沢田和早


 見上げれば寒中の青空が広がっている。寒さが一番厳しい時期なのに、ここ数日は全国的に気温が高いようだ。川沿いの土手に降り注ぐ午前の日差しが心地良い。


「おい、いつまで呆けているんだ。怠けてないでさっさと手を動かせ。まだまだ足りないんだからな」

「はいはい。わかってますよ」

「わかってなくてもいいから手を動かせ」


 いつものように返答に困る返事をしながら土手の土を掘り返しているのは僕の先輩だ。

 先輩は小学校で一学年上、中学校で一学年上、高校で一学年上、そして現在、大学では一学年上ではなく同級生である。先輩は一年浪人してしまったからだ。

 同級生を先輩と呼ぶのもおかしな話だが、小学校の頃からそう呼んでいるので、今更別の呼び方を考えるのも面倒くさい。先輩も「よせよ、同級生だろ」などと反論したりもしないので、そのまま呼んでいる。


「さすがにこの時期は少ないし、あんまり育っていないですね」

「まだ一月だからな。生えていてくれるだけで御の字だ」


 日曜日の昼前、アパートから徒歩十数分の土手で僕たちがしているのはノビル野蒜の採取だ。ノビルも他の山菜と同じく旬は春。なのに一月の野に出て若菜を摘んでいるのは最近野菜が高いせいだ。キャベツなどは信じられないくらい高い。貧乏学生の僕たちにはとても手が出せない。だからと言って野菜を摂取しないのはよろしくない。そんな訳で立春前のこんな時期にこうして山菜採りに勤しむことにしたのである。


「ノビルは一年中採れるから本当に助かりますね」

「その上うまいときたもんだ。これがタダってんだから山菜採りはやめられん」


 山菜もキノコ同様よく似た毒草があるので安易に採って食べるのは危険だ。僕と先輩は小学生の頃から名人に指導してもらっていたので、ノビルとスイセンを間違えるようなヘマはしない。黙々と作業を続ける。だいぶ採れたな。


「よし。これだけあれば一週間はもつだろう。袋を貸せ。ひとつにまとめる」

「はい。あれ?」


 ノビルを入れた袋を渡した時、何かが頭に当たったような気がした。見上げても青空と雲しか見えない。おかしいなあと思いながら視線を足元に戻すと白くV字型の棒が転がっている。さっきまでこんなモノはなかったはずなのに。


「何だろう、これ」


 雪のように真っ白だが光沢はない。陶磁器ではないようだ。もちろん木でもない。石、あるいは石膏だろうか。


「ほう、骨か」


 振り返ると先輩が背後から覗き込んでいる。


「骨? 何の骨なんですか」

「ロバの下あごの骨だ」


 なるほど。確かに歯のようなモノが並んでいる。しかし一目見ただけでよくロバとわかるもんだ。見たことがあるのかな。


「へええ。ロバの骨ってこんなに奇麗なんですね。持って帰ろうかな。魔除けになるかも」

「やめたほうがいいぞ。ロクなことにならん」

「節分にはイワシの頭を飾るでしょう。あれと同じですよ。もうすぐ節分だしちょうどいいじゃないですか」

「なら好きにしろ。どうなっても俺は知らんからな」


 そう言い捨てて先輩は歩き出した。僕はロバの骨を左手でつかみ立ち上がった。瞬間、奇妙な感覚を受けた。その骨がまるで自分の体の一部になったような気がしたのだ。


「こんなにしっくりと馴染むなんて。不思議な骨だな」


 骨をぶらぶらさせて土手を上がり、先を行く先輩の後を歩く。向こうから犬を連れたご婦人が歩いてきた。二三度、散歩している姿を見たことがある。軽く会釈して通り過ぎようとしたらいきなり犬が吠えだした。


「うー、うー、ばうわう」

「これ、やめなさい」


 こんなことは初めてだ。リードを引っ張って落ち着かせようとしているが、犬は牙をむき出しにして僕を睨み吠え続ける。ご婦人はすっかり困惑してしまっている。


「こいつ……」


 だが困惑していたのは彼女だけではなかった。僕もまた僕自身に困惑していた。骨を握った左手が熱を帯び始めていた。その熱の高まりとともに制御できない憤怒の感情が荒れ狂う大波のように押し寄せてきたのだ。


「黙れ!」


 自分のものとは思われぬ怒声が僕の口から発せられた。途端に犬は怖気づき尻尾を巻いて走り出した。


「きゃうん、きゃうん」

「待ちなさい、ごめんなさいね、止まりなさい!」


 犬に引きずられるようにご婦人も小走りに去っていった。僕の中で渦巻いていた憤怒も次第に収まっていく。


「おい、いい加減に左手を下ろせ」


 先輩に言われて気が付いた。いつの間にか骨を振り上げていたのだ。犬はこれを見て怯えたのだろうか。


「ああ、そうですね。ちょっと大人げなかったかな」

「相手は犬畜生だ。気にすることはない」


 何事もなかったかのようにスタスタと歩き出す先輩。このクールさは見習いたいものだ。それにしても今の感情は何だったんだろう。いつもなら犬に吠えられたくらいで怒ることなんてないのに。

 左手にはまだ余熱が残っている。いや、熱いのは手じゃない。骨だ。改めて見てみると薄っすらと光を放っている。もしや、怒りを発生させたのはこの骨なのか。


「おいおい、誰に断って山菜を取ってんだよ」


 いきなり胡麻塩頭の爺さんが声を掛けてきた。初めて見る顔だ。近所の人だろうか。先輩が何か言おうとしたが喧嘩になるのは目に見えているので僕が相手をする。


「土手は私有地ではなく国定公園でもありません。そして市役所にも確認しています。山菜は誰の物でもなくみんなの物です」

「そうかよ。なら俺の物でもあるんだな。よこしやがれ」


 爺さんの手が先輩の持つ袋に伸びた。僕の左手が再び熱を帯び始めた。抗しがたい怒りの感情が僕の中に蔓延していく。まるで左手に支配されているかのように恫喝の言葉が発せられた。


「失せろ。死にたいのか」

「な、なんでえ。やれるもんならやってみな」

「ならば死ね!」

「ひっ!」

「それくらいにしておけ」


 先輩の手が僕の左腕をつかんだ。またしても知らぬ間に骨を振り上げていたようだ。


「お、覚えてろよ」


 お決まりの捨て台詞を残して爺さんは逃げ出した。左手の熱が冷めていく。怒りの感情も鎮まっていく。もう間違いない。僕の怒りは拾った骨によって引き起こされているのだ。


「だから骨を拾うのはやめとけって言っただろう」

「先輩はこうなることを知っていたんですか」

「ああ」

「だったらどうして教えてくれなかったんですか」

「教えただろう。ロクなことにならないって」


 そんな抽象的な教え方じゃなくてもっと具体的に教えてほしかったなあ。まあ、今頃言っても手遅れですけど。


「こんな物騒な骨は即刻穴を掘って埋めた方がいいですね。あれ、おかしいな」


 左手が開かない。右手で骨を引っ張っても抜けない。強く振っても道路に叩き付けても骨は左手から離れない。


「先輩、骨を捨てられません」

「だから言っただろう。ロクなことにならないって」


「ロクなこと」の一言からこれほど深刻な事態に陥ることを誰が予想できようか。言葉足らずにもほどがある。


「この骨、いったい何なんですか」

「おまえ、怪力サムソンの話を知っているか」


 どこかで聞いたことがあるな。大昔に存在したという伝説の英雄だっけ。


「旧約聖書に出てくる人物でしょ。詳しいことは知りませんけど」

「そうか。まあ続きは昼飯を食ってからにしよう。俺は腹が減っているんだ」


 先輩を空腹のまま放置するとロクなことにならないのは今までの経験でよくわかっている。アパートに戻るとすぐ昼食の支度に取り掛かった。

 ノビルは生でも食べられるが湯を通すと甘みが出るので球根はさっと湯がいて酢味噌和えに。葉はネギの代用として豚肉抜きの豚汁に入れた。ちなみに今日の夕食は豚肉がちょっとだけ入った豚汁の予定だ。

 調理も食事も左手に骨を持ったままなので不便なことこの上ない。それでもなんとか昼食を済ませ食後のお茶を飲みながら左手の骨を二人で眺める。


「で、先輩。話の続きをお願いします。サムソンとこの骨がどう関係しているんですか」

「別に俺が話さなくてもネットで調べりゃわかるんだけどな。まあ簡単に教えてやるか」


 そして先輩は話を始めた。サムソンは神に誓いを立てることにより恩恵を賜ったナジル人である。一度も髪を切らぬという誓いによって賜った恩恵は怪力。その力は凄まじく、素手でライオンを引き裂き、ロバの骨だけで千人のペリシテ人を殴り殺すほどだった。

 ところが悪女デリラに騙されて眠っている間に髪を切られ怪力を失った。両眼をえぐられ獄舎で粉挽きの刑に処せられるサムソン。だが時とともに髪は伸び信仰心も蘇る。祭りの日、獄舎から出され、神殿の前で見世物にされたサムソンは、最後の力を振り絞って鎖で繋がれていた二本の柱を倒し、多くのペリシテ人とともに崩壊した神殿の下敷きになって死んだ。


「つまり僕が握っている骨は、千人を撲殺したサムソンのロバの骨ってことなんですか」

「そうだ。そして犬や爺さんがおまえに絡んできたのも骨が宿すサムソンの意思によるものだ。その骨は他者に敵意を抱かせ、持ち主に闘争心を起こさせ、圧倒的殺意で他者を怯ませる力がある」


 説得力はある。犬も爺さんも理不尽な行動だったし僕の怒りも唐突すぎた。だがとても信じられない。そもそもサムソンが実在の人物かどうかも怪しい上に紀元前の出来事である。数千年前に中東で武器として使われた骨が、どうしてあんな土手に落ちているんだ。


「もしその通りだったとしても、そんなに長い間あんなに目立つアゴの骨が誰にも気付かれずに放置されているなんてあり得ないでしょう」

「いやあり得る。なぜならその骨は一般人には認識できないんだ。先日の雪娘と同じでこの世ならざる存在なのだ。犬も爺さんもおまえが振り上げたのはただの拳にしか見えなかったはずだ」

「じゃあ僕が先輩から離れたらこの骨も見えなくなるんですか」

「それはないな。その骨はおまえを持ち主として認めている。このままでは未来永劫その骨は消えないしおまえの左手も開かない。まあ一般人には骨が見えないから、絶対に左手を開かない変人として一生を送ることになるだろう」


 そんな一生は真っ平御免だ。こんなことならサムソンの話なんか聞くんじゃなかった。骨の正体がわかってもそれを手放す方法がないのなら何の解決にもならない。


「何とかなりませんか、先輩」

「今さら泣き言か。情けない。だからロクなことにならないと言ったではないか」

「反省します。これから先輩の忠告はしっかり聞きます。だから助けてください」

「仕方ないな。では何とかしてやる代わりに向こうひと月、休日の食費は全てお前が出せ。なお毎食キャベツは必ず出すように」


 うう、人の足元を見やがって。しかし頼れるのは先輩だけなのだから了承するしかない。


「わかりました。それで手を打ちます。お願いします」

「よし、ちょっと待ってろ」


 先輩はクローゼットを開けると箱を持ち出してきた。床屋道具一式だ。散髪代を節約するため僕たちは互いに髪を切り合うことにしていた。そのための道具を入学直後に購入したのだ。と言ってもさして本格的な物ではない。入っているのは手動バリカン、ハサミ、カミソリ、櫛だけだ。


「えっと、それで何をする気ですか」

「俺の話を忘れたのか。サムソンはデリラに髪を切られて力を失った。その骨も同じだ。持ち主がツルッパゲになれば骨の力は消えて左手から離れる」

「ツ、ツルッパゲ!」


 先輩がカミソリを手に取った。冗談じゃない。丸刈りは許せるけどスキンヘッドだけは絶対に嫌だ。最近暖かいと言ってもまだ一月なんだぞ。頭が風邪をひいてしまう。


「待ってください。剃り上げなくても短くするだけで効果はあるんじゃないですか」

「どうだろうなあ。サムソンは僅かに伸びた髪だけで神殿の柱を倒してしまったし、やっぱりツルツルにしたほうが確実だろう」

「ツルツルにするのはいつでもできます。まずは五分刈りからお願いします」

「でもなあ」

「お願いしますっ!」


 頑強に何度も頼み込むと先輩も折れてくれた。カミソリをバリカンに持ち替えて僕の頭を刈っていく。ああ、スースーする。丸刈りなんて小学生の時以来だな。


「よし、刈れたぞ。開いてみろ」


 左手に力を込める。微かに指が動くだけでまったく開かない。右手で骨を引っ張っても抜けない。先輩に頼んで強引に指をこじ開けてもらおうとしたが、痛くてとても耐えられない。


「駄目だな。やはりツルッパゲに……」

「一分刈りでお願いします」

「でもなあ」

「一分刈りでお願いしますっ!」


 今度も言うことを聞いてくれた。これで絶対に骨とおさらばしてやる。刈り上がった頭を叩いて気合いを入れ、左手の五指に力を込める。駄目だ。満足に動くのは親指だけ。それも横の動きで手を開く動きではない。


「うう、開け、開いてくれ」

「ふむ、無理のようだな。では剃るか」


 先輩がカミソリを手に取った。嫌だ。ツルッパゲだけは絶対に嫌なんだあ。


「先輩、強引に指をこじ開けてください。どんな痛みにも耐えてみせますから」

「いいのか。下手すりゃ脱臼、靭帯断裂、最悪の場合骨折の危険もあるぞ」

「構いません。ツルッパゲより骨折のほうがマシです」

「わかった。ではいくぞ。それ!」

「うぎゃあああ!」


 僕の悲鳴とともに五指は開かれ、サムソンのロバの骨は無事左手から離れた。翌日病院へ行ったところ、骨折や脱臼は起きておらず突き指による炎症と診断された。ただそれから十日ほどは左手がまったく使えなかった。


「骨を握ったのが左手でよかったな」

「はい。不幸中の幸いでした」


 もし右手で握っていたら日常生活に大変な支障が出ていたことだろう。丸刈りにされた頭は薔薇色の夢を見させるはずだった毛糸の帽子を被ることによって冬の寒さを凌いでいる。あの帽子がこんなところで役に立つとは、世の中わからないものだ。


「ところで先輩、あの骨はどうしたんですか」

「俺が保管している。案ずるな。俺の意思はサムソンより強い。おまえみたいにはならん」


 そう言いながら不敵な笑みを浮かべる先輩を見ているとひとつの疑念が生じてくる。あの骨は先輩に引き寄せられたのではないのだろうか。骨を見付ける前に頭に感じた衝撃。骨は地に転がっていたのではなく天から降って来たのではないか。先輩の中に封じられている魔王の力がサムソンの骨を召喚したのではないか。どうにもそんな気がしてならないのだ。


「先輩があの骨を使ったらどうなるんでしょうね」

「そりゃどんな紛争も即解決だろう。逆らうやつは皆殺しだ」


 先輩が言うと冗談に聞こえない。そうならないことを祈るばかりだ。















  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

沢田和早 @123456789

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ