第5話 終わりなき“レモン論争”

唐揚げ専門店のシェフが証言台に立ったとき、傍聴席からかすかに笑みがもれた。

殺人事件とは到底思えない話の流れに、法廷内の緊張感が変な具合にゆがむ。

シェフはやや緊張した面持ちで、「レモンをかけることは一定の理にかなっている」と自身の見解を述べ始める。

油で揚げた鶏肉をより食べやすくするためのひとつの方法として、医学的にも栄養学的にも説明がつくというのだ。


「唐揚げの衣は油分が多いため、口当たりが重くなりがちです。そこにレモンを少量加えれば、脂が分解されてさっぱりとした風味になる。ビタミンCも摂取しやすくなりますし、客にとっては良い食べ方だと考えられます。もちろん好みによりますが、まったくの間違いではありません」


シェフが言い終えた瞬間、被告席の芳賀は声にならないため息をつき、すぐさま鋭い眼差しを向ける。

弁護士がそれに気づき、抑えるような仕草をするが、芳賀は頑として止まらない。


「それは単に“健康的に食べたい”と考える人間の押しつけじゃないのか。唐揚げという料理が濃厚な油分と肉汁のハーモニーを持っていることを否定する言葉にしか聞こえない。栄養をとるために唐揚げがあるんじゃない。あの香ばしさと独特の塩気、それらが混ざり合うからこそ、唐揚げは揚げ物の王だと言える。そこに果汁を垂らして油を中和したら、唐揚げ自体の存在価値が弱まるじゃないか」


シェフが視線を落とし、小さく首を振る。検察官が続きを促すと、今度は栄養士が席に呼ばれ、レモンの効能についてさらに科学的なデータを開示した。

衣の酸化を抑えるとか、揚げ物による胃もたれを軽減するとか。

傍聴席も「へえ」と興味を示す中、芳賀は机を両手で叩き、身を乗り出す。


「ちょっと待て! 胃にもたれるなら、別のメニューを食えばいいだろう。揚げ物には揚げ物の覚悟ってものがある。油っこいのが嫌なら、唐揚げに手を出す資格なんてないはずだ。鶏肉に含まれるうま味と油分を、そのまま堪能してこそ唐揚げを食べる意味がある。 レモンを使えば胃が楽になる? 鶏肉が持つ本来のコクや塩のキレを蔑ろにしてまで、そんな上辺だけの理由を通そうっていうのか?」


腕時計をいじっていた検察官が、ため息まじりに質問を返す。

「確かに過度な脂は体に良くないケースもあります。被告人はそれでも構わないというお考えなんですか?」

芳賀は反射的に強い口調で言い返した。


「油がいけないなんて誰が決めた? 鶏肉のジューシーさは、その油分によって生かされる。肝心なのはバランスだろう。そこに酸味を足すと、味の重心が崩れる。香りの層だって変わるんだ。中華料理で酢豚を作るときの酸味とはまた別の問題だ。あっちは甘酢を使うから成立するが、唐揚げは塩味と衣の食感で完成している。レモンを絞った瞬間、塩味の輪郭がぼやけて、肉のうま味が酸っぱさに塗り替えられる。それを“あっさり”という言葉でごまかしている人間が、あまりにも多すぎる」


傍聴席の前列にいた数名は吹き出しそうになっている。

専門店のシェフや栄養士とのやり取りに、まるでテレビ番組の討論会を見ているような空気が漂っているからだ。

それでも芳賀はひとり熱気に包まれ、ほとんどプレゼンテーションのように力説を続けている。


「唐揚げってのは、そう簡単に科学的な効率で割り切れるものじゃないんだよ。たとえば塩麹を使うかどうか、下味のスパイスをどうするか、人によってレシピは違う。だが共通するのは“香ばしい衣と肉汁”を生かす点だ。それを壊してしまう行為が、なぜ正当化される? 魚の切り身にレモンをかけるのとは訳が違う。唐揚げは肉そのものが柔らかく、熱い油で閉じ込められた旨味を最大限に味わう料理なんだ」


検察官も呆れ顔だが、どこか冷静に立ち回ろうとしている。

「専門家が有益だと言っていることを、あなたが完全に否定するだけでは説得力に欠けると思いますが……」

その言葉を聞くなり、芳賀は椅子から半分浮き上がるほど身を乗り出す。


「説得力? そうやって物事を簡単に数値で捉えようとするから、本質を見誤るんだ。おれは唐揚げを科学的に食うために作っているわけじゃない。口にしたときに広がる感動こそが、真の目的だ。そりゃあレモンをかければ、ある程度はさっぱりするだろう。それが何だ? 唐揚げを“さっぱり”なんて形容すること自体、すでに一線を踏み越えてる。揚げ物の味を台無しにして、むしろその罪から目を背けているようにしか思えない。唐揚げの醍醐味はこってりとした中に、鋭い塩味がキレを加えている状態なんだ。それを刈り取るかのように酸味が割り込む時点で、終わりなんだよ」


傍聴席からは明らかに失笑が起きているが、芳賀はまるで気づいていない様子だ。

弁護士が「落ち着きましょう」と小声で咎めるも、彼の声はますます熱を帯びる。


「鶏肉を大切に扱うなら、余計なものをかけない。それが一番の礼儀だろうに。香味野菜や塩こしょうのバランスを整えて、そこにちょうどいい揚げ加減を施す。重要なのはその工程や技術だ。カットレモンを添えるなんて手段は、唐揚げへの侮辱に他ならない。本来の旨味を破壊しておいて、“健康にいい”とか“油っこさを抑える”とか、そんな理由を正義のように掲げるのは偽善的だよ。 唐揚げは脂っこくていいんだ。だからこそ特別な料理なんだから」


検察官が、やれやれという表情で裁判官を振り返る。裁判官も苦い顔だ。

何か言い足りない様子の栄養士が口を開き、「でもビタミンCは……」と言いかけたところで、芳賀は耳を塞ぎたくなるように叫ぶ。


「ビタミンCなら他のもので摂ればいいだろう! 何も唐揚げを酸っぱい味にしてまで摂取する必要はない。大事なのは、唐揚げを崩さないことなんだ。出来上がった唐揚げをわざわざ酸味で洗い流すなんておれは認めない。おれの言葉が極端かもしれないが、その極端さを理解してくれる人間こそが“本当の唐揚げ好きを名乗れる”んだ」


証言台に立つシェフや栄養士はもはや“目の前のこの男には何を言っても無駄”という様子で口をつぐんだ。

傍聴席のあちこちで失笑と溜息が入り混じる。

法廷という場が、いつしか“レモン論争”の討論会と化している。


そんな光景を見守る刑事の相楽は、静かに背もたれに身を預けたまま、目を伏せている。

傍聴席の端に控えている相楽にとって、このやり取りはもはや“事件の本質”から逸脱しているようにしか思えない。

隣に座る同僚刑事がこっそり耳打ちする。


「相楽さん、これ本当にどっちが正しいんでしょうかね……?」


相楽は小さく肩をすくめ、苦い笑みを浮かべて答える。


「分からん。少なくとも事件としては、人を殺したあいつが間違ってるよ。けど、唐揚げの話になると、妙に説得力もあるように思えてくるから始末に負えない。ここまで来ると、もう誰が正しいとかじゃないんだろうな」


同僚刑事は「そうですね」と視線を落とす。

法廷はまだ続いているが、何度このレモン論争を聞かされたところで、結論など出るはずがない。

相楽は心の中で、唐揚げへのこだわりそのものを責める気はないが、それを動機に人を殺すという事実を飲み込めない。

芳賀は一体、何を目指してここまで声を張り上げているのか。


被告人席で憤る芳賀の言葉に、シェフも栄養士も完全に黙りこくってしまった。

裁判官がやや困惑した様子で、ひとまず今日の証言を終えることを告げる。

審理はまだ続くのだが、唐揚げとレモンの是非をめぐる議論が果てしなく拡大してしまう気配に、相楽は頭が痛くなる思いを拭えないでいる。

事件の動機がただの“殺意”ではなく、“宗教”に近いものに変貌しているかのようだとすら感じるからだ。


法廷の廊下に出た相楽は、同僚刑事に向かって小声でこぼす。


「いつになったらこいつは反省するんだ……」


同僚刑事はタブレット端末に目を落とし、さまざまな報道サイトが“奇妙な殺人事件”として大々的に取り上げているのを見せる。

唐揚げの専門家と栄養士の意見も記事としてまとめられ、SNSでは大盛り上がりの様子だ。

なかには芳賀の主張を“ある意味筋が通ってる”と擁護する声すらある。


「相楽さん、もうこれ事件というより……」


「分かってる。まったく、どっちが正しいのか分からなくなってきたよ」


相楽は頭を振る。殺人事件の動機としては破天荒すぎて捉えどころがない。

ただ、ひとつはっきりしているのは、芳賀がずっと“唐揚げにレモン”を咎め続けてやまないという事実だ。

あれほど強い情熱で語る姿を見ると、誰もが手を焼くのも仕方ないだろう。

事件捜査を担っている刑事ですら、もはやその熱量に圧倒されるばかりだ。


廊下の窓ガラス越しに落ちる光は傾きかけている。

相楽は立ち止まり、視線を足元に落として小さくため息をつく。

「これ以上、何を言ってもあいつの耳には入らないんじゃないのか」。

同僚刑事も同じ思いらしく、首を横に振った。

こうして世間を巻き込んだ唐揚げ論争だけが際限なく膨らみ、肝心の事件は当事者がすでに有罪となる流れに差しかかっている。

にもかかわらず、芳賀はますますヒートアップするばかりだ。

唐揚げにレモンをかける行為をめぐる戦いは、まだ終わりの気配を見せないまま続いていくように思えた。

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