第三話:雨降る夜に真実を
日が沈んだ後に雨が訪れた。雨は苦手だ。冷たくて身体が凍えるし、寂しくなる。
「勇輩、外に出ないか。少し話がしたい」
「えー、中じゃダメ?」
「カリヌに聞かせたくないこともある。雨避けの魔法は掛けるからそう不満とするな」
そう言われてしまえばこれ以上拒むわけにはいかなかった。魔物も寝静まった夜、カリヌにばれないよう息を潜めて外に出る。シウの魔法のおかげで雨があたしに降り注ぐことはなかった。足元のぬかるみは、どうにもならなかったけれど。
「この辺まで来れば大丈夫だろう」
シウの歩くままに辿り着いた先は崖の上だった。眼下には森が広がっていて、見下ろせば生き物として当然の危機感を覚えてしまうような切り立った崖の上。シウはその先端に立って振り向きもせずに話を始めた。
「勇輩は……帰ってきたのだな」
「うん。こうしてちゃんと、ただいまって」
「それでも全く無事に、とは行かなかったのだろう?」
「……うん」
シウの声は浮かない。あたしはこれから聞かれることはきっとシウにとって嬉しくないことなんだと思った。
「前線からの報告にはこうもあった。勇者が単身制圧した都市に聖女の結界が張られていたと。それも決して一つだけではないと。でもその時サーニャは後方にいた。……結界の
「……そうだよ」
「何を代償とした?」
ざあざあと雨の降る音がうるさい。シウの詰問に乗じてあたしを責め立てるような響きだ。うるさい、うるさい。シウもきっと、ある程度確信を持っているはずなのに。
「答えろ」
「……」
「聖女の結界は勇輩とて容易に再現できるものではあるまい。再現に不足する大量の魔力、何の記憶を代償とすることで補った」
大切な記憶を捧げろと世界は求める。
「……答えろ」
結界を張ったことは覚えている。魔物に踏み荒らされて久しい街にもう人は残っていなかったけれど、それでも勇者として守るべきだと思ったから。
代償とした記憶は思い出せない。でもいつの記憶がないのかを探れば、それは簡単にわかることだった。
「あたしが一人で旅に出るまでの、ほぼ全部」
息を呑む音がはっきりと聞こえた。雨が泥を打つ音の中にあってなおはっきりと。
罪悪感が消えない。あたしの罪が今にも崖の下から手を伸ばして、あたしを引きずり降ろしてきそうな気がした。
「……ならば覚えているのは。勇輩が旅に出てから今日に至るまでの一年半。それだけだというのか」
「……あとはカリヌ、シウ、サーニャのちょっとした思い出。それくらい」
「
「うん」
「……そうか。いや、そうか。そうせねばならぬほどに過酷だったか」
「うん」
投憶魔法のいいところは自分にできないことでも、誰かが成し遂げたところさえ覚えていれば魔力だけで再現できることだ。
例えば城塞にも勝る結界の魔法。
例えば未だ知られざる魔法の深奥。
例えば千の敵を打ち破った英傑の御業。
単独で敵地に侵入して魔王を討ち取るために、使えるものは何でも使った。特に投憶魔法はその利便性から何度も頼った。
その結果がこれだ。あたしはこの人生のほとんどを忘却の海に流してしまった。シウの背中は酷く悲し気なのに、今のあたしには言葉を掛ける資格がない。思い出を失くしたあたしは彼女の悲しみを共有できない。そんなあたしに何が言えるだろうか。
何も言えるはずが、ない。
「聖剣を」
「聖剣?」
「聖剣を、見せてはくれまいか。あれは言ってしまえば引録魔法をふんだんに詰め込んだ魔道具だ。見れば何かわかるやもしれぬ。……へそを曲げているのだろう?」
「そう、だね。いやーそのせいで帰ってくるのに困っちゃってさあ」
我ながら下手なごまかしだと思った。沈んでしまった空気を軽くしようと口に出したけれど、言わない方が良かったかもしれない。無理な盛り上げ方にシウは付き合わず、シウは半身だけ振り返ってあたしの差し出した聖剣を受け取った。
その時あたしはシウの顔に違和感を覚えた。暗くてよく見えなかったけれど……もう一度見れば多分わかるくらいの違和感。けれどもうシウはこちらに顔を向けてくれない。
シウが聖剣を鞘から抜く。あたしが抜いた時と同じように、ひび割れた刀身はひとかけらの輝きも見せない。
「……聖剣は生きている」
「え?」
あれだけぼろぼろなのに。そんな驚きから声が漏れた。けれどシウは一緒に驚いてはくれなかった。
「聖剣は勇者として選ばれた者しか使えない。その機能がまだ生きているのに、勇輩を主と認めていないのであれば……」
いや、彼女が驚くだけで済んだならどれほどよかっただろう。彼女の英邁はもっと別の答えに行きついている。
「そうか……やはりアーリアは……帰って来れなかったのか」
シウが静かに、噛み締めるように暗闇へ言葉を落とした。あたしはとうとう罪悪感に全身をがんじがらめにされて何一つ言えない。動くことも出来なかった。
勇者アーリアは死んだ。確かにあたしの目の前で死んだのだ。そしてあたしは彼女の姿と記憶を盗んだ出来損ないの魔物……そのことに気付いてほしくなかった。それで他の人に傷ついてほしくはなかった。
「そんな、こと……」
「囀るな、
無理やり絞り出した言葉は明確な拒絶の意思に遮られた。敵意、軽蔑。振り向いたシウの左目が憎悪に燃えている。
「死に際に人を写し取る出来損ないの魔物が。勇者を模せばばれないとでも思ったか!」
「ちがう、そんなんじゃ……!」
「黙れ、その口でもう何も語るな。『アカシャ:グラトの慟哭が地を割った。愛しき仇を八つに圧し裂くまでと』!」
少女の叫びに地が揺れた。世界の終わりが訪れたと一瞬想像してしまうほどの振動。バランスを取れず無様に転んでしまったあたしを、宙に浮いたシウが見下ろしていた。
「吾輩がお前を、殺してやる」
そして……崖が崩れ落ちた。
■
「……ってて……ぺっ!」
体中が地面に打ち付けられて痛みを訴えている。全身泥まみれで口の中がじゃりじゃりと不快感を訴えている。でも崖の崩落に巻き込まれてなお無事なのはその泥のお陰だ。まずいと思って飛び込んだ先にあった木の枝とぬかるんだ泥が衝撃を吸収してくれたお陰だった。
崖が落ちた場所には土砂と岩塊が積もっている。あのままで居ればきっと生き埋めになって死んでいた。シウは……あたしを殺す気だ。
「これでは死なぬか、しぶとい。腐っても勇者を模しただけのことはあるということか」
「シウ……!」
「お前にその呼び名を許した覚えはない」
頭上からシウがふわふわと舞い降りてくる。その居住まいに隙はない。胸が詰まるほどに視線が鋭かった。
「嫌な予感はしていたよ。いくらあいつでも一人で魔王と戦って無事で帰って来られるものなのかと。もしかしたら帰ってきたのは偽物なのではないかと。もし偽物ならば……最悪の敵になりえると」
「話を、聞いて……!」
「聞くものかよ。死者を冒涜し人を欺く魔物の言葉など」
「お願いだから……!」
「ならばあいつを、アーリアを返せ!」
悲鳴のような叫びと共に水弾が叩きつけられる。必死に横へ飛んで避ければ休む暇もなく十、二十と矢継ぎ早に追い打ちが来た。
泥濘の中を転がって避ける。背後にあった木が幹から砕けて倒れる音。
「何故だ! 何故あいつが死なねばならない! 何故死んでまで冒涜されなければならない! 何故だ、何故だ!?」
飛び散った石が頬を裂く。抵抗するための聖剣は見える場所にはない。多分シウが崖の下に置いてきたのだと思う。けれど既に離れてしまっていて、取りに行くだけの隙をシウは与えてくれないだろう。
なによりあたしの心が彼女を傷つけることを否定する。
「何故、吾輩たちは……!」
彼女の言葉は続く炸裂音に搔き消された。
詠唱を短縮された魔法の嵐だ。水に風に土。あたしの周りで次々と魔法が発動する。逃げ出さなければあたしも穴だらけの地面の仲間入りだ。
彼女が火を使わないのは雨が降っているからだろう。だから何だという話。あたしの知る限り最も優れた魔法使いがその程度を苦にするものか。
賢者シ―ウィー・アルカシュの勇名は遠く魔王城の隅にまで轟いていたのだから。
「お願いだから。アーリアの言葉を聞いてよ!」
「アーリアのではない。忌々しい魔物の言葉だろう!」
「この、頑固者!」
「馴れ馴れしくするなァ!」
走馬鏡――あたしたちは人の死に際に現れて、その人の記憶と姿をそっくりそのまま真似てしまう魔物だ。だから人間にも魔物にも忌み嫌われる。
「どうした、生きたいと言うなら少しは抵抗して見せろ」
「あたしは、あなたと戦いたくない!」
「そうか、ならば逃げずにさっさと死ね!」
「それだけはできないよ!」
走る、走る。
直線的に逃げればただの的だ。木陰を縫って、少しでも彼女の視界を遮るようにしながら……っ!
「! っぐうっ!?」
「ああ、無様だ、滑稽な姿だ! いかに弱ろうとも、あの天才がそんな無様な姿を晒すものか! いかに記憶が無かろうと、あの傲慢娘が吾輩の方が天才だなどと抜かすものか! そうだな、そうだろうなあ! 何故ならお前はあの天才ではないただの魔物だ!」
風弾の余波に吹き飛ばされてごろごろと泥濘に浸かる。雨で泥は落ちていくけれど、体は重石を括りつけたみたいに重い。
悲痛な叫びのせいだ。心を突き刺すシウの慟哭、あたしの傷つけたものの重みが心をがんじがらめに縛って沼の底に引きずりこもうとしている。
それでもここで死んでしまうわけにはいかなかった。あたしにはまだ、アーリアの為にするべきことがある。
「あたしは……っ! まだ死ねない!」
「話の次は命乞いか! そうまでしてあいつを穢したいか!」
「違う! あたしを助けてくれた、勇者のためにだ!」
「この期に及んで、まだ抜かすかァ!」
朧な記憶の中で、シウがこんなに声を荒げている場面はない。僅か残っているのは物静かで、理性的で、難しい言葉遣いをする少女の姿だ。木陰で本を読みながら、時折あたしたちが遊んでいるのを見て仄かに笑う大切な友達。
そんな彼女が今、あたしを心底から拒絶している。勇者からもらったこの心は悲鳴を上げずにはいられない。
「しぶとい!」
「死ねないんだって、言ってるでしょ!」
シウはあちこちぶつかるようにみっともなく逃げ続けるあたしを這うような低空飛行で追跡している。ぴたりと追いすがる影を振り払うことはできない。
「あたしはっ! 確かにアーリアの姿を写した
「だから殺すなとでも? 人質のつもりか!」
「それがアーリアの願いなんだ! あぐっ、う!?」
遮二無二走って来たけれど、ついに限界が来た。シウが植物を操って這わせた根っこに躓いて、まともに受け身も取れずにもんどりうって倒れた。
一拍、身体を起こすのが遅れて。次の瞬間には杖が眼前に突きつけられていた。
「……詰みだ。勇輩」
シウがあたしを冷たい目で見下ろしている。鋭く形成された水と石の魔弾にあたしはぐるりと鳥かごのように囲まれていて、シウの意思一つでハチの巣にされてしまうのだろう。
「さあ、次はどうやって命を乞うつもりだ」
とんがり帽子の下、冷たい雨が頬を伝って落ちていく。あたしは……ふっと思わず笑いを零してしまった。
話を聞くつもりなんてないと言っていたのに。やっぱりこの子は優しい。
「許せないなら、あたしを殺してくれたっていい……けど、これだけは絶対に傷つけないで」
あたしは自らの胸元に親指を押し当てる。シウは一瞬訝し気な顔をして、それからはっとしたようにあたしの襟を開いた。
そこにあたしの核がある。
「これは……」
「アーリアから預かった。大切なものなんだって。約束だからって。あたしに契約の魔法を掛けて持ち帰れって命令するくらいに」
丁寧な装丁をされた黒い本。数少ない思い出の中、カリヌの白い本とセットで買ったものだ。
それがあたしの胸元に埋め込まれている。脈打つたびにどくどくと周囲に描かれた魔法陣があわく光る。
「こんな……こんなことが……」
「あたしは出来損ないの走馬鏡だったから一人でアーリアを写し取れなくて……彼女が魔法を掛けてくれたの。この本を核にすればあたしがちゃんと彼女を写し取れるように」
シウが本に触れてページを開こうとする。けれど本は糊で貼り合わせられたみたいにピクリとも動かない。この本に宿った命が開かれることを拒んでいるからだ。
「……この魔法は、確かにあいつしか知るまい。これは吾輩が見つけて、アーリアにしか教えていない魔法だ。だが、それでも……」
「仮初の命を作って操る魔法、だよね。アーリアはあたしの出来損なった命をこの本で埋め合わせたんだ。この本にその仮初を宿して」
あの瞬間の驚きは忘れない。曇っていた空が一気に青く晴れ渡ったような。急に世界があたしを受け入れたような鮮明な感覚を。
「……お前がその本を奪って自らに魔法を掛けた、可能性もあるだろう」
「あたし一人でしたのならこんな条件は付けないよ」
魔法陣の一部を指先でなぞる。
「……『三百日以内に約束を果たせなければ死ぬ』、か」
「魔王を倒してもう半年だよ。残っているのは百と十日くらい。約束は、まだ」
「……その約束とは、なんだ」
「勇者アーリアの物語をカリヌに伝えること」
何故そうするのかはわからない。多分どこかでアーリアが代償にしてしまった記憶の中に消え去ってしまったのだろう。
ただそれでもあたしの写した心の中には、アーリアの持っていた焦燥と使命感が今も強く炎のように渦巻いている。痛みも悲しみもくべて燃やし尽くしてきた業火だ。気を抜けばあたしすら灰にされてしまいそうなほどに強烈な光だ。
「そうして彼女への恩が返せたなら、あたしは死んだっていい」
「恩?」
「アーリアはあたしを縛る全てを壊してくれた。出来損ないのあたしに、ちゃんとした命を与えてくれた。あたしに、生きててくれて良かったって、言ってくれた」
魔王城はあたしにとって牢獄だった。魔王の勝手な都合で生み出しておきながら、出来損ないとわかると散々に扱われた。逃げることも、まともに戦うことも出来ず。もしアーリアが来なければ他の魔物の餌となるか甚振られて衰弱死するかして、あたしはとうにこの世に無かっただろう。
だからアーリアはあたしの命の恩人だ。いや、あたしに本当の意味で生を与えてくれた母と言ってもいい。
「そう、お母さんだ。あたしにとってアーリアはお母さんなんだよ」
「一体何を言っている」
「真理に気付いたんだ」
「妄想だろう」
「妄想でもいいよ。信じるだけだから」
結局、言いたいことは一つだ。水たまりに手をつき、頭を下げて許しを乞う。
「お願い、どうか約束を――アーリアの願いだけは叶えさせて欲しい。その後にならあたしなんかどうしてくれてもいい。だから、どうか」
「もういい。何も言うな」
ぴしゃりと言葉を遮られる。駄目だったのか――でも、まだ言うべきことがある。
「……シ―ウィー、傷つけてごめんね。それと、この本はカリヌに」
「そうではない。それ以上アーリアの姿で情けないことを言うなということだ。似合わな過ぎて気持ちが悪い」
「……え?」
「あいつは鼻につくくらい自信家で、傲慢で、吾輩をも越える天才だと常に言っていなければあいつではない。そういうものだ。勇輩もそうあれ」
シウの反応は想像よりも柔らかいものだった。あたしを囲んでいた魔法の数々もいつの間にか掻き消えている。
「信じてくれるの?」
「勇輩を、ではない。勇輩にその本を託したアーリアを信じるのだ。もし勇輩が変な真似をしようものなら、その時こそ吾輩が殺す」
ぽかんとするあたしにシウが手を差し伸べる。その時に彼女の髪が揺れ、隠されていた右目が――そこに眼帯があることにようやく気付いた。
「シウ、その目……」
「大したことではない。どうせ忘れているのだろう。忘れたままの方がいいさ、こんなもの」
とても小さな手に触れる。あたしより一回り小さくて、綺麗な手だ。それでも握ると親指にペンだこがあること。それから微かに震えていることがわかる。
助けを借りて起き上がったあたしに、帽子で顔を隠したままシウが聞いた。
「勇輩、一つだけ教えてくれ」
「ん、なに?」
「あいつは……アーリアはどうして一人で旅立ったんだ? どうして、吾輩たちを置いて行ったのか……勇輩は知っているのではないか?」
その時あたしには、シウが雨に降られて震える哀れな小動物のように見えた。行き場もなくて、ただ野ざらしのまま雨が止むのを待っているような。空に漂う曇天の重さを知りたくないと俯いているような。
あたしはどうしてシウがそんなふうに怯えるのかわからない。けれど彼女の求める答えはこの記憶にちゃんと刻まれている。
「もう誰も傷つくのを見たくないから。そうアーリアは想ってたよ」
「……そうか」
答えを聞いてなお、シウは悲しそうだった。あたしに人の心はわからないけれど、顔を見られたくないから俯いているんだとはわかる。
「勇輩は帰れ、雨が酷いからな」
「雨?」
雨はとうに小降りになっている。新たな雨の気配はない。
「ああ、そうだ。雨だ」
「でもそのままだと風邪を――「頼むから」」
ぽつりと一滴、木から水滴が落ちてシウの帽子を揺らした。
「頼むから、一人にさせてくれ……」
ふらふらと歩き去るシウに、あたしは何も言えなかった。
かくて勇者は帰らざりき 星 高目 @sei_takamoku
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