朝顔

成阿 悟

朝顔

 私が彼女を見かけたのは、近所の神社で開かれた朝顔市でした。

 夏の朝特有の湿った風が境内を漂い、土の香りが花の甘やかな香りと交じり合っていました。

 木漏れ日に濡れた朝顔の葉が揺れるたび、露が小さな光の粒となって輝きます。

 その美しい景色の中で、彼女は静かに佇んでいました。

 白いワンピースを身にまとい、柔らかな風にその裾がふわりと揺れるたび、彼女の姿はどこか現実感がありませんでした。

 まるでこの世に馴染んでいないような、不思議な気配を感じたのを覚えています。

 他の店には何十鉢もの朝顔が並ぶ中、彼女の前にはたった一鉢だけ――薄紫色の朝顔が置かれていました。

 特に変わった品種でもないその花を、彼女はじっと見つめていました。

 どこか幼さを残した瞳で、憂いを帯びた表情を浮かべながら。

 気づけば私は彼女に声をかけていました。

「この朝顔、とても綺麗ですね。売り物ですか?」

 彼女は静かに微笑みました。

 その笑顔は深い水のように静かで、けれどもどこか底知れぬ悲しみを湛えていました。

「ええ……これは母が大切に育てたものなんです」

 彼女の言葉には妙に心を引きつけられる響きがありました。

 私は魅入られるように、その鉢を受け取っていました。

「お代は入りません――もしよろしければ、この花をあなたに育てていただきたいんです。きっと大切にしてくださる気がします」

 彼女はそれ以上何も言わず微笑むと、静かに立ち去っていきました。

 風にたなびく白いワンピースが最後に揺れたのを見届けたとき、なぜか胸に言いようのない寂しさを感じました。


 数日後、どうしても彼女のことが気になり、私は再び神社を訪れました。

 朝顔市について神職の方に尋ねてみましたが、返ってきた答えは意外なものでした。

「朝顔市は確かに開催していましたが、そんな女性がいたとは聞いていませんね……。出店者名簿にもそのような方の名前は見当たりませんし、私も心当たりがありません」

 彼女のことを知っている人は誰一人いませんでした。

 不思議な感覚を抱えたまま帰路につきましたが、託された朝顔の鉢を見ると、どうしてもそのままにすることはできませんでした。

 彼女が大切にしていた花だから――そう思い、私はそれを庭先で丁寧に育て続けることにしました。

 しかしある日、その鉢の土を入れ替えようと掘り返したところ思わぬものが顔を覗かせました。

――それは小さな骨でした。

 指先が凍りついたように感じました。

 その形状から、それが赤ん坊の骨だと気づいたとき、全身に戦慄が走りました。

 私は急いで警察に通報しました。


 後日、警察から連絡があり、ある事件について説明を受けました。

 それは20年ほど前、この街で起きた出来事でした。

 子供を孕んだ若い女性が、婚約者に裏切られ、絶望の末に手首を切り、自ら命を絶ったというもの。

 しかし、生まれるはずだった赤ん坊の行方は最後まで分からなかったのだといいます。

 事件は迷宮入りのままでした。

 その女性の写真を警察から見せられた瞬間、私は息を飲みました。

 写真に写る女性――それは、朝顔市で私に花を託した彼女によく似ていたのです。

 また、女性が亡くなった家の庭には、たくさんの朝顔が咲いていたとのことでした。

 女性は、母にはなれなかった。

 けれども、最後まで「大切に育てる」ことを願い続けていたのかもしれません。

 

 今もその朝顔の鉢は警察に証拠品として保管されています。

 ですが、ふとした瞬間に思い出します。

 薄紫の花が咲いていた、あの夏の朝を。

 そして、そのたびに私は彼女の静かな声が耳元に響くような気がするのです――「」と。

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朝顔 成阿 悟 @Naria_Satoru

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