二夜

……


……


 私は走っている。


今日も残業を断れず、思ったより遅い時刻になってしまった。昨日の約束……『BAR  ノヴェレッテ』に早く行かなければ。


昨夜も騒がしかった蝶の絵を、壁から外そうと手を掛けた。どきり、と胸が騒ぐ。


蝶を構成している、青の粒子の一つ一つが。浮き出して脈打っているように躍動している。これ程に蝶の存在感があっただろうか。


少し前まで、単なる綺麗な絵だとしか思えなかったのに。片方の羽しかないから抜け出せない、もどかしいと、もがいているみたい。


なるべく本体を見ないようにして額縁を抱えて外すと、私は入れる袋を探した。むき出しで絵を持ち歩くのには抵抗がある。しかし、縦も横も五十センチはある品物が入りそうなバッグや袋など、とっさに見当たらない。


どうして、昨日のうちに用意しておかなかったのだろう。店に行くのが更に遅くなってしまう!


ソファーの上に置いてあったひざ掛けで大雑把に絵を包み腕に抱えると、部屋を飛び出した。


空には白銀の月がかかっている。


弓の様なそれからは白い光が降り注ぎ、桜のつぼみが今にも開きそうな位に膨らんでいるのが、はっきりと目に映った。……夜なのに。


予想以上の荷物の重さによたよたしながら、急いだ。橋の上に差し掛かる、もう少しで目的地。


「はあ、はあ、はあ…………あっ!!」


息を止めるほどに冷たい風が吹き、絵を包むひざ掛けが取り払われて奪われた。遠くまで飛ばされそうな布地を慌ててつかむ。


川に向かって、ぐらりと私自身が傾いだ。絵ごと川にダイブしそうになり、必死に踏ん張る。風にも更にあおられる。


水の流れに蝶の青が映った。


パリン


薄氷を踏むような響きと共に、ぶるんと一度、大きく震える額縁。


絵の蝶と水面に映る蝶。右と左、片方を補い合った蝶が完全体の姿で、ざああっと絵から飛び出す。


水に映るもう一頭の蝶とつがう。一つ、また一つ。蝶の数が空中と水の中に、次々と増えていく。


「きゃ、きゃあっ!」


数えきれない群れとなった蝶が一つの青い固まりとなって、私のいる方まで押し寄せてきた。蝶の羽が全身を順繰りに触り、繰り返し繰り返し肌を撫でて、ざわざわ打ちつけていく。


目を開けたとき。


蝶は全て、どこかへと飛び去った後。


月明かりが照らす橋の上で。蝶が抜け出してしまい、まだらにセピア色の背景のみの絵が。地面に残されていた。


「いらっしゃいませ。お待ちしていました。」


『BAR ノヴェレッテ』の扉をくぐると、青年が迎えてくれる。先程の出来事をどう説明したものか……迷った。


「申し訳ありません。オーナーから、本日は急用で来れなくなった、と連絡がありまして。」


「へっ」


「お客様さえよろしければ、お持ちした絵をお預かりするようにと。言付けを頼まれました。あの、どうかされました?」


へなへなと崩れ落ちつつ、椅子に腰を下ろした私。不思議そうな顔の青年に、絵を覆う布地を取り払い、蝶のいなくなった額縁を見せる。


「これは?」


「蝶が逃げ出したんです……」


橋の上での出来事を話し始める。


目の前で起こったにも関わらず、自分でも自分の視力が信じられないような話。幻想的、かつ非現実的。青年に信じて貰えるとは思わないが。


「それはまた……」


一言だけで黙る青年。じっと、私を見返して。やはり、信じて貰えていない。


「あなたは、『このバーテンダーは自分の話を信じていないに違いない』と思っていらっしゃるでしょう。」


「そ、そんなことは」


青年は、どこからともなく銀色のカードケースを取り出してテーブルに置いた。名刺入れより一回り大きいくらいのサイズ。ステンレス製なのか、ケースの表面が鏡のように磨かれている。


「どうぞ。覗き込んでみて。」


何だろうと思いつつ、カードケースを覗き込んだ。


「あっ!?」


私の前髪、まぶた、睫毛、唇。よく見れば指の先も。青く、深く、染まっている。着ているコートも淡く光を放っている。


蝶の鱗粉に染められたのか。


「信じますよ、あなたのお話。」


カウンターの向こうに回り何やら作業をしていた青年は、私の前に白いティーカップを置いた。


「春がすぐそこまで来ているとはいえ、夜は冷えますから。ブランデー入りの紅茶です。温まりますよ。」


甘いような香りが広がる。


「お酒が好きなのでしたら、もう少しブランデーをお入れしますけれど。」


私は首を振り、液体に口を付ける。少し癖のある飲み物は、味覚を通り過ぎると同時に、じんわりと身体を温めてくれる。


「蝶は繁殖のシーズンだったのでしょう。だからこそ絵から抜け出したくて、たまらなかったのですよ、きっと。春ですから。」


絵については僕からオーナーに説明しておきます、と付け加えて、青年は微笑んだ。


優しげなその笑みで、私は急に思い出す。


何となく蝶の絵を捨てがたく思っていた理由。その昔に、淡い恋心を抱いていた人にプレゼントされた物だったからだ。数か月だけ仲良くして、そして去ってしまった人。


カップを持つ手に貼られた絆創膏も、真っ青にきらめいて染められている。


傷が治っても、しばらくは。


絆創膏を手に貼ったままにしておこうと決めて、紅茶をもう一口。舌に含んだ。




【了】

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かたはね 小太夫 @situji

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