼女の姿はほとんど潰れている。「隙間ごと」閉じようとしている。鬼切丸は傾きながらも、こちらは腕一本、しかも自らパージした意図的な行動だから、渡辺の操舵にかかっているが、計算の内だ。綺麗に立て直すよりもひとまず手の届かないところに移動することを優先し、揺れながら、回りながら漂い、それは桑原が感じるよりも実際のところものすごい速さであることを計器が示している。もしも生身で乗り込んでいたら、挽肉どころの騒ぎではないということは桑原にもわかった。頭が揺さぶられて鼻血でも出そうな気分だが、乗り物酔いの類に感じるような吐き気はないのは助かった。ここで汚物を吐くのはどうにも楽しくない想像だ。

「渡辺、大丈夫、か」

 渡辺が桑原同様かはわからないので声はかけた。モニタ越しに視線を一瞬くれた彼は口元を少し上げることで答えた。どうやら桑原よりよほどタフだ。

「君こそ」

「人生で最大級のアトラクションに乗ってる気分だな」

 強がってみせたら渡辺はますます楽しそうな顔をする。表情が大きく変わるかと言えばそうでもなくて、目は一層の本気で集中していたし、笑っているといえるほど動いていないが、思考連動のおかげでダイレクトに感情まで伝わる分、百面相するよりも渡辺の感情の高波はわかった。

 そして現在、ぎりぎりではあるが、それゆえに高揚し、あと一歩を、最後の一手を詰めるまで気を抜かないぴりぴり張り詰めた気配までも肌に刺さる。

(こいつはこんなにも熱いやつだったんだな)

 意外ではない。それでも、目の当たりにすることで、渡辺こそが鬼斬りの血を引く正真正銘の英雄なのだと言うことは納得できた。そうなるようになった、なるべくしてなった、道筋は引かれていて、彼はここまでやってきた。

「最期くらいは見守ってやろう」

 桑原は舌を噛まないように喋った。揺れはわずかずつではあるが収まってきていて、渡辺のパイロットとしての手腕は良いのだろう。あるいは、鬼切丸の意地なのか。

「斬り捨て、斃したものから目を逸らしはしないさ。そうだね、そのせいで逃しでもしたらいけないし」

 思った以上に冷静な言葉が返り、モニタのノイズも消えてきた。

 もはや火器を撃ち込まれなくてもすぐに消えてしまう細かい細かい氷が、この一帯が凝縮された一つの銀河であるかのように、星のように輝いている。その一つからさえ鬼切丸はもう距離をとっていて、装甲に張り付かれることもない。

 あの悲鳴が聞こえたような気がしたが、これは気のせいというよりは、桑原の脳内で再生された感傷のようなものであると、冷静な部分の自己が判定する。鬼切丸の全力の拳を受け、時間次元の狭間に潰され、一切合切の痕跡を残さずに消えゆくところだった。

「ああ、ほら、桑原。居住区の方——モニタに」

 後ろは見ずに戦っていて、桑原はそういえば鬼切丸と宇宙に来て、氷と交戦状態に入ってから気にもかけていなかったことに今更気がついた。肉眼で捉えられる距離でなく、モニタを通して、居住区の無骨な全景が見える。あの中に、人類がうかうかと誤魔化しの中で生きている。それは、しかし自分もまたそうだった。いつもの渡辺の部屋も、ビールを買ったコンビニも、あの中にとっくに失われたとある星の中にいるかのような調子で生きている。

 外観は青くも緑でもない。白く組み上げられたそこには、分厚い氷がずっと張り付いていて、今、それがゆっくり、ゆっくりと端から罅を入れて落ちかけている。一気に割れ落ちたりはしないが、居住区への負担を考えたらその方が都合がいいだろう。ぱらぱらと落ちて、あるいは水分の玉になり、「氷」としての形を失っていく。

 しばらくその様子を写したまま、また今現在自分たちの目前で消滅する鬼女と眷属たちを別モニタに写し、渡辺はしばらく無言でいた。桑原にも特に言葉はなかった。意外なほどに、達成感であるとか、爽快とか、そういった気分にならずゆったりと凪いだ気分になる。

「滅ぶんだよ」

(ああそうか)

 静かな気分なのは、これが葬送だからだ。

 ある生き物が根こそぎになりゆく最後の瞬間だからだ。

 自分たちはその葬儀の唯一の参列者である。

「滅ぶんだな」

 滅ぼしたのだ。

 つまり、これが勝利の味だった。


 ——回想を終わる。

「俺は危機感があったね」

「へえ、なんの」

 こたつの上でおでんが煮えていて、約束は果たされた。一度と言わず、二度三度。わりとお手軽で、いちど煮込み初めてしまえばダラダラできるから定番になっている。——にしろ、ちょっと気分ではないか——熱いから、と、思う日が、そのうち訪れるかも知れなかった。

「お前が帰る気がないんじゃないかってさ」

 渡辺は意外そうな顔をして、瞬きした。お気に入りのキョーちゃんのスウェットはいいかげんくたびれて見えなくもなかったが、大切に着ていて、それこそ部屋着な分には別にいいだろうとの言である。

「そんなに捨て鉢に見えたかな」

「やたらなんかフラグを立てたじゃんよ、カンパネルラ」

「浸りたい時ってあるじゃない」

「いやーでもなんか実際さ、ばちばちにやり合って、俺だってなんかもううわー終わったー! みたいな気分はあったけどさ。爽快っていうのともちょっと違うし——お前はなんかもっとどろどろした因縁みたいなのがあったわけじゃん? 燃え尽きみたいのがあっても仕方ないというか」

「僕は鬼斬りの家系に生まれて鬼斬りを教え込まれたけれど、べつにそれが人生の全てじゃないからね。人生全て使い切っても鬼斬りを達成できない可能性はあったけど」

「わりとさっぱりしてんな」

「そうでもないとやっていけないよ。僕がわざわざ狭い部屋で一人暮らししている理由考えたことある?」

「あー」

 実家というか、本家というか、なんだかそんなところに桑原も連れて行かれた。「報告」をするためだ。「居住区」の中にあるとは信じられないような和風の豪邸で、門をくぐる前に回れ右して帰りたくなった。

「すげぇ家だったな——」

 無駄に装飾された庭や調度を見せつけるような長い廊下を着物の数人に先導されて、脳内地図が怪しくなってきた頃にやはりだだっ広い和室に壮年の男女が並んでいて、アンドロイドだと言われた方がしっくりような不気味な息のあった動作で深々とお辞儀をされた。「御勤めご苦労様でした」で始まり、なんだかその後の話はよく覚えていない。

「あれが両親なんだからやになるよ」

「うん。むしろよく、そこはそれで切り分けて後継ぎになろうとか思ったなお前は」

「なんというか——そのとおり、それはそれ、なんだよねえ。『使命』に対する異常さに目を瞑れば、良き両親と言えなくもないというか——修行とか覚えることをそれぞれの師匠について次々こなしてたらそうそう深く付き合う暇もなかったのもそうだし——いまどき、旧世界の家制度を引きずって生活してる方がごっこ遊びみたいじゃないか」

「まあちょっとむずがゆい感じあった」

「自分のことというか、モードを切り替える感じ。実家の渡辺と、君の友達の渡辺」

「まあ、あの感じでいつもいられたら流石に俺もそうそうお前と仲良くなれた気がしない」

 ドラマとか映画を見ている感じで報告は行われて、最後に渡辺が鬼切丸の「キィ」を渡して形式上終了した。褒美がどうとか希望がどうとか、これも回りくどく古風な言葉で問いかけられて、渡辺が仲介する形で桑原も提示されたいくつかのことに答えたりした。

「なんかあれだ、結婚式のカタログギフト」

「うん?」

 数え上げられた『褒美』に対して思うところ、しっくりくるのがそれだった。

「なんか、たぶんいいものなんだろうとは思うけど、自分が実際欲しいかっつうと微妙なもんばっかり載ってる」

 渡辺が今度は小さく声をあげて笑った。

「確かに。うまいね」

 宝石だとかに興味がなくて、しかたなしに肉とかそういう——居住区にあっては上等の、下手な合成品でないものは手に入りにくいものであるのは確かの、そういう——ものを選んで、酒をつけてもらって、なんだかそこは確かにおとぎ話の鬼退治の後にもたらされる褒賞のような感じで、微妙な気分だった。

 べつに、そんなお中元のようなものを選ばなくても全く別の選択肢はあったのだが、それはそれでもっとごめん被りたい部類の褒美だった。英雄は位を授けられる、つまり——

「政治家になれって言われても、それは手に余るしなあ」

「まあね。あれも困るよね。もうご褒美の感覚自体が化石だよねえ」

「お前がそれ言っていいの」

「実際嫌だよ。なにが悲しくて鬼切丸で必死に戦った後、余計に苦労を背負い込まなくちゃいけないのさ」

 政治家たちは、こぞって「あたらしい世界」について語り始めていた。ついこの間までいかに「シェルター」が住民を守るかのみ、繰り返し喧伝していたのが、来る「春」についての展望をぶちあげる。

 氷は解けて、居住区内の気候は徐々にではあるが温度を上げている。死の季節が取り払われて、真っ先に有象無象飛び出す政治家、というのもそれはそれで、彼らがきちんと仕事をするならそれでいい。

 専門家でもない「英雄」が、その功績を振り翳して政に参加するというのは、それも黄金パターンの失敗失策なのは明らかだ。

「桑原」

「ん?」

 念願の大根は願掛け効果というわけでもないがうまい。野菜プラントも寒さが引いてきて生産性が向上しているらしい。良いことだ。

「もう一箇所ついてきて欲しいところがあるんだけど、もしよければ」

 報告に関してはほぼ有無を言わせない態度で連れて行った渡辺が控えめに頼んでくるのを、桑原としては少々不思議に思っても別にそれだけだ。渡辺にとってはそれで道理が通っているのだろう。なんとなくそういうふうに信頼していて、不快にも思わない。

「別にいいけど、どこに行くんだ?」

「メモリアルタワー」

 メモリアルタワーは居住区内にある、要するに墓所である。限られた居住区に永遠に墓を増やすことはできないから、死者の情報が登録格納されていて、例えば公的遺書などがあれば閲覧したり、映像で残していれば「面会」できる。「誰の」墓に行くつもりであるのか、それこそ、特例で先祖代々の菩提を弔っていそうな渡辺が、このタイミングでメモリアルタワーに行きたいというのは、そこになにかしら心当たりがあるということで、桑原も連れて行きたい、むしろ家族などでなくあえて桑原を、という時点でアタリはついた。

 兄だろう。

 鬼女と共に虚空に潰れて無惨に死んだあの兄のことを、やはりどこかで渡辺は——悼む、というのとは違うのかもしれない。ただやはりなにかはある。なにかだ。それ以上はわからない。きょうだいのいない桑原にとって、まして双子で自分と同じ顔の人間が、人間として存在している——いた——というのがそもそも実感として乏しい。特別な思いはあったかもしれない。桑原の知る限り、出会い頭に殺し合いを始めるような関係になっていたとしてもだ。それでも——まったく眼中にもないなら罵り合うことなどもなくてもっと淡々と進んだような気はした。人格破綻とか散々に言っても、結局身内の気安さからとか、桑原には知れないかつての交流とか、そういうの、そういうのだ。

「いいぜ。行くよ」

「即答なんだ」

 これには桑原は少し迷ってから、正直になることにした。

「背中を押されたがってるみたいだからなあ」

 渡辺は目を大きくしてから困ったように表情を崩した。

「そういうところが敵わなくて、なんか好きなんだよ、結局」

「あー」

 結局、結局それ、その話はうやむやだ。渡辺の「好き」が実際どうとか、そういうのは棚上げされていて、ただ諾々と戻ってきた日常に甘えていた。けれども、そろそろ考える頃かも知れない。渡辺の気持ちを確かめて、自分の気持ちを確かめて、答えを出す——出なかったら出ないなりに、なんとなくそれでも時間は進む。


「よう、弟君」

 木漏れ日の中で、シンプルなシャツとスラックス姿の彼が言う。

 表情は清々としていて、ただ、妙に皮肉げに見える笑顔はどうしても彼の特徴として変わらないものであるらしかった。

 無論ホログラムである。メモリアルタワーの「面会室」の壁が透けていて、足まで写っているが幽霊という情緒的なものでもない。ただただ、データだ。木漏れ日の背景も、はっきり言って基本料金内のデフォルト設定の一つだ。技術的な水準はきちんとしているからホロ自体に不自然な印象はないし、なにせ目の前に立っている渡辺という遺伝子的に齟齬ない弟が立っても違和感もない。ただ、生きてはない。メモリアルタワーの住人は等しく死んでいるのが共通点だ。

「こいつを見てるってことは、おめでとう。立派な英雄になったんだな」

 棒読みで語りながらぱちぱちぱち、と手を叩いた。

「そして御愁傷様。ここが唯一お前が勝ち残ったルートだ。『アガリ』はここだけ。他のどんなルートでも、お前は死んじまった。英雄はただ一人だ。なんとなくわかっちゃいたろうが——」

 拍手をなおざりに続けたままにこにこと彼は語り、桑原はそのホロと渡辺を見比べる。

「だいじょうぶだ、メモリアルタワーのメッセージがオプション設定で開放されるのは、その宇宙においてその人物が『もういない』と確定された時だ。この世界できっちり俺は死んだよ。おそらくお前に殺されてな」

 自分で首を絞める動作をして、ぐえ、と舌を出して首を大きく傾げて見せる。一回前に俯いてから顔を上げた。

『兄』が楽しげに語ることは、真実なのか、桑原は内心ではよくわからない。ここが唯一の勝利であるということが引っかかる。あの狭間に轢き潰されて、全ての鬼を殺した——はず。そういう話ではなかったか。桑原がそわそわしても渡辺は表情を変えないで兄のホロを見ている。

「『呪い』を引いたな、弟君。の・ろ・い、だよ。鬼切丸を継承するのは一人だけ、その栄誉に浴するのはひとりだけ——もういちどおめでとう、弟君。お前のために他の全ての可能性、未来を奪った気分はいかが? 必死に積み上げた誰かの努力を、お前自身の努力を、踏み躙った輝かしい勝利だ」

 けたけたけた、と今度は意地悪そうに笑った。

「まあ、いいか。確認しようもない。大事に大事に生きていけばいいさ。おっと、俺に文句を言ってくれるなよ。結局俺は絶滅することは変わんないんだから、気の毒に思って欲しいくらい——ああ、思ってる、か。こんなところに、一族の他の誰も捨て置いた裏切り者の墓に来るくらいには——はは、さすがの、優等生の弟君だ」

 兄はにこにこしたままだった。意地の悪い顔をしているが、嘘はないように見える。ホロの顔色を窺うのは——無意味だ。

「ここに来るのも迷ったんだろ。頑張ってくれてありがとな。俺の顔なんてしばらく見たくはないだろうから——まあ、鏡の中とか、そういうのは許せよ。仕方ない——せいぜいゆっくり長生きしろよ。きっと、一緒に連れてきてるんだろ、——どっかの誰かさん、俺の弟、いや、俺の弟『だった』、英雄をよろしくな。それじゃあ、契約の録画タイムが残ってないからさよならだ。さきに行ってる」

 ばいばい、といかにも軽く手を振った。「兄」は最後まで笑っていて、かけらも気負うところもなくて、悔しそうでもなく、悲しげでもなく、なるようになった人生について特に恨みつらみもなく、それで手を振って終わりというのも不思議だった。

 桑原は困惑し、反応に困る。再生を終えてホロが消えて、目の前には面会室の壁があり、渡辺がそっと花を置いた。生花ではない。メモリアルタワーの入り口で売っている、メモリアルタワーの中でだけ存在する、これも精細なホロのような存在の花である。売上は運営費の足しになり、片付ける手間もない合理である。

「ありがとう、桑原、気は済んだよ」

「まじでこれでよかったんか」

 自分より少しだけ低いところにある渡辺の頭が俯いて一瞬表情が見えなくなる。すぐ上向いて、いつもの彼が桑原に、微妙にそれとわかるくらいの笑顔を向けた。

「うん。知ったこっちゃないね」

 兄とは違う赤い瞳が瞬いて、清々とした顔もどこか違った。どきんと胸が跳ねた気がするのはちょっと傍に置いておいて、桑原は「そうか」と言うに留まった。

「引っ掻き傷でも残してやろうという、その底意地の悪さには感心するけど——まあ、想定内だから」

「俺たちが唯一の勝ちだっていうのは——」

 渡辺が笑ったままで、しーっと指を立てた。

 その瞬間はこれまでで唯一、「兄」の面影を感じてひやりとした。

「僕たちの勝ちだから、いいんだよ」

 あの、暗い隙間の向こうから悲鳴のように運命を託した「自分たち」のことなど、考えるだけ無駄だ。そんなものは、亡霊に足を引っ張られて自ら沈むような行為だ。頼んだ、と言われて、頼まれた、ことを成した。


 ——ではやはりそれ以上などないのだろう。


「ねえ、週末の最高気温、見た?」

「段階的に上げてくってやつか」

「薄手のキョーちゃんコラボシャツが発売なんだよね。今日から」

 くるっと出口に踵を返して、渡辺はごく明るい声だった。

 迷いなく出口に向かって歩いていく。

 ホロは跡形なく消えていて、再生を繰り返す気もないようで、自動ドアまでは数歩だった。

「オンラインで買えるだろ」

「うん。だから発売記念のコラボカフェの方。奢るからさ」

「こんどはなんだよ。コースター? キーホルダー?」

「ミニチュアだよ。君に協力を仰げれば、キョーちゃんとミーちゃんは確定だし、君のお腹も膨れるだろう?」

「まあ、いいけどよ」

 扉を抜けて、エレベーターを降りて、メモリアルタワーを出ていく。

 急激な温度変化には居住区の設備と人間が耐えられないから、外はまだ冬だ。しかし、それはもはや調整された冬である。

 桑原は一度だけメモリアルタワーを顧みた。

 そこに残された膨大なメッセージの中には、ひょっとしたら、渡辺の遺言すら託されている可能性を考え、しかし、それを言葉にして問うのはやめて、並んで歩き出す。

 やってくる春に自分の服も買い替えなければならないこと、そういったこまやかな悩みに集中し、鬼切丸のなかで見聞きしたことなど全てを忘れ去ってしまえるように思うことをやめた。

 すべて心一つのことだった。渡辺は笑っている。

「解らんなあ——」

 桑原が呟いたのは、別段、唯一の未来ではきっとなかった。

 これから新たに始まる季節の物語の、まだ、触りの部分だった。

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氷鬼鏖殺ヒロイズムディープダウン @Tatsumi6

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