ヒグラシ

真花

ヒグラシ

 同じバスの同じ席。車窓から見えるロータリーは一年前と変わっていない。十年前とも写真を並べているかのように変化していない。千年後も同じ景色のままかも知れない。ヒグラシの胸の弦を弓で引くような声がバスがアイドリングをする咽せたような音で掻き消される。それがここからは玲香れいかの時間だと言う合図にいつの間にか決まっていて、僕は居住まいを正して目を瞑る。何人かの客が乗り込んで来て、ドアの閉まる音に続いてバスは発車した。駅前を抜けた頃にふやかすように目を開ける。バスの中には僕を含めて四人しか乗っていない。バス停ごとに運転手の伸び切ったゴムのような声で案内がなされるが、誰も降りない。平日の昼間にこの路線に乗る目的は、皆同じなのだろう。薄皮一枚敬虔な気持ちになり、同じだけ切なくもなった。新たに乗る人もなく、バスは終点まで滑らかに進んだ。

 終点で前にいる三人が降りた後に、僕も降車する。終点には他には何もなく、霊園だけがある。三人がそれぞれ別に入って行く。ここも焼き付けたように変わらない。ここは変わらないことに価値があるのかも知れない。僕も入園して、桶に水を汲んで、柄杓と一緒に持って、墓地に向かう。

 墓地は空が両手でも抱え切れないくらいに広くて、白みがかった青が寂しくなるほどに続いていた。十年間一度も雨だった日がない。命日の選び方が上手だったと言うことなのだろうか。……そんなこと考えていた訳がない。墓地の中を進む。一年に一回しか来ないのに道順をしっかり覚えていることに淡い笑みが漏れた。僕はその顔のまま、玲香の墓の前に立つ。墓は石で、石でしかなくて、だが玲香と僕を繋げる唯一の、まるで最後の、通路だから、あってくれたことに感謝する。僕の位置からは右も左も、まるでこの世界に僕と玲香以外の誰もいないかのように人間の影がなかった。桶から柄杓で水を掬って墓石にかける。桶が空になるまで、その行為が必要な挨拶であるかのようにかけ続ける。空になった桶を置いて、カバンの中からピエールエルメのマカロンを二個、ピスタチオとローズ、出して、ナプキンを敷いて墓前に並べる。風が寝過ごしたように吹いていないから、マカロンはそのまま落ち着く。線香も出す。火をつけて立てる。数珠はなかった。しゃがんで手を合わせて玲香に呼びかけようとして、誰もいないのなら普通に喋ろうと決めた。

「玲香、一年ぶりだね。由里子ゆりこは六歳になったよ」

 玲香は何も言わない。

「君が死んだときは僕の時間は凍りついてもう動かないのかと思った」

 脳裏に玲香がベランダから飛び降りた瞬間の映像が浮かぶ。次の記憶はベランダから見下ろした玲香の姿で、僕は中毒患者のように当時この二つの光景を思い出し続けた。

「でも、僕にはもう一つの時間があった。隠していたとかじゃない。それでも生きようとする方の時間だよ。君との時間は凍りついたまま、今だって動かない。だから僕はもう一つの時間を生きていても、そっちではずっと君の恋人のままなんだ」

 玲香は黙っている。変わらないし、変われない。

「生きている方の時間で、結婚して、由里子が生まれた。君にそれを報告するのは奇妙だし、残酷かも知れない。だけど僕は思うんだ。君があんな選択をしなかったら、君との間に子供がいたかも知れないんだ。僕はまだ怒っている。きっと勝手に死んだ君を一生許さない。……だから毎年こうやって来ているのかも知れない」

 玲香の顔を思い浮かべる。写真とか動画は全て処分したから記憶の中の笑顔しかない。それも年々劣化してピントが外れてぼやけたような顔になって来た。いや、飛び降りたときの形相は克明に残っている。だが、僕が思い出したいのはそっちではない。

「怒っているだけじゃないか。恋人のままだからか。不思議だよね、どれだけ墓参りをしても生き返ることなんてないのに。あのときどうすれば君を助けられたか考えるのももうやめたよ。それだけ過去になっている部分もあるんだ。削ぎ落とされても、まだ残っているところは多いけどね」

 玲香が僕がここに来ることをどう思っているかは分からない。思うことすらないのかも知れない。それでもここに来るのは、玲香ではなく僕が想うためなのだろうか。

「一緒によく行った海も、カフェも、段々変わっていっているよ。映画館は潰れたし、定食屋は代替わりした。まるでここだけピンで止めたみたいに動かない。……僕も十年歳を取った。変わらないのは僕にとってもここだけだ」

 僕は小さく息をつく。

「マカロン、好きだったろ。食べてくれ。来年も来るよ。じゃあね」

 立ち上がろうとしたそのとき、やさしい風が吹いて、線香とマカロンが揺れた。

「ん。じゃあね」

 立ち上がって桶と柄杓を持って墓前を後にする。ゆっくりと振り返らないで出口まで歩く。バス停は空っぽで、ベンチに座って待つ。無風で、玲香との日々が渦のように思い出される。出会った高校生の日のこと、大学を卒業して再会して恋に落ちたこと、一緒に暮らし始めた日のこと、将来を約束したこと、……飛び降りた日のこと。記憶がまた最初の高校生のところに戻って、飛んだ日に至るとまた戻る。こまのように延々と回り続けている内にバスが来て、乗り込む。行きと同じ席に座る。何度二人の時間を生き直しても、結末が変わらない。その度に針で擦過するように胸に小さな傷がつく。それはまるでここを玲香を忘れないために自分で傷をつけているかのようだ。バスは発車し、僕は景色を見ないでずっと二人の重なっていた間の時を繰り返す。

 ロータリーに着く。バスがエンジンを切る。僕の中の回転が命を失ったみたいに止まる。空っぽになった胸の中がしんとする。残りの三百六十四日の方の時間が流れ出す。家に帰れば妻と由里子が待っている。明日は仕事だ。週末にはキッザニアに行く。僕はゆっくりと一回だけ瞬きをしてからバスを降りる。ヒグラシが鳴いていた。


(了)

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