薔薇屋敷の女主人

ryoumi

第1話 薔薇屋敷の女主人



 薔薇。薔薇は私の魂。薔薇は私を駆り立て、放縦な開放への世界へ導いてくれる。赤い薔薇、ピンクの薔薇、白い薔薇。なめらかな花びらが重なり広がる花。私が生きていく道を強く照らしてくれる光。薔薇は私の命。私は薔薇を舐める。隅々まで味わい、その痺れるような感覚を味わい、別世界を夢見る。

 ああ、薔薇の中に入って生きていきたい。命をあげたい。香しい香りの中で。




 両親のやっていた紡績工場が破綻した。

「ねえ、ウィンドさん。この借金の額がこれでは足りないから、この屋敷を抵当にもらうと言ってるんですよ。ほら、ここに、証文もあるんです」

 父らは、多額の借金を残して、インドに出奔した。

「この屋敷を抵当に入れるのは止めてくださいと言われても、だったら、何か他に差し出せるのかって言ってるのですよ」

 文学を学びに私はフランスの大学に留学中だったけど、祖父が残した懐かしい我が家へ帰った。

 そこで待っていたのは、狡猾な借金取りだ。

「いったい今のあなたに何が残ってます?何もないから、あなたの両親も出奔したのでしょう?」

 ウィルトシャーの紡績工場が多額の負債を抱えて倒産したのは、職員の横領にある。しかし、迫りくる借金取りに命の危険を感じ、両親は逃げざるを得なくなった。

 残された一通の手紙には、どこどこの銀行に残っている現金のこと、もう実家には戻るな、バースの家は諦めろ、ということだった。

 祖父の育てた大切な薔薇園がある故郷の家のことだ。

 その一文で、私は全てを悟った。

「いつか払うと言ったって、金銭は期日内に支払うものです。こちらも商売なんですよ。支払えないって時は、抵当に何かもらうのが決まりです。あなたのこの家や土地を差し出さねば、支払いは完了しません」

 以来、両親は音信不通だ。どこまで姿を隠したのか。生きているのか。無事でいて、と願うばかりだ。

「父の友人の社長に話を聞いているところです。私が借りている下宿の人にも言ってお金を借りていますので、支払いは待ってくれませんか」

「だから、こんなわずかな額で待ってくれって言うのも、出来ませんて言ってるでしょ」

 父の借金取りは強欲張りの醜悪な顔だ。

(私の薔薇園で湧いた虫。いつの間にこれほどの虫が出て来たのだ。許せない。到底許せないが、今は駆除もできない)

 赤い薔薇、ピンクの薔薇、月の雫のような薔薇、貴婦人がつけるような香水のような薔薇と、うちにはたくさんの薔薇が咲いている。祖父が丹精込めて、育て上げた薔薇園。私の父も、私も、薔薇のあるこの園で育った。この家は私が家に帰ったことの証だ。

 両親も紡績工場をやり、私もフランス留学と、家を空けていたけれど、その間は代々、勤める植木屋が引き継いでくれている。両親も仕事のため、私も学業のためで、休日や年末年始は家で過ごした。

 両親も私も勤めが終われば、いつかこの家で過ごすことを夢見ていたのに。

 これでは、全ての夢が費えてしまう。

 深紅の赤、純潔の白と、さまざまに変化する花の持ち主である薔薇。

 その香しい香り。

 そして、棘。

 荒々しいいばらの棘に囲まれて、喧噪からかけ離れた空間で、安息を得ること。それは誰も知らない極上のくつろぎなのに。

 冬も落ちることなく緑で通す強い薔薇の木々。それはとてつもない神秘なのだ。

 私はこの薔薇園の後継者だ。

「いつまでもこの園を守って欲しい」

 死に際に祖父が言ったことを、私は忘れない。子供の頃から何でも買って与えてくれ、薔薇の美しさと効用を教わる中で、大切に育ててくれた。この薔薇園を守る。それが私と祖父の約束だ。だから、父母が止めるのも聞かず、この家に戻って来た。

「そんなこと言ったって、支払いなど出来るのですか。待ったところで、逃げるのでないですか」

 私は花瓶に挿した赤い薔薇を手に取る。そしてひといき、薔薇の匂いを嗅ぐ。そして、ギリギリとその花びらを噛んだ。いや、唇を噛んだ。

(どうする?売るの?そんなの嘘よ)

 小さい頃から大好きだった薔薇。時に慰めてくれ、元気づけられた。薔薇は私にとって、かけがえのない、何にも変えられない存在だ。

(失うだなんて。ここも、先祖代々、受け継いできた土地よ、先祖に申し訳ない。どうにか、避ける方法はないの?ああ、銀行に残してくれた資金を担保に入れたら済むかしら?でも、それでは全財産を失ってしまう)

 ああ、せっかく薔薇の園にいるというのに、薔薇の香りのシャワーも浴びれない。思いっきり薔薇の香しさの中で、身を沈めたいというのに。

「その額、私が払いましょう」

 そこへ、一人の男性が現れた。

(だれ?)

 見も知らぬ男だった。

「これでどうだ?」

 高級そうな上衣、革張りの光沢のある靴、艶のある革製のスーツケース。 彼は四角い鞄を空けて、きらきらと光る金塊の山を借金取りに繰り広げて見せる。

「そんなこと言ったって、旦那、え、いや、わあ・・・・」

(彼が助けてくれる?そんなバカな)

 身も知らぬ男が肩代わりしてくれるなど、常識では到底実現しない。

 有難いけど、謎の男にお金を借りるだなんて、いったい、どうしよう。どういうつもりなの?

「オーケイ、旦那。これで話をつけましょう」 

 一見、金持ちの貴族の若様っぽい男。瞬く間に、借金取りを話をつけてしまった。それには一応、安堵した。借金取りは悠々と出て行って、家から追い出すことが出来た。

 






「これで話はついた。いいね、君はこれで、ここに住み続けられる。困ったことがあったら、僕に言いたまえ」

「なぜ、どうして、あなたが」

 金の取引で有無を言わさずかたをつける相手など、私には初めてだ。

 それも金を介してなど、得体の知れない男だ。金持ちのお坊ちゃま風で、見た目は柔和で穏やかだが、そら恐ろしく思う。気品と風格が溢れた風貌をしていて、堂々としている。けど魂胆が分からない。得体の知れない。もしも、人買いだったら、私はどこへ流れて行く?

「他人の、金貸しのような僕が、どうしてと思うのは当然でしょう。しかし、あなたに融資をする。僕はいつか、借金を返してもらう。僕は何も損はしない。利益も出る。だとしたら、何も損はないのです」

「でも、長いこと、お金を借りるわけですし、支払いは着実に支払わねばなりません。ですが、私は少しづつしか支払えないでしょう。そのために、利息もあるでしょう。それが、何の目的もなしに、いきなり私にお金を貸してくれるのは、なぜなのですか。あの条件とか、話してくれませんか。詳しく・・・」

「なぜなのか、それが分からないか。私も男だ。借金が返せなければ、君をそのまま頂く」

「なんですって・・・」

「つもりだったら?、どうする?」

「だったら、今すぐでも、私の身を差し出したらよろしいですか?」

「君の身を差し出されて、君は僕の資金を受け入れて、君が納得するのなら」

「そんなこと、しません」

「だろう。だから、強要する気はない」

「でも、目的は、私の体目当てなの?」

「勘違いするのは止めたまえ。君にそんなに魅力があるのか」

「なっ・・・」

「僕は日常、こんなことをする金貸しではない。ただ、今回は気が向いたので、慈善的に、金を貸してあげようと思って来た。僕は何も悪い者ではない。いうならば、慈善活動家、かな。僕は実業家でね。会社をやってる。社交界では、こうした話は話題になる。付き合ったり、関与していると、僕にも有利なんだ。あすこは僕が融資して立ち直らせたと話になる。すると、僕の会社も顧客が増える。君には分からないかもしれないけど、君にとっても悪い話じゃない。何の担保もなく、僕から融資を受けられる。君は黙ってこの金を使って、君の家なり、事業なり、立て直したらいい。もし、立て直すのが無理なら、僕の金は返してくれていい。しばらくやってみて、考えるがいい。その猶予はやろう」

 つまりは、社交界で名を上げるため、か。それなら一利ある。一地方の薔薇園が困っているところを助けたというのは上流階級が好む話題だ。話はすぐに伝わり、プライドの高い上流階級とも近づくチャンスだろう。結婚、会社、資金作り、いろいろ効果はありそうだ。

 けれど、そうすぐに紳士の名前を挙げる美談作りだけで納得は出来なかった。

「そう言って、私をうまく誘導して、お金を借りさせて、うまく行けば、私ごと、この家を奪う気?」

「美談を作りたい僕が、名を下げることをしたいか。わざわざする意味がない。君は僕に借りて、返す自信がないのか?」

「いえ、あります」

「まあ、だったら、何も心配することはないだろ。多少、そこらへんの金貸しより、猶予してやるつもりだ。そのおかげで、僕は名を売る。これぐらいの金、僕には何ら問題ない。だから、君は僕を利用し、危機を脱出すればいい。それで僕には増えた原本が手に入る。君は借金問題解決。お互いにとって良い話だ」

 確かに・・・そうだが。

 私は一抹の不安を拭えなかった。

「君のことだが、この世には魅力的な女性は、ごまんといる。借金にまみれた君など、相手にするかね。よく考えてくれたまえ。僕は単に今、莫大な遺産を相続した後継者だ、借金まみれの君なんか結婚しようとか思うだろうか。いやあ、ない。それこそ、ない。まあ、君などあまり面白くも魅力も無し、良いとこ、宣伝の材料だ。今は投資、明るく投資をしているだけ。君とは、資金のやりとりの都合上、話し合っているだけさ」

「もう、いいわ、あなた、帰って。あなたには金を借りたら、もう十分。私はこの家の当主です、私にもプライドがあります。この家で好き勝手はさせない。この家のことを決めるのも私です、この家の面倒を見る責任は、私にあります。あなたになんて、何も言わせない、きっといつか、お金を返したら・・・」

「では、また様子を見に来るよ」

 男は笑顔を見せた。握手はしなかったが、私たちはその何もない空間でがっちり握手を交わしていた。

 ああ。男が憎たらしい。いきなり来て、金でものを言って。私は男を憎んだ。激しく。怒りも混じり合って、悪魔と罵った、心の中は復讐でいっぱいだった。

「必ず返します。すぐ返します」

 だから、私はドアを開けて帰ろうとする男に思いっきり、言い返した。受けるなら、せめてそれぐらいでも。

 薔薇園は祖父の代で終わり、長いこと使われてなかったが、再び再開すれば、収益を得られる可能性はあった。

 その予定で、私も男の申し出を受けた。

「期待しているよ」

 男は笑って、帰っていった。

 



「腹立たしい。消えた。腹立たしい」

 私の中で、腹立たしさと困惑が入れ替わり立ち替わりする。薔薇の花枝をぽきりと折る。

(あらあら、金貸しが来ないと喚いて、どうするの、むしろお喜びなさいな。さっさとあの男の玉の輿に乗りなさいよ)

 薔薇が私の世話を受けて、私に話かけている。正確には私の脳内でだが。こんな時には、話し相手でもいないと駄目だ。その分、薔薇は良い子だ。

「薔薇を育てて、売るしかない。あの薔薇がある。誰にも言ってないけど、秘伝の薔薇よ。お爺ちゃんが完成させてない薔薇があるの。肥料を変えて、色を変化させる」

 私は新しい薔薇の開発に取り組んだ。

 男はあれから、姿を見せることはなく、私がまた、事業で金が必要になった時に現れ、追加の資金を払った。

「追加したのは君からの圧力だ。君の言うことを聞いた。金を返してくれないと、君の体はもらうことにする、そのつもりで、返済を頑張ってくれたまえ」

「誰が、あなたなんかと」

 男は勝ち誇ったかのようにそう言ったけど、私は反発した。

 男は笑いを浮かべて、帰った。不気味。何を考えているか。

「まったくもう。いたっ」

 薔薇のトゲで、私の指を切った。薔薇を扱うといつもこうだ。薔薇が難物なのは、このトゲのせいだ。

(赤い血。赤い血は薔薇と同じだ)

 私は血をぺろっと舐める。

(私の血は薔薇で出来ている。私は薔薇。私こそが、この薔薇園の後継者にふさわしい)

 あんな男にくれてやるものか。

「このトゲを克服する者が、薔薇園の女主人になる」

 お爺ちゃんの秘伝の書に書いてある記述。古いノートを私はぱらぱらとめくる。

(しかし、トゲは痛い。こんなものはなかなか克服できない)

 ふと人影がふらりと揺れて、植木屋のトムでも来たのかと思った。

 と思ったら、あのトーマスがいつの間にか、薔薇園に来ていて、つかつかと私のもとに歩み寄って来て、私の手をむんずとつんだ。何をするのかと思ったら、自分のハンカチで私の指を巻いてくれた。

「どうして、優しくするの?」

「何も、優しくなんてしてない」

「うそ。借金取りにお金を払ったり、手当をしてくれるじゃない」

「優しくなんてしてない。そう思ったら、誤解だ。僕は単なる金貸しだから」

 キツイ目つきで私を睨んで帰ったと思うと、反面、優しくする。優しくしたと思ったら、振り払う。いったい何?優しさなんていらない。男が借金取りでいる分には、私は憎み続けるのだから。

 



「考えているのか?僕のものになる、と」

 私が新しい薔薇を生み出そうと格闘している時に、男はまたやって来た。私が負け、自分の貸した金が返り、私も自分のものになると男は狙っている。うかうかと、男の口車に乗って、金を借りた私のミスかもしれない。でも、こんな汚い男に負けたりしない。調子の乗っているのも今のうち。

「むしろ、あなたの利子を帳消しにするほど、のしつけてくれてやるほうがいいわ。顧客の頼みで、利子を上げてよ。薔薇が売れたら、その分け前をあげるから」

「その手には乗らない。まずは実利を上げてからだ」

「どこが美談なのよ」

「金のことは別だ。それより、綺麗な薔薇だ、噂通り、この屋敷の薔薇は見事だ。この薔薇園で薔薇を育てるのだったら、君を共同経営者としてもいい。どう、僕の売り出し中のウェールズの別荘で、薔薇を展開してくれないか?そこが売れたら、君に一部の利益を渡してもいい」

(開発が遅れたらその分また、経費や生活費など、追加融資してくる)

 これがよく言う多重債権というやつなのだろうか。でもよく考えたら、本当に売れたら、私にも実利が手に入る。今まで薔薇の開墾や世話ばかりで収入はなかったけど、それなら臨時収入が手に入る。確かに、実利というもの、金が喉から手が欲しい。

「本当に、一部をくれるの?」

「ただの別荘の価値を高めてくれたら、もちろん」

 このようなことを気楽に言えるとは、本当に貴族のお坊ちゃまで遊び歩くほど収入があって、ぽんと出せるから、なのだろう。

 ひょんなことで気を起こした男の遊び心で私を誘ったものであっても、私には実力を試すものになる。

(急がば回れだ)

 家の事業再興に乗り出してから、金の匂いには敏感になった。私は有難く、男の別荘の売り出しに助っ人に出ることにした。

 遠い地方だったけど、気候の良い、風光明媚なところで、薔薇を育てると、別荘は見違えるように美しく生まれ変わった。

「何て綺麗な家。ここに住みたいわ、ジョン」

「そうだね、買おう。キャシー」

 家は新婚夫婦に、すぐに売れた。

(やっぱり、私の薔薇は売れるのね。そうなったら、もっとこれを世に出さなきゃ)

 男は気前良く、一括でぽんと金をくれた。

 私はそれを堆肥作りの資金の元手にしようと考えた。




 私は村の外れにある川が流れる土地を買い、その落葉と水で堆肥を作り始めた。

 落葉はもあもあと冬の気候の中で熱を出し、良い加減に発酵始めた。

 家のことは先祖代々引き継いで手伝ってくれる植木屋に任せて、悪いと思ったけど、家はほったらかしにして、しばらくそこで堆肥作りにかかった。

 その肥料づくりのために、長いことかかって、久しぶりに家に戻ったのは、もう何か月も経っていた。

 そこへ、トーマスが怒り眼でやって来た。

「どこへ行っていた?」

「どこでもいいでしょ」

 どうやら、私が逃げたと思ったらしい。でも、借金取りに優しい同情は不要だった。

「薔薇園をほったらかしにして」

「ほったらかして行ったわけじゃない。あなただって、いつも消えている。なのに、よく見ているのね」

「そりゃそうだ。君は私の担保なのだから」

 トーマスはぐいぐい迫って来て、私を壁に押し付ける。

「こちらから担保を回収したっていいんだぜ」

「止めてよ、そういうつもりなの?最初から」

「したっていいんだぜ。薔薇を育てる気がないってんなら、その体で、教えてやってもいい」 

「なっ何をするの。無理やりする気?卑怯者」

「卑怯だって、何だって、君が薔薇を作るっていう気になるならいいんだ」

 トーマスにソファーに押し倒されて、馬乗りになられて、私は必死で嫌がった。力はそれほどかかってなくて、私は寸でで彼の顔の接近から逃げた。床にごろっと転がった。彼は不敵な笑みを浮かべている。分かったか?とでも言うように。

 憎たらしい。弱味につけこんで、力で征服する気だ。私と私の全てを、薔薇を。

 この人には。人間の心がない。最後に望みが叶わなかったら、私でつじつま合わせをする。腐った金の鬼だ。ただの借金取り、金貸し。少しでも助けてくれる優しい人なんて思ったのは間違い。

「監視してるの?どこかから」

「監視しているわけじゃない。ただ・・・」

 男は私に近づいて、トゲで傷ついて、包帯している手を見て、私の手を取り上げた。

「ケガをしてまで、無理をするな」

「あなたに言われたくない。あなたでしょ、こうまでさせているのは」

 私が勝手をしていると思っているようだけど、私には薔薇を完成させる権利がある。男の言いなりになんて、ならない。私はこれまで以上にトーマスを憎んだ。人を憎むことをこれまでしたことないくらい、憎んだ。

(薔薇のトゲで包もう。いつか、彼がここで死ぬ時に、尖った、先の鋭い、ふさわしいトゲで包んでやろう)

 脅しになんて屈しない。負けるものかと、私はいっそう薔薇園の開拓に力を入れた。 




「トーマスさんという方は、お嬢様のお知り合いの方でしたね」

 薔薇園を耕していると、祖父の代から我が家の家政婦として勤めてくれた老婆クリスが、教えてくれた。

「そうだったかしら?」

「憶えてないのですか?近所の農家の子どもで、お嬢様と遊ぶと周りの男児から怒られるからと来なくなって、お嬢様がわざわざ出迎えに行って・・・その時、どう招待しても遠慮して、以来、ずっと来なくなった」

「そう言えば、ベイクウェルタルトを渡したら、こんなのを食べたことがないと言ってた、あのトーマス?」

「そういうことですね」

 もう、十年以上前のことになる。面影もすっかり私は忘れていたけれど、そう言えば、目鼻立ちがあの時のままだ。すっかり男性らしくなって、見違えた。

 あの時のトーマス。まさか・・・




 しばらく、彼の姿が見えなくなって、私は雨の日、彼を待ち焦がれた。

 そのときだ、にわかに玄関ががたがたと騒々しくなって、家の犬のジョンがワンワンと吠えた。

 玄関に行くと、雨にずっぽりと濡れたトーマスが倒れていた。トーマスについている下男が介抱している。

「あ、お嬢様。トーマス様が町で倒れられて、どこにも連れていけないから、トーマス様を連れて来ました」

 老婆クリスと下男に担がれても動かせず、私も手を貸した。

「私の部屋に」

 青い顔をして、まるで死人のようだ。ずぶ濡れで、体温も低下している。

(これは・・・憔悴して、疲れ果ててる。いったい)

「どうして・・・こんなに不健康になったの?金を持ってるでしょ。莫大な財産を相続した後継者なのでしょ」

「トーマス様は勤めていた銀行を辞めて、貿易から物流まで会社を起こされて、朝から晩まで働かれて、家の土地まで売ってしまわれた。商船貿易も手を出して、だから、帰る家もなく、疲れ果てて倒れるまで働いていて、とうとうぶっ倒れてしまわれました。介抱するにも、連れて行く場所もなくて、事務所と商船で寝泊まりをしていますが、そこは食事の用意にも事欠く有様で・・・朝晩の冷え込みで、余計に体をお悪くして・・・」

 トーマスの下男はわあっと泣いて、床に伏した。

(そうだったのか)

 つまり、私へくれた資金は、彼が全部、働いて得た財産だったのだ。

 本当は金持ちではなかったのに、金持ちのふりをしていたのだ。

 どれほど働いたのだろう。どれほど一人で頑張ったのだろう。あの大人しい地味な少年トーマスが。

「もう大丈夫よ、トーマス。私、新しい赤薔薇の品種を手に入れたの。祖父がずっと改良していた赤い薔薇。真紅になったわ、見事な。目の覚めるような赤。私の好きな赤。やっと本物の赤になった。香りもすごく良い香りがして、市場に出したら、すぐ売り手がついたわ。あれを増やせば、資金に困ることはない、私達、やったのよ。これで金持ちよ」

 トーマスは青ざめた顔で気分が悪そうに胸を押さえ、苦笑いをする。

「君の窮状を聞きつけて、これは僕が何とかしないといけないと思った。昔、君の友達だった少年。あれが僕。君が、汚らしいなりをした僕のところに明るく、遊びに誘いに来てくれた時から、ずっと、君に何かあったら、僕が助けようと思って心に決めていた」

 トーマスの頬は雨で濡れ、目の下はクマが出来、微笑みも苦悶に歪んでいる。

 不器用なトーマス。全ては、私のため、最初から・・・

「何とかバレないように、君に高圧的に迫ったり、これでも必死で隠して来たのに、とうとう、君に本当の僕のことがバレてしまったな」

「バレて良かったの。本当のあなたを知りたいと思っていたから」


 





 薔薇、赤い薔薇、ピンクの薔薇。白い薔薇。生きるために薔薇を育てる私には、薔薇が魂。薔薇のために匂いを嗅ぎたい。薔薇のために命を捧げる。


 恍惚と快楽の世界へいざなう薔薇。私が生きていく道を強く照らしてくれる光。この世界に連れて来てくれた彼と共に、薔薇と生きていく。薔薇は私の命。隅々まで味わい、その痺れるような感覚を味わい、別世界を夢見る。


 一度は消えかけ、遠く違う世界に咲いた手の届かぬ花だったけど、今一度、手に入れた。私の魂、私の薔薇。薔薇を私は噛む。舐めて、味わいに浸る。私の大切な薔薇。薔薇のために生きて、薔薇のために死ぬため生まれて来た。





 こうして、私はトーマスのおかげで、薔薇屋敷の女主人となれた。




 この地を薔薇で包もう。色鮮やかな薔薇で。 

 愛する人を薔薇の香りで包もう。赤い、真紅の、深い愛とともに。





(了)

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薔薇屋敷の女主人 ryoumi @matylit

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