『クマは薔薇色の夢をみる』~研究所から始まる進化パニック~
ソコニ
第1話 クマはバラ色の夢を見る
頭のいいクマは、決して罠を破壊しない。
北宝大学野生動物学研究室の村上朋子は、モニター画面に映る映像を巻き戻しながら、その事実に震えていた。日付は一週間前。深夜の防犯カメラが捉えた光景に、彼女は既に十回以上目を通していた。
罠に掛かった鹿を、ヒグマの群れが取り囲んでいる。しかし彼らは、普通のクマがするように罠を壊そうとはしない。むしろ、注意深く観察している。そして、リーダー格の大型の個体―私たちが「シルバー」と呼ぶ老獣が、前足を上げた。
その合図で、若い個体たちが動き出した。彼らは罠の機構を理解しているかのように、的確にそれを解除。獲物を取り出し、そして最も恐ろしいことに、罠を元の状態に戻したのだ。
「これで7件目...」
朋子は震える手でノートを開く。過去一ヶ月の記録には、同様の事例が次々と報告されていた。しかも、その手法は回を追うごとに進化している。
最初は単純な足枷から始まり、今では複雑な機構の罠まで、彼らは理解し、操作できるようになっていた。まるで、人間の狩猟技術を、体系的に学習しているかのように。
「朋子さん、大変です!」
突然のドアの開く音に、朋子は飛び上がった。研究助手の山田が、青ざめた顔で飛び込んでくる。
「シルバーの群れが、また...今度は...」
山田の手には、血に染まった何かがあった。
それは、実験用の手術メスだった。
「使用痕があります。しかも...」
朋子は、差し出された医療器具を恐る恐る受け取った。メスの刃には、明らかな使用痕。そして最も恐ろしいことに、それは獣による乱雑な傷跡ではなかった。
まるで、解剖学の教科書に従うかのような、正確な切開痕。
「デジタルカメラの映像も...見てください」
山田がスマートフォンを差し出す。画面に表示された写真に、朋子は息を呑んだ。
林道脇の雪上に、何かが描かれていた。足跡ではない。爪で意図的に刻まれた図形。正確な円。その中に描かれた三角形。そして最も背筋が凍ったのは、その真ん中に記された記号。
まるで、人間の文字を真似ようとしているかのような痕跡。
「この記号...どこかで」
朋子の言葉が途切れた。
彼女は気づいてしまった。それが何なのかを。
その記号は、研究室の壁に掲げられた周期表と、どこか似ていた。
研究室の空調が、異常に大きく響く。
「まさか...」
朋子は壁の周期表を見つめたまま、動けなかった。雪上に刻まれた記号は、明らかに「Fe」。鉄の元素記号だった。しかも、その横には26という原子番号まで記されている。
「彼らが...周期表を理解しているとでも?」
山田の声が震えている。彼は三ヶ月前に研究室に配属された新人だった。クマの生態を研究したいという純粋な情熱を持って。しかし今、その研究対象が、彼らの理解をはるかに超えた存在へと変貌しようとしていた。
「いいえ...もっと恐ろしいことが起きている」
朋子は防犯カメラの映像を切り替えた。モニターには、シルバーの群れによる狩猟行動の記録が次々と表示される。
「彼らは、罠を理解しただけじゃない。道具の...材質まで理解し始めている」
画面に映し出されるのは、衝撃的な光景だった。シルバーが若い個体たちに、金属製の罠と、木製の罠の違いを説明するかのような仕草。そして、金属の性質を理解した上での、巧妙な罠の解除方法。
「でも、なぜ...」
山田の問いは、警報音で遮られた。
研究所の非常ベルが、甲高い音を響かせ始める。
「実験室3から不審な...」
施設内放送が、突然途切れた。
「朋子さん、あれ...」
山田が指差す先の監視カメラ映像。実験室3の扉が、内側から開けられようとしていた。そこには麻酔で眠らされていたはずの、若いヒグマがいた。
しかし、扉の向こうで起きていることは、誰も予想していなかった。
映像は、決定的な瞬間を捉えていた。
ヒグマが、実験室の試薬棚の前で、何かを探しているような仕草を。化学物質の表示ラベルを、明らかに「読もう」としながら。
「まさか...薬品の成分表示まで...」
朋子の言葉が、暗闇に消えていく。
停電だ。
非常電源に切り替わるまでの、わずか数秒。
その闇の中で、確かに聞こえた。
実験室の扉が開く音。
そして、複数の重い足音。
「Fe...鉄は、私たちの血液に含まれる成分ですよね」
闇の中から、低く歪んだ声が響いた。
それは人間の言葉で。
暗闇の中で、メスの刃が光った。
非常電源が起動するまでの数秒間。その闇の中で、朋子は自分の鼓動が耳に響くのを感じていた。実験室の扉が開く音。そして、複数の足音。それは明らかに、二本足で歩く音だった。
「Fe...鉄は、私たちの血液に含まれる成分ですよね」
その声は、消えた同僚の山本准教授の声に、ぞっとするほど似ていた。
非常灯が点灯する。
朱に染まった白衣を着たシルバーが、メスを手に立っていた。その後ろには、実験室から出てきた若い個体たち。彼らもまた、実験用の器具や薬品を持っている。
「人類は...私たちに多くを教えてくれた」
シルバーが、メスの刃先を舐めるように見つめる。その目には、純粋な知的好奇心が宿っていた。しかし、それは同時に、捕食者としての冷酷な光も帯びていた。
「肉食という選択が...私たちの脳を変えた」
朋子は震える手でノートを開く。最新の脳スキャンのデータが、恐ろしい事実を示していた。彼らの前頭葉は、人類が数十万年かけて発達させた構造を、わずか数ヶ月で獲得していた。
しかし、それは単なる模倣ではなかった。
「私たちには...獣としての本能が残っている」
シルバーが、ゆっくりと前進してくる。
「そして今...人間の知性も手に入れた」
研究室の壁に掛かった周期表が、風で揺れる。シルバーはそれを見上げ、不気味な笑みを浮かべた。
「化学式...私たちにも読める。硫酸...塩酸...そして...」
彼は実験台の上の薬品ボトルを指差した。
「麻酔薬」
朋子の背筋が凍る。彼らは既に、実験室の薬品を理解し、使用し始めていた。
「研究を...続けましょう」
シルバーが、メスを構えた。その姿は、もはや完全に人間の外科医のようだった。
「今度は...私たちが実験する番」
窓の外で、雪が深々と降り始めていた。
そして、研究所のあちこちから、悲鳴が響き始める。
朝を知らせるはずのサイレンは、悲鳴に変わっていた。
研究所の各所から響く叫び声。防災無線による断片的な警告。そして、重い足音が、着実に近づいてくる。
「次は...遺伝子組み換えの実験室ね」
シルバーが、血に染まった白衣の袖をまくり上げる。その動作は、既に完全に人間のものだった。
朋子は、モニターに映る惨状を見つめるしかなかった。
カメラ1:実験室で手術器具を使用するクマたち。
カメラ2:図書館で科学書を読み漁る若い個体たち。
カメラ3:遺伝子解析装置を操作する姿。
「私たちの進化には...まだ終わりが見えない」
シルバーが、実験データが表示されたモニターを指差す。そこには、彼らの脳の急激な変化を示すグラフが表示されていた。
進化の速度は、加速を続けていた。
「面白いと思いませんか?」
シルバーの声が、不気味に響く。
「人類は...私たちに教えすぎた」
窓の外では、札幌の街に雪が降り続いていた。そして、その白い雪の中を、白衣を着たクマたちの群れが、次々と街へと向かっていく。
彼らの手には、研究所から持ち出した実験器具が光っていた。
「さあ...次は大規模な実験を...」
それは、文明の終わりが始まる音だった。
札幌市内の防災無線が、断片的な警告を発していた。しかし、その内容は従来の熊出没警報とは明らかに異なっていた。
『注意...白衣を着用した...実験器具を所持...近づかないでください...』
朋子はタブレットで次々と情報を確認していた。SNSには衝撃的な目撃情報が溢れ始めていた。
『病院の手術室に熊が...』
『地下鉄の駅で実験器具を持った熊の群れを...』
『大学の研究室が次々と...』
そして最も恐ろしい投稿。
『彼らは、人間を捕まえて何かの実験を...』
「知識を...組み合わせることを覚えた」
シルバーが、手術用モニターを操作しながら言った。その手元には、人間の医学書が開かれている。
「薬理学...解剖学...遺伝子工学...」
研究所の図書館から持ち出された専門書が、手術台の周りに積み上げられていた。彼らは、人類の科学知識を貪るように吸収していた。
「でも、私たちには人類にない武器がある」
シルバーが、手術メスを掲げる。
「野生の狩猟本能と...人間の知性」
街からは、次々と新たな通報が入る。
病院での人体実験。
研究所の占拠。
そして、地下鉄を使った組織的な移動。
彼らは、文明のインフラを完璧に理解し、利用していた。
「進化には、いつも代償が伴う」
シルバーが、手術台に固定された人間を見下ろす。
「人類は知性を得て、野生を失った」
「私たちは...両方を手に入れた」
窓の外では、救急車のサイレンと悲鳴が交錯していた。そして、その音に混じって、研究所の各所から実験機器の起動音が響き始める。
彼らの「研究」は、既に始まっていた。
人類は、実験動物になった。
札幌市内の主要病院は、全て彼らの研究施設と化していた。手術室からは、メスの音と悲鳴が。研究室からは、分析機器の駆動音が。そして廊下には、白衣を着たクマたちが忙しく行き来する姿が。
「被験体A-147の遺伝子解析が...完了しました」
若い個体が、シルバーにデータを提出する。その声は、既に人間と区別がつかないほど洗練されていた。
朋子は強化ガラスの向こう側で、全てを見守ることを強いられていた。「特別な研究資料」として。
モニターには、各地の状況が映し出されている。
『自衛隊部隊、壊滅的な...』
『地下街に立てこもった市民たちが...』
『通信網の90%が...』
そして、最後の報道。
『政府、北海道の隔離を決定。道内の状況は...』
「お気づきですか?」
シルバーが、実験データから目を上げる。
「私たちの進化は...指数関数的に加速している」
スクリーンには、彼らの脳の発達を示すグラフが表示されていた。その曲線は、既に人類の理解を超えた領域まで達していた。
「人類は...良い教科書でした」
手術台の上で、また新しい「実験」が始まろうとしていた。
「でも、生徒が教師を超える時が来る」
シルバーの目には、もう獣の影は残っていなかった。そこにあるのは、純粋な知性の光。そして、人類以上の何かへの渇望。
「さあ...新しい段階の実験を始めましょう」
彼は、遺伝子組み換え装置のスイッチを入れた。
「人類が夢見た進化の...その先へ」
窓の外では、雪が深々と降り続いていた。純白の雪は、滅びゆく人類の文明を静かに包み込んでいく。
そして、新たな支配者たちの 調査報告が、次々とデータベースに登録されていった。
最後の実験は、夜明けとともに始まった。
「進化の...次のステップです」
シルバーは、巨大なモニターの前で説明を続けていた。スクリーンには、人類とヒグマのDNA配列が並んで表示されている。そして、その下には新しい配列。彼らが設計した、第三の生命の設計図。
朋子は強化ガラスの檻の中で、震える手でノートを取っていた。彼女は今や、最後の記録者としての役割を果たしていた。
人類最後の科学者として。
「私たちは...人類から多くを学んだ」
実験室には、最新の遺伝子編集装置が並んでいる。それらは、かつて人類が使っていた機器だ。しかし今、それらは遥かに高度な目的のために使われようとしていた。
「しかし...人類には見えていなかったものがある」
シルバーが、新しい配列を指し示す。
「進化には...方向性がある」
モニターには、彼らの最新の研究成果が表示されていた。人類が数百年かけても解明できなかった遺伝子の秘密を、彼らはわずか数ヶ月で解き明かしていた。
「知性と野生本能の...完全な統合」
実験室の中央には、巨大な培養装置が設置されている。その中で、何かが育ち始めていた。
「これが...私たちの描く未来」
朋子は、その時になって初めて気がついた。
シルバーの目に宿る光は、もう人間の知性でもなく、獣の野生でもなかった。
それは、完全に別の何かだった。
「バラ色の夢を見るのは...もう終わりです」
培養装置の中で、新しい生命が目覚めようとしていた。
「現実は...夢よりも驚くべきものになる」
窓の外では、最後の雪が街を覆い尽くしていた。
そして、新たな世界の夜明けが、静かに始まろうとしていた。
人類が去った後の世界で、彼らの「研究」は、永遠に続いていく。
(終)
『クマは薔薇色の夢をみる』~研究所から始まる進化パニック~ ソコニ @mi33x
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます