春来る夜のおやすみ。
@sakamono
第1話
初冬の冷たい風が葉ずれの音を引き連れて、山を駆け下りてくる。
この程度の音ならば寝しなに聞くにはちょうどよい。もう少し風が強くなってしまうと、その音は、みんなの眠りを妨げるかもしれない。冷たい風にひとつ小さく身震いして、イチカは思う。セーターにダウンジャケット、厚手の靴下まで履いていて、実際さほど寒いと感じていないのに、身震いしたことが何だかおかしくて、イチカは一人でくすくすと笑う。もう一週間、誰ともしゃべっていないから、こんなことで笑えてしまうのかもしれない。そう思ったイチカは、「そろそろ家に入ろう」と、わざと声に出して言ってみた。
イチカは腰かけていた縁側から立ち上がった。縁側の前は冬枯れの小さな裏庭。その先は、勾配のきつい
どこから電気が来ているのやら。イチカは台所に立って、練炭を入れた火起こしをガスコンロにかけた。プロパンガスのボンベを荒物屋のタカおじさんが、どこからか定期的に仕入れてくるので、火起こしも楽だし煮炊きに不自由することもなかった。目の前にぶら下がる、電灯からのびた紐を引っぱってスイッチを入れてみる。やっぱり明かりは点かなかった。停電は頻繁にあることだけれど、丸一日復旧しないのはめずらしい。送電設備に不具合があるのか、そもそもの発電量が足りていないのか。生まれてからずっと、この山間の小さな村から出たことのないイチカには、知りようのないことだった。それでも、山ひとつ越えたところの海沿いに、今は廃市となった町があって、その岬の向こうに発電所があることは、ミノリに聞いて知っていた。そのミノリは一週間前に眠りについた。とろんとした目であくびをかみ殺しながら、最後までイチカにつき合って起きていたのだ。早い者は十二月の頭には眠ってしまうというのに。ミノリが眠って、この山間の狭い集落で起きている人間はイチカ一人になった。
イチカは今年、初めて冬当番を担う。村の人間が順番に担当する冬当番。村の子供も十五の歳に、その輪に加わる。イチカは十六なのだけど、去年はミノリが冬当番をすることになったので一年遅れなのだった。最後まで起きていたミノリが、あれやこれやと去年の経験をアドバイスとして話してきた。どちらかといえば万事において雑なイチカは、お茶を飲みながらミノリの話を生返事で聞き流していた。それでミノリがむくれた。
「大事な神事なんだから、手順通りにちゃんとしないと」
ミノリは生真面目にそう言った。
「もう何度も聞いたし覚えてるよ。注連縄も幣束も用意してもらってるし」
「心構えの問題なの。前の晩からきちんと潔斎して気を引き締めて」
「はい、はい」
「滝までの道行きは落ち着いて、何があっても気持ちを平静に、絶対にあわてないで。大丈夫かなあ、イチカの性格的に――」
「大丈夫だって。一度やっただけで、そんなに先輩風吹かせなくても」
ミノリの言葉をさえぎるように言ったイチカのひと言で、ミノリが声を荒げた。
「もう! 教えないから!」
そんなやり取りの後、ミノリはこてんと眠ってしまった。まるでゼンマイ仕掛けの人形のネジが切れたみたいに。仕方なくイチカはミノリを横抱きに抱え上げ、ミノリの家まで運んだ。ひと冬を眠って過ごすには、やっぱり家族と一緒の方がよいと思ったのだ。家族のないイチカだけれど、そんなふうに想像することはできた。ミノリの家の土間に入って引き戸を開ける。四畳半の座敷に敷き詰められた厚い布団をかぶって、ミノリの両親とまだ五つの弟が眠っていた。イチカは家族のみんなを起こさないように静かに布団をめくって、弟の隣にそっとミノリを横たえた。
まったく手間のかかる。練炭の火を熾しながら、またイチカは笑ってしまう。薄暗い台所で赤々と熾きた練炭が、イチカの頬を下からオレンジ色に照らしていた。今日、零時を過ぎれば冬至になる。
その日イチカは朝の六時に目を覚ました。このところあまり食べていないから、朝は空腹で目が覚める。今年冬当番のイチカは、冬至の日まで起きていないといけないので、みんなと同じようにたくさん食べるわけにはいかなかったのだ。そんなことをすれば、たちまち春まで寝入ってしまう。お役目を果たせば、たっぷり食べてそれから眠れる。それまで今日は水しか口にできない。イチカは布団を抜け出した。まだ日の出前、真っ暗な家の中で手探りで電灯の紐を引く。朝のうちはまだ明かりが点いた。イチカは身支度を整える。メリヤスの肌着の上からセーターを着込んで、ジーンズに厚手の靴下を履いた。家の中でも吐く息が白い。
玄関の
こんなに早く起きなくても。と、イチカは思う。供物にする柚子と南天の枝。今からそれを取りに山へ入らないといけない。
「葉はほどほどについてればいいから、緑の濃いもので鋭いトゲがたくさんあるものがいいの。あ、柚子のことね」
「南天は?」
「赤い実がたくさんついてるもの。柚子は実を取っちゃってね」
もちろんイチカもそんなことは聞いていた。けれどやっぱりうろ覚えだったから、ミノリと話しておいてよかった、と思う。
「それと葉の朝露が、乾かないうちに取らないとダメだよ」
言われてイチカは、もちろん分かっているよ、という顔でうなずいた。覚えはなかったけれど。覚えのなかったことをミノリに気づかれただろうか。
背負いかごの中で枝切ばさみが音をたてる。かごの中には厚手の皮の手袋とタオルも入っている。柚子も南天も、その辺にいくらでも生えているのだけど、山から取ってこないといけないらしい。家の前から南に向いた斜面を少し上ったところに小さな社があって、その脇から杉林へ入る細い道が続く。社は、杣入りのお堂と呼び習わされていたから、イチカもそう呼んでいた。「杣入り」の意味は知らない。
イチカはお堂の裏手に回る。裏手には、近くの沢から塩化ビニール製のパイプを通して沢から水が引かれている。灰色のパイプの口から流れ落ちる水で、イチカは顔を洗って口をすすぐ。イチカの家の水道も同じ沢から水を引いていた。それで、「家で顔を洗って口をすすいでもいいよね」と、ミノリに言ってみたのだけれど、すげなく却下された。
「お願いだからふざけないで。昔は水垢離までしたっていうんだから、全然楽でしょ」
ふざけたつもりはなかった。でも今考えてみると、少しはふざけた気持ちがあったかもしれない。あの時のミノリは、悲愴ともいえそうな顔つきだった。まったく大げさな。タオルで顔をふきながらイチカは思う。そう思いながらも、イチカはしっかり杣入りのお堂で身を清めたのだった。お堂の正面に戻る。朝日が昇る前の東の空が、赤く焼け始めていた。
イチカは、お堂の脇から杉林へ続く細い道へ踏み入った。左手に谷へ落ちる斜面を見ながら、山肌につけられた平坦な道を歩く。斜面の蕎麦畑には夏の終わり頃、真っ白な小さい花が咲きこぼれていた。一面の白い花がまだ穏やかだった山の風に、さざ波を立てるように揺れた。その様子はイチカの好きな風景だった。でもそんなことを言えば、きっとミノリに笑われる。だからイチカはミノリには黙っていた。その蕎麦畑も先月刈り入れられたから、今は土がむき出しのままになっている。
夜明け前の杉林は昼にも増して薄暗かった。林業が盛んだったのは百年ほど前だと話には聞いている。その頃に植えられた杉の木が山を覆うように屹立している。今は手入れをする人間もいなくなり、枝打ちも間伐もされず、生い茂った常緑の葉はその底に届くはずの光をさえぎり、下草はほとんど生えず、杉の枯葉と枯れ枝が積もるばかりとなっていた。この道も昔は伐りだした木材が運ばれていたという。谷まで下ろした木材は筏に組んで川に流され、東の街で商品として加工された。そんな百年前のにぎわいをイチカは知る由もなかったから、目の前の杉林の風景をただ寂しいと感じるばかりだった。
しばらく歩くと道をさえぎるように沢が現れる。木でできた簡易な橋が渡してある。イチカはそのたもとに背負いかごを下ろした。右手の山の上から左手の谷を目がけて落ちる沢は、雨の少ない今の時期、流れる水も少なかった。ちょうどこの下に今夜神域となる滝がある。
イチカはひと息つくと雑多な下草を眺め、枝を切るべき柚子と南天を探す。上から下まで沢沿いには杉の植林がされておらず、ナラやクヌギの雑木の類が細長い森を成していた。その雑木も今はすっかり葉を落としている。橋を渡った先には粗末なわりに立派な炭窯を備えた炭焼き小屋があることを、イチカは子供の頃から知っていた。山遊びのついでにたまに行ってみる程度だったけれど、いつも人の気配はなく、もう長いこと使われていないのだと思っていた。
炭を焼くより練炭を買う方が手間がかからないものな。イチカは皮の手袋をはめ、右手に枝切ばさみを持って辺りをうろつく。柚子も南天もたくさんあるのだけど、これだけあるとどれを選んだものかと迷ってしまう。どれも立派に見えて、ミノリの言った条件に当てはまるような気がする。少し考えてイチカは決めた。ということは、どれを切っても同じということだよね。開き直ったイチカは手近にあった一本の柚子の木にはさみを入れる。手のひらから甲まで貫いてしまいそうな、立派なトゲが幾本も生えている。枝に生る実はもぎ取って背負いかごに放り込んだ。切った枝は柚子も南天もヒザの高さほどに切りそろえ、かごの中に収める。
さて。イチカは背負いかごを担ぎ上げた。柚子と南天、朝露にしっとり葉の濡れたそれらが、合わせて十六本背負いかごに入っている。言われた通りにやったよ、とミノリに応えるように自分のしたことを振り返る。とはいえ、その行動が合っていても間違っていても、もうやってしまったのだしどうにもならない。正してくれる人はみんな眠っているのだから。イチカは自分のやったことに問題なし、と簡単に結論づけて来た道を戻った。杉林を抜けると、東の山の端から顔を出した朝日に目を射られ、思わずイチカは目をすがめた。
熾きた練炭がいい具合になった。イチカは足下に置いてあった七輪をガスコンロの脇にのせ、火ばさみでその中へ練炭を入れる。七輪をぶら提げて居間に入るとこたつ布団をめくって、掘りごたつの四角く断ち切られた底のくぼみへそれを据えた。こたつに潜り込んで肩までふとんを引き上げる。寒くはないけれどクセみたいなものだな、とイチカは一人で笑う。当然すぐには暖まらない。明かりをつけようと立ち上がりかけ、停電だったと思い出す。柱にかかった振り子時計の時を刻む音が妙に大きく耳につく。
停電の夜はいつもランタンを使うから、ランタンはすぐ手に取れる場所に置いてあった。古い水屋箪笥の上。イチカはやっぱり立ち上がってランタンをちらりと見る。けれど結局座ってしまう。灯油がもうないんだった。イチカの使っているランタンは灯油を燃料としていた。長く眠るのだからと灯油の買い置きを止めていたのだった。最近は灯油も仕入れにくくなってきた、とタカおじさんがこぼしていた。その言葉を思い出し、来年は電池式のランタンに買い替えようか、と思う。
イチカは肩までこたつ布団を引き上げたまま、ぺたりと頬をこたつの天板にくっつける。のろのろと魔法瓶に手をのばし、湯呑みに白湯を注いでひと口飲む。白湯は杣入りのお堂から汲み置きしておいた水を沸かしたものだ。冷たい水を飲む気になれなかったから。結局早起きしても柚子と南天を取ってきた後は、特にすることもないのだった。だからイチカは昼の間、南向きの縁側に布団をのべて日に干した。今夜お役目を終えた後、ひと冬お世話になる布団。日の匂いのする温かな布団に潜り込みたかったのだ。
家の掃除は済ませてある。眠っている間に新年を迎えるのだから、家の中はきちんと掃き清めておきたかった。万事において雑なイチカだけれど、自分の住処については几帳面なところがあった。食べ物も保存のきくもの以外は昨日までに消費した。今夜食べる分をのぞいて、食べきれなかったものは畑の肥しになってもらった。
唐突に振り子時計が鐘を鳴らした。居間は夜のように真っ暗で、顔を上げたイチカの目に時計の針はほとんど映らなかった。また、ぺたりと頬をこたつの天板にくっつける。一つ、二つ……その姿勢のまま打ち鳴らされる鐘を数える。午後七時だった。後ろに両手をついてそのまま仰向けに寝そべる。あごを上げると雪見障子のガラス越しに、赤く瞬く航空灯が見えた。お腹空いた……。イチカはぼそりとつぶやいた。
零時にあと三十分というところでイチカは家を出た。玄関の軒灯はまだつかなかった。背負いかごには朝に取った柚子と南天、アルマイトの水筒に入れた御神酒、粗塩、注連縄と幣束。忘れ物のないように何度も確かめた。旧い懐中電灯をつける。黄みを帯びた淡い光が円く足下を照らす。前庭を右へ行けば杣入りのお堂。左は杉木立の奥へ小道が続く。イチカは左の小道へ向かって歩きだす。まだ半月まで欠けきっていない下弦の月が、中天にあった。
杉林の中は平坦な道が続く。山襞に沿ってゆるく弧を描く山道をイチカはゆっくりと歩く。そこでイチカは気がつく。自分の足取りが妙に重たいことに。歩き慣れた道とはいえ真夜中の細い山道。旧い懐中電灯の心許ない明かりだけでは、慎重になるのも当然のこと。けれどイチカ自身は、そんなふうに注意深く歩いているつもりはなかった。左手は柵もない、谷へ落ちる急斜面。でも崖というほどではないし周りは杉林だから、踏み外しても数メートル滑り落ちるだけで杉の根元にひっかかるだろう。
イチカは立ち止まって懐中電灯で辺りを照らしてみた。下草のない杉林の底に、積もった枯葉や枯れ枝。等間隔に整然と並ぶ木々のすき間の先は、旧い懐中電灯の弱い光は届かない。背の高い木々の茂った葉の間から狭い夜空がわずかにのぞく。
冬の真夜中なのに、しんとしていない。イチカは違和感を覚える。夏の夜ならば山には獣や鳥や虫、草木の気配がある。それらが休眠する、いつもイチカが寝入る前の冬の空気は、冷たく乾いていて、ピンと張りつめていて、山全体が眠っているようで、生き物の気配が感じられない。それが今は、周りに潜んでいるとても小さな何かが、蠢くような気配がある。そのざわめきにイチカは自然と耳を澄ます。けれど気配だけのさざめきを聞き取れるわけがない。そのことに、ますます違和感がつのる。
イチカは背負いかごを揺すり上げた。その途端、両肩にのしかかられるような重みを感じる。そのまま一歩を踏み出すと、両肩の重みがずるりと背中と腰をすべって地面に落ちる気配があった。やわらかいものがひしゃげたような音を、聞いた気がした。イチカは一目散に駆けだしたくなる。でも足が自由にならない。足がすくんだわけではなかった。水の中を歩くような抵抗があるのだ。この山道がヒザほどの深さの川になったみたいで、その川を遡上するような感じ。しかもその水には粘りがあるようで。
あわてない、あわてない。イチカはミノリの言葉を思い出す。少々歩みは遅くなるものの進めないわけではない。ゆっくり行こう。時間も余裕をもって出てきているし。
幾筋かの沢に架かる橋を渡る。橋のない小さな沢は石に飛び乗って進む。少し下り加減になるところで道が大きく右へ曲がるとその先に、水の落ちる音と伴に滝が現れた。正面に滝がありその手前は淵になっていて、淵にせり出した大きな岩で道は行き詰まる。岩は滝を望む露台のようになっている。雨の少ない今の時期、落ちる滝は細い。
やっと着いた! イチカは露台のような岩に立つ。その途端――急に足が軽くなった。不思議に思って二、三度足踏みをしてみる。さっきまでまとわりついていた粘度の高い水が、洗い流されたようだった。体全体が軽くなる。気のせい? 緊張してたのかもしれないな。イチカは岩の上に背負いかごを下ろした。懐中電灯で淵の左右の切り立った崖を照らす。夏にはしっとり濡れていた岩場の濃い緑の苔も、今は干からびて土くれのように貼りついている。
淵の周りはブナやナラの雑木に囲まれ、傍らに大きな栗の木が一本あった。そのどれもが葉を落とした枝を大きく広げている。その木々に縁取られ、淵の上にだけぽっかりと夜空がのぞく。のぞいた夜空に、半月には至らない下弦の月。イチカは懐中電灯を消してみた。ほんの少しの月の光が辺りの空気を青白く染め、淵の真ん中の丸い大きな岩を薄ぼんやりと照らす。水に浸かったその岩は、ほぼまん丸の頭だけを水の上にだしている。ご神体の、滝とその背後にそびえる頂きの献備台として、夏至祭の時は供物が供えられるという。その神事は関わりのある者だけで行われるので、イチカがそれを見ることはなかった。
イチカはまず背負いかごから注連縄を取り出して、左手のクヌギの太い幹に巻く。次いで右手のミズナラの木に。そしてそれぞれの根元に一本ずつ幣束を差す。いけない、いけない。もっと厳粛な気持ちでやらないと。淡々と作業をこなしていたイチカは、ミノリの言葉を思い出す。でも抽象的で分からないよ、そんな気持ち。無心になれってこと? 少し考えたものの結局イチカはそれまで通り、淡々と作業をこなすことにする。荒縄で束ねた柚子と南天の枝を淵に放り投げる。小さい水音を立てて落ちた枝は、水面をただよいゆっくり岩に近づく。
ふとイチカは、辺りの空気がざわざわと蠢くような気配を感じた。淵の水や岩や苔、葉を落とした雑木や常緑の杉、背丈の低い下草、それらがかすかに身震いするような。そのかすかな震えは周りの空気に伝わって、厚着の下のイチカの肌を直接刺激する。イチカは浮き立つような気分になる。まるで発泡するような空気は、次第に薄く大きく伸び広がって、やがて山全体を覆いつくす。イチカはまた耳を澄ます。何の音も聞こえなかった。でも何かが変わったという感覚がある。ピンと張りつめた冬の真夜中の、澄み切った冷たい空気が緩んだように感じられる。
最後にイチカは露台のような岩の上に盛り塩をして、アルマイトの水筒から淵へ酒を撒いた。ヒザをついて両手を組んで目を閉じ、
あれ、復旧したんだ。玄関の軒灯がぼんやり灯っていた。
イチカは浮き立つような気分のまま、軽い足取りで帰り道を歩いてきた。高揚している、と自分でも思う。大丈夫かな、これから眠るのに。とりあえずお湯につかって温まって、落ち着こう。イチカは、そのまま家の前を通り過ぎた。杣入りのお堂への上り口の手前で、右手の斜面を下る。そこには
さて。イチカは下ろした背負いかごから両手で柚子を取り出して、湯に放り込んだ。今朝、枝を刈った時に取っておいた柚子。次々に投げ入れた柚子は全部で三十個ほど。柚子は
寒いから思い切りが大事。イチカは勢いよくダウンジャケットのファスナーを下ろした。セーターとジーンズを脱ぎ、もどかしそうにメリヤスの肌着も脱いだ。その勢いのまま湯に飛び込む。肩まで湯につかって横木の丸太に背をあずけると、本当にようやくひと息つけた気がした。お腹空いた……。落ち着いたからか、空腹がひしひしと感じられる。イチカは両腕を広げて、散らばった柚子を自分の周りに集めた。家には昨日のうちに作っておいた、鹿肉のしぐれ煮と小豆粥がある。ゆっくり温まったら、ご飯を食べて布団に入ろう。
イチカは夜空を見上げる。そこには、西の頂きに近づいた下弦の月があって、さっき滝で見た時と変わらずに朧をまとっていた。
朧月? そっか、春が来たんだ。
いつもは眠っている間のことだけれど、冬当番の担当で初めてイチカは春の訪れを知った。春になったばかりの空気は、その中に何かが蠢くような気配があって、イチカはあまり好きになれないと思った。どこか不浄な感じがする。
でも、こっちはこれから冬ごもり……おやすみ。
イチカは夜空に向かってつぶやいた。
春来る夜のおやすみ。 @sakamono
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