第16話

 ――夏休みに入った。盛夏を迎えると、外は茹るような暑さだった。


 だが、気密性の高いアパートの窓一枚を挟んだ内側はひんやりと過ごしやすく心地よい。


 カーテンレールには鳴りもしない風鈴。テーブルの上には大量の氷とお茶が入ったグラス。溶けて滑った氷がカランと音を立てた。


 ソファには冬生と渚沙が並んで座っており、冬生は黙々と残り僅かな宿題を片付けている。


 対して、夏休み序盤で速やかに全てを片付けた渚沙は、堂々とゲームに勤しんでいた。画面には『死にゲー』で話題の高難易度アクションゲームが映し出されており、彼女は今、負けイベントとして広く知られている序盤ボスを一周目で倒すことに躍起になっていた。


「あー、もう! 勝―てーなーいー!」


 何度目かも分からない敗北を喫した渚沙は大きく背筋を伸ばして四肢を投げだす。


 半袖シャツの下からちらりとお臍が覗いたから、冬生はシャツを下に引っ張って溜息を吐く。


「大人しく負けて進めたらいいじゃないですか。一周目は負ける前提の難易度設計でしょう?」

「でもさぁ、一周目でも現実的な難易度で勝てますよって言われたら勝ちたいじゃん、ゲーマー的にさ。ここで逃げたら私に王になる資格はあるのかと」

「敗北を認めぬ者に王たる資質があるのでしょうか」


 冬生が解き終えた数学の課題を片付けながら囁くと、「うぅ」と渚沙は顔面を押さえてソファに倒れ込んだ。ひょいと立ち上がってそれを避けた冬生は、近くの鞄に課題を仕舞う。


 冬生はソファの背もたれ側から、倒れ伏す渚沙を覗いた。


「ほら、頑張らないと夏休み期間中にエルデの王になれませんよ」

「おかしいなぁ……不死断ちはできたのに」


 渚沙はぶつぶつと同社の高難易度ゲームのことを呟きながら身を起こし、コントローラーを握り直す。冬生は軽い足取りでその隣に腰を下ろすと、渚沙の肩に頭を預けて画面を眺める。「邪魔じゃないですか?」と冬生が上目に尋ねると「んーん」と渚沙は目を瞑って笑う。


「負けそうになったら肩が暴れるかもしれないけど」

「あ、お邪魔しました」


 そう言って肩から頭を離した冬生は、大人しく渚沙のゲーム画面を眺めることにした。


 ――と、その時だった。ピピピ、と冬生のスマホが音を立てて、そこに二人の視線が集う。その瞬間、油断した渚沙のキャラクターが致命的な一撃を食らって死亡し「あぁ」と情けない声が絞り出された。だが、渚沙はすぐ切り替えて冬生を見る。


「もう時間?」


 スマホを鳴らしていたのはアラーム機能だった。


「ええ、そろそろ準備して出発すれば待ち合わせ時間に丁度いいでしょう」

「了解。混んでるかなぁ、お祭り」


 渚沙が億劫な声を上げるから、冬生はソファを立って答える。


「近くに凄く大きな祭りが幾つかあるので、そこまでではないかと。それでも、例年人が多いことで有名ですし、花火の時間は歩くのも大変かもしれませんね」

「あー、他のメンバーが居なきゃドタキャンしてたかも。他に誰が来るんだっけ?」


 冬生は鞄の中身を検めた後、視線を虚空に投げながら夏休み前を思い出す。


 確か発案者は新島と彼女が懇意にする友人二名だった。彼女達がこの近くで開催される夏祭りを一緒に楽しまないかと冬生と渚沙を誘ってくれた。


 もう少し人が居たら楽しいかもという話になって冬生が小沢を招いた。すると小沢は玲子やその周りのカースト上位に声を掛け、という具合に肥大化していった具合だ。


「新島さん、遠藤さん、和田さん、それから小沢さんに声を掛けたので、彼女が中辻さんと近藤さん、手越さん、あと本田さんを呼んだはず」


 すると話を聞いた渚沙がソファを立ちながら顔を歪めて苦言を呈する。


「えー? 中辻も来るの? いいよ、アイツは」

「こら、陰口は駄目ですよ」

「陰口じゃありません~、私は全然アイツになら直接言います~」

「今日くらいは仲良くしてくださいね。小沢さんも中辻さんにそう言ってるはずです」


 言いながら冬生は部屋着のシャツとショートパンツを脱ぎ、渚沙の部屋に置いている外出用の私服に着替え始める。今ではお互いにお互いの裸も見慣れたものだが、それでも唐突に見ると少しドギマギしてしまう渚沙は、顔を背けつつ冬生を盗み見た。


 しかし、そんな時間は無いと思い直して自分自身も着替えを始める。すると、上裸の冬生がクローゼットを漁りながら「あれ?」と声を上げる。


「私のブラってこっちに幾つか置いてませんでしたっけ?」

「うん? あるはずだけど、小さくて見えないのかな」


 そんな冗談を言いながら捜索に協力をする渚沙の肩へ、冬生は遠慮なく頭突きした。


 「あだ」と声を上げた彼女は、少々分かり辛い場所に収めていた小さめの下着を取り出す。「ありました」「よろしい」と冬生は半眼を向けながらそれを着けた。


 そうして着替えを済ませた二人は、渚沙のスマホで乗る電車と道順を再確認する。


 すると、そんな時だった。再び冬生のスマホが鳴動する。


 冬生は軽く手で断りを入れてからメッセージを確認し――「ふふ」と小さく笑った。


 「冬生?」渚沙が首を傾げてその微笑の意味を尋ねるから、語るより見せる方が早いと判断した冬生は、渚沙に届いた一枚の写真を見せた。




 どうやらあの事件から間もなく、由紀子は弘道に全てを打ち明けたらしい。


 そして、そのすぐ後――今から一か月半ほど前だったか、『今後の家族のことを話し合おうと思うが、何か言いたいことはあるか』と由紀子と弘道がメッセージ上でそう尋ねてきた。それは、これ以上、冬生が二人に会わなくて済むようにという計らいだったのだろう。


 だが、渚沙に背中を押された冬生は、その話し合いに同席することを決意した。


 そして、酷く緊張して沈んだ面持ちの二人に会うと、冬生はこう伝えた。


「私はもう、貴方達の揉め事に巻き込まれたくありません。できることなら、離婚も再婚も不倫も喧嘩も、全部、私の与り知らぬ場所でやってほしいです」


 率直に自らの意志を伝えると、テーブルに斜向かいで座った二人は項垂れていた。


 その中で唯一、テーブルを少し離れた位置に立つ冬生はこう続けた。


「私は未成年です。親が居ないとできないこともあります。ですから、時には何かに頼ることがあるかもしれませんが――願わくは、それ以上の干渉をしないでほしいです」


 吐き出すと全身の血の毛が引いたように身体が冷たくなっていく。


 体温を構築していた両親への親愛の情や絆の類が抜け落ちたのを知覚した。


「後はもう、お二人の好きなように決めてください。私は成り行きに従います」


 そう伝えると、弘道と由紀子は酷く沈痛な面持ちで静かに頷いた。


「ただ――」


 ふと、冬生がそう付け加えると、二人が怯えたように身構えながらこちらを見た。


 冬生はそんな二人の顔を数秒、黙って眺める。思い返すのは、まだ家庭が崩壊する前の小学生時代。成績の良かったテストを自慢するとき、二人はもっと明るく優しい表情で冬生の話を聞いてくれた。その頃を思い出した冬生は目の奥に熱を宿して、深呼吸をした。


「――今はまだ、お二人の行為を容認するのは極めて難しいです。ただ、もしも二人が償い合って昔のような関係に戻れたなら。そして、いつになるかは分かりませんが、私の中にお二人と向き合う覚悟ができた時、まだ……そこに私の居場所があるのなら」


 渚沙の言葉を思い出す。紡ぐ言葉が少しだけ滑らかになった。


「私は、また、昔みたいな家族に戻れたらと願っています」


 切実な表情で己の理想を語った冬生に、由紀子と弘道は目を見開いた。


 二人の目尻に涙が浮かぶ。由紀子は顔を押さえながら申し訳なさそうに嗚咽を上げた。


 冬生の願いは、きっと我儘に分類されるのだろう。いつになるか分からない自分の赦しが来るその日まで、お互いに愛し合う夫婦で居続けろと言っているのだから。


 だから冬生は、この願いの行く末がどこであろうと別に構わない。


 だが、仮にも家族である娘として、恋人に背中を押された果てに、願いを紡いだだけだ。


 話はそれで終わりだと言うように溜息を吐いて口を噤むと、弘道と由紀子が顔を合わせる。


 由紀子は何も言えない。不倫をした側である彼女が歩み寄ろうというのは虫のいい話だと思ったのだろうか。すると、そんな彼女と誰より近くに居た弘道は真っ先にその機微に気付く。


 弘道は徐に椅子を立って、由紀子の隣に歩み寄った。


 そして、再婚をして冬生に拒絶されてから浮かべ続けていた気弱で自信の無い表情に、一抹の覚悟を滲ませる。唇を巻き込んで湿らせると、固唾を飲んで言った。


「先に裏切ったのは僕だ。だから、君のしたことを咎めるつもりは一切ない。だけど、君の幸せを願う為にも――僕は離婚をして、君とその男性が結ばれるのを願うべきだと思っていた」


 由紀子は苦しそうに瞳を伏せ、返答に窮する。そこに弘道は涙声で言った。


「でも、娘が……ここまで歩み寄ってくれたのに、僕達から離れていくべきではないと思う」


 そう言うと、由紀子は涙を落として、微かも迷わずに頷いた。


 弘道は由紀子の傍に膝を折って屈むと、見上げるように訴えた。


「もう一度、ちゃんとやり直してみないか。僕達だけで」


 由紀子は悲痛な顔で弘道を見詰めると、涙と共に徐に、深く頷いた。「ごめんなさい」と改めて掠れた声で謝罪すると、「お互い様だ」と弘道は申し訳なさそうに見詰めた。


 そんな二人をしばらく黙って眺めた冬生は――静かに、一人で家を出た。




 そして今日、弘道から家族のチャットグループに一枚の写真が送られてきた。


 冬生と渚沙は、二人揃って見詰める。


 それは、真っ青な写真だった。浅い海の底から鮮やかに光る海面を、見上げるような構図で撮影した海の写真。周辺を色鮮やかな魚が泳いでおり、その中央に逆光で二人の人物。何ともまあ、似合わないダイビングスーツを着てニッカリとサムズアップする弘道と由紀子だった。


 渚沙はまるで当事者のように感極まった様子で頬を綻ばせ、冬生も思わず頬を綻ばす。


 一か月半ぶりの生存報告にしては少し、綺麗過ぎるか。


「凄いね、これ。沖縄?」


 渚沙が食い入るように眺める。冬生は一緒に送られてきた文章を思い出して頷く。


「ええ、父が夏季休暇を取得したようで。三泊四日の沖縄旅行だとか」

「わー! 良いなあ。それにしても本当に綺麗な海だね! 気持ちよさそう」

「そうですね、本当に。海は――相変わらず綺麗なようで」


 いつかの言葉を思い出しながら噛み締めて呟くと、渚沙が卓上の小さなカレンダーを見る。


「それにしても、随分と久しぶりの連絡じゃない? 元気そうでよかった」

「一か月半ぶりですね。まあ、元気が有り余って変なことをしないといいのですが」


 冬生が、つんと素っ気なく言うと、頬を膨らませた渚沙が冬生の頬を手で挟む。


「もー! ようやく二人でまたやり直そうとしてるのに、君が冷たくてどうするの!」

「家族だからこそ、身内が犯した過ちを赦すのには慎重であるべきだと思います」


 冬生が家族としての責任を念頭にそう言い返すと、渚沙は複雑そうに黙る。


 やがて「ふぅん」と肩を竦めると、自分のスマホを操作し始めた。


「いいけどね、私が代わりにあたたか~いメッセージを送るから」

「ちょっと? いつの間に連絡先を」


 思いがけぬ繋がりに冬生が眉を顰めると、渚沙は「さあ?」とおどけた顔で笑う。


 面倒なことにならなければいいが、と冬生は溜息を吐くが――写真の中の二人の笑顔を見る限りでは、その心配も必要なさそうだ。冬生は微笑と共に卓上の時計を一瞥する。


「ほら、そろそろ良い時間です。余計なことしてないで行きますよ」

「余計なことって何さ。もう少しで打ち終わるから待ってよ」

「では先に行ってますね」


 「ちょっと!」と物申す彼女を置き去りにして冬生は玄関に向かい、靴に足を通す。


 外に出ると、強い熱気が冬生の肌を撫でる。照り付ける太陽に盛夏を感じながら、冬生は澄み切った青空を薄目に見る。一面に広がる青は、二人の潜る海にも劣らない。


 そして冬生は、今では渚沙の部屋より入る時間が短くなりつつある私室を一瞥する。それから、六階の廊下を見渡した。思えば新居にここを選んで、渚沙と出会ったのが事の発端だった。


 色々な変化があった。彼女と出会ったことによるプラスもあれば、それが転じてマイナスになったこともある。様々な差し引きがあったが、最終的には――大きくプラスに傾いた。


 最近は少し、足が軽くなった。今は自分とそれを取り巻く環境も嫌いではない。


 冬生は六階から見える町の景色をぼんやり眺めつつ、スマホに届いた写真に目を落とす。


 細めた目で暫く画面を眺めた後、逡巡を蹴って静かに文字を打ち込んでいく。


「薄情者!」


 すると、そんなことを言いながら渚沙が部屋を出てきた。


 そして間もなく「あっつ」と途端に顔をしかめるから、そのリアクションを見た冬生は笑う。うんざりした顔で施錠する彼女を尻目に、残り僅かな文字を打ち、送信ボタンに指を置く。


 置いて、しかし押せない。冬生はこの期に及んで少し葛藤する。だが、目敏い者が一人。


「あ、返信してるー!」


 まるで気になるクラスメイトを小馬鹿にする小学生のような意地の悪い声。


 「う」と唸った冬生は弾みで送信ボタンを押してしまい、送った文章に間もなく既読マークが付いてしまう。苦い表情で冬生が渚沙を睨むと、彼女はどこ吹く風で画面を覗こうとする。


「なんて送ったの?」

「別に何でもいいでしょう。それより、早く行きますよ。遅刻するとマズイです」


 冬生が無視してエレベーターへと歩き出すと、どこか嬉しそうに渚沙が顔を覗いてくる。


「逸らすねぇ、話」

「貴女よりはパリィが上手いのかもしれません」


 一向に最初のボスを突破できない渚沙を嘲笑うと、どうやらそのカウンターはクリティカルヒットしたらしい。彼女は悔しそうに言い負かされたことを認め、言及を止めた。


 一階でエレベーターを降り、アパートの敷地を出る。


 熱されたアスファルトを踏み付けると、途端に鉄板の上で焼かれているような気分になった。地表の街路樹が近付いたせいか、青葉の中からセミの鳴き声がよく聞こえる。


 陽炎がアスファルトから立ち上って、見ているだけで暑くなる。


 夜はもう少し過ごしやすい気温になるだろうか。


 歩き出して間もなく、冬生は眩しいくらいに真っ青な青空を眺めて熱い吐息をこぼす。


 すると、ただでさえ暑いのに、渚沙が平然としながら冬生と手を繋いだ。気温より幾らか熱いような体温を掌に感じた冬生は、しかし拒む気にもなれずに、微笑と共に繋ぎ返す。


 ――いつか、誰かが冬生に言った。君は溺れた人しか見たことが無いのだと。


 そして同じ口で、それでも海は綺麗だし、浅瀬もあると語った。


 少しずつ海に慣れて、いつか上手に泳げるようになればそれでいいのだろう。


 渚沙を見るのに夢中になっていた冬生は少し歩調を落としてしまい、気付いた渚沙が案じるような目を向けて歩調をこちらに合わせてくれるから、冬生はその嬉しさを噛み締めるように強く手を握り返し、晴れた胸を張って、少し足早に歩き出す。


 自分達は今、海を上手に泳げているのだろうか。正直、よく分からない。


 ただ、こちらを気に掛けながら歩いてくれる恋人を見て、一つ、思うことがある。




 今日も、海は綺麗だ。


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結婚詐欺師の娘と成り行きで同棲する話 4kaえんぴつ @touka_yoru

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