あなたと『La Vie en rose』を

へのぽん

薔薇色

[大学時代]

 誰のために描くのか?


 大学は指定校推薦で決まった。自分は、いささか一般試験組に対して申し訳なさもあるが、高村が「生まれてすぐに推薦されたんなら詮索されても仕方がない。十八年生きてきての推薦なんだ」と言った。今でもあの幼馴染みの言葉を腹に置いている。


 ただ褒められたいだけだったのに。


 昔から描くことが好きで、小学生になる前に家で描いた両親の似顔絵や猫、犬、近くの氏神や狛犬で得意になった。小学生になるとコンクールで入選は当然で、芸大の元教授がしている、少し遠くの絵画教室に通い、十歳を過ぎてすでにデッサンが抜群にうまく、中学生ではレベルの高い技法を駆使して水彩、油絵、アクリルを描く経験をした。地元の中高一貫に入ると、いつもコンテスト用の油絵を描き続けていた。


 なぜ描くことがつらいの。


 しかし幼なじみで、ずっと仲良しの異性の絵が描けなかった。デッサンは途中まで自室で描くことができるが、どうしても筆が止まる。彼は口唇口蓋裂だった。

 彼を描いたデッサンは、今もベッドの下にある。途中でやめたものや、描ききったが納得できないものも含めて捨てられず溜まっている。いつからか描く意味を考え始めた。高校では楽しいからでは済まない。


 入選して当然。

 コンテストのために描いた。


 コロナ禍での高校生活は楽しかったかと問われると、そうでもないようでいて比べるものもないので、こんなものかと受け入れて暮らしていた。よく言われてイライラしているのは「コロナ禍」や「不景気」でかわいそうと、昔と比べられることだ。昔のことは知らないので、今が基準の若者に妙なことを植え付けないでとムカムカしていた。ただ大学生活はパンデミックの収束とともに華やかさが見えてきた。

 今でも世間ではマスクをしているし、物価の上昇も、夏瀬世代でもわかる。欧州での戦争は終わらないし、ネット上では現実社会の分断が叫ばれていた。


 でも空は空、光は光、風は風だ。

 早くスケッチ旅行に行けないかな。


 スターバックスでラテを買っているときスマホが震えた。「たかむら」と出た。文字を見る前に、夏瀬自身、頭の中で言葉を選んでしまい、息を飲み込んだ。これまで彼には連絡しそこねていた。いつも姿は見かけていたが、合否を尋ねていいのかを考えすぎていたので、急なことで驚いた。

 文字が送られてきた。


『合格したよ。描いてる?』


「マジで?京都?」


『追いかけた』


「ほんまに教師になるん?」


『今んところはね』


「通いやんね?」


 夏瀬は買いたてのコーヒーショップから外に出て、電話をかけてみたが、速攻で着信拒否に受けた。


『ごめん。形成手術で入院してる。今んところ口を縫われて喋られへん』


「あ、そうか。キレイになるん?」


 今が汚いような言い方だと言っているようでスマホを打つ指が止まった。誰かが気にしない言葉が棘になる。


『どこまでするか、本人次第。保険も効くんやけど。また連絡してええかな』


「お見舞い行くわ」


『面会ムリやねん。コロナで』


「あ、そうか。ラインするし。何時頃がええか教えて。話したいし」


『入院も三週間くらいかな。後二週間やから騒ぐほどでもないよ。今から検診や』


 途絶えた。

 夏瀬はマスクの下で笑っていた。追いかけてきたなんて、本気にするやん。そんな自分に苦笑した。


[高校時代]

 高校時代、高村が入学して、ゴールデウィークが過ぎた頃、夏瀬は彼と一緒に通学し始めた。どちらともなく遠慮がちに近づいて話すようになると、低学年の様子でストップしていた高村は大人びていた。


「たかちゃん、高校はどう?」


「みんな陽キャや」


「意外にガリ勉おらんと思わん?」


「おらん。僕、埋もれるわ」


「埋もれんわ。たかちゃんはポジティブシンキングやと思うで。絶対にネガティブではない」


「強くなければ生きていけんやろ」


 高村はマスクを調整した。そこには手術をしたキズがある。人は生まれる前に顎と唇が上下ともに二分割していて、生まれるまでに左右がくっつくらしいのだが、何かの影響でくっつかないまま生まれてくる。唇がくっつかないままなら唇外裂、顎までくっつかない場合、口唇口蓋裂と診断される。

 もちろん軽重の差はあるが、見た目も通常ではないし、下手をすれば言語障害や他の障害も出てくる。高村の場合、生後三ヶ月で手術をして、後に言語障害のリハビリ、子どもの間は歯列矯正、そして見た目からの好奇心で差別と一人で耐えた。

 高校卒業後、ある程度成長が止まるのを見計らい手術をしたということだ。歯列矯正も美容目的ではなく、見たことのないヘッドギアを頭にかぶって下顎を前に出すことをしていた。小学生低学年までは遊んでいたが、高学年、中学生になる頃には、お互い挨拶しかしなくなった。


 一緒に学校に行ける距離なのに。


 夏瀬が、中高一貫に入ると余計に距離が離れたが、誰も知らない学校へ行きたいということで、高村が夏瀬の通う高校の部に編入してきた。よく入れたものだという高い偏差値を誇るのだが、もともと賢いのか変化を求めて必死でやったのか。

 凄いねと言うと、


「僕な、高校に入るまでに手術して、少しはマシな顔で新しい生活が始まると思うててん。そやけど計画は失敗や。コロナもそうやけど、そもそも成長期に手術するリスクがある言われて、計画は断念や」


 高村は夏瀬の隣でつり革も持たずに腕を組んでいた。どんな体幹しているんだ。こんなに揺れる列車でずっと堪えていた。


「まだ普通に学区内の高校へ上がるくらいでよかったんやないかな。他から来た中学で笑う奴もいたけど慣れた奴もおるし。今の僕はマスクがアイデンティティや」


「せっかく入学したのにそんなこと言わんでもええ、たかちゃんがんばったんやし」


「なっちゃんも迷惑やろ。こんな顔の僕と話してたら。迷惑かけたくないから話しかけんとこう思うてたんやけど、話しかけてしもたんや」


「迷惑なんて思うてへんわ。まさか高校で合流するとは思うてないなあて驚いた」


「おばちゃんに言われた」


「お母さんに?また余計なこと」


「そうでもないよ」


「絵がうまいからというて、こんな進路選んでしもた後悔もあるねん。そやけどたかちゃんが来てくれたからうれしい」


「毎日制服見てたからな」


「まさかわたしの制服見て来たん?」


「変態やないわ。でも高校受験のモチベではあったな。何となくそっちへ行けば新しい世界がある思うてん」


 高村は、スマホでパズルゲームをしている背広姿の頭越しに窓を見ていた。スマホ画面にはアニメキャラが出ていたが、何か嫌なことでもあるのかスキップしてすぐ次のステージに移るを繰り返していた。

 たまに夏瀬は高村の言うことが、どこまで本気かどうかわからない。一緒に通えてうれしいというのは、単なる社交辞令なのか心の底から思ってくれているのか。友だちとしてか異性としてか。異性としてなわけはないかなと。


「一緒に通うてくれてありがとうや」


 夏瀬は火照る顔で俯いた。


「僕は絵も描けんし何も創れんからな。与えられた問題解くくらい。できん問題は解き方を覚えて合格したんや」


「わたしは与えられた問題解けんけど。たぶんやけど絵で合格した」


「一芸は身を救うねん。なっちゃんの絵のうまさは昔から有名やん。僕も絵画教室通いたい言うたんやけど、秒で却下されたわ」


「何で通いたいと?」


「いつも楽しそうにしてた」


「楽しいのは小学生まで。中学生からはいろんなもん求められるんねん」


 いつもライバルがいて、描いていて楽しいことがない。学校からも結果を求められる。描くことが怖くなることがある。


「求められるのはええことやん。僕ら数学や英語は求められんで」


「賞を求められる。誰もわたしの絵なんて観てない。何とか賞入選とか観てる。絵画教室のコネで入選もある」


「小学生のとき市の賞に入選したな。画用紙に紙貼る版画みたいなもん」


「紙版画。木版画の前に習う」


「誰かのマネして、入選した。大人はちょろいな思うたな。見抜けんのや」


「悪いなあ」と笑った。


「贋作も見抜けん奴が悪いと思うわ」


「悪意あれば見抜けん」


「悪意も怖いけど無邪気な無知も怖い」


「どういうこと?」


 突然、学校がオンライン授業になった後も含めてほぼ毎日話した。たぶん小学低学年から話し忘れたことを取り戻そうとしていたのかもしれない。彼はマスクの生活が辛い話もした。


「マスク外したときが怖いねん。なっちゃんは僕のこと知ってるやろ。顔のこと」


「うん……」


「でも他のみんなは知らんからな」


「ずっとこれが続けばええと思う?」


「こんな生活はいらん。でも隠してしもうたら見せるときつらい。人は見た目やない言うけど、ほんまにそうなんやろうか」


「たかちゃんはどう思うん?」


 高村がいつもこんなことを考えているとは、夏瀬は思えない。しかし誰かれともなく話していることはないはずだ。彼の心に刻み込まれた傷が深いからこそ、普段は封じ込めようとしていても生々しく浮かんできて化膿するかのように膿がこぼれ落ちてくる。この悪臭に耐えているねは他の誰でもない彼自身だ。


「見た目がすべてとは言わんけど、ほとんどが見た目やろ」


「わたしは自信やと思う。容姿端麗でも整形し続ける人もおるやん。インスタでもティックトックでも出てくる。絵画でも盛る」


「盛る?」


「肖像画とかあるやん。あれはちょっと美人に描くんよ」


「何でちょっとやねん」


「本人も気づくくらいはバレる」


「まあ……昔から加工もあるんか」


「ある。ナポレオンの絵知ってる?有名なところでは、馬で冬の峠を越えてる。観たらわかるわ。これこれ」


 夏瀬はスマホで見せた。どこにでもある馬にまたがるナポレオンの絵だ。誰しもナポレオンといえば思いつくはずだ。


「かっこええやん」


「ロバで越えたんよ」


「馬やないんか。ちょっとショックや。ロバで越えたなんて絵にならんな」


「ロバで越えてる絵もあるけどね」


「逆によう描いたな。暇やったんかな」


「そうかな?」


 高村の感想に夏瀬は笑った。ロバでシェルパに導かれて、地味に峠を越えるナポレオンを描くなんて、画家の得にはならない。


[大学時代]


 誰のために描くのか?


 大学に入ると、夏瀬は西洋美術史を選択した。仁科准教授が担当だった。小さな講義室の角と角には家電量販店でしか見たことのない、巨大なモニタを置いていた。そしてライブの講義なのに、各自パソコンを持参するように指示された。

 大学生になった高村は首を傾げた。


「聞いたことないな」


 高村の通う大学では、スマホは持ち込んでもいいが、電源は落としておくようにということが多いらしい。たまにベルが鳴ると講義は中断して、嫌な空気になるとのことだ。

 西洋美術史を選択したのは失敗だったのかもしれない。もっと楽に単位が取れると考えていたのだが、求められるものが底が見えないくらい深い。下手をすれば実技以上に「実技」を問われるのではないかと思えた。そして受講者の上級生たちは仁科に挑んでいるのかと思える眼光をしていた。


「パソコンは楽やな。でも欠点もある。いくらモニタがでかくても、物が持つ雰囲気は出せん」


 仁科は鞄からゴソゴソと二枚の油絵を出した。どちらも花瓶に挿された一本の薔薇を描いたもので、サイズは手首から肘に乗るくらいだから、少し小さい。


「薔薇色の人生というわな。エディット・ピアフの歌『ラ・ヴィ・アン・ローズ』てのが有名なんやけど。どちらの色を思い浮かべる」


 左は春を思わせるピンクに近く、右は夜の街の唇を思わせる真紅に近い。夏瀬はピンクに近い方かなと考えていると、仁科がアンケート取るからピンクに近い薔薇を示した。


「これの人は挙手」


 五十人のほとんどが手を挙げた。真紅の方が薔薇らしいのだが、薔薇色の人生と言われるとピンクを選んだ。

 同じことを仁科は話した。

 映画やドラマでプレゼントに使われる薔薇は真紅が多いのに、夏瀬たちが選んだのはピンク系だ。


「薔薇で思い出すのは何や?」


 仁科はパソコンの画面を覗いた。


「匿名で打ち込んで」


 バレンタイン

 シャンソン

 ヴィーナスの誕生

 ナポレオン

 ドラクロワ

 ヘンリー六世

 腕時計

 ミッシェル


「ボッティチェリの『ヴィーナスの誕生』に春の象徴として薔薇が出てくる。色は?」


「しろ」


 夏瀬が何とか打った。


「実際、西洋に真紅の薔薇が現れるのは十八世紀末。中国からもたらされた」


 それまでは西洋には白か濃いピンクくらいしかなく、十八世紀の前の絵に真紅の薔薇が描かれてることはない。では十五世紀に行われた薔薇戦争のランカスターの赤薔薇とは何だということ。


「では終わるか」


 チャイムが鳴ると、仁科はマスクを外して卓上のペットボトルの水を口に含んだ。夏瀬はジッと彼の唇を見ていると、仁科が気づいた。


「気になるか?」


「あ、いいえ」


「口唇口蓋裂。僕はそんな障害で生まれたんや。今では医療も進んでる。僕の前の世代は手術すらできんまま暮らしてた」


「友人にいるんで」


「君の所属と名前は?」


「西洋画学科の夏瀬です」


「夏瀬さんは友人を描けるか?」


 仁科はマスクを上げると、目尻にやわらかなシワを寄せて夏瀬の答えを待っていた。

 夏瀬は目を伏せた。


「嫌なこと聞いてしもた。悪い。お詫びにおっさんの呟きを聞かせたるわ」


「はい」


 夏瀬は苦笑した。


「芸術ってのは簡単にできん。何も考えんと描いてたらあかん。君は不幸を背負いながら幸せを配れるか?絵を描くことで己を見て、世界やお互いを見ることもある」


「美術という言葉はおかしくないですか」


「美を突き詰めるということは醜と対峙せんといかんということやろうな。芸術とは共通集合か和集合か補集合か。美醜、清濁はどうやろうな」


 仁科がノートパソコンを閉じた。モニタは黒い画面に変化し、講義室の光が一段も二段も落ちた。


「誰が決めるんですか?」


「夏瀬さんたちが決める。創作者に委ねられたものはたくさんある。僕はそんないくつかを紹介しているにすぎん」


 時間を取るのは悪い。他にも無精髭の上級生が話しかけたそうにしていた。夏瀬は礼をして、机の上のノートやパソコンを片付けた。耳に聞こえてくることは蓮と泥のことだが、重い気持ちを引きずるようにして廊下に出た。たった九十分の講義のラストの終わる数分で頭を打ちのめされた。


[大学時代・講義後]


 誰のために描くのか?


 これが仁科の講義が上級生に人気がある理由なのかもしれない。単位が取れないリベンジとして受けているのではない。

 もちろん一年生のように迷い込んだのでもない。いや。むしろ上級生はみずから森に迷い込もうとしている。考えなければ生き残れない森だ。これは仁科がだまし絵を得意とするエッシャーのように意識的に創造したのかもしれない。


 雨なのに眩しい。


 夏瀬は傘を差した。


 曇天でも、青空以外でも眩しい。夏瀬にとって高村は、高村だから眩しい。青空でも曇りでも雨でも、高村は高村。


「入れて」


 無精髭の上級生が入ってきた。途中の食堂まで行くからと言うので、特に好ましくはないけど、傘を傾けた。


「西洋画?僕は彫刻。仏師になろうかなと思うてるねん。なつせさん。仁科っちと話してたの聞いてしもたから。ごめんな」


「構いませんけど」


「何を描きたいの?」


「油絵、水彩、パステルのどれか」


「まあ、まだ一年生だもんな。何を描きたいのかなんて考えてないか」


「課題を描いてるくらいですね」


「一緒にランチどう?袖触れ合うも何かの縁だし」


「割り勘なら」


 どうせ食堂で早いランチを食べるので付き合うことにした。夏瀬はピラフにした。彼は冷凍塗れのミックスフライ定食を食べながら、村松と名乗った。


「仏師ですか」


「そう。だから京都に来た。東京かどうか迷ったんだけどね」


「どこですか?」


「仙台。京都の冬はたまらないし、夏はくそ暑いしなんだけど五年もいる」


「仏師は運慶とか快慶とか?」


「慶派は好きではないかな。白鳳文化くらいのが好きでね。阿修羅像とか」


「どこのですか?」


「さすが関西だね。興福寺だよ」


「修復するとか」


「仏師だから、もちろん修復もする。でも新しい仏様を彫ろうと思ってる」


「でも西洋美術史ですか」


「仁科っちね。去年と一昨年から講義聴いてるんだけど、このまんま避けて通れないんじゃないかと思ってね」


「難しんですか」


「一年が選択する科目ではないね。誰にも容赦ない。僕は、暴悪大笑面の答えがわからんから、仁科っちの講義を受けてるようなもんよ」


「ぼ、ぼう……?」


 夏瀬はピラフを集めた。


「ぼうあくだいしょうめん。十一面観音様の後ろの顔だね」


「十一面て十一も顔があるんですか」


「もっとある観音様もある。暴悪大笑面なんてものの前に、君は『泥』を彫れるかと言われた。ごちそうさまでした」


 夏瀬は内心笑った。彼が手を合わせるので「仏師」になる修行のように見えた。


「今回は『薔薇色の人生』なんてべたな話をしてたけど、次は怖いな」


「何ですか」


「今年はフランスの美術史なのかな」


「え?全部しないんですか?」


「できるわけない。中高校みたいに通して教える義務もないし。今年はフランスアカデミズムをするのではと踏んでる」


「ミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチとかしないんですか」


「西洋画の奴に聞いてみるけど」


 たかが美術史なのだし、彼らのことを聴かなくても、絵は描けるようになる。ただ描くにしても、我流ではなく、先人が積み重ねた技術と思想の流れが必要だ。



[大学時代・待ち合わせ]

 大学の帰り、高村と待ち合わせた。

 仁科の講義では誰が問いかけたかはわからないようにできる。コロナ禍の初期でのシステムの構築において、仁科が匿名性を訴えたことが大きいとの話もどこかから聞いた。意外に影響力がある仁科っち。


「仁科っちは匿名性にこだわる。立場の弱い者が自由に表現するとき必要らしい」


 しかしそれではネット世界のように好き放題の目茶苦茶にならないと思わないかと尋ねてみた。


「なると思う」


 高村は少し考えて答えた。


「革命が起きたとき、僕たちには本当の自由が手に入るとか」


「革命?」


 夏瀬は呟いた。

 二人は、よくこうしてショッピングモールのスターバックスで話している。特に京都で話すことでもないのだが。


「革命……」


 高村は手術の跡を隠すように鼻の下に肌色のテープを貼っていた。別に隠しているわけではなくて、保護のために貼らなければならないのだと笑った。

 手術後会ったとき、ほとんど変化がないことに唖然とした。細かなところなど見ていない自分に気づいた。本人が思うほど他人は見ていないということだが、もちろん意を決して手術した彼には話していない。


「ネットで革命なんて起きるん?」


「誰かが起こすんやない?」


 二人で地元まで帰ることにした。

 七月に祇園祭があるので、夏瀬は宵山を一緒に見ようという話をした。祇園祭は七月中何かしらしている長い祭りだ。

 宵山が派手だ。

 装飾が施された鉾なども、実際の街で見られるので、夏瀬は期待していた。そこには西洋から海を渡ってきたタペストリーもあるらしい。


「宵山か。そや。三十三間堂に行きたいんやけど、なっちゃん付き合えへん?」


 高村は言いにくそうに誘った。意識している気もした。口唇口蓋裂のことか、異性としてか、夏瀬に判断できなかった。


「観音様のところやんな。いつがええ?」


「土曜日、どう?」

 

[大学時代・土曜日]

 三十三間堂は、関西では馴染みのある通し矢で有名で、約百メートルのお堂に並ぶ一〇〇一体の観音様は壮観だ。空席のところに東京博物館へ出張している立て札が置かせれているのも何だかおかしい。


「これが風神雷神やね。小さいな」


 絵で見たことのある、風神雷神が観音様の前のところに控えている。現場で見ると意外に小さいが、家に持って帰れば置き場に困るのではと話した。


「やかましそうやな」


 というのが高村の感想だ。これだけの千手観音がいればやかましい気もする。


「仏師になろうとしてる先輩がおるねん」


「運慶とか?」


 お互い彫刻には、同じような知識だなと笑い合って、仏師のことを話した。


「仏様を彫るんかあ。難しいことするねんな」


「ようわからん人やねん。いつも無精髭はやしてるんやけどね。見た目は仏師」


「偏見や」


 高村は笑った。


「あ、今日来た理由の一つや、あそこのなっちゃんに似てない?どれか似てるらしい」


 高村は観音様の一体を指差した。似ているかなと答えたが、何となく不満が残る。夏瀬も高村に似ていそうな観音様を探した。もはや参拝ではない。外国人も多い中、目を凝らして下段から上段まで三十三間堂を行き来した。


「あれなんかどう?」


 ど真ん中にいた。思わず大声を出してしまったのでコソコソと高村へ近づいた。


「似てるかなあ」


「似てるやん。この顎のラインとか」


「マスクしてるのに」


「でもわたしにはイメージはあるもん」


 意を決した夏瀬は、流れのように見せかけて高村にデッサンのモデルを頼んだ。断られやすい状況を選んだ。自分は少し卑怯なような気もした。


「マジで頼んでる」


 夏瀬は心臓が潰されそうに軋んだ。

 高村は黙ると、


「少し考えたい」


 と答えた。


[大学時代・数日後]


 仁科が講義の準備をして、モニタを付けると、待っていたとばかりに文字が流れてきた。


「前回の講義の薔薇色の答えについて尋ねてもよろしいですか」 


 仁科はピンマイクを持って、


「どうぞ」


 と答えた。


「昔の日本人は薔薇を見たことがあるかどうか聞きたいんですが。平安時代に庚申薔薇と長春花というものが出てきました」


「薔薇は自生してた。鑑賞用としての薔薇の話でええんかな」


「はい。水墨画や日本画で見つけられませんでした。日本人は描けないのでは。色など」


「写真してる人はおる?」


「マゼンタ」


 誰かが簡単に続けた。


「薔薇」


「証拠は?」


 仁科が促した。


「春日権現験記絵、鎌倉中頃」


 続けざまに打ち込まれた。


「伊藤若冲、江戸の中頃、ピンク」


「庚申薔薇(こうしんばら)。中国からのものやね。前栽として描かれてる。鑑賞目的かな。ちなみに『そうび』と呼ばれてたみたいやね」


 夏瀬はまったく着いていけないまま流れる画面を見ていた。高校までラインやインスタやチャットを使いこなしていたこなしていたはずのに、速度も知識も遅れているような気になる。


 これが大学生というものか。


 思い知らされた。描いているだけでは、絵がうまい人でしかない気がした。


「春日権現験記絵はネットにあるのか」


 仁科は、モニタを見ながら椅子に腰を掛けてピンマイクを手にしていた。


「見た人は挙手して。載せないで。僕の給料で著作権は払えん。見れん人は隣にヘルプしてもろて。君たちには何色に見えるやろうか」


 『紅』という字が並んだ。

 薔薇のくせに『紅』とは。

 夏瀬は必死に打ち込んだ。


「紅に見える。実際は色を重ねることで表現してるのかも」

 

 仁科は塗料を分析したいと話した。日本もどこもなかなかしない。宇宙のミクロサイズの砂でいろんなことわかるのにと。


「ちなみに僕は芸術は単体では存在できんと思う。常に何かと重ねるのか重なる必要がある。社会や政治、貧困や戦争、誰かと誰かの人生」


 夏瀬の机でスマホの画面が「たかむら」と光った。緊張が喉に詰まった。


『モデルになる』


「人も同じでは?」


 夏瀬は何となくうれしくて、同じくらい緊張から逃れようと、すぐパソコンで打ち込んだ。


「今の答えはロマンティストやな」


「では単位ください」と夏瀬。


 教室が笑いに包まれた。


「今年の君たちの答案は楽しみや」


 仁科は夏瀬を見ながら立つと、


「ではええかな。今日は西洋画のバロックへの変遷について講義する。なぜ変わったか、変わろうとしたか、変わらざるをえなかったか」

 

[大学時代・祇園会]

 夏が始まる頃、夏瀬はスケッチブックを持って、教授棟の仁科の部屋を訪ねた。仁科は夏瀬を認めると、話していた院生に自習を促して、夏瀬にデスクの前を勧めた。


「描きました」


 高村の絵を見せた。仁科は数枚を見ながらうれしそうに答えた。


「凄いね、お互い。これだけで信頼関係が見える。神経使ったなよな。「友人」は何か目指してるの?」


「教師になるそうです」


「人前に立つのか。凄いな。先生は考古学で土掘って暮らそうとした。でも論文でボロカス叩かれて心が折れた」


「あの当時に非破壊検査の未来を否定するからです」


 院生の一人がお茶を入れてくれた。数年上だけなのに、彼女は大人に見えた。


「夢しかない時代ですよ。現に今も。たくさんの発見があるんですよ」


 彼女は笑った。


「何で他人のためにわざわざ論文にせなあかんねん。しかも書いたら書いたでやかましい。これは作品にするんか」


「はい。本人の許可も得ました」


「薔薇色とは?」


「今度の宵山で見つけます」


 おわり

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