次の満月の夜には
ノックの後に、老執事の渋い声色がドアを越えて届く。
「ぼっちゃま、お食事のご用意ができました」
学校の宿題を丁度終えた短躯な少年は、両腕を伸ばして勉強疲れのたまった身体を解す。
「分かった。すぐいくよ」
勉強も食事も面倒だと言わんばかりの気だるさを隠すことなく、緩慢な歩みで食堂に向かう。後ろを歩く老執事が嗜める意味で軽く咳ばらいをするが、少年はどこ吹く風だ。
「今日はどこだっけ?」
「
軽い頷きで返事をし、赤い絨毯が敷かれた廊下を歩く。すれ違うメイド達の恭しいお辞儀など、視界の端で捉えるのみで、少年は興味の欠片も示さない。
メイド達の中に、老執事とともに智美の前に現れた老婆が混じっていることにも、少年は気づかなかった。
気品のある白のテーブルクロスの上に、豪華な食事が並んでいる。
黒みが強い赤のスープ。
皿の中心に盛られた少量の葉物野菜の周りに、ピンク色の薄いロースト肉が綺麗に並んだプレート。
食べやすい薄さに切られたバケットと、パンに塗る用の生肉のペースト。
チーズの盛り合わせ。
そして、一際目を引くのは、大きな肉の塊を切らずにそのまま焼き、そのまま皿に乗せただけの豪快なメインディッシュ。
普通ならば小学生の胃袋に収まる量ではないが、少年はこの量を一度の食事で平らげる。
少年が着席すると、老執事の手でナプキンを胸にかけられる。
「じいや。膝の上に置くだけでいいって。大人はみんなそうしているじゃないか」
「それは大人になってからお試しくださいませ。よくこぼして、よく服を汚すぼっちゃまはこれで良いのです」
正論を返され、少年は不服そうに口を尖らせる。反論してやりたいが、言葉の応酬で海千山千のこの執事に敵うはずもない。ふてくされてそっぽを向くのが、今できる最大の抵抗だった。
「早く大人になるために、たくさんお召し上がりくださいませ。ぼっちゃま」
厳しい躾をするときとは打って変わって、子を見守る親のような穏やかな顔で、老執事は少年に微笑みかける。
じいやはずるい。
少年は手を合わせて、食事を開始した。
猫舌なので湯気が出ているものは避けて、まずはスープを手繰り寄せる。少年が猫舌なのを知っているので、シェフは必ず冷たいスープを用意する。
くぐらせたスプーンに纏わりつくように、粘度の高い液体が持ち上がる。程よい生臭さを残しつつも、鉄臭さは抑えられている。
チーズと、ペーストを塗ったパンを交互に齧る。
人肌の生肉の味が口内に広がる。
ロースト肉も美味しいが、生肉の方が口に合う。
そして、野菜は嫌いだ。
「ぼっちゃま、野菜も召し上がりませんと」
ひっつき虫のように肉について離れない葉物野菜をフォークでひょいと避けたところを目ざとく見つけられ、老執事からお小言をもらってしまった。
こうなると、食べるまで視線が剥がれることはない。少年は鼻をつまんで野菜を無理やり口に押し込み、生肉とスープで飲み下した。
「丸飲みはよろしくありませんよ」
「食べたんだからいいでしょ。うるさいなあ」
涙目で睨む少年がいくら声を低くして威圧したところで、子犬の威嚇程度の迫力では老紳士が怯むはずもない。くすくすと笑って、空になった皿を下げて肉の塊を少年の目の前に置く。
「切り分けいたしましょうか?」
「このままでいい」
長袖を肘まで捲って、両手でずっしりとした肉の塊を持つと、少年は大きな口を開けてかぶりついた。
焼けているのは表面だけで、中身はほぼ生だ。
繊維や筋があって噛み切るのが容易ではないが、その食感も含めて、この野性味あるシンプルな料理が少年は好きだ。生きていると実感できる。
肉から溢れ出た血が、少年の口を汚し、腕を伝う。肘から垂れて白いテーブルクロスを命の色に染めていく。
あっという間に肉の塊は少年の身体に取り込まれ、皿に溜まった血の池だけが、かつてそこにあった肉の存在を証明していた。
老紳士が近寄ってきて、もぐもぐと動いている少年の口の周りを拭き、腕と手を拭いた。時間を感じさせない素早さでテーブルクロスを代え、テーブルの上はまっさらな状態になった。
そこへ、スクエア型のデザートカップが置かれた。
「デザートの"目玉のゼリー胃袋包み"でございます」
「ぼく、ゼリー好き」
ふてくされた態度も、生肉を喰らったときの飢えた目つきも消え去って、年相応の笑顔が弾けた。
"胃袋包み"を開けると、中には透過率の高いオレンジ色のゼリーが顔を出し、そしてその中央に漂うひとつの"目玉"が少年を見上げていた。
スプーンですくってゼリーを口に運ぶ。薄い柑橘系の風味の奥に、かすかに別の香りを感じた。
「うん?」
もう一口食べて、今度はじっくりと味わってみる。
何となくだが、知っている味だ。おやつの時間にクッキーと一緒に出してもらった記憶がある。
「ぼっちゃま、どうかなさいましたか?」
老執事が、デザートに変なものでも混入していたのかと不安げに問うてくる。少年は咀嚼し、嚥下し終わってから、老執事を見上げた。
「これ、ほんのりミルクティーの味がするんだよね。そういう料理なのかな?」
「ミルクティーですか……。わたくしには分かりかねますが、気になるようでしたらシェフを呼びましょうか?」
「いや、いいよ。別にマズイわけじゃないから。ぼく、ミルクティーも好きだし」
そう言うと、少年はすくい上げた"目玉"を噛み潰した。
「ねえ、じい。もし次の満月の夜が晴れたら、ぼくも狩りをしてみたいな」
「おやおや、珍しいこともあるものですね」
「だめ?」
「いえいえ。じいも微力ながらお手伝いしますぞ」
"胃袋包み"をもしゃもしゃと噛んでいる少年の口を丁寧に拭き取り、老紳士は愛おし気に笑う。
「狩りは人の動きが分散される場所がようございます。特に、待ち合わせや移動の間に急な暇を持て余したときなどに個性が現れます。じっと同じ場所に待っていられるかどうかは人によって千差万別。一時間ずっと立っていられる者もいれば、どこかのベンチで座って待つ者、喫茶店で小銭を使う者、本屋で立ち読みする者、周辺を散歩する者など、さまざまでございます」
「そんな場所あるの?」
「乗り継ぎが悪く、中途半端に待ち時間が発生するような乗り換え駅など、お勧めでございますよ、ぼっちゃま」
乗り継ぎが悪い駅の人狼 篠塚しおん @noveluser_shion
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