幽霊とラブソングを

へのぽん

幽霊とラブソング

[社会人の秋瀬]

 大学卒業後、秋瀬はイベント会社で十年以上働いていた。アーティストや芸人や俳優がライブ、演劇などをするときの会場やスタッフ集めや紹介や、宣伝の提案などをする業務をしていた。打ち上げするための店も押さえる。キラキラ光る昭和のミラーボールのような連中だ。

 今夜、秋瀬は薄汚れた酒場で騒ぎに巻き込まれた。音楽論、演技論、演出論、創作論、文学論、酒にまみれて飛び交い、秋瀬は冷めた気持ちで接待していた。


 帰宅後、秋瀬はスマホを手にした。すでに0時を過ぎていた。しばらくストレスで眠れない。リビングは洗濯の山。我ながら情けない。普段着はそこから引っ張り出す暮らしをしていた。これが女一人暮らしの実態だ。今、警察が来たら何もなくても入ってくれるなと頭を下げる自信はある。深夜、デジタルが二時半を示した。青が乱反射して眩しい。


 勢いに任せて、浜岡に電話をした。八回目のベルで出た。彼もたいがいストレスの一つではあるが、すぐ声が聞きたくなる。


『こんな夜中に何やねん』


 浜岡は答えた。秋瀬はどうしているかなと答えると、浜岡は寝てるか仕事をしていて、どちらも邪魔されたくないと不貞腐れていた。


「もう体中痒いの」

『シラミか』

「ストレスよ、ス・ト・レ・ス。コンペの作品どうなってるの?」

『俺なんか待たんと、おまえの抱えてる連中で見繕えばええやん』


 耳もとであくびが聞こえた。


「何か書いてたの?」

『寝てた言うとるやんけ』

「あなたのが必要なのよ。他は誰もダメだったのよ。藁にも縋る思いなの」

『藁……しばかれたいんか?』


 秋瀬は笑えた。はじめてしばくぞと言われたときは怖かったが、今では会話での軽いジャブだ。自分は使わないが。不意に浜岡は重い溜息を漏らした。


「詞はできてるの?」

『そもそもコンペ用の詞なんて創っとらん』


 浜岡の作品は、どういうわけかコンペに出せば、ほぼ選考に残るし、アルバムの一曲として作品にもなる。秋瀬にもまだまだ彼へ依頼したい曲もあるくらいだ。


「まさかスランプ?」

『おまえが送ってきたあの曲に興味ないねん』

「相手は誰なの?わたしはね、あなたがスランプのときはわかるのよねえ」


[浜岡]

 浜岡はゴーストライターだ。秋瀬の身を置く業界では、必要悪と言いたい。今の世の中こそ、匿名を苦にしないという才能のある人がいる。浜岡のように匿名でいられるのも才能の一つなのだ。SNSもしないし、作詞のことを話すことなどない。


「他の作品は全滅なのよ」

『誰もあんなややこしい曲に付き合うてられるかよ。演技派へ転身するアイドルに歌わせるんやろ?ムリやろ』

「あちらはどうしてもあなたの詞が見てみたいそうよ」


 秋瀬は冷蔵庫の缶ビールを出して、プルタブを聞こえないように片指で開けた。深夜の二時に目が覚めて電話を入れる。これは普通の生活ではない。浜岡に甘えていることは理解しているが、やめられない。今も昔も信頼してきた。いや。三十路を過ぎた秋瀬が秘めている気持ちを言えるなら、離れたくない。


「誰に恋してるの?」


 秋瀬の手汗がひどかった。もし本気の恋をしていればと思うと怖い。

 秋瀬はロング缶の半分ほど飲んだ。ウイスキーのボトルを見て、乾いたグラスでビールと割って飲んだ。酒の勢いなくして浜岡と話せないような気がした。


「写真見せてよ」


 写真が送られてきた。モジャモジャ頭の無精髭面に腫れぼったい瞼だ。あれから変わらないところもせつなくなる。


「痩せた?食べてるの?」

『嫁かよ』


 嫁になったらうまくいかなくなるだろう。浜岡は清き流れでは魚だ。これくらいの距離がいいのかもしれないのかなと心臓が軋みそうなとき、金髪の小さい顔が送られてきた。


「またキャバ嬢ね」


 ようやく冷静になれた。

 汗がひいた。


『留学費用稼ぐためにがんばってるねん』


「待て待て待て」


 秋瀬はウイスキー入りビールを一気に飲み干した。俄然やる気が出てきた。


「わたしに紹介してよ。まさか留学費とか援助してないわよね?」


『英会話教室の入学金くらいかな』


 これは会うしかない。

 もちろん別れさせるためだ。


 このまま彼がキャバ嬢にもてあそばれるのは見ていられないし、秋瀬としては作品のクオリティに関わる問題だ。


 気づいてるくせに。

 もうつらくてしようがない。


「大阪で行きたいお店見つけてあるのよね。隠れた焼き鳥屋があるのよ」

『何で隠れてんの?』

「ちなみにお相手は何歳?」

『二十一歳かな』


 任せて、別れるようにしてさしあげますから。てか二十一てヤバい。

 浜岡は他人の、特に女の歳なんてわからないだけでなく、バックグラウンドも当てた試しがない。作詞家としては優秀だが、他のすべてを落としている。


[天王寺へ]

 翌朝、朝の新幹線で大阪に行き、秋瀬と浜岡とキャバ嬢は、天王寺駅の裏にある小さな焼き鳥屋にいた。主は穏やかな同性愛者だ。七十前くらいだろうか。食べ方も教えてくれるが押しつけがましくない。

 L字のカウンターの短い辺のところで、秋瀬は浜岡と亜美を挟んだ。あきらかに未成年だ。ネイルはキラキラしていて、格好は浜岡に合わせてシックにまとめようとしていても、うまくできていない。

 秋瀬はデニムにカシミヤのセーター、浜岡はデニムにシャツとジャケットだ。いつも同じなので、聞いたところでは何着も持っているらしい。選ぶのが面倒だから同じものを買うと話していた。これが背の高さと痩せ体型に合っていて、見た目だけでは豊川悦司の劣化版ではある。おそらくモテるはずだ。


「鳥苦手なんよね。亜美は牛肉とかお寿司が好きなの」


 亜美が言った。


「お任せで三人前ずつお願いします」


 主は小さく会釈した。

 亜美が何か言いかけたとき、


「ひとまず三人の出会いに乾杯しよう」


 浜岡がグラスを合わせてきた。秋瀬は一気に飲み干した後、自分のグラスに注いだ。浜岡は二本目を頼んだ。亜美はつくねは食べた。串から箸で一つ一つ外して、手皿に置いて半分かじる。


「主人が刺してくれてるのに」

「ええがな」


 浜岡さんよ。むしろ外したらボロカス言われたわ。うれしそうにつくねをつまむんじゃない。


「亜美さんは英会話できるのね」と秋瀬。

「オンラインでやってますよ」

「スマホで見られる?わたしも英会話やろうかななんて考えてるんだけど」

「せっかく楽しみに来たのに、勉強の話なんていいやんね。英会話なんてすぐにできるもんやないし。確か秋瀬さんは外国語学部出てたやん。珍しい名前の」


 浜岡が話題を振り向けた。


[大学生の秋瀬]

 学生時代、十年前、秋瀬はウルドゥー語とうものを学んだ。今はパキスタンの公用語でインド北部でも使われ、ヒンドゥにも似ている。書き文字や単語にペルシャ語も組み込まれていた。音のみで伝えられていたために、言葉の一つ一つに詩のような美しさが素晴らしい。しかし現実社会は残酷だった。至福の大学三年生、就職活動がはじまるとき、某大手会社の部長が言った。


『そんなもの趣味やん。親の金で趣味とはええ身分やな』


 関西弁を呪い殺したかった。悔しくて涙が落ちそうになった。圧倒的な歳の差と社会的ステイタスの差で、愛想笑いを浮かべるしかなく、何とか言葉を搾り出した。


『すみません』


 とっさに出てきた自分の言葉に唖然とした。言われたこと以上に謝ったことが今でも情けなくて泣きたくなる。言葉が好きなのに言葉を悪者にしてしまった。好きで学んでいたのに、他人に笑われたくらいで秋瀬の心が死んだ。言葉を殺した。


 当日なのか別の日なのか記憶にすらないが、秋瀬はバーに、一人で飛び込んでいた。秋瀬はいつの間にか一人で残されていた。誰も蔑んだ気持ちを理解してくれなかった。

 そんなやけ酒のとき、間延びした声をかけてきたのは、劣化版豊川悦司だ。お持ち帰りされてもいいと思い、実際にお持ち帰りされた。朝起きたとき冷や汗が出たが、秋瀬は狭いベッドに寝ていて、浜岡はB5コピー用紙が乱雑に積まれたデスクに突っ伏していた。そこに記された繊細な文字の一枚の詞を盗んだ。


 わたしのものだと思った。


[いざキャバクラへ]

 鼻にかかった声で、秋瀬は現実に引き戻された。ここは焼き鳥屋だ。キャバ嬢はブランドの腕時計を見た。


「そろそろお店行きたいな。これ買ってくれたの覚えてる?」

「買うてあげたんかな」


 浜岡を覗き込んだ秋瀬は睨んだ。


「亜美の自慢やねん」


 亜美は秋瀬に笑いながら甘い匂いの腕を見せてきた。同性だからわかる。すでにこちらを見下している顔だ。金づるの邪魔はさせないわよと言いたいのか。マウントだ。


「お店行こうよ」

「ほとんど食べてないわよ」


 秋瀬が制した。予約してあるのにこのまま帰るのも主に申し訳ない。


「ダイエットもしてるもんね」

「腹筋鍛えてるの」


 ニットワンピースの上から触らせた。


「浜岡くんに触られると暖か〜い。でもできれば本格的にジムに行きたいんよね。ヨガとかもね」

「今のままででもきれいなのに」


 整形でもするんだろう。もうしてるじゃないかと気づいた。ヒアルロン酸入れ続けなければならない。何もない空っぽの頭に入れてもらえばいいのにと思った。

 秋瀬は二人の会話を聞きながら、二本目を空にした。そっと置かれたしつこくない皮をすべてモシャモシャと食べた。


 浜岡がトイレへ立つと、亜美はスマホで店に連絡を入れた。他にもいくつかの客へラインを入れながら顔も上げずに話してきた。


「おばさん、いくつ?」

「三十ちょっとよ」


 砂ズリが出てきた。三十三がちょっとなのかは考えないようにした。


「付き合ってるの?」

「仕事関係よ」

「ここ三ヶ月来てくれるの。飲んでもくれるし、きれいに遊んでくれる。仕事関係なら邪魔しないで」

「仕事に関わるのよ」

「音響関係でバイトしてるらしいね。四十すぎてバイトとか笑えるんやけど」


 浜岡が戻ってきたとき、


「浜岡くん、調子悪いの?ちゃんとお店来られる?亜美、心配。つい今迎えも連絡したんだけど。ママも待ってるって」


 浜岡は秋瀬を見た。あ、わたしが亜美と話す時間を与えてきたんだなとわかった。


「行かないわよ」

「ホスト派じゃない?」


 亜美が笑った。


 店を出た後、三人は迎えのワゴンに乗り込んだ。亜美は助手席で運転席の憧れの彼氏を見た。片思いだ。店の関係者同士が付き合うようなところは格下だ。


「わたしは行きませんよ」

「そんなこと言わないでえ」


 浜岡は助手席の亜美に尋ねた。


「レディース料金ある?」

「半額。秋瀬さんもどうぞ」

「行こうよお。楽しく飲もうよお」


 浜岡が誘った。


「腹立つわね」

「秋瀬入ります〜す」と浜岡。


 三ヶ月くらいで百万円以上費やしているではないか。同伴アフターを入れれば、もっと使っている。他に楽しみがないのか。ずっと家に籠もっているのだからしようがないか。しかし浜岡は遊ぶ女ができると仕事をしなくなる。性欲なども二の次のようで、暇つぶしができればいい。彼の求めているのは、彼自身の命を削るように生まれてくる言葉だけなんだ。そのためには健康も社会性もすべて捨てられる。


 半時間後、繁華街の二階のビルがワンフロアでぶち抜かれていて、華やかな天井の下、各ブースには異なる雰囲気のソファが置かれていた。黒服とキャバ嬢が付き合えることはない店だ。しかしいい店だ。


 ソファに座らされた浜岡は、ボトルを一気に振る舞った。ほとんど本人は飲んでいないのではないかと思っていると、秋瀬には着物姿のママがついてハイボールを飲んだ。


「ママも飲んでね」

「いつもありがとうございます」


 若い子が次々と挨拶に来たときの亜美の表情が険しい。たまに会うときの売れない人たちと同じで、ギスギスしていた。秋瀬はグラスをあおると、カウンターで手持ち無沙汰そうにしている子を見つけた。かわいいが、芸能界の片隅でいる、だからどうしたいんだという子だ。


「霞澄ちゃんを呼んでいいかしら。歌手になるために専門学校に通ってるのよ」

「夢があるんか。おいで」


 浜岡は笑顔で呼んだ。

 霞澄は遠慮がちに来た。さすがに亜美を差し置いて浜岡の脇にはつかない。しかし夜の世界、奪うくらいしないと生きられない。彼女はそっと秋瀬について、おっかなびっくりでハイボールを作ってくれた。

 飲んだが、なかなか酔えない。浜岡といるときはいつも酔えない。毎日でも会いたい。明日には帰らなければならない。たくさん話したい。思えば思うほど、緊張して心臓が苦しくて誘えない。秋瀬は彼のことを忘れるために働いているようなものだ。浜岡がカードで支払った。


「いくら?」


 タクシーを待つ間、秋瀬は浜岡が興味なさそうにクシャクシャにした明細を引ったくった。


「いちじゅうひゃく……さ、三十万?」


 上品な紙の領収書は、繁華街のネオンに薄暗く輝く輝いていた。


[幽霊と飲む酒]

 タクシーで駅前に戻ると、路地裏の狭苦しい立ち食いの「関東煮」とのれんが掛かる。秋瀬が大阪に来た頃には、もうこの「かんとだき」という呼び名ではなくおでんと呼んでいた。


「おでん?」


 秋瀬は高浜を覗いた。


「飲んだ後はな。適当に頼めや」


「ちくわ、大根、ごぼ天、たまご、はんぺん」

「お嬢ちゃん、はんぺんないねん」


 丸い顔のお婆が笑った。


「ちくわぶ」

「おまえはセンスないな。たまごなんて後で頼まんと冷めるやんけ」

「おでんでセンス言われたくない。そもそも何なのよ、あのキャバ嬢」

「何とかは突然にや」

「死?」

「キャバ嬢に恨みでもあるんか」


 秋瀬は冷や酒を頼んだ。枡に入れたグラスになみなみと日本酒が注がれた。浜岡のマネをして口からグラスに近づけて腹の前に引き寄せた。三分の一ほど飲んで、枡に溜まった酒をグラスに戻した。

 華やかなキャバクラと場末の居酒屋の雰囲の落差は興味深い。夜も深く、他にも数人客がいたが、秋瀬と浜岡は若いくらいだった。話している人々も呂律が怪しい。


「キリキリが胃まで落ちてくる」

「内臓荒れてない?」

「そんな呑んべえやない」


 秋瀬は、仕事でも華やかなところで飲食することも多い。業界御用達の個室レストランやバーなどで、芸術論や文学論や音楽論など散々聞かされてから、たまに口説かれることもある。連中は浜岡と比べるまでもなく飲み方が汚い。浜岡は秋瀬がほっとする飲み方をしてくれる。

 二人は適当に頼んだネタをつついた。大根は関西風の出汁が効いておいしい。今ここで、浜岡が語るのは関東と関西の「おでん論」だ。いつも彼は芸術のことなど話したことはない。おそらく彼の頭の中には絵画や彫刻、あらゆるものが詰まっているはずなのだが、何とか論について尋ねても「わからん」と一言答えるだけだ。


「田楽は食べたことあるか」

「焼いた豆腐田楽、茄子田楽。東京にある京料理のお店で食べたことがある」

「あれは京料理なんか」

「おいしいんだけど。来たら紹介するわ。一緒にいる人による」


 秋瀬は、東京で浜岡を連れて行く店を考えながら、卵を半分に割ろうとした。


「幽霊と飲む酒はうまいか」


 箸から卵が逃げた。

 秋瀬の酔いが一気に冷めた。

 浜岡は卵を割ると、片割れの一つを半分に引っくり返して黄身を出汁に浸した。


「もう一杯飲めよ」

「もう……いいかな……」


 浜岡はジャケットの内ポケットから財布を出して勘定を済ませた。


「久々に楽しめた気がするわぁ」


 浜岡は、夜空に腕を伸ばした。これまでの垢を落としたようだ。焼き鳥もキャバクラも、浜岡は連れて行かれていたように思えた。秋瀬、キャバ嬢に。どこに行きたいとも言わないし、何を飲みたいともリクエストもしていない。相手に言われたまま座らされて、頼まれたボトルを降ろし、かわいそうな子を指名して、ただルーティンのように支払って帰ってきた。


「わざわざ東京から来たんか」

「うん」


 秋瀬は、駅を指差した。コインロッカーに荷物を預けてある。大きめのロッカーから旅行鞄を取り出した。ビジネスホテルもインバウンドで高いとのことだが、予約しておいた。


「朝十時くらいに電話する」


 秋瀬は、コンコースから立ち去る浜岡の後ろ姿を眺めていた。すぐに彼は仕事の帰りや遊びで行き交う人々の群れに消えた。まさかここから飲みに行くとかあるのだろうか。


 ホテルに着いた秋瀬は風呂の扉を開けて、シャワーからお湯を出して、乾燥対策の湯気を部屋の中へ導いた。腰を掛けてピンクのセーターを脱いで、ベッドに転がりつつジーンズを床に蹴落とした。


『何やねん』

「ちゃんと帰ってるかなと」

『おまえはおかんか嫁か。ま、久々に楽しめたからよかったわ』

「楽しんでるように見えないんだけど」

『嫌味の電話か?』

「明日出る前に電話する」

『おやすみ』


 即切られた。秋瀬はベッド脇のコンセントに充電器を差し込んで風呂に浸かった。


[ゴーストライター]

 翌朝、秋瀬は八時に起きて鏡を見た。しこたま飲んだ三十路女そのものだ。廊下に出て数本のスポーツドリンクを買った。ちゃんとケアをして寝たのに、朝の肌はこんなものか。込み上げてきたものを便器に顔を突っ込むようにして吐いた。消化されていないおでんのカケラが出てきた。飲みすぎると二度と飲むもんかと思った。

 秋瀬は電話をかけた。


『コンペの作品できたから送る』

「寝てないの?」

『寝ながら書けるか?それに酒の力で夢うつつで書くほど落ちぶれとらん。スマホに打ち込んでないから写真で送る』

「直接見たい。駅のカフェで」

『静かなところや』

「ホテルも出ないと。それに帰る前に会いたいし。どこかある?」

『四天王寺の南門で待ってるわ』

「一時間後で何とか。女は出かけるにしても化粧とか身だしなみとか……」

『何も言うてないやん。俺もぼちぼち行くから、おまえもぼちぼち来いや』


 秋瀬は青空の下、門まで歩いた。

 爽やかな空だ。

 胃がムカムカする以外は。

 四天王寺と一心寺という寺がある。四天王寺は聖徳太子由来の寺で、一心寺は無縁仏を弔ってくれることで敬われていた。

 秋瀬が行くと、浜岡は赤い南門の前の階段に腰を掛けていた。ジャケットこそは着ているが、昨日のものとは違うし、なかなか洒落たサスペンダーをしていた。


「髭は剃らないのね」

「他に誰にも会わんしな」

「意外にその服似合うわね」

「そっちもな」


 秋瀬もVネックのラフなニットと昔で言うところのマキシ丈のエンパイアスタイルのワンピースを珍しがられた。女らしい姿を見たことがないと言うので、スカートを履いていたら女らしいわけなのかと尋ねると、俺がワンピース着たら女らしく見えるのかと返された。

 意識してくれてるのかなと、どちらともなく四天王寺の南門から入った。改めて入ったことがないので、広くて驚いた。

 中門、五重塔、金堂、亀の池がある。亀が甲羅干ししているのだが、手を叩くと亀が餌を求めて寄ってくる。西の大門を外に出ると義経の鎧掛け松がある。西の休憩所から学校が見えるところで、二人はベンチに腰掛けた。

 いつものB5のコピー用紙に右斜上に上がる細くて丸い字が記されていた。まるで鉄筆で削られたように書かれたラブソングだ。


「わたしには判断できないわね」

「聞き捨てならんな。今のおまえは判断せんと渡してるんか。好きな歌や絵や人を紹介しとらんのか」

「そんなに責めないでよ」

「偉うなったもんやな」

「もお……」


 依頼は本格派に転身する予定のアイドル向きということだ。映画に使えるくらい機微を描いて欲しいとのことだ。どこまでも惚れた男に食らいつく女は、令和にも存在するんだと知らしめたいらしい。


「シビアな詞がいると思うよ。神様へ捧げるのかな。作曲した奴、病んでるやろ」

「たかが恋愛くらいで?」

「たかが恋でお七も江戸に火ぃつけたやんけ」

「お七か。確かにそうよね」

「気に入らんだら送らんでええわ」

「そんなこと言ってないし」


 数年前の秋瀬は、好きなものでも嫌いなものでも、自分の琴線に触れたものを売ろうとしていたのに、いつの間にかカネに変わるかどうか嗅いでいた。


「どうせ売れんよ。暗い曲になる。作曲した奴はバッハにでもなりたいんか。今はコンピューターで重ねられるから、どうとでもなるのか。アレンジャー泣かせやな」

「こっちは?」

「特に誰かのために書いたもんやない」

「片思いのくせにやけに強気ね。誰かこれ歌える人いるのかな」

「任せる。売れたら言うて」


 秋瀬は、数人の若手を思い出した。芸能事務所や他でくすぶっているバンド、歌手、作曲家作詞家、バンド、AI、シンガーソングライター、芸人でも考えつつ、ひとまず一枚目の歌詞を売れかけの某アイドルグループを統括するプロデューサーに送ると、すぐ既読がついて、しばらくして電話がかかってきた。


『待たされただけある。まだ決まってなくてね。ちゃんと曲のこと理解してくれて救われるよ。これで決定したいな』

「そうなんですか?」

『ちゃんと女二人、男一人いる。三人いることに見抜いてるのは、これだけだ』

「よろしく……」


 秋瀬はスマホを鞄に滑らせると、浜岡のもう一枚の歌詞を手帳に挟んだ。

 浜岡は自販機でブラック、秋瀬のためにミルクティを買ってきた。今でも覚えていてくれているだと思うと少しうれしい。


「わたしたち歪な関係になったのかな。あなたは言葉のせいで死にかけたわたしを蘇らせてくれた。でもわたしはあなたを幽霊にしちゃった」

「俺、昨夜何か言うたか?」


「就活の秋瀬」

 秋瀬が就活をしているとき、小学生と中学生と高校生では何とか生きてきたのに、社会の壁に押し潰された。中学受験のストレスにも耐えてきた秋瀬だが、まさかこんな言葉一つで潰されるなんて想像もしていなかったから、だから余計に苦しくて、あの飛び込んだバーで泣いた。


『そんなもの趣味だと言われたんです。どこの誰かわからないおじさんに好きでやってきたこと否定されたんです。気にしてないけどね』

『不浄観やで』


 わからないことを言われて、秋瀬は残ったショットを干した浜岡を睨み据えた。


『コーランを空で読めるのよ』

『美しいね』

『あなたにコーランの美しさなんてわかるもんですか』

『日本語も美しいんやで』


 浜岡はストレートを飲んだ。


『おじさん嫌い。関西弁嫌い。わたしのしてきたこと否定したの。キズついた!』

『これからは素人が発信できるようになる時代が来るんや。作詞も作曲もライブも自分の部屋で自分でやるようになる』


 浜岡は豆をつまんでいた。妙なところを覚えている。酒に飲まれた秋瀬の隣で、殻を剥いて緑の豆を食べていた記憶がある。


『いい時代よね。すべて一人か』

『そうでもないと思うで』

『何でよ』

『人気の出る作品は群衆に骨までむさぼり尽くされるか、誰にも見向きもされん作品は泥の川の底で骨になるまでほっとかれる。ずっと聴かれることはない』


 浜岡はショットグラスを煽った。そのときに置いた音まで、秋瀬は覚えている。


『それからどうなるの?』

『どちらにしても骨になる』

『もうわたしは人と話さない。ボンベイサファイアください。わたしの酒が飲めないなんて言わないでね。飲むわよね』

『飲むもの拒まず吐くもの止めずや』

『汚い。これでも華の都の女の子よ。青春を大都会!東京で過ごしたんだからね」

『都落ちやんけ』


[幽霊とラブソング]

  秋瀬は缶を両手で包んで、四天王寺の塔を見つめたていた。どこからか線香の匂いが流れてきて、秋瀬は深く吸い込んだ。


「都落ちなんて思わないけど」


 秋瀬は砂利の音を聞いた。


「誰とも話さんと聞いてたけどな」

「わたしは言葉の美しさを学んだからこそあなたにも会えた。あなたはわたしを蘇らせてくれた。あれで救われたのに」


 あのときもへべれけに飲んでいたのに、あんなことを覚えているなんて不思議だ。もうあれから十年になるのか。途中、他の人とも何人かお付き合いはしたが、いつも相談していたのは浜岡だ。


 やがて秋瀬にも転機が訪れた。社会人として語学とは無縁の世界にいた。そんな彼女が会社関係で、ライブ会場を押さえたとき会った作曲家に、浜岡から奪うように持ってきていた詞を見せた。まさか売れるなんて。そこから秋瀬の趣味が始まる。今でも浜岡の詞はいろいろなアルバムの一曲か二曲を埋めている。

 それぞれの別名義で。

 秋瀬は、浜岡のような人がたくさんいることに気づいて、ネットを中心にして彼らを束ねる活動を始めた。暇を見てはあちこちの芸能事務所やライブハウスやレコーディングスタジオ、作曲家などに足を運んだ。どれもが自分の創作でもないし、特に思い入れもない人を「熱意を込めて」売るのは自分がキズつかなくて楽だ。


「東京にこない?」

「いらん。東京は東京でやれ。福岡でやる奴もおるやろう。俺は大阪でやる」

「じゃあ(わたしがこっちに来たら?)」

「どぶ川のビー玉はキラキラ輝いて見えるんや。でも泥に沈んだ髑髏は小さな釣り針で引き上げられるのを待っとるんかもしれんな」

「覚えてたんだ」

「俺は幽霊みたいに生きるのが性に合うてるやろう。言葉が俺を溶かして削いで、身も心も骨にしていく」

「ずっと釣り針を垂らしているわたしに気づいてよ。わたし幽霊に憑かれてるの」


 おわり

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