第6話 永遠の主張

判決の当日、薄暗い法廷の空気は静まりかえったままだった。

裁判官が書類を確認し、「被告人・芳賀、殺人罪により……」と主文を読み上げ始めると、被告席で拘束されている男が一瞬だけ眉をひそめる。

弁護士が耳元で何かを囁いても、芳賀はじっと前を見つめたまま微動だにしない。

判決内容は有罪。

それ自体は傍聴席にとっても想定内だったが、この事件の動機が動機だけに、誰もがどう受け止めればいいのか分からない。

相楽は後方の席で静かに聞き入り、検察官や傍聴人の視線が被告の方へ集中していくのを感じた。


「殺人は重大な罪です。どのような事情であっても、人の命を奪ったことの責任は免れません」

裁判官が淡々と告げると、いつもならここで被告人はうなだれるか、何か取り乱すかという反応を見せるところだった。

だが芳賀は違う。告げられた判決を聞き届けた直後、なぜか目を輝かせて口を開いた。


「判決には従う。だが言わせてくれ。おれは、レモンをかけたあいつこそ真の加害者だと思っている。唐揚げの油分を酸味で侵食するなんて、あまりにも横暴じゃないか。もともと揚げ物はそのままの姿で完成しているのに、なぜ余計な味を足そうとする。何度言っても誰も分かってくれないが……唐揚げとは、鶏肉の美学の極地なんだ!」


小声のざわめきが法廷を包む。

裁判官が「被告人、静粛に」と注意を促し、弁護士も焦ったように制止するが効果はない。

傍聴席の最前列にはテレビ局と思しきレポーターがメモを取る姿が見える。

判決が下された今も、男はまるで講演会に出ているかのように唐揚げを語るのをやめない。


「過去の法廷で散々主張してきたが、まだ足りない。おれは唐揚げにレモンをかける行為が罪深いと心底思っている。フルーツなんてものはデザートでこそ輝くものだ。揚げ物に酸味を合わせるなんて愚の骨頂。裁判所がどう言おうと、おれの信念は揺るがない。あの被害者は確かに命を落としたが、それは唐揚げという聖域を壊した代償なんだ」


場内には失笑と恐怖が入り混じったような空気が広がる。

一部の人間は首をすくめ、弁護士は完全に諦めた顔をしている。

裁判官が「これ以上の発言は控えてください」と再度告げたとき、芳賀はようやく声を弱めた。

だが、その瞳にはまだ燃えるような執着が残っている。


「レモンをかけた奴が悪い。唐揚げへの冒涜は、許されるわけがない」

最後の言葉を吐き捨てるように言うと、芳賀は連行される。

手錠をかけられたままの姿で振り返りもしない。

見守っていた相楽は、一瞬だけあの目と視線がかち合った気がした。

向こうは「理解者ではないのか」とでも問いかけるような顔をしていたが、相楽は目をそらすしかなかった。


法廷の外に出ると、マスコミのフラッシュが一斉に焚かれる。

相楽は慣れた手つきで記者の問いをかわすが、「なぜこんな動機で殺人が?」とか、「唐揚げにレモン論争がブームになりつつありますがどう思いますか」といった声があちこちから飛んでくる。

結局、まともに答えられるわけもなく、相楽は押し寄せる人並みの隙間をかいくぐり、警察車両の陰に身を寄せる。


同僚刑事が苦笑まじりに声をかけた。

「一応、事件は解決ですよね。まさかこんな話題でここまで騒がれるなんて……」

「から揚げか、レモンか、それ以前の問題だろうにな。人を殺してまで貫きたかった思想って、いったいなんなんだか」

相楽は額の汗を拭きながら呟く。

自分の中でも割り切れない思いが渦巻いている。

被害者が受けた不運と、犯人のどうしようもない固執とが、一体どんなふうに世の中で消化されるのか見当もつかない。


署に戻るタクシーの中で、相楽はスマホをちらりと見た。

SNSのタイムラインには、早くも“唐揚げにレモンをかける派か、かけない派か”を論じる投稿があふれはじめている。

あるニュースサイトでは「唐揚げ論争は新たな社会現象か?」と見出しをつけ、専門家がそれぞれのメリットを解説していた。

記事の末尾には、何やら“レモンを拒否する徹底派”が一定数存在し、その急進派が今回の犯人・芳賀に共感を示しているとの情報まで書かれている。


「これはもう、事件が終わっても終わらないってことかな」

相楽は車窓の向こうに広がる街並みを眺めながら、複雑な気持ちでつぶやく。

くたびれきったスーツの襟元を緩めると、助手席に座る同僚刑事も「ほんとですね」と相槌を打った。


署に到着すると、報道陣がまだ外で待ち構えている気配がある。

相楽は深いため息をついてから、そそくさと建物の中へ入った。

同僚刑事と並んでエレベーターを待つ間、またしても「今夜は唐揚げにレモンをかけるか?」などと軽口を叩く記者が背後で聞こえる。

相楽はちらりと同僚の顔を見て、小さく首を振った。

あんな男の所業が冗談混じりに語られていくうちに、事件の核心なんてすぐに風化してしまうのかもしれない。


「正直、これが動機って……」

相楽は言葉を継げず黙り込んだ。隣の同僚刑事も同じ表情をしている。

そのままエレベーターの扉が開き、中へと乗り込む。

フロアのボタンを押しながら、ふと相楽は思う。

もし芳賀が今もどこかで唐揚げを目にしたら、きっと同じようにレモンは許さないと息巻くだろう。

判決で有罪が確定した今も、あの男は自分の主張が正しいと信じて疑わないに違いない。


夜になって署を出るころ、ニュース番組のワイドショーでは「唐揚げにレモンをかけるのはアリかナシか」と、大まじめにコメンテーターたちが話し合っていた。

SNSでも「レモン必須派」と「そのまま派」が激論を交わし、さらには「塩にレモンを混ぜるのはOKか」など話題が拡散している。

さまざまな意見が交錯するなか、事件そのものは少しずつ後景に退いていく。

しかし、画面の隅には“唐揚げ殺人”の文字がまだくっきりと残っている。


相楽はモニターを横目で見つめ、何とも言えない感情が胸に広がるのを感じた。

あんなに熱を込めて語る男を、誰が止められるのか。

たとえ社会から罰せられても、その声が消えることはないだろう。

あの耳を塞ぎたくなるようなこだわりは、おそらくずっと続いていく。


記者会見の準備であわただしい署内を離れ、夜風にあたりながら相楽は目を閉じた。唐揚げにレモンをかけるかどうか――それだけの問題で人が死んだという、あまりに理不尽な事件。

世間の好奇心をかきたてるだけで、本質的には何も救っていない気がする。

それでも人は“ブーム”という形で盛り上がり、自分がどちら派なのかを主張し合うのだろう。


誰もがそのうち話題を忘れるかもしれない。

あるいは、新たなブームやニュースが起きれば記憶の片隅に追いやられるだろう。

だが、芳賀のあの執念深い声だけは、たぶん今もどこかで轟いている。

唐揚げこそが至高の料理であり、レモンは絶対に許されない――そんな狂気にも似た言葉が、冗談とも真実ともつかない微妙な狭間で漂い続けているに違いない。


相楽はポケットから煙草を取り出しかけ、やめた。

いつのまにか周囲にマスコミの姿は見えなくなっている。

あの男の大声での叫びに耳を塞ぎながら、彼らもまた新たなセンセーショナルな話題を追いかけに行ったのかもしれない。

唐揚げにレモンをかける是非をめぐる論戦は大衆の関心を集めているが、肝心の“人命が失われた”重みはどこかに置き去りにされている。


唐揚げへの異常なほどのこだわり。

そこまで料理に情熱を注げるのはある意味すごいことだが、それが凶行の理由になるのはどう考えても異常だ。

相楽はだらしなく歪んでいたネクタイを直し、夜の街を歩き始める。

過ぎ去ったはずの事件が、けっして終わったとは言えない名残を引きずっているように思えてならなかった。


通りの奥で、居酒屋ののれんが風に揺れている。

看板メニューは鶏の唐揚げ。

かすかに聞こえる客たちの笑い声の中で、レモンをかけるのを楽しみにしている人もいるかもしれないし、かけないでそのまま味わう人もいるかもしれない。

どちらが正解なのかは、もう誰にも判断できないような気がする。

ただひとつ言えるのは、あれほど強烈な主張を抱えたまま有罪判決を受けた男が、今も“レモンをかける奴が悪い”と息巻いているという事実。


深夜にかかる空はほとんど星が見えない。

相楽は唐揚げの匂いが漂う小さな居酒屋の前を通り過ぎるとき、一瞬だけ足を止めた。

あの男なら「無断でかけるな」と怒鳴り込むだろうな、と思いながら、虚空を見つめる。


酔いどれた客たちの笑い声が路地裏にこだまする中で、彼は苦く笑い、再び歩き出した。唐揚げをめぐるこの騒ぎが一時的なものなのか、それとも長く尾を引いて人々を巻き込んでいくのかは分からない。

しかし、その始まりが血なまぐさい事件であったことは間違いない。

どこかに連行されていった男が叫び続けている限り、この論争は完全に消えることはなさそうだった。

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唐揚げレモン殺人事件 三坂鳴 @strapyoung

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