還らずの道

@ninomaehajime

還らずの道

 かえらずの道という抜け道がある。

 山毛欅ぶなが繁茂する森で、落ち葉に紛れて茶褐色の堅果けんかが散乱していた。雨後のえた臭いがする。足袋を履いた草履が沈み、不快な感触に見舞われた。

 大きなヤスデが長躯ちょうくを這わせ、葉の下に潜りこんでいく。良く育った山毛欅の枝葉が陽光を透かし、幹の根元は苔むしている。林床の片隅には青紫色の竜胆りんどうが揺れていた。

 関所を抜ける際、後ろめたい事情を持つ旅人はこの回り道を利用した。幕府もこの抜け道を知りながら、あえて警備を置くことをしなかった。

 この森には禁忌がある。破った者は、報いを受けるという。

 背後から物音がしても振り返ってはならない。多くの者はこの掟を知りながら関所破りを敢行し、生還した者はほとんどいなかった。ゆえに、還らずの道と呼ばれた。

 男は盗みを繰り返し、国にいられなくなった。手形もなく、関所は通れない。編笠を被り、引廻し合羽かっぱをつけて取り急ぎ財産を風呂敷にまとめた。人目を忍び、この森を抜けることにした。

 意図的に流された怪談だと男は判じた。一度森に入られてしまえば、全てを見張るのは容易ではないのだろう。もし見つかっても逃げ足には自信があった。伊達に火付盗賊改方から逃げおおせたわけではない。

 ただ、湿り気を帯びた落ち葉の地面には辟易へきえきした。草履のわらから染み出した水気が足袋を濡らしている。朽ちた樹木が倒れ、苔とツキヨタケが生えている。足を滑らせないように踏み越えた。

 山毛欅など伐ってしまえば良いものを。どうせ木材にもなりはせぬ。

 盗人でありながら、そういった思案をした。山毛欅は多くの水気を含み、樹形もじれるものが多い。用材としては扱いにくく、「の合わない木」が語源ともされた。

 手つかずのまま残された山毛欅の森を、盗人の男は濡れた落ち葉を踏み締めて歩く。陽光が薄い葉を通して地上へ下りてくる。木漏れ日が揺れていた。

 背後で大きな物音がした。何かが砕けた。おそらくは先刻の倒木だろう。思わず振り返ろうとして、あわ立つ首筋が危険を告げた。振り返るな。

 背筋に怖気おぞけが走り、額を汗が伝った。後ろに何かがいる。追手ではない。重々しい足取りで、数多の落ち葉に深い足跡を刻みこんでいる。獣に近しく、そのおぞましい気配はどの鳥獣からもかけ離れている。

 金縛りに遭った男の背後から、鋭利な爪をそなえた足跡だけが迫ってきていた。山毛欅の木々たちは、その様子を静かに見下ろしている。

 やがて盗人の男のすぐ背後で、重厚な足音が止まった。頭上で開かれた不可視の口腔から、生温かい吐息が浴びせられた。彼は堪え切れずに振り返ろうとした。

 その直前で、眼前を小さな体躯の獣が横切った。

 首の動きが止まる。斑点を散らした矮躯わいく。しなやかな動きで跳ねていったのは、仔鹿だろうか。男はさらに目を見張った。前方に突然人影が現われていた。

 齢は七つほどだろうか。長い黒髪に白装束の少女。光の加減で顔は見えない。ただ履き物を履いておらず、その華奢な腕には黒い猫を抱いている。目が潰れており、まるで影そのものだった。何と不吉な光景だろう。

 男が唖然あぜんとしていると、頭上を跨いで見えない獣が歩き出した。尋常でない大きさの足跡だけが堅果を踏み砕き、少女へ向かっていく。逃げろ。警告しようにも声が出なかった。

 不可視の獣と白装束の娘が交差する。その何かは少女を害することなく真横を通り過ぎる。わずかに唸り声が聞こえた。そのまま足音が遠ざかる。

 幼い少女は胸に抱いた黒猫に語りかける。

「あなたの主は零落れいらくしてしまった」

 目のない猫は鼻先を上げ、喉を鳴らす。

「山との繋がりを断ち、自らの在り方を見失った。禁を破った者を罰する獣に成り果ててしまった。人々から山へのおそれが薄れてしまったから」

 彼女は黒猫を抱く腕に力をこめた。

「寂しいね」

 黒い猫が掠れた声で鳴いた。

 その鳴き声を聞いて、男は金縛りから解き放たれた。知らず息を止めていたのか、荒々しい呼吸を繰り返す。再び山毛欅の狭間に顔を向けても、そこにはもう黒猫と少女の姿はなかった。

 初めから、其処そこには何もいなかったかに思えた。

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