第57話 狂った針は戻らない

「……全く、何を考えているのやら。これ、出席するんですか? 恭一きょういちさん」

「うん、そのつもりだよ。有栖ありすは?」

「……決まってるでしょう。貴方が出るなら、私も出ます。不本意ではありますが」



 ある休日の昼下がり。

 そう、ありありと不満そうに告げる有栖。そんな彼女の手には、上質な素材で作られたであろう一枚の用紙――つい最近めでたく入籍したという、なずな先輩からの結婚式の招待状で。そして、お相手はもちろん――


 ところで――薺先輩は本来、彼と共に自首するつもりだったらしい。僕が眠っていた二日目、病室にいた有栖にその旨も伝えたみたいで。

 そして、自首それを有栖が止めた。それが、僕のためであることは流石に疑う余地もなく……うん、何とも彼女らしい優しさで。



 ……まあ、有栖の気持ちも分からないではない。もちろん僕が悪いのだけど、薺先輩の行動もきっと褒められたものとは言えない。いったい、どんな顔で僕らに……なんて思っているのだろう。なので、気持ちは分からないでもないのだけど――



「……まあ、許してあげてよ有栖。きっと、これが先輩なりの誠意なんだと思うし」






「あっ、そうだ有栖。今日は少し遅くなると思う。」

「おや、何やら女の匂いがしますね。よもや、お泊まりなどとは――」

「いや仕事だよ? あと、遅いと言っても暗くなるまでには帰ってくるから」



 九月のある朝のこと。

 玄関にて、僕の報告に対し満面の笑みで冗談を言う有栖。……うん、冗談だよね? 

 ともあれ、今から職場――移住ほどなく就任した、ここ沖縄の公立高校へと向かう僕を、今日は午後からの授業らしい有栖が見送ってくれていて。まだまだ未熟だけど、やっぱり僕には教職これが合っているのかなと沁み沁み思う日々で。


 そして、有栖は今、ここ沖縄の国立大学に通う一年生で。学部は、教育学部――誰かさんのように、生徒に心から寄り添える先生になりたいと……うん、なんだか恥ずかしく……そして、すごく嬉しい。僕も頑張らなきゃね。




「……ですが、やはり些かの不安は否めませんね。ついうっかり、女子生徒と浮気などなさらないとは――」

「いや、しないよ? ついうっかりでするようなことでもないし」

「……でも、恭一さんには前科がありますからね」

「うん、君がそれを言うの?」


 すると、複雑そうにそう口にする有栖。いや、そう言われれば反論の余地はないのだけど……でも、よもやその浮気相手たる当人に言われるとは思わなかった。まあでも、それを言うなら――


「……それを言うなら、有栖はどうなの? 君はすごく魅了的だから、大学でも人気なんじゃない?」

「……別に、そんなことは……もしかして、不安……ですか?」

「……いや、全然。だって、有栖は僕のことが好きだから」

「……それを言うなら、私だってほんとは不安なんてないです。恭一さんが、誰よりも私を好きなことは毎日欠かさずちゃんと伝えてくれますし。……ただ、ちょっと言ってみただけです。だって恭一さん、日に日に魅力が増して、もう大変なことになっているので……」

「……有栖」


 そう、少し目を逸らし告げる有栖。そんな彼女を見つめながら、少し可笑しく……そして、やっぱり嬉しくなる。……そっか、思ってくれてたんだ。僕が、いつも有栖に思っていたのと同じことを。……うん、朝から何してんるだろうね、僕ら。



 ……思えば、どこからだろう。僕の人生が、こんなにも狂い始めたのは。恋人がいる身で、あろうことか教え子の女子生徒に浮気して……まあ、自業自得という他ないんだけどね。


 でも、後悔なんてしていない。何とも厚顔無恥だと自分でも思うけれど……それでも、後悔なんて出来るはずもない。だって……有栖と出逢った後のどの地点に戻っても、間違いなく僕はあの時と同じ選択をするだろうから。きっと、たった一つ選択が違っても、今の僕らはなかった――きっと、あの時の選択全てが、今の僕らに繋がっているから。


 狂った針は、決して戻ることはない。でも、それでいい。だったら、狂ったまま進めばいい。その先に、僕らの未来が――眩いほどの幸せがあるはずだから。……まあ、今も十分すぎるほど幸せなんだけど。


「…………ん」


 すると、少し顎を上げ目を閉じる有栖。そんな彼女の肩にそっと手を添え、腰を屈め唇を重ねる。そして――



「……じゃあ、行ってくるね。有栖」

「はい、行ってらっしゃい恭一さん」



 そう、花も恥じらう笑顔で告げる有栖。そんな彼女を見つめながら、今一度強く想い――誓う。今後、何があろうとも――もう、二度と離れないと。


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狂った針は戻らない 暦海 @koyomi-a

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