第15話
入浴を済ませた冬生は、渚沙から借りた部屋着に袖を通すとリビングへ戻る。
渚沙はベッド上でクッションにもたれてスマホを触っていた。冬生が「上がりました」と伝えると彼女は「うん」と笑う。目元は腫れているのに、その笑みはだらしなく緩んでいた。
冬生は髪を乾かす間も惜しんで渚沙のベッドに上がり込み、彼女の前へ。
不思議そうに首を捻る彼女のピッタリと揃えて抱え込まれた膝に手を置く。
そして、怪訝そうにする渚沙の足を微かに開くと、そこにすっぽりと自分の身体を収め、渚沙に自分の背中を預けた。
背中越しにバクバクと跳ねる渚沙の心臓を感じて、冬生は目を細めて心地よさに浸る。
「髪、濡れたままでごめんなさい」
冬生が恋人の特権を行使しながら甘えた声でそう言うから、渚沙は動揺が引かないまま呆然と頷き、緊張に強張った喉で固唾を飲む。そして、恐る恐る冬生の身体を抱き締めた。
渚沙はずるずると感情が彼女の方へと滑り落ちていくのを胸の内に感じる。
冬生が好きだ。愛している。しかし、自分の抱いている感情を陳腐な語彙で表現することなど到底不可能であり、懊悩の中で、渚沙は抱擁する腕に力を込めるしかない。
「あ、後で、ドライヤー。やってあげるね」
渚沙は、あまりだらしない顔を見せるのも恥ずかしくて、どこか素っ気ない顔を取り繕ってそう約束する。だが、生憎と腹の内は全部理解されているらしい。冬生はパッと明るく笑うと「本当ですか?」と嬉しそうに自分の髪を撫でた。
そして、甘えるように渚沙の胸元に自分の顔を擦りつけ、深く呼吸をする。
そんな冬生が愛くるしくて仕方がなくて、渚沙はどうにかなってしまいそうだった。可愛い。可愛い。可愛い。可愛い。可愛い。可愛い。早口言葉の如く胸の内で繰り返して叫ぶと、
「ねえ渚沙さん」
ふと冬生がそう呼んでくるので、渚沙は我に返り、緩すぎる笑みを堪えて訊き返す。
「うん?」
「ふふ、呼んだだけ!」
冬生は冗談っぽく甘えた声を上げ、渚沙は何かに自分の心臓が絞られるのを知覚した。
渚沙は「あぁ」だとか「うぅ」だとか声を漏らす傍ら、胸の内で密かな絶叫を上げる。交際すると好きな相手がこれだけ可愛く見えるのか、或いは彼女が変わったのか、その両方か。渚沙は思わず息を乱して冬生を強く抱き締め、幸福に浸った。
「ほんとはずっと、こうしたかったんです」
笑顔でそんな風に言ってくれるから、渚沙は「私も」と苦しげに返した。
冬生は渚沙の腕の中で身じろぎすると、その身体を反転させて真正面から抱き着く形に移る。渚沙が目を白黒させていると、冬生は微かに上気した頬で照れ笑いを浮かべながら言った。
「ねえ、キスしたいです」
渚沙は怯む。心臓が爆発しそうだったので、理性は日を改めてほしいと抗議した。
しかし本能という上司が役に立たないため、雨天決行。「い、いよ」と幾らか震える声で答えると、先ほどは傘を持って自由に動かせなかった手を、今は、彼女の背中と後頭部に。その華奢な身体を強く抱き寄せ、貪るように唇を味わう。そこまで深い口づけをする気は無かったのか、今度は冬生は驚き強張る番だったが、少しずつ身体の力を抜いて、渚沙に心身を委ねる。
三十秒ほどお互いの口内を味わい尽くした後、呆けた顔で口を離し、お互いに息を整える。
渚沙はすっかり身体がその気になったから、もっと冬生のことを知りたいと思ってしまった。しかし、交際初日にそれはまだ早いだろうと断念し、深呼吸を繰り返す。
心と心の化学反応の様だった。
触れ合うことで途方もない感情が発生し、後には変化した何かが残る。日が経つにつれて少しずつ、少しずつ反応が収まるように渚沙の心が落ち着いていき、後には、綾瀬冬生という恋人が居る渚沙の日常が戻ってくるのだろう。だから、この非日常感はきっと、今だけだ。
早くその日が来てくれないと心臓が持たない。そう思う反面、この感情を名残惜しくも思う。
段々と脈拍が安定していき、渚沙は甘えるように、正面から冬生の首筋に軽い口づけをする。今度は拒まれなかったが、その綺麗な肌が微かに赤く染まっていたから、もう一度キスをした。
冬生は恥ずかしそうに唇を引き結ぶと、再び腕の中で身じろぎして背中を向けた。
「抱き締めてください」と不遜に言うから「はいはい」と渚沙は微笑んで抱き締める。
しばらく、穏やかな時間が流れ続けた。何をするでもなく、お互いを確かめる無為な時間が。
そうして心地よさそうにもたれてくる冬生をしばらく見詰めた渚沙は、軽い世間話を始めた。
「そういえばさ。ご両親の件は、どうするの?」
それは世間話というには少し重たかったが、やはり避けられない話題だろう。
「う」と分かりやすい呻き声を上げた冬生は文句を言いたげに後頭部をゴリゴリと鎖骨に擦りつけてくる。「何で現実に戻すんですか」と不満そうだから、「現実でも一緒に居るんだからいいじゃん」と渚沙は言い返す。夢の中だろうが現実だろうが、もう、渚沙は冬生を離す気はない。
すると冬生は何も言い返せず、唇を尖らせた。やがて、渋々と答える。
「……まずは二人がどんな決断を出すかが先ですね。その後、私が身の振り方を考えます」
冬生が寂しそうに目を細めて呟くから、一緒に居ると強調するべく渚沙は腕に力を込めた。
「由紀子さんは不倫の件、弘道さんに話すって言ったんだよね?」
「ええ、嘘を吐く人じゃ――いや、そうでもないんですかね。まあでも、言うとは思います」
裏切られた経験から彼女を信じ切れない冬生が言葉を撤回し、渚沙はそれを痛ましく思う。
「じゃあ、後は弘道さんがどう対応するか、だね」
「ですね。元々、先に不倫をしたのも許してもらったのも父ですから。その恩義で一度は許す可能性もありそうです。でも、そうするべきだとは思わない。どうあれ今回の父は被害者なので、父が望む通りに事が進むべきだと思います。どちらにせよ、離婚か、不問か」
「離婚だったらどっちに付いていくの?」
渚沙は興味本位で尋ねて「あ」と少し遅れて口を塞ぐ。案の定、デリカシーの無い質問に冬生は不満げだが、彼女はすぐに苦笑を浮かべると「私だから許されてるんですよ」と言う。
その恩着せがましさは雰囲気が重たくならないように配慮した彼女の冗談だと理解しているが、渚沙はそれら諸々が嬉しくて「ありがと」と冬生の頬にキスをした。
するとあっという間に上機嫌になった冬生は、穏やかに話に戻った。
「正直なところ、私はどちらとも上手くやれる自信がありません。ただ……今までの言動を考慮すると、父を選べば、彼は強引に親子の距離を縮めようとするかもしれません」
「あー……それはちょっと、否定できないかも」
「母はその辺りを弁えてくれそうなので、恐らく母を選ぶことになるかもしれません」
何だか物悲しい動機ではあったが、それも仕方が無い話か。
「じゃあさ、離婚しなかったら? 今まで通りに過ごすの?」
渚沙の次の質問を聞いて、冬生は少しの間、考え込んだ。
「心情的に今まで通り過ごすのは難しいですが、物理的に極端に離れるのも難しいです。所詮、私は学生ですから。保護者が居ないとできないことが多い。それらで連絡を取るのなら、状況は今までと大して変わりませんし――気持ちだけが離れていくのかと」
一抹の寂寥感を瞳に滲ませる冬生を眺め、渚沙はその頭を優しく撫でる。そして少し考えた後、こんな風に話を切り出した。
「ねえ、冬生はさ。家族にこうしてほしい、みたいな理想は無いの?」
まるでカウンセラーのようなことを訊いてくる渚沙を、冬生は不思議そうに見る。
その言葉を実直に受け止めて少し考えた後、冬生は苦笑をこぼして首を左右に振った。
「所詮、理想は理想ですから。夢より現実を見て思考に時間を費やすべきです」
そんな可愛げのないことを言うから、渚沙は「生意気な」と冬生の両頬を挟む。そして、「むー」と可愛らしい唸り声を上げる冬生に自分の望みを語る。
「たまには、いいんじゃない? 君が我儘を言って家族を振り回したって」
冬生は幾らか驚いたように目を丸くする。そして、悲しそうに目を細めた。
「……些細な介入で抜本的に解決できる問題なら、こんな大事にはなってないでしょう」
「まあね。でもさ、ほんの少しくらいは冬生が受け入れやすい家族になるかもしれない。結局、不倫なんて気持ちが暴走した末の出来事なんだから。気持ちを伝えるのは大事だよ」
「それが叶わなかったら、今度こそ家族とどう向き合えばいいか分からなくなります」
「そしたら私の傍に居続ければいいよ。私が帰る場所になるから」
渚沙が背中からそっと抱き締めてそう主張すると、冬生は悩ましそうに黙る。
渚沙は無理強いはしないようにおどけた笑みをこぼすと、軽い口調でこう締め括った。
「私は何があっても君の味方だから。たまには、自分の生きたいように生きてみれば?」
それは激励や応援の類ではなくて、かといって説教や懇願でもない。単に彼女が思ったことを、冬生の人生を尊重しながら口にしたような、軽い言葉。
だからこそ、色々なものを受け止め過ぎて重くなっていた心の鞄にも、すんなり入った。
冬生は深い嘆息をこぼして渚沙という椅子に身体をもたれさせ、微睡に浸るように目を瞑る。
そして随分と昔。まだ家族仲が良かった頃を思い出し、そっと目を開けて呟いた。
「……傲慢も。受け入れられたら可愛い我儘なんですかね」
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