日暮れ

倉沢トモエ

日暮れ

 転移七日目


 空が薔薇色だとあなたが言った。

 うっかり物思いにふけっていた私はあわてたが手遅れで、東に沈むこの世界の夕陽はもう見えず、薔薇色はたちまち群青色と入れ替わり、気づけば夜の入口に立っているだけだった。歩き出さなければ。


「いらっしゃいませ」


 黒猫がたった一匹で開けている食堂は、黒猫でなくても入れる。

 私たちが緑色の木のドアを開けたとき、カウンターには三毛猫と白犬がいた。さいわい私たち向きには二人掛けの席が空いていた。


「チーズと蜂蜜のピザはいかがですか。ワインにとても合いますよ」


 黒猫のおすすめはいつも申し分ないのだ。私たちはちょうど軽く飲みたい気分だった。


「ときに、」


 あなたは小耳にはさんだ話を黒猫に訊ねた。


「貴君の従兄氏は、あれから戻られたのですか」

「ああ、あの件ですね」


 黒猫は、少々困り顔をした。


「それがこの度は、手のかかる件のようでして。

 けれどきっと長くあちらにいる分、よい話を持って帰ると思いますよ。それまでどうぞ、こちらの世界をお楽しみください」


 私たちは黒猫の気づかいをありがたく思いながら、冷えた白ワインを飲みピザの焼き上がりを待った。


 この世界にはこのように、黒猫をはじめ動物たちが町を作って暮らしていた。

 唐突に迷い込んできた私たちを見て誰も驚かないのが不思議だったが、話を聞けばなんということはなかった。

 ここに住む動物の中でもとくに黒猫には使い魔の性質を持つものが時々いるのだそうだ。魔法を扱えるのだという。だが、それで恐れられるのかといえばとんでもないと。

 ある日何の前触れもなくほかの世界よりさらに強い魔力で召喚されてはこき使われ、絞り取られてふらふらで戻ってくるのでむしろ同情されているというのである。魔力を持つのも大変だ。

 その、ほかの世界というのが、他ならない私たちがいた場所らしいのである。科学万能、魔力のある者など昔話と信じていたのが、かようなきっかけで思い違いと分かるとは。


「ゆっくりしてください。そのうち戻り方もわかることでしょう」


 黒猫自慢のピザが運ばれ、私たちはまさかこちらでクワトロフォルマッジを賞味できるとはと感嘆した。こちらのチーズも蜂蜜も美味である。そのうえこれは黒猫が見立てた品なのだから格別だった。


「異世界に紛れ込んだとわかった時には戸惑ったけれど、穏やかな世界でよかったわ」


 私が言うとあなたは、


「まったく。もっとこう……」


 なぜかそこで言葉が途切れた。

 私もワイングラスを傾ける手が止まった。


 転移以降、何かを私たちは忘れているような気がする。はっきりしない違和感がいつもあった。


「ありゃ?」


 カウンターの白犬が声を上げた。

 見れば、食堂の床に丸い図形が浮かび上がっている。何か複雑な模様が描かれ、さらには薔薇色に光っている。


 薔薇色。


「あなた、こうしてはいられないわ」

「やれやれ、やはりこちらにおいででしたか! N教授ご夫妻!」


 私たちが思い出したのと、丸い図形、つまり異世界と異世界を結ぶ魔法陣から三角帽子をかぶった黒猫が飛び出して来たのはほぼ同時だった。


「クロード」


 あなたもすべてを思い出して、飛び出してきた黒猫の名を呼んだ。この食堂の黒猫の従兄にして、私たちの使い魔であるなつかしいクロードの。


従兄にいさん」


 追加のワインを持った黒猫が目を丸くした。


「あいつめ、書き換えた記憶の鍵を〈お二人が同時に薔薇色を見る〉ことにしていたんですよ。

 どうです、それを突き止めて、この通り薔薇色の魔法陣に仕立てこちらに向かったあっしの読みの正しかったこと!」


 うぬぼれるのがクロードの悪い癖で、しかしこの通り頼りになるのだった。


「黒猫さん、お世話になりました。とても美味しい食事をいつもありがとう」


 私たち夫婦は、元の世界を混乱に陥れている〈赤の竜〉討伐方法の記録を見いだし、実行する仲間を集めていたところ、その誉れを我がものとしようとしたQの手のものに陥れられたのが今回の転移であった。世界の危機を前に功名心が先に立つ小物である。


「さっき、いっしょに夕暮れを見ていればもっと早く思い出せたのね」

「ありゃ、夕暮れとは。あの緊迫したご状況を離れ、よいお時間を過ごせてかえってよござんした」


 しかし、戻らねばならない。


「この世界はまだ〈赤の竜〉の手が及んでいない。ずっとこのまま静かでありますように」

「そうと決まれば、参りますよ!」


 クロードの声で、再び魔法陣は薔薇色に光った。


 ありがとう、黒猫さんたち。

 

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日暮れ 倉沢トモエ @kisaragi_01

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