添水の返るとき

夏目勘太郎

添水の返る時

 絶句する私の前には、見事に折れてしまった三本の矢が三束、置かれていた。


 病も長く、床に伏せている事が多くなった私は、死する前に父として三人の息子達に何かを残さねばと考えていた。

 そこでかつて酒の席で聞かされた話を思い出し、その教えを残そうとしたのだが……。

 私が残すものは別のものだという事なのか、安易に真似たいい加減な教えを残すなという戒めなのか。

 とにもかくにも、折れぬはずの三本の矢は三束とも真っ二つに折れてしまった。


「う……うむ、よくやった。しかし矢を折り方を教えるためにやらせたのではない。なぜ、私がこれをお前達にやらせたかの真意を考えよ」


 思案顔をして部屋を出て行く息子達の背を見送りながら、私は聞こえぬようにひとことつぶやいた。


「まさか折ってしまうとは」


 こーんと添水そうずの返る音が質素な庭に響いた。

 残暑は未だ過ぎる気配を見せない。




 夜になっても風すら吹かず、濛々とした暑さに耐えかねて、私は床から身を起こした。

 衰えて痩せた胸を触ると、手が汗でぬるりとすべり、ひどく気持ち悪い。

 寝汗で湿った衣を着替えようと思ったが、唐櫃からびつまでの距離を考えると、どうにも腰が重くなる。手拭が無いかと床の周囲を探ってみたが、残念ながら見つからない。

 これはいよいよ病の老骨に鞭打つときかと覚悟して腰を浮かしかけたとき「起きておられますか」と、障子向うで膝を付いて佇んでいるであろう朱鷺ときの声が訪れ、私は安堵した。


「おお朱鷺ときよ、ちょうど良いところに参った。先ほどから暑くてかなわんのだ」

「きっとそう言うかと思いまして、これをお持ちいたしました」


 障子を開け、朱鷺ときがしたり顔で手に取ったものは、手拭のかけられた水桶だった。

 地獄に仏とはこのことだ。


「お前はいつも計ったように私の欲しがるものを持ってくるな」

「あなた様の考えなどお見通しです。夫婦となって何年経つとお思いですか。ほら、着物を脱いで下さいませ」


 朱鷺ときが濡れた手拭で背を撫でる度に、不快な汗は水の冷たさに溶けていく。

 私は褌一丁で座ったまま、その心地よさに身をゆだねていた。

 ふと、肩の皺枯れた感触に驚いて、そこに置かれている朱鷺ときの手をじっと見つめた。

 二人で重ねた年月を物語るように、その手は自分と同じく、細く筋張っていた。

 玉のように美しい容姿は年相応に皺枯れ、漆のように艶やかな黒髪も今では白く色が抜けている。

 自分の顔に渡る皺と、そろそろ髷も結えなくなるほどに寂しくなった頭髪を想い、身体から力を落として達観したように呟いた。


「互いに年を取ったな」

「なんですか、いきなり」


 手を止め、朱鷺ときは訝しげな声を背に投げかける。

 きっと眉間に皺を寄せ口をへの字に歪めて、米櫃を数える米問屋の番頭のような目つきで睨んでいるのだ。

 見なくても分かる。

 しばらくの沈黙の後、「ふ」と小さく鼻息を吐き、朱鷺ときの手はまた動きだす。


「お前と連れ添って、もう五十年になるのか。思えば喧嘩も多かった気がするが、お前は良き妻であった。それに身体がこのようになってしまうと、余計にお前のありがたさが身に沁みるわ」


 かつては吉川の与一とまで言われ、得意になって強弓を引いていた腕は、今では見る影もなくなっている。


「まあ、いまごろお気付きになられましたか」

「ああ、気付いた。いつもすまん。ありがとう」


 背を向けたまま大きく頭を下げる。

 朱鷺ときの口から細く空気が漏れる音が聞こえた。

 きっと困ったような顔で薄く笑っているのだ。

 見なくても分かってしまうせいで、背を向けていても何やら照れくさい。


「そういえば、聞きましたよ。あなた様が元就公の真似をして三本の矢とは。しかもそれを折られてしまうなどと……もう、どう申し上げて良いのやら。ほれ、こちらを向いてくださりませ」


 朱鷺ときは呆れたような声で、私の肩をぱしんと叩く。

 存外に良い音がして、さらに数回叩かれた。

 ようやく向き直ると、手拭が首から胸の暑さを拭い取り、辺りの空気が冷えたように身体を撫でていく。

 実に心地良い。


「まあ、そうなのだ。しかしまさか折られてしまうとは思いもせなんだ。朱鷺、どうしたらいい」


 己の剛腕は見事なまでに息子達に受け継がれていた。

 自身の力がこのようなところで自らの首を絞める事になるとは。


「そんなことは知りませぬ。御自分のことは、御自分で何とかするのが戦場いくさばの掟ではありませんか。ほら、お手を」


 促されるままに手をあずける。

 細いその上を通る手拭が、今度は腕から熱を刈り取っていく。


「いや、そうは言ってもな。このような事になるのなら下手に真似などするのではなかった」


 今度は反対の手をあずけ、身体から去り行く暑さに満足しながら、口では後悔の念を呟いた。


「あなた様は、あの子達に何を教えるつもりだったのですか。束ねた三本の矢が折れないことではありませんでしょう」


 頭に半絞りの濡れた手拭が乱暴にかぶせられる。


「ほれ、これで頭を冷やして良くお考えなされませ」


 唐櫃からびつから着替えを取り出して私に着せると、朱鷺ときは呆れ顔で水桶と手拭をそのままに、そそくさと出て行ってしまった。


「私の教えたかったこと……」


 頭に手拭を載せたまま、私は腕を組んで桶の中に揺れる水を眺めていた。

 添水そうずが水を落とし、戻り際に「こーん」と心地の良い音を立てる。

 心なしかあたりが少し涼しくなったような気がした。




 あれから一年。

 あんなにも元気であった朱鷺ときは先に逝き、私はもはや一人で起きることもかなわぬというのに、未だ生きながらえている。

 今年もまた残暑が厳しい。

 しかし冷たい水を入れた桶と手拭を持って来てくれる朱鷺ときはもういない。

 息子達も奉公で忙しくしていて、お互いに折れた矢の答えを出せぬまま、私の命は油の尽きた灯のように今にも消えようとしていた。

 ああ、何も残せず死する不甲斐ない父を許してくれ。


「父上、起きておられますか」


 聞き覚えのある声に薄く目を開ける。

 開け放たれた戸の向こうに息子達が立っているのが霞んだ目に映った。

 三人揃うのは実に久しい。

 鷹揚に頷くと三人は部屋に入り、傍らに腰を落とす。

 珍しく神妙な顔つきをしている息子達に、何ぞあるのかと訝しんでいると、三人は畳に手を付いて一礼し、こう言った。


「一年前の問の答えがようやく出せましたのでお伝えに上がりました」

「……そうか、申してみよ」


 あの問は、矢が折れてしまったときに答えが失われてしまった。

 故に、そこに答えなど出るはずがない。出せるはずもない。

 下手な真似事をしたせいで、私は最後に己の間抜けさを悔いて死ぬのだ。

 さあ、答えとやらを申してみよ。それを抱いて死してやろうぞ。


「あの問に答えなど無かった……と申すより、父上の伝えたき事は答えの方に無かった。重要なのは答えを出すまでの過程の方にある」


 意外な答えに私は戸惑った。


「思えば、我ら三人はそれぞれ互いが積極的に関わりあいを持とうとしてきませんでした。それがあの日から一年の間、我らは互いに話し合う機会も多くなりました。喧嘩もいたしましたが、それも今は互いの思いを隠すことなく吐き出す良い機会であったと感じております。あの答え無き問は、我ら兄弟の関係の薄さを案じた父上からの意地悪な贈り物であった……我らは、そのように答えを出しました」


 不意に目頭が燃えるような熱さに襲われた。

 朱鷺ときを失ったとき枯れ果てたはずの涙がとめどなく溢れてくる。

 残された力を振り絞って出した手を握る三つの手は、どれも力強く頼もしいものであった。


「よくぞ、よくぞ、その答えにたどり着いた」


 私は必死でそう言葉を吐き出した。

 お前達のような良き息子、そして朱鷺ときのような良き妻を持てて、私は果報者であった。


 これでやり残した事はもう無い。

 これで安心して逝ける。

 心根に残る悔いはもはや無い。


 そう思うと、不意に力が水のように溶けていくのを感じて、激しい眠気が押し寄せる。

 ああ、こんなにも心地よい眠気は久しぶりだ。


 私は風を感じた。

 残暑を吹き飛ばす、秋の風だった。

 耳に遠く添水そうずの返る音が聞こえる。

 しぶとく居座っていた夏が終わり、次の季節はもう目の前に迫っているのだ。




 -了-

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