泡沫の夢
朽木 堕葉
歌片の夢
「まったくもって、迷惑しちゃうわ」
澄んだ声が
「これでも歌う場所は選んでいるのよ。だったら、航路をきちんと考えなさいよ」
ぼやくような語調で発せられた声が、今度は間近で聞こえた。次いで潮の匂いを嗅いだ鼻が、自発的に
ぼやけた輪郭の世界でも、ここがいつもの
どうやら自分は甲板に横たわっているようで、目の前にだれかの両足があった。キラリと見えるのは、鮮やかな魚の鱗が貼り付いているからだ。そのまま見上げていくと、丸みを帯びた
全身が鱗に覆われているわけではないらしい。胴体は人の肌とほぼ同様であったが、胸元は鱗で隠されていて、どことなく少年は赤面しつつ安堵した。
が、視線はそこでしばらく停滞したままでいた。すると、
「そんなに気になる?」
不意にこちらを覗き込んできた
透き通るような紫色の瞳。不思議とずっと見つめていたくなる。前に一度だけ見たことがある宝石に似ていた。
そのときのことを思い出すほどに、目を合わせている瞳のほうが、ずっと綺麗に思えてきて、ますます引き込まれそうになる。
だが、このままではいけない――危機的直感が少年の口を開かせた。
「あの、すみません……」
「あら? なにかしら?」
少年の絞り出した
とりあえず、喋ってみたものの、なにを言うべきかまったく考えていなかった。なので少年は、ごく普通のことをした。
「えと、その――僕はソイルっていいます。この商船で働いていて……といっても奴隷としてだけれども」
あまりに意想外だったのだろう。
「あなたのお名前は、なんですか?」
その問いが駄目押しになった様子で、彼女はプッと吹き出し、青白い長髪を揺らしながら笑い声を上げる。しばらくのあいだそれはおさまらずにいたが、そんな笑い声でもソイルは心地よく、耳をそばだてていた。
やがて、お腹を抱えながら彼女は名乗った。
「ルーフェン。それがアタシの名前よ」
そして、「セイレーンのね」と言い足した。
セイレーンという言葉にソイルは聞き覚えがあった。
船員たちの噂話。
『海で綺麗な歌声が聞こえてきたら耳をふさげ。誘い込まれるぞ』
とおっかなびっくり話し合うのを耳にしたことが。
そこでソイルはハッとなった。たしか、意識を失う前、歌声を聞き入っていたはずだ。ハープのような優しく甘やかな音色を耳が再現する。
ルーフェンは笑っていた。今度はソイルの心中を見透かしたように。
数年のあいだ、ソイルが寝食を過ごしてきた商戦は、降りたってから眺めやると、座礁した見事な難破船の有り様を晒していた。損傷具合からして、修理など到底不可能だろう。
仮に修理できても、この周囲一帯が濃霧のなかを進むのが無謀であることは、ソイルにだってわかる。
「僕のほかに生存者は?」
「いなかったわよ。もしもいたら、始末してたでしょうけれど」
「えっ?」
ソイルは呆然となった。いざ小島のほうへ意識を向けてみれば、ルーフェンとそっくりなセイレーンたちの姿がある。十を超える数の視線が、つつかれるような錯覚をソイルの肌に覚えさせる。
どうやらあまり歓迎はされていない、と納得してソイルは歩き出したルーフェンのあとを離れないように追った。不安げに訊いてみる。
「あの、僕はこれからどうすれば……」
「ひとまずは、アタシについて来なさい。ほら、あそこよ」
ルーフェンが透明に近い水かきを備えた指で示した先には、
洞穴の傍にいたセイレーンが、こちらに歩み寄ろうとしたが、
「問題ないわ。アタシが一人で責任を持って対処するから」
ルーフェンが手をひらひらと払って制した。しかし、なおもそのセイレーンは、ソイルに対して怪訝そうな目を隠そうとはしない。
「……いいでしょう?」
ルーフェンが釘を刺すように重ねて口にした。そのセイレーンは気圧され気味に小さく頭を垂れ、二人をなかに通した。
「ルーフェンさんって、偉い人なんですか?」
やり取りを見て抱いた疑問を、ソイルは尋ねてみた。
「べつに。いつの間にか、そういう役回りになっていただけよ」
ルーフェンの口ぶりには、
広々とした空間で、水浸しになっている。嗅いでみるとやはり潮の匂いがして、海へと通じているのがわかった。
「どうかしたの?」
呆然とするソイルにルーフェンが訊いた。さっそく水面で背泳ぎしながら。
「えっと……いえ、なんでもありません」
さすがに一緒になって泳ぐつもりはないので、水面から
直後に真面目な様子でルーフェンが質問してきた。
「どうしてさっき平気だったの?」
「さっきって?」ソイルは意味がわからず小首を傾げる。
「アタシの身体、じっと見てたじゃない」
背面泳ぎのまま、ルーフェンが
「ち、違います……! その、セイレーンを初めて見たので、珍しくってつい――」
「ふうん」
ルーフェンの顔は完全に面白がっていた。同時に興味深そうな目でソイルに視線を注いでいる。
「質問を変えてあげるわ。どうして、奴隷なんかになったの?」
「どうしてって……」ソイルは視線を逸らし言い
「言えないこと?」
「言わないといけないことですか?」
「そうね。もし、あなたが故郷に帰りたいって願っているならね。そうでないなら、必要ないわ」
ソイルは目を見開いた。
「故郷に帰れる……?」
「絶対とは約束できないけれど」
しばし考え、やがてソイルは事の次第を明かしていった。
「故郷の村はロレンスという名です。辺境の農村で、毎日野菜をつくっていました」
ルーフェンはただ頷いた。
「けれど……不作が何年もつづいて……村を治める領主様も余裕がある方ではなくって」
「それで?」
「借金が支払えなくて……
「あなた歳は?」
「今年で十四歳です」
「そう……」ルーフェンは
「まったくもって人間って不可解よね。互いに助け合わないんですもの」
「いえ、僕たち人間も助け合って生きています。……それなりには」
ソイルは苦笑いをするしかなかった。断言できず、継ぎ足した言葉に、少し胸が痛む気がした。そんなところに不意を突かれた。
「いいわ。アタシが協力してあげる」
ルーフェンは朗らかに告げた。ソイルは困惑して繰り返した。
「協力?」
「ええ」
ルーフェンは水面から抜け出し、付いてくるようにソイルに促した。道中、一度だけ微苦笑を浮かべてボソッとつぶやいた。
「ちょっともったいないけど、仕方ないわよね……」
ソイルが案内されたのは、島の高台だった。
そこに奇妙なものが鎮座している。錆びや汚れの目立つピアノが。まるっきり捨てられたピアノという風情だ。
「さぁ、やってみなさい」
「といっても……」
ルーフェンの意図がわからないまま、ソイルはピアノに近寄った。海辺に放置されたピアノが、まともに音を
その疑問は
「ここはアタシたちの聖域。そして
「岐路?」
「そう、それはこの海の先へと導く鍵なの。アタシたちは言わば鍵の守護者。でも、ソイル。あなたが戻りたいと鍵を使うなら、特別に認めてあげるわ。このアタシがね」
「でもいったい、なにを奏でれば……」
「あなたが思うままに。帰りたいと望むままに。その旋律があなたを導いてくれるはずよ」
いくら思案してみても、ソイルに奏でられるものは一つしかなかった。
故郷の収穫祭では、教会で
けれども、その歌が好きだったのはよく覚えている。
ソイルの指が鍵盤に触れた。ピアノはきちんと音を奏で――指は立て続けに動き、曲を奏でつづける。
ふと、ピアノ以外にも綺麗な響きを耳が感じ取る。
曲調に合わせてルーフェンが歌っているのだ。まるで彼女に背中を押してもらっているように、ソイルには思えた。
曲が終盤に差し掛かった刹那。
最後まで完全に弾き終えたソイルは、これで帰れると希望に表情を輝かせ――
「あの、ルーフェンさん‼ また会えますか⁉」
思い出したように、背後を振り返って叫んだ。
彼女が柔らかく微笑したのが見え、そしてすべてが霧に飲み込まれていった。
ロレンス村の収穫祭は、今年も賑やかに
豊作への感謝の歌。ピアノを演奏し終えた青年は、来訪者たちと面会していた。
冒険者と
「あなたは海神の結界に迷い込み、そして生還された。是非、そのときの話をお聞かせ頂きたい」
青年は予感めいたものを胸に秘め、彼らと対話をはじめた。
泡沫の夢 朽木 堕葉 @koedanohappa
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