”骨の花”
鈑金屋
骨の花
■序章
──それは、決して摘んではならない花。
山奥の尼寺にだけ咲く白い花。夜になると仄かに光を放つその花は、『骨の花』と呼ばれ、代々の尼僧たちによって静かに守られてきた。
「この花は、人の骨に根を張る」
古い尼寺に伝わる言葉。
「死者を埋めよ。さすれば花は咲く」
それは迷信のように囁かれ、しかし誰もその言い伝えを疑わなかった。
──あの夏の日、私たちは摘んではならないものに触れてしまった。
■第一章 帰郷
夏の終わり。蝉の声が遠ざかる夕暮れ時。
「……まだ、ここにいるの?」
静寂に消える独り言。
広い庭には、今も白い花が咲いていた。
風が吹く──その奥に、見覚えのある姿が立っている。
「……
十年前と変わらぬ姿で、そこにいた。
■第二章 尼寺の少女
──朱音と初めて会ったのは、十代始めの夏の頃。
親の事情でしばらく尼寺に預けられた凛子は、戸惑っていた。都会の喧騒とはまるで違う、静寂に包まれた世界。電車の音も、車のクラクションも聞こえない。ただ、木々のざわめきと、蝉の声が響くばかり。
「……ここに住むの?」
ぽつりと呟いた言葉が、あまりに頼りなくて、自分で情けなくなる。
そんなとき、背後から静かな声がした。
「ようこそ、白妙の尼寺へ」
振り向くと、そこにいたのは朱音だった。
肩までの黒髪を綺麗にまとめ、白い法衣に身を包んだ少女。年の頃は凛子と同じくらいだろう。
けれど、その瞳はどこか達観していて、凛子は少しだけ気圧された。
「あなたが……西村凛子さん、ですね」
「うん」
朱音は、ふわりと微笑んだ。
「これからしばらく、私があなたのお世話をしますね」
──そのときだった。
朱音がそっと、凛子の手を取った。
優しく、包み込むような仕草に、凛子は思わず息を呑む。
「冷たい……ですね」
「え?」
「都会の人の手は、少し冷たい」
そんな風に言われて、凛子は困惑しながらも、朱音の手を握り返してみた。
驚くほど、温かかった。
■第三章 たわいない日常
最初は、戸惑いばかりだった。
朝は早く、鐘の音で目を覚ます。畑を耕し、炊事を手伝い、読経を習う。テレビもスマホもない生活は、都会育ちの凛子には不便でしかなかった。
けれど──朱音と過ごす時間は、少しだけ心を軽くした。
「都会の暮らしは、どんなふうなのですか?」
ある日、掃除の合間に朱音が尋ねた。
「こんな山奥よりはずっと賑やかだよ」
「……羨ましいです」
「外に出たいの?」
朱音は少し微笑んで、
「いいえ」
と首を振った。
「私はもう、ここを離れられませんから」
──当時の凛子は、その言葉の意味を深く考えなかった。
ただ、掃き掃除をしながら、ふと朱音が足を止めたのを覚えている。
「西村さん、髪に……」
「え?」
朱音がそっと手を伸ばす。
「ここに、花びらがついています」
指先が、そっと凛子の頬に触れた。
その瞬間、胸が震えた。
──この感覚は何だろう?
驚きと、戸惑いと、わずかな高揚。
けれど、凛子はすぐにその感情を押し込めてしまった。
「……ありがとう」
朱音は、小さく微笑んだ。
「どういたしまして」
──それは、本当にささやかなやりとりだった。
でも、あの夏の記憶の中で、今も鮮明に残っている。
■第四章 ほのかな恋心
ある夜、月明かりの下で二人並んで座っていた。
涼しい風が吹き、朱音の髪がふわりと揺れる。
「ねえ、朱音」
「はい?」
「どうして尼寺にいるの?」
朱音は少しだけ考えて、静かに答えた。
「……私は、ここで生まれたから」
「生まれた?」
「ええ。物心ついたときには、もう尼寺で暮らしていました」
「じゃあ、家族は……?」
朱音は何も言わなかった。ただ、ゆっくりと夜空を見上げる。
沈黙が続いた。
凛子は、その横顔をじっと見つめる。
──不意に、胸がざわめいた。
言葉にするには、まだ幼い感情。
でも、わかってしまった。
朱音のことが、好きだ。
友達として? 姉のように? それとも……
──ただ、わかっていたのは。
朱音がここにいるなら、私もここにいたいと思った。
夜風に、白い花が揺れる。
凛子は、そっと手を伸ばして、その花を摘もうとした。
そのとき。
「凛子さん、ダメです」
朱音が、凛子の手を掴んだ。
「……え?」
「この花は、摘んではいけません」
「……どうして?」
朱音は、少しだけ悲しそうな目をした。
「……それは、また今度、お話ししますね」
──そのときは、深く考えなかった。
ただ、朱音の手の温もりが離れたあと、風が妙に冷たく感じたことだけを覚えている。
■第五章 白い花の謂れ
十年ぶりの再会。
朱音は、あの日と変わらぬ姿で立っていた。
「……どうして、ここに?」
「私は、ここを離れることはできません」
凛子の胸に不安が広がる。
「……どういう意味?」
朱音は庭の白い花を撫でる。
「この花が、何から生まれるか知っていますか?」
「……骨、だよね?」
「ええ。でも、それだけではありません」
朱音は、凛子をまっすぐに見つめる。
「“誰かに想われた骨”にだけ、この花は咲くのです」
凛子は息を呑む。
「……どういうこと?」
「この花は、ただ死者の上に咲くのではなく──”想い”によって咲くもの」
「……まさか」
「ええ。私がここにいるのは、あなたのせいです」
凛子の指先が冷たくなる。
「そんなの……冗談でしょ?」
朱音は、悲しそうに微笑んだ。
「あなたは覚えていたでしょう? 私のことを」
「……そんなの、当たり前じゃない」
「でも、あなたは”私をここに残した”のですよ」
■第六章 禁じられた想い
「十年前、あなたが帰るとき、私は一輪の花を摘みました」
「……え?」
「本当は、決して摘んではいけないもの。でも、私はあなたに渡したかったのです」
──あの夏、朱音は凛子に一輪の白い花を渡した。
「……それが、どうしたの?」
「“誰かのために摘む”ことは、禁忌なのです」
「禁忌……?」
「花は、“想われる者”のもとに咲き続けるものだから」
「……それで?」
朱音は静かに微笑んだ。
「私は、あなたのために花を摘んだ。そして、その代わりに、この庭の一部になりました」
凛子は泣きそうになった。
「そんなの……おかしい」
朱音の指がそっと凛子の手を包む。
──冷たい。
まるで、風のように。
「もし、私があなたを連れて行くと言ったら?」
朱音の瞳が揺れる。
「それは……できません」
「できるよ、だって朱音はこうして私と話してる!」
「……それは、凛子が”私を覚えていた”からです」
「……じゃあ、もし私が、朱音を忘れたら?」
朱音の瞳がかすかに揺れた。
「……そうすれば、私はこの庭に溶けていくでしょう」
「……そんなの、嫌だよ」
凛子の胸が締めつけられる。
「私は……ずっと、凛子のことを忘れられなかった」
朱音は目を伏せる。
「……それが、私をここに繋ぎとめているのです」
「……なら、一緒に行こう」
「……それは、できません」
「だって私は、“あなたに想われた骨”なのですから」
■第七章 帰路
夜になっていた。
「……また、来てもいい?」
凛子の問いに、朱音は少しだけ微笑んだ。
「ええ。でも、凛子はもう大人でしょう?」
「……うん」
「なら、忘れないでください」
「何を?」
「私のことを」
白い花が、かすかに揺れた。
翌朝、凛子が尼寺を後にすると、風が吹き抜ける。
──振り返ると、そこにはもう、誰の姿もなかった。
■終章 白い花
都会へ戻った後も、凛子は時折、尼寺のことを思い出した。
仕事に追われる日々。満員電車。慌ただしい街の雑踏。
──そんな中、ふと気づく。
机の上に、一輪の白い花が置かれていた。
「……朱音?」
誰かが置いたはずなのに、誰の記憶にもない。
ただ、その夜、凛子は夢を見た。
朱音が、静かに微笑みながら、「忘れないでください」と囁く夢を。
目が覚めたとき、窓の外では、夜風が花を揺らしていた。
──それは、決して摘んではならない花。
(完)
■朱音の日記
20**年1月27日(雨)
どうしてこんなに…苦しいんだろう。
今日もまた、あの暖かい手のひら、凛子の笑顔が心に浮かんで離れない。凛子と過ごした日々が、私の中で大きな痛みとなって私を締め付けている。最初はただ、彼女を見守るだけで良いと思っていた。私はもう、ここで過ごすべきだと、そう決めていたのに。
でも、気づけば心がどんどん凛子を求めるようになっていった。彼女の言葉、彼女の笑顔、そして、あの手の温もりが、私を引き寄せて離してくれない。これが…どうしても抑えきれない想いなのだろうか。
私の立場は、凛子とあまりにも違う。私はもう死者のような存在で、彼女は生きる力に満ち溢れている。それなのに、どうしてこんなに苦しいんだろう。私はただの過去の人間、凛子にとってはもう忘れられた存在。なのに、どうしても、彼女には私を忘れてほしくないという思いが強くなるばかりだ。
「私は、もう過去の人間だ」と思っても、どうしても心がそれを受け入れることができない。彼女が他の誰かに心を開いていくことが、どこかで怖い。私が触れることで、彼女が傷つくんじゃないか、そんな不安もある。でも、どうしても…彼女を感じていたい。彼女の声をもっと聴きたい、あの笑顔をずっと見ていたい。その願いが、どうしても消えてくれない。
今は、何もかもが遠くて、手の届かない場所にあると分かっている。だけど、それでも凛子を忘れられたくないという気持ちが、私を苦しめる。
せめて、私のことを忘れないでほしい。せめて、私がいたことを覚えていてほしい。その一言だけが、私の中で強く強く響いている。誰も聞いていない、夜の闇の中で、この思いだけが私を支えている。
夜が深くなるほど、凛子への想いが胸を締め付ける。だけど、それでも私はこれを抱えて生きていくしかないと、そう感じるしかない。
明日もまた、この想いを抱えて、ひとりで歩いていくのだろう。
”骨の花” 鈑金屋 @Bankin_ya
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