かたはね

小太夫

一夜

 私の部屋には、不思議な絵が飾ってある。


青い蝶の片羽の絵画。


引っ越し祝いで、誰かから貰った物。いや、誕生日プレゼントだったろうか。


絵、というのは贈り物としてインパクトのある部類だと思うのだが。何故だろう、どういう経緯でその絵を手に入れたのか、はっきりと覚えていない。思いだそうとすると頭にカスミがかかる。


五十センチ四方の額縁に、体の中心からぶつりと切り取ったような半分だけの青い蝶が。今にも飛び出さんばかりの躍動感で描かれている。


油絵ではない。水彩画、も違う気がする。写実的だが写真ではない……芸術の才能も知識も鑑賞眼も皆無に等しい私には、絵の良し悪しも含めて、詳しいことは分からない。ただ、大きな蝶の絵、右側だけの蝶の絵、というだけ。


真っ青な蝶は私の部屋にやってきて壁に飾られ、適当な風景写真に混じり、殺風景な部屋を彩るのを役目としてそこにあり続けた。何年間も、特別に気にかけていたわけではなかったが。


最近、その蝶がうるさい。


夜毎に羽ばたく音がする。


何を言っているのか、と「絵の蝶がうるさい」と他人に聞かされたなら、私も思うだろう。


ベッドに横たわり、目を閉じる。


パタパタパタ。羽音がする。


明かりをつけて辺りを確かめる。私は一人暮らしのうえに、ペットも飼っていない。窓も閉まっているから生き物が侵入した音でもなさそう。


しばらく息を潜めて耳を澄ます。特に何も聞こえない。気のせいか、と明かりを消してベッドに身体を向ける。


パタパタパタ……バタバタバタバタバタバタ。


背後にいる、蝶がいる!


一週間は、そんな夜が続いている。呪われた蝶の絵……言葉にすると、自分でもアホらしいと思う。


春になると精神の不安定な人が多くなる理由は、ホルモンのバランスが崩れるからだ、と聞いたことがある。私の今の状況も、オカルトではなく精神科医の領域なのだろうか?


今日はたっぷり二時間、残業した。疲れているというのに、帰宅するのが憂鬱で足取りは重い。もう、蝶の絵を捨ててしまおうか。


大きい物だから面倒だし、勿体ないけれど……そんな風に気持ちが揺れていた時だった。


あ。あれは私が持つのと同じ、蝶の絵!?


私の目線の先に軒を構える店。客が扉を開けたまま、そのまま店内にいる誰かと何事か喋りながら、立ち止まっている。


扉の隙間から見えるその奥の壁に、青い蝶の片羽の絵が、飾ってある。青い蝶の右側の絵が!!


もっと近くで確かめようと走り寄ると同時に、客が去って扉は閉まり、蝶は見えなくなった。


私は高鳴る鼓動を抑えつつ、店の前に立つ。脇には私を見上げるような立て看板。


『BAR ノヴェレッテ』


アンティークゴールドの文字が静かに光りながら、客を待っている。


バーということは、飲み屋。女一人で中に入るのは何だか怖い。それに、蝶の絵について何と切り出して良いものか……しばらくウロウロと軒先を行ったり来たりする。


勢いよく店の扉が開かれた。


突如として立ちはだかった重厚な扉が頭に衝突してきて、視界に星が瞬く。店名の書かれた立て看板にも接触して、ガガン、と大きな音をたてた。


「申し訳ありません、お客様! 立てますか、お怪我はありませんか!?」


立て看板と一緒にひっくり返った私を、扉を開けた犯人らしい青年が引っ張り起こしてくれる。取り乱した様子で、安否を聞いてきた。


「だ、大丈夫です。多分。」


ロングスカートと厚手のコートのおかげか、派手に転んだ割には怪我をしなかったようだ。


「いいえ、手を擦りむいていますよ。手当てしましょう、中へどうぞ。」


言われてみれば、ちくん、と走る手の甲に引かれた痛み。他のお客様はいらっしゃいませんから、と促されて、私は店の中へ入った。


ちょっと黄色味を帯びた、抑えた照明。シンプルでクラシカルにまとめられた、予想よりも広い店内。洗練された中にも、ほっとする温もりを感じさせる不思議な空気が漂っている。


可愛らしくも真面目そうな顔立ちの青年は、カウンターに座らせた私の手に消毒液を手早く塗りつけて、大きめの絆創膏をぺたりと貼って手当てをしてくれた。


「本当に失礼しました。人がいるのを確認せずに、扉を思い切り開けるなんて……」


「い、いえ。私がしばらくぼーっとしてただけなんです。気にしないで下さい。す、素敵なお店ですね!」


「ありがとうございます。」


自身のかすり傷よりも。意外と高級そうな立て看板を倒してキズをつけたかもしれないことの方が、よほど気になる。


まだ、すまなそうな表情をしている青年に。ぷるぷると首を振って、本当に大丈夫ですからと、もう一度告げる。


青年は優しげに微笑む。自分より年下かもなあ、と感じるその笑みで、私はこの店に入りたかった理由を思い出した。


「あの、そこに飾ってある蝶の絵について、詳しく聞きたいんですけれど。いつから飾ってあるんですか、何か変な事とか起こっていません?」


「はあ……」


数回、青年は瞬きをした。


「あの絵はこの店の持ち主である、オーナーが飾った物でして。何か月前だったかな、僕は詳しい由来は存じません。変な事とは、具体的には一体どのような事を指すのでしょう?」


特に絵に関する変事は起こっていないと思いますが、と戸惑ったように返してくれる。


聞き方が唐突過ぎた。だが、この際だからと。自分の部屋に全く同じ絵があること、毎晩のように絵から羽ばたく音がすることを、洗いざらい私は打ち明けた。


「それは興味深い話ですね。ちょっと待っていて下さい。」


呆れられるのでは、と話し終えて後悔をし始めた私に、青年は飾られた絵を外して、持って来てくれた。カウンターテーブルまで慎重に導かれた青い蝶を、二人で眺める。


「モルフォ蝶を模した銅版画です。オーナーが言うにはレプリカだそうですよ、この絵は。」


「レプリカ……偽物、という事ですか。」


そういえば、目の前にある絵は、私の持つ絵と全く同じ構図……右羽の絵だ。


無意識のうちに、もう半分の片割れの絵だ、と思い込んでいたが。それならば左の羽が描かれているはず。


「そうですね、偽物です。あなたの家にある絵が本物、なのかもしれません。」


ぎょっ、と青年を見返した。相手はちょっと首をかしげながら、いたずらっぽく笑っている。


「オーナーに実物を直接見てもらえば、もう少し詳しいことが分かるかもしれませんが……」


「も、持って来ます!」


「明日の定休日に、オーナーが店に顔を出す予定ですが……」


「店に持って来ます、明日! 仕事が終わって夕方になりますけれど、平気ですよね!?」


「……お待ちしています。」


扉がきしむ音が響いて、客が入ってくる。そろそろ潮時だろうと、青年に直角のお辞儀をして店を飛び出た。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る