第3話 必要な経験
みさおは死にたいと願っていた。
夫の会社は長年仕事をもらっていた親会社に仕事を切られ、自社開発でなんとか新しい局面を切り開こうとしていたが、その間全く収入がない。
自社開発など、出来上がって世の中に認められるまで収入が得られないのだ。
この恐ろしい無収入生活に入ってもう二年になった。
貯金はすぐ底を尽き、仕方なく公的機関に借金をした。
借金をするために頑張ってプレゼン資料を作ったのは、みさおだった。
プレゼンは好評で、金も借りられ、あとは自社開発のものができ上がれば、
何とかなる筈だった。
だが、一年で出来上がる筈だったものが、もう二年を超えている。
私立の一貫校に通う二人の子供の学費もままならない。
いままで買い貯めたコレクションを、毎日のようにネットオークションサイトで売って細々と日銭を稼いでいる。
借りている貸家の家賃が払えない。夫に相談しても、どこか上の空で『なんとか頼む』しか言わない。一体いつ出来上がるのだ、その自社開発は?
いよいよ、家賃が払えなくなり、仕方なく民間の金融ローンに借りた。
そしてまもなく学費が払えなくなった。
学校から電話があった。しかたなく、カードローンで金を引き出す。
しかし、返すあてがない。
こうゆうのを『なし崩し』とか『雪だるま式』とかいうのだろうか、あっという間に返済が始まった民間ローンは、金利が異常だ。
大英断した。
このままここに居たら、あとは『一家心中』しかない。
実家へ相談し、夫の実家に引っ越そう。
そう決めて夫に言うも、『行きたくない』『帰りたくない』だ。
子供か?
夫の実家に頼んで、娘の学校の学費を出してもらった。学費が払えないなら退学しかないと告げられたからだ。
息子の学校に話をしに行った。大体のことは話してあったが、さすがはカソリックの学校だ、話だけでも聞いてくれるそうだ。
学部長先生にお会いした。会う時間を作ってくださったことに感謝し、礼を述べて雑談した。この学校を選んだ理由や受験日に掲示板に書いてあった心に留まる言葉を思い返し、この学校に対する思いを伝えた。
すると、『分割納入でいい』と言ってもらえたのだ。本来なら、そんなことは出来ない相談なのだろうが、感謝してもしきれない。
息子は高校三年、あとわずかで卒業だった。
引っ越しを決めたのは卒業まであと三ヶ月、という冬だった。
そこから毎日、荷物を分別、処分を始める。同時に、夫の地元の公立高校へ娘の編入の手続きをしなくてはならない。
毎日午前3時まで片付けをして、6時まで眠り、お弁当を作り娘を車で学校へ送る。もう定期券を買うお金もない。
編入手続きのため、格安高速バスで行き来する。バスはいい、自分で運転しなくて済む。乗っている間は眠れる。
心理的不安からか夜眠れなくなった。夜中まで起きて荷物を片付けられるのはいいが、運転していて突然眠くなるのが困る。
売れるものは全て売った。
ゴミで出せるものは大きな家具も破壊して出した。
あまりにしょっちゅう粗大ゴミを出しに焼却場に通いすぎて、何度も文句を言われる。そのほかの捨てるのに金がかかる家電も大変だった。
やっと引っ越しを了承した夫がレンタカーでトラックを借り、二度ほど実家へ物を運んだ。主には息子と娘のもの、夫のものだ。
捨てたくないものも私にもあったが、考えないことにした。区別しなければ捨てるだけだ。
馴染みの運送会社の人が同情してくれて、ダンボールでさえ包めば運んでくれると言ってくれ、家電なども運んでもらった。有り難かった。
部屋の引き渡しの日、やはり無理なことに気づき、管理会社に断りを入れる。
日割りにしてもらって、何とか最後の日に冷蔵庫を引き取りに来てもらった。
紙皿と割り箸で最後の三日間は料理もしないで片付けた。
残ったのは車が一台、長座布団が二枚と毛布数枚、キッチン用のテレビが一台。
夫一人、娘一人。
高速代を差し引くと、小銭しかない。これが三人の全財産。
息子は卒業式が終わった時点で、借りたトラックと一緒に夫が実家に置いて来た。
部屋の引き渡しをして、実家に着いたのは夜だった。
夫の実家は大騒ぎだった。
大量に持ち込まれた荷物は家に入り切らず、庭にブルーシートを敷いて置かれていた。義父も義母も家の中が行き来できないと、文句を言っている。
(ここがどん底か……)
『ならば、あとは這い上がっていくのみ』と思ったが、ここからが更なる地獄の入り口だった。
実家の電話に金融ローンから、クレジット会社からじゃんじゃん電話がかかってくる。もれなく宛先はみさおだ。夫はクレジットカードをあまり持っていなかったので、社会人経験の長いみさおが自身のクレジットカード名義で金を借りた。
そんな時も夫は『頼む』しか言わない。
そんなのすぐ払えなくなるのは目に見えているのに。
みさお宛に電話がかかってくるのだから、義父母は誤解した。
『みさおが無駄遣いして借金を作った』と。
無理も無い、夫は何の説明もしないのだから。
みさおは僅かでも金を稼ぐためにパートに出た。借金取りの電話に出たくないというのもある。稼いだ金は、入ったその日に返済に消えた。
日常の食費は全て義父の年金から出してもらっていた。
高校卒業後、進学も就職も何も活動できなかった息子は、与えられた部屋に閉じこもっている。
娘は、前の学校の制服を着て地元の公立校に通い、卒業式もそのままで卒業した。
まわりの子は晴れ着に、新調したスーツにはしゃいでいたが、娘の心中はどうだっただろう。
一応、入りたかった大学の試験を受けてみたが、万が一合格しても通うことは叶わない。
夫の両親の全財産を借金返済に注ぎ込み、それでも足りなかった。
借金の恐ろしさをまざまざと知る。借りた元本の何倍にも返す金額が膨らんでいくのだ。
しかたなく、親戚にお金を借りた。
みさおは自分名義だけでも『自己破産』をしたかったが、夫が決して認めなかった。なんども弁護士に相談したが、その度夫がついて来て反論した。
夫の心情はわからなくはない、自分が立ち上げた会社を潰したくなかったのだろう。そのおかげでみさおの地獄は続くのだが。
夫は自社開発を諦め、かつて一緒に仕事をした知り合いに新しい仕事をもらった。その仕事もある日突然、夫が倒れたところで頓挫した。
救急病棟で付き添った息子と二人、向き合っていた。
『これがどん底の底か』
桜の花が散りかけた夜明けの中を、二人歩いて帰る。
『先に一人だけ死ねると思うなよ』
そう思ったら、夫は生き延びた。
入院した夫にパニックになった義父母は、みさおをなじった。
いい加減、切れた。
それまで世話になって申し訳ないという気持ちで、自分の心を押し込めていたみさおだったが、はじめて言い返した。
思えばみさおの心も限界だったのだろう。自分が『壊れた』と思った。
いままで何とか明るい方だけを見て、自分を振り返ることもなかった。
夫、子供、義父母……自分のことは考えなかった。
息を止めて死ねるかやってみる。
首を絞めてみる。
なかなか死ねない。
同じ部屋で母に死なれた娘を想像して、できなかった。
みさお自身が、母に自殺された経験を持っていたせいだ。
どん底を考えられる限り、もっと下へ落ちていけるのだ。
気づくのが遅すぎた。我慢しすぎ、頑張りすぎたのだ。
やりたくないことはやらない。
好きなものは遠慮しない。
我慢しない。
少しずつ体調が良くなって、みさおの心は立ち直っていった。
やりたくない仕事を辞め、心を動かせる仕事を探した。
心の求めるままに進んでみたら、良い職場、良い人間関係に出会えた。
出会えたことに感謝し、できる限りのことを努力した。
みさおはその中で、今まで自分の心や体をまったく
自分の体のことを真剣に考えたのは、初めてだった。
体のことを考え始めた時、出会った人が言った。
『あなたがあなたに優しくしなくてどうするの?
まず、自分に優しくしてあげなさい』
ありがたかった。そこから『気付き』が始まった。
空が毎日美しい。
風が耳に心地いい。
光や雨が美しい。
流れる雲が美しい。
体が動くことがありがたい。
朝起きて生きていることがありがたい。
布団に横たわって眠れることがありがたい。
この世界があることがありがたい。
『神様ありがとう』
そう言って、みさおは今日もこの美しい『箱庭』を生きている。
神様の箱庭 滝久 礼都 @choukinshi
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