三鬼先生の金曜日

丹路槇

三鬼先生の金曜日

 「はい、研修医の三鬼です」

 金曜日、午後六時半。首から提げたIP電話の呼び出しに応じて、会議室を出た廊下の隅ですぐに立ち止まる。

「救外看護師の磯です。先生、今近くに神藤先生っていたりしません?」

 連絡をくれたのは救急診療センターの外来リーダーだった。今は時間外診療の時間で、内科救急と事故・外傷関係の外科、整形、脳血管の各チームのドクターが当番制で外来にいるはずなのだが、磯看護師は小児科の指導医を探しているようだ。スマートウォッチの小さな画面をスワイプさせてLINEやメールの新着を確認したが、神藤助教からの一報は来ていない。

「すみません、自分さっきイブセミ終わったところで、午後から顔見てない気がします」

「そっかー、私も今日どこかで先生見た気がしちゃって。今、待合で一歳の男の子がアレルギー疑いで来てるんだけど、小児の先生まだ下りてきてないんですよ。どうしましょうね」

「あ、思い出しました。午後大学で講義って言ってたかもです」

「じゃあ戻らないかー。普通に今日のお当番の先生に電話してみます」

 当番医が来るまでの間でよければ救急に顔を出そうかと申し出ると、リーダーは安堵した声で「助かる」と言って電話を切った。

 会議室の少し先にある、スタッフ通用の階段で一階までかけ下りる。途中で五階のこどもセンターに顔を出すか一寸迷ったが、もう当番へは磯さんが直接連絡しているのだろうし、寄り道せずに階段からすぐの救急受付へ出た。

 大学附属病院の中では比較的小ぢんまりした規模だが、ここも一応は急性期病院なので、時間外の救急搬送やウォークインの件数はままある。特に湾岸地域の立地ということもあって、近医にはかからずわざわざこの病院で選定療養費を払ってでも受診したいという患者の割合がすごく多い。クリニックや医院よりも大きな病院に行けばすべての問題が一度に解決すると思ってのことかもしれないけれど、ただの風邪ならだんぜん近隣で受診する方が適切な治療と処方を受けられると俺は勝手に思っている。

 今の小児患者も、突発で症状が出て驚いた家族が駆け込みで連れてきた受診歴なしのパターンだった。数日前に花粉症の症状で近くの眼科を受診している。薬手帳は持参してきていたが、直近の受診が院内処方だったらしく、シールの添付はされていなかった。

 子どもの様子を見ると、確かに眼球が赤みがかっているが視線ははっきりしていて、肌の火照りや青ざめた様子もなく、呼気も落ち着いている。心雑音なし、脈は正常、サチュレーションも問題は見られない。当人はけろりとした様子だったが、母親はひどく狼狽えていた。

「今まで食事は普通に食べていて、お腹の風邪も引いていなかったんですけど、夕食で急に吐いて……食材は記憶にある限りぜんぶ問診票に書いたんですが、普段は問題なく食べられるものでした。下痢も発熱もありません。今も舌に違和感があるのか……時折身震いするんです。これってひどくなりますか、先生」

 こういう時、先生と呼ばれるのは結構窮屈なものだなと気が滅入る。責任を放棄したいわけではないが、神託みたいになんでも正解を授けられるものではないし、あくまでも症状のヒントからこうではないか、という推論で治療方法を提案することくらいしか、研修医である今の俺にはできない。医師免許を取得した時点で同じ病院にいる教授や診療科長と役割は同じはずだけれど、その推論を導くにはあまりにも経験量の足りない、半人前もいいところだ。

 今も、母親から聞く症状の検討で、点眼薬で味覚変化を起こし苦みが強くなったのに驚いた小児が嘔吐したのでは、という推測以外の対論が思いつかなかった。純粋に胃腸炎かもしれないし、今まで感知していなかったアレルギーを新たに発症しているかもしれないし、症状はないが感染症の予兆である場合もある。それならすべての検査をこの場で実施する? 明日の日中に再診してもらうまでの今晩の対処療法として、正しいものはいったいなんだろうか。

 カルテの記載をしながら母親に既往歴を説明してもらい、診察室内で再度小児の検温をお願いしているところで、当番のドクターが救急外来に到着した。

「お待たせしました。三鬼先生ありがとう。お母さんこんにちは、続きは私の方でお聞きしてもいいですか」

 ターコイズブルーのスクラブにキャラクターのワッペンをたくさんつけた姿で現れた小児科の与田医師は、スタッフ通路から背もたれのない丸椅子を引っ張ってきて、診察ベッドと患者親子の間に座った。

 電カルのモニターを当番医の方へ引き寄せ、記入事項を示しながら今までの申し送りをすると、彼女は何度か小さくうなづいて、あとは任せてと言って俺の離席を促した。せっかくだからこのまま残って最後まで診察してみろとか、今から続きをやるから見ておけとは指示されない。医師の働き方改革の影響か、月間で四十時間の時間外労働を含みで基本給を与えられている研修医にも、必要以外はすぐに退勤せよという風潮が浸透している。

「お邪魔しないので、後ろに残っててもいいですか」

「いいけど先生、月末で超過時間まずくなるんじゃ?」

 そう言って俺をいなした先輩は悪くないのに、椅子を立って診察室のカーテンまで下がった俺は彼女をきっと睨んで「自己研鑽です」と返した。

 入局五年目の先輩がする触診や問診での聞き取り、所見から症状の検討までの流れをメモしながら、この先いつの時点でこの手技や知識、技能を自分のものとして習得することができるのだろうと途方に暮れる。卒前に学習して詰め込んだ知識のほとんどは国試攻略ゲーム仕様にされてしまっていて、それを実際に各科にローテして現場で見聞きしたものとひと繋ぎにするまで大変な時間を費やしている実感があった。

 与田先生は嘔吐の原因を咽頭の炎症による食事拒否に依るものと判断した。点眼薬による味覚の変化は可能性としてはありうるが、点眼を停止するほどのものではないとし、炎症止めと発熱時の頓服を処方する。感染症はもちろん、アレルギー検査もしなかった。

 こういう、本当にこれが正解なのかと思えるような診察の様子を、ポリクリの時から何度も見てきた。今晩もそのうちのひとつにカウントされるわけだけど、それってたぶん、俺がまだ学生の視点で現場を見ていて、医師という役割を持つひとつの個として自立できていないからなのだろう。

 それで、これが今週最後の仕事になったということか。まあ仕方ない。もともと日々の躓きをひとつひとつ思い悩むような性分ではないし、病院を出てオフの時間に、はっと記憶を呼び起こして気に病むなんてこともないから俺は別に大丈夫。

 診察後のカルテ記載を補助し終えると、これから夜勤帯で勤務するドクターに挨拶をして、救急診療センターを出た。磯さんはスタッフ通路の隅でパソコンを打ち込みながらメロンパンを食べていた。やや大袈裟に頭を下げるこちらに気づくと笑顔で手を振ってくれる。

 

 午後七時四十五分、着替えの後にナチュラルローソンへ立ち寄ったら既に格子状のシャッターが閉まっていた。夕食の選択肢がひとつ消えて、他にいくつも思いつきそうな代案がまったく考えられなくなり、その場でぼうっと立ち尽くす。すぐ隣にあるタリーズコーヒーの店内もすっかり照明が落ちて寒々しく映っていた。もう食事を準備するのも億劫になって、とりあえず駅まで歩くことにする。このまま職員寮の自室に戻れば何日も買い忘れている日用品を今日も得られず少し不便な週末を迎えるような気がしていた。

 後ろで階段を下る微かな足音がする。ちょっとした期待をこめて白い鉄扉を振り返ると、ドアが開いて黒っぽい服の男性が出てきた。こちらへ近づいてきたのは学生の頃から知っている、事務職員の能崎さんだった。今は病院の事務部で庶務をやっているらしい。

 俺がぺこりと会釈すると、向こうは相手が誰なのかよく見えていなかったのか、控えめに「お疲れ様です」と返した。

「能崎さん」

 ジャケットのポケットに両手をつっこんだまま、小走りにドアの方へ寄っていく。

「声で分かった。三鬼先生じゃん、今日遅いね」

 俺を認識した能崎さんは、眉尻を下げて少し眠そうな顔になった。

 少し前に、この南階段の踊り場で、ひとり寂しく短いひとりランチをしているところを見つけられてから、彼は俺と昼休憩時間の外食に何度か付き合ってくれている。かつては症候学のレポートで催促をもらったり、定期試験で監督をやっていたひとが、今は同じ勤め先の同僚だというのが今でも新鮮だ。

「でも明日休みだから」

「夜勤もないの? へえ、じゃあ飯どう、予定なければだけど」

 首から提げた職員証のストラップを外してくるくると紐をカードのまわりに巻きつけると、野崎さんはそれを長方形のリュックの中へしまった。コートの前開きをのぞくとネクタイは既に解かれている。彼が日頃、周りから自分がしっかりしていないようには見せないひとだと思っていたので、その隙を発見できたような気になってじわりと喉元が熱くなった。

「能崎さんは、まっすぐ帰らなくていいんですか」

 警備さんに会釈してふたり並んでエントランスを出ると、外は風が無くてもしんしんと凍みこんでいた。問いかけに怪訝そうな顔をして「なぜ」と返す能崎さんの手元を指さす。

「結婚してる」

 ああ今の、すごく子どもっぽくてかっこ悪い。能崎さんの吐く息の白がふわっと前に浮かんだ時、きっと笑われたんだろうと思ったけれど、次に目が合った時に瞬きした双眸はすっきりと冴えていた。なんだそれ、って吹き出されて終わったらむしろそっちの方が楽だったかもしれない。手の甲を上にして五指を開くと、彼はそれを物珍しそうに見るみたいにして、それから小さくうなづいた。

「ああ、子どももいるよ。で、飯行くの」

「行く、酒飲んでいいですか」

「もちろん」

 能崎さんが連れて行ってくれたのは、埋立地の間を渡した橋を越えたところにある、老舗のもんじゃ焼き屋だった。古い畳が店の半分に細長く敷かれていて、座敷にはスーツ姿の男性たちが団体で入っている。テーブルに女性客、親子連れ、ひとりでスポーツ紙を読んでいる常連さんらしき客もいる。油が染みこんだ懐かしい匂いがして、夕食を撮らなくてもいいと思っていた胃袋がきゅるきゅると動いた。

 とりあえずビールと枝豆。若いバイトの女の子がエビスの瓶とグラスをふたつ持ってくる。好き嫌いは、と尋ねられ、正直にキムチ以外なら平気だと答えると、「カレーはいけるのになんで」と今度はちゃんと笑ってくれた。

 牛スジもんじゃとホルモン焼きを注文してから、焼き上がりを出してもらえると書いてあったモダン焼きを追加で頼んだ。能崎さんはグラスにビールを注ぐのが上手で、二度注ぎして泡がグラスの縁より少し上まで立ち上がるのを見せてくれる。

「美味しそう、乾杯しましょう、早く飲んでみたい」

「いいよ、中身ふつうのビールだって」

 両手でグラスを持ってお疲れ様です、と少しだけ傾け、すぐに口元へ白い泡を寄せていった。ごくっと喉を通って滑り落ちるビールはやっぱり美味しい、でも変な感じだ。能崎さんと仕事帰りにふたりで飲みに出かけているのが今でも信じられなくて、足の置き場をそわそわと入れ替えていたら隣に置いていたダウンジャケットを下に落とした。

 能崎さんがもんじゃの土手を作ってくれる間、板間の方についているテレビをぼんやり眺める。トーク番組のゲストでアップになっている女優の顔も名前も知らない。途中から聞こえてくる演者たちのやり取りも内容がよく分からなくて、結局は空きっ腹にビールをちびちび流すことしかやることがなくなった。枝豆は温かいがやや水っぽい。夏はホイルで包んでグリルで塩焼きすると美味しいと教えてくれる能崎さんは、鉄板でも手際が良かった。

「好きなんですか、こういうの」

「粉もんなんて、みんな好きだろ」

「ちがう、料理するのが」

 器用な両手に握られたへらが小刻みに動いて生地を薄っぺらの均等に形を整えていく。香ばしいぷつぷつの小さな泡をいくつも吐きながら、膨らんでは平たくぺしゃんこになってを繰り返した。彼はヘラの先についた茶色い髭みたいな焦げをこそぎ落とし、自分の取り皿の上に置く。

「なんでも自分でそこそこにできる方が落ち着くんだよ。見栄張りたいっていうか」

 もう食えるぞ、と言われて、手元のハガシを取って生地の外側に置く。

「いただきます」

 鉄板と挟んで焼き目をつけながら貼りつけたひと口サイズのもんじゃをぱくりと食べた。美味しい、匂いがいい、丁度いい塩気でビールが進む。右手でいそいそとハガシを動かしながら、空になったグラスへ均等にビールを注いだ。注ぎ口を真下に向けてぽたぽたと滴が落ちるのを自分のコップで受け止めてから、フロアにいる店員に「おかわり」と空瓶を渡した。


「落ち着くっていうのは分からないけど、能崎さんそれですごいかっこよく見えます」

「そりゃどうも。実際はいろいろ不器用で、すぐにぼろが出るからさ、何するにも丹念に練習してるわけだけど」

「ぼろってどこで出るんですか」

「あちこちで。お前もっと器用そうだからな、分からなねえだろ、凡人の苦労ってやつ」

 ほらこれも、とヘラでごっそり取ったもんじゃ焼きを取り皿に盛られ、持っていたハガシを箸に持ち替えた。底がぱりぱりに焼けていて齧ると香ばしさが口の中にふわっと広がる。食べやすくなった生地を頬張りながら次は何焼きますか、とメニュー表を持つと、よく両手が動くなと笑われた。

 この際だから取り繕わず有り体に言うと、マスクをしていない能崎さんはドンピシャに俺好みの男性だった。自認する性対象が同性に限ってはいないが、俺には女性としか付き合わないとか結婚願望に強いこだわりがあるわけでもない。昔からいいと思うものの選択肢を制限する考え方が好きではなくて、それでたぶん、自分の同期や身近な人間と丁度良く付き合うのがあまりうまくできなかった。

 こんな俺を、それこそ彼は、日頃の丹念なトレーニングのおかげで他の人間と分け隔てることなく接することができているんじゃないだろうか。純粋に学生へ仕事としての愛情を注いでくれるひととして、魅力的な職員だと思っていた。当時は医学生のほとんどが能崎さんになら叱られてもいいと思っていた気がする。まあ、友人のいない俺がそんな気がする、と勝手に決めているだけなんだけれども。

 厨房から頭にタオルを巻いた店員が現れて、武骨な声で「モダン焼き」と告げると小さな鉄板を置いていった。網状に塗られたマヨネーズの上で鰹節がおどっている。ほかほかに膨らんだ分厚い記事は縦に入れたヘラにむにっと豊かな弾力で応えた。

「はあ、美味そう」

 能崎さんが解けたため息を漏らす。次もビールでいいかと訊ねると、正解が別にあるみたいに眉をひそめ短く唸った。

「じゃあ、ハイボールは好き?」

「好き、先生は」

「なんでも飲めますよ。焼酎でもワインでも」

 何が好きかを聞いてるんだよ、とややしつこく食い下がる能崎さんを諌めて、店員に手を振ってハイボールふたつを注文した。メガだとお安くなりますが。じゃあそれで。彼に背を向けて注文しながら、体内に酒が巡っている思考でぼんやりと夢想する。

 彼が持っているヘラを両手から取り上げて、能崎さんが好きだよ、と言う。鉄板越しに額にキスして、そうしたら能崎さんは俺にどんな返事をくれるだろうか。ばか、酔ってるのかって言って軽く突き飛ばす? 真面に男は無理ってカットアウトするかな。酒の勢いに任せて、子どもにも似たようなことをされた、とかで許してくれればいいのに。

 モダン焼きを綺麗に六等分すると、能崎さんは「便所」と言って席を立った。テレビはいつの間にか九時のニュース番組に変わっている。並びにいた団体のスーツ客が会計を済ませて席を立ち始めていた。ジャケットを適当に丸めて、自分の荷物を能崎さんの座っているところに移動させる。四人席で向かいに座っていたのを、横並びに腰掛けるように配置を変えた。メガジョッキのハイボールがふたつ運ばれたので、テーブルの両脇に置いた。鉄板の火を調整していると、隣の宴卓に残った鯵のなめろうを見つけたので、店員に同じのをひとつ追加と告げておく。

 

 トイレから戻った能崎さんは、「なんだこれ」と言いながら、あっさり俺の隣に座った。

「さっき、つまみ勝手に頼みました」

「いいよ、まだ腹減ってる?」

「今はいいです。落ち着いたらまた。時間平気ですか?」

 吐く息とともに、うん、と返事した能崎さんは、スーツのポケットから取り出したスマホをテーブルに置き、その隣に外した腕時計を並べた。通知で光ってロック画面の写真が見える。てっきり家族写真が見られるかと思ったが、映ったのは猫たちの寝姿だった。

「これ、姉貴の家の猫。白と灰錆」

「愛嬌ありますね。お姉さんと仲良いのもいいな」

「向こうにも子どもふたりいるからさ。うちのが小さいから、連れてくと喜ぶんだよ」

「へえ、じゃあ奥さんも?」

「いや」

 言い淀んだのをごまかすように、能崎さんはハイボールのジョッキを傾けた。大きなカットレモンが氷の上を滑って唇をつついている。仕草を合わせるために鏡写しになるように左手でジョッキを持ち、能崎さんが飲む量に合わせて喉を鳴らした。ハイボールを置いておしぼりで口を拭く仕草も真似する。こちらをじっと見たままおしぼりを持つ手を止めた彼が、何かを言いかけるより先に店員がなめろうの給仕に来た。

「……好きで付き合ってる相手なのに、それでもたまに可愛くねえ時ってあるだろ。母親が息子に思うのって、同じような感じなのかな」

「可愛くないって言われる?」

「さすがにそこまでは言わないけど。まあ真面目なんだよ、自分がやった分の責任は取るって感じの人間でさ、その責任取ったの基準っていうか、何かを満たしてるって本人が思ってる時、こっちが気抜けするほど無関心になる」

 ぽろぽろと弱音をこぼす能崎さんを見て、ああよかった彼も人間なんだ、と思った俺はひとりよがりの嫌なやつかもしれない。何をするにも怠けられないのは、見栄を張っているではなく彼の誠実な性格に依るものだろう。もし少しでも適当にやり過ごせばいいと思っていたら、共用試験前の学生に文集の寄稿に書き直しを促す連絡なんてしないし、わざわざ教室に連れて行って自分の業務時間を潰してまでその推敲にまで付き合わないはずなのだ。

 臨床実習の時に配布された文集『ヒポクラテスの若葉たち』の配布された冊子の殆どは、教授室や医局の棚に飾られるだけでその役を終える。ところがその年は、ポリクリ中に指導を受けた本院の病院長から、俺の立志文を読んだと呼び止められた。将来の進路をまるで決めていないと書いていたのは三鬼だけだったと、それが正直でよろしい、この期間に指導医に存分に頼りなさいと、こちらが驚くような激励をされたおぼえがある。

 その言葉は俺ではなく、能崎さんの誠意に向けられたものだとすぐに理解した。ひととは違う特別なものを持っているのが彼なのだとずっと思っていた。ただ勉強するのが性に合っていただけの医学生とは別の、自分で己の生き方を決められる、選ばれた人間なのだと。

 でも、彼も才能だけでこうはならなかったのだと、臨海病院で再会してからの彼に思う。

「じゃあ今日、子どもどっか預けてるんですね」

「そう、この猫の家ね。姉貴が面倒見るの好きで。嫁も今日、自分の実家に遊びに行ってていない。俺はいても役に立たないって言われてて、明日の朝に姉貴の家へ迎えに行く約束してる」

 なめろうの小鉢をふたりの間に置き、遠慮しないで食べますからと言ってさっそく箸を伸ばした。俺は左利き、能崎さんは右利き、「おれも鯵食うよ」と箸を取った彼と、また線対象の関係になる。

「別に、おれの家だけだからね。一過性のことかもしれないし。お前これで結婚に失望したとか言うなよ」

 億劫そうに瞬きした彼がほんのり紅くなった顔を軽く傾けながら、これ美味いな、となめろうを続けてつまんだ。休日の能崎さんがどんなふうに家族に尽くしているのか少し想像してみる。仕事の時みたいに感情は常に平穏に、気を張って自分にばかり役を負わせて、妻の小言や嫌味を聞きながらそれを宥め、飽きずに小さな我が子と遊ぶ。綺麗なフローリングの上で息子とじゃれたり、おぶったり抱き上げて運んだりしてどこかへ出かけたりする姿を思い浮かべるのは不思議とあまり嫌ではなかった。むしろそういうままならないものを傍に抱えて過ごす彼に、渇きのような蠱惑(こわく)をおぼえる。

「結婚、もともとそんなに希望抱いてないから大丈夫です。でもいいな、子どもと過ごすって、考えてなかった。やってみたいなとは思いました」

「そっちか、珍しいな。おれは自分の子なら可愛いけども、他の家の子どもはわりと苦手。可愛いって思うことがほぼないし、知り合いの子だからって情も湧かないし、急に煩くされるともう関わりたくなくなるしな」

「ふふ、辛辣」

「そんなもんだろ」

 ジョッキの中で氷が転がる音を鳴らしながらハイボールを流し込む。それも能崎さんの動作に合わせるから向かい合ったあちらのジョッキの底にぶつからないように少し体を後ろへ退けた。俺の飲む方が少しペースが早い。酔いで潤んだ目を細めながら箸を伸ばす能崎さんの手にわざと自分の箸先を当てた。

「ごめんなさい」

 用意していた通りに謝ると、彼はふと左手を持ち上げた。ジョッキを持たない乾いた片手。指輪を嵌めた薬指が苦しそうにしている。

「先生、今日はおれと妙に気が合う」

 そう言いながら、耳の上で好き勝手に縮れている癖毛をくしゃくしゃと撫でられた時、わっと叫び出さなかった自分を褒めてやりたいと思う。

「子ども好きなら、行くなら小児とかかなぁ。忙しそうだけどな、そんな安易じゃないか」

 普段からぼさぼさの髪をさらにかきまぜられて、目の上に知らない場所の毛束がばさっとかかった。退勤間際の救急外来で診た患者とその母親の姿がふと思い浮かぶ。もはや服装も顔立ちも記憶がぼやけて定かに見えることはなかったが、それがもし能崎さんの妻子だったと現実にはまずありえないことを考えてみた。たとえ診療の間にそれを知ったとしても、俺は今日の自分ができる所見からの推論しか導き出せなかっただろうし、目指すべきプロフェッショナリズムから遠く及ばない鍛錬不足の研修医身分を呪いながら、診察室の後ろで居残りを申し出て勉強して帰っただろう。しかも、次に能崎さんと昼食に出る時までにはその出来事の症例以外の情報についての関心がすっかり薄まってしまい、彼に話すどころか忘れてしまっていそうなところが、なんだかんだで俺は医者に向いているのかもしれないと思えた。でも、もし本当に奥さんと息子が今日の患者で来ていたら、この先自分が小児科に入局しようという気はきっと持たない。

「はあ、今週の俺、頑張ったなぁ」

 癖毛でくしゃくしゃ遊んでいた能崎さんの腕を押しのけて、彼の頭を両腕で抱きこんだ。さらさらの黒髪が鼻面に当たる。シャンプーの匂いが妻帯者らしい花香っぽい感じがして可愛いなと思った。囲った腕の隙間から見える能崎さんの耳は真っ赤だ。

「……なに、これ」

「なんでもないです」

「なあ、放せって」

「医者でもまだ研修医だもん、努力したら褒められたい。よくやったって労われたい時あります」

「労うっていうか、これお前、ちがうだろ」

「ちがくないです。部活の大会で負けて悔し泣きとか、みんなこれくらいするでしょ。わりとあってる」

「あってるってなに……おい、三鬼」

 下から涙声が聞こえたので、少し飲ませ過ぎてしまったかと思って腕の力を緩める。店員が空いたテーブルの片付けと水拭きを始めていた。スマートウォッチに映る偽物の長針と短針が十一時を過ぎたあたりを示している。そろそろ能崎さんの電車の時間に気をつけなくてはと考えてから、ふと先の呼びかけに返事をしていないことに思い至った。

「はい。三鬼です、能崎さん」

 電話に出る時と同じ温度の少しよそゆきの応答は、俺は平静だとわざわざ言っているみたいでとても格好悪い。 スーツを着たままの能崎さんの腕が伸びて、上から覆うようにしていた俺の肩をぐいと押し返した。ふたりの体が離れる。真っ赤になった耳がじんじんと音がしそうに熟れている。このひと、男が苦手なのかな。だとしたら彼にとって俺はまずナシだ。いや、そもそも奥さんと子どもがいる時点でその検討すら意味がない。

 その気が無くても、教務課の事務員と学生くらいの距離感のまま、出来の悪い研修医を時たま可愛がってくれるだけでいい。それで俺は、好きなひととたまに食事に行くという欲求が満たせるし、能崎さんがもう少しこれに慣れれば、また家庭の不満を吐き出して今よりも多少は楽にさせてあげられるかもしれないと思った。再来年度、どこかの科に入局するまでは、もしもそれが別の附属病院でも、また数年後に異動した彼が同じ場所へ巡ってきたら、この前のように俺を憶えて見つけてくれたりするだろうか。

 まだ飲みますか、と尋ねながら、座卓にある会計の伝票を自分のそばへ引き寄せる。別れ際のせりふを真剣に吟味しつつ対面にあるダウンジャケットに手を伸ばした。

 これに懲りず今度も飲みに付き合ってください。次に昼出る時、また電話します。こういうの久々で楽しかったです。

 ああ、ぜんぶうまくいく気がしないな。きっと俺の言葉足らずを察した能崎さんが「急に付き合わせて悪かったな」と言って、店を出たらけろっとした顔をして電車に乗り、ひとつの波風も立たずに解散するのだろう。来週、院内のどこかで顔を合わせた時、楽しかったとかまた美味いもの食いに行こうとか当たり障りのない言葉と笑顔であっさり終わってしまいそうだ。

 顔を伏せたまま、能崎さんが乱暴に襟足を掻いている。耳の後ろにほくろを見つけて、過去に何度も誰かに対して同じ思いを抱いたように、それを指の腹でぐっと押してみたい衝動に駆られた。衛生観念でいえばもちろん触れなければいいに決まっているのだが、綺麗な肌にくっついた印は触って確かめたくなる。もちろん、そんなことはしない代わりに「じゃあ会計して出ましょう」と席を立つよう促した。

「待て、今立てない」

 うなだれた背から情けない声が漏れる。

「うそ言ってないで。……能崎さん、本当? トイレ行く?」

 慌てて土間へ下りて立ち上がった俺の腕をぐいと掴み、彼は抱きかかえられるのを待つ子のようにぼんやりとこちらを仰ぎ見た。整った前髪が流れて額があらわになる。眩しそうに細められた両眼には今も涙が残って濡れていた。不意に湧いたわけのわからない悔しさでいっぱいになりながら、力の抜けた能崎さんの体を持ち上げると、満足そうな彼からふわっと気抜けした笑顔がこぼれ出る。

 

「どの店入る、次」

「どこでもいいですよ。もうほとんど飲めないでしょう」

「飲めないおっさん捨て置かないでえらいね、お前は」

「置いてかないです、もったいないもん。ほら能崎さん、ちゃんと立って」

 もんじゃ焼き屋を出ると、駅前の道は車通りもなく眠ったように静かだった。タクシーもつかまらなさそうな終電間際の埋立地の片隅で、まだしばらく営業している飲食店をぶらぶらと探す。

 俺の肩に腕をかけて歩く能崎さんが、寒さに小さく身震いして洟をすすった。

「寒いですか?」

「いや……サイレン聞こえた。救急車来た?」

「今はどこも。ほら、見つけたところ適当に入りますよ」

 あたりのあまりの静けさに耳奥でシインと自発耳音響放射が鳴るくらいだった。吐く息の白の方がうるさく感じる。交差点の向こうに見える道路にもヘッドライトひとつ映らない。空耳が聞こえた能崎さんは感性が繊細なひとなのだと思った。俺の方は徹底したノイズキャンセリングが働いて、とっくに救急車のサイレンに体が反応しないようになっている。

 一台も車が通行しない道路の前で、赤信号に従い真面目に立ち止まった能崎さんは、後ろを振り返って自販機を見つけると「水、買いたい」と言って足を踏み出した。つま先がカラータイルを敷設していた歩道の微妙な盛り上がりにつまづく。ぐらっと上体が傾いて、能崎さんがアスファルトの上に落ちそうになるところがぱっと脳裏に浮かんだ。

 バランスを整えるために後ろへ持ち上げられた彼の右腕をさらにぐいと自分の方へ引く。

 能崎さんの顔が接近する。寒さで驚いたのか、眠気が滲み出たのか、彼の頬には所以の分からない涙の粒がついていた。

 泣いたわけではなかったのかもしれない。知らない間にジョッキの水滴をつけてきただけかも。さし損なった目薬とか。いや、もうそれがなんだっていい。

 俺が彼の頬の上にびたんと手のひらを当てると、うわっと大きな声を出された。掴んだ腕をそのまま組んで、自販機から遠ざけるようにぐいぐいと次の交差点へ向かって能崎さんを引っ張っていく。

 ネクタイを外した襟元が寂しいのか、彼が空いた手で上着のボタンの上を固く握った。鏡合わせになるように反対の手でそれを真似しながら、信号の先にひとつ店を見つけたことを告げる。

 吐く息が澱んだ声のかたちみたいになってふたりの間に挟まった。避けるよりも先に透けてなくなる向こう側で、今度は彼が俺を映したみたいに、同じ速さでぱちぱちと二度、瞬きをする。

 

〈続〉

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

三鬼先生の金曜日 丹路槇 @niro_maki

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ