第4話 激情の「唐揚げ裁判」
初公判の日、法廷には奇妙な緊張感が漂っていた。
殺人事件ではあるものの、動機が「唐揚げにレモンをかけられたから」という常識破りの内容であるため、傍聴席も興味半分の人間で埋め尽くされている。
被告席に立つ芳賀は、弁護士の肩越しにじっと裁判官を見上げている。
弁護士が「落ち着いて、ここは私に任せて」と声を掛けても、まるで耳を貸す様子がない。
開廷すると、まず検察官が事実関係を淡々と述べた。
店で起きた殺人事件であり、被害者を刺したのは被告人であるという物理的な証拠と証言の一致。
それを裏づける客観的資料も揃っている。
争点はただひとつ、被告が「なぜ殺意を抱いたのか」という点に尽きる。
「今回の犯行動機が、唐揚げへのレモンの使用に対する反発だったというのは本当ですか?」
裁判官が問いかけると、弁護士が割って入ろうとした。
しかし芳賀は小さく息を吸い込み、まるで壇上で講演でも始めるかのように声を張り上げた。
「それは誤解です。おれはレモンそのものを憎んでいるわけではありません。唐揚げという料理の神髄に何ら敬意を払わず、安易にフルーツの酸味を加える行為が許せないのです。唐揚げは塩や醤油、そして揚げられた衣の香ばしさとしょっぱさが綾を織りなして完成する。そこに酸っぱさを加えるなんて、濃厚な旨味を根こそぎ奪うも同然でしょう?」
検察側の席から小さな失笑が起こり、同時に傍聴席もざわついた。
あまりにも突飛な主張なのだ。
それでも芳賀は一歩も引かない。
むしろその反応が彼をさらに掻き立てるようだった。
「レモンをかければ油っこさがマシになる? だから何なんだ。脂質は唐揚げの魅力のひとつだ。口に広がる濃厚なコクこそが鶏肉への礼儀じゃないのか。酸味でそれを切り捨ててしまうのは冒涜以外の何ものでもない。しかもフルーツだぞ? 甘みと酸味の混ざった異質な存在を、おれは唐揚げに押しつけたくない。香ばしく揚がった衣に果汁を搾る瞬間、それは肉に染みこんだ塩や旨味を壊しているようにしか思えないんだ」
弁護士が必死に「芳賀さん、少し落ち着きましょう」と腕を引く。
心神耗弱を狙うような弁護方針をちらつかせるが、芳賀はまったく意に介さない。
「いいか、はっきり言う。おれは正気だ。唐揚げという料理は、外側のカリカリと内部のジューシーさが合わさって一体の美を完成させている。そこにフルーツの介入を認めれば、味わいの統一感が損なわれる。たとえレモンが体に良いとしても、それは唐揚げを食べる至福の瞬間には合わない。それが分からない連中が多すぎる。被害者も、あろうことか勝手にレモンを搾って、そのうえ“ちょっとくらいいいだろ”なんて言ったんだ」
「被告人」と裁判官が穏やかに呼びかけるが、芳賀はまるで説教でもするように続ける。
「鶏肉という素材の尊厳に、もっと目を向けるべきだ。料理教室でもグルメ本でも、唐揚げという料理を語るとき、多くの人間が“下味や二度揚げのコツ”ばかりに注目する。でも、いざ完成した瞬間に、半ば当たり前のようにレモンをかけられることが多い。誰かがそうしない自由を奪ってしまうんだ。ほんの少しだけでも酸味が加われば、もはや元の唐揚げとは別物だ。なぜ分からない? なぜ誰もそこに目を向けないんだ? この国は唐揚げの文化を甘く見ている!」
法廷の端で聞いていた検察官が、あまりにも激しい主張にあ然とした顔でつぶやく。「本当にこれが動機なのか……?」
傍聴席の一部は吹き出しそうに肩を震わせ、別の一部は呆れたようにため息をついている。
どの反応も、芳賀の主張に真面目には向き合えていないようだった。
「殺意があったのは否定できません。それは事実です」
検察官が促すように口を開くと、芳賀は歯を食いしばった。
「おれは最初から殺そうと思ってたわけじゃない。だが、あのときは我慢の限界に達してしまった。唐揚げを守るために、言葉で言い聞かせても伝わらなかった。まるで聞く耳を持たないんだ。鶏肉のために命をかけるくらいの覚悟がない限り、あの侮辱は止まらなかっただろう。それでも結果的に人を傷つけたことは反省している。だが、“おれが間違っている”とは決して思わない」
弁護士が慌てて「ここは控えめに」と制止するが、芳賀は目を血走らせたまま弁護人の手を振り払う。
「おれは心神耗弱でもなんでもない。本当に分かっているんだ。唐揚げこそが王道の料理であり、余計な味つけは一切不要であると。世の中にはレモンをかけるという風習が広がっている。逆にいえば、だからこそおれが声を上げる必要がある。そうしなければ、唐揚げそのものが歪められたまま、人々に受け入れられてしまうじゃないか」
法廷内に響く芳賀の声は、ただ怒りをぶつけるのではなく、ある種の確信と信仰を伴っていた。
弁護士が再三「もう止めなさい」と叱るが、返事はない。
「被告人、発言は弁護士を通してください」
裁判官が少し強い口調で注意する。
しかし芳賀は、その視線も気にとめず、まっすぐ前を向いたまま嘆きにも似た口調で続ける。
「鶏肉に敬意を払わない者には、唐揚げを口にする資格などない。“香ばしさとしょっぱさの絶妙なハーモニーに、フルーツなど介入させてはならない”のが道理だ。油と塩、そして衣に凝縮された肉の旨味を、わざわざ酸味で切り裂くなど愚の骨頂。おれがやったことは決して正当化しないが、あの夜は唐揚げの神聖性が踏みにじられているようにしか感じられなかった」
そう言いきると、芳賀は荒い息をつきながら、ようやく弁護士の方に目を向けた。
弁護士は顔をしかめつつも、なすすべがない。
何度か尋ねた「心神耗弱」は、芳賀本人が完全に否定してしまっている以上、もはや成立しそうにない。
検察官は冷静に書類を読み上げる。
「殺人は殺人です。レモンをかける行為がどのような挑発であろうと、あなたはナイフを持ち出した。それが取り返しのつかない重大な過失を生んだのです」。
法廷全体の雰囲気は、すでに有罪への流れを確定させているかのようだ。
「あなたの持論がどうであれ、人の命を奪っていい理由にはならない」
裁判官が静かに告げた。
その一言に、芳賀はうつむいた。
だが、後悔や動揺というよりは、訴えが届かないことへの苛立ちがにじんでいる。
唐揚げへの純粋な信奉心こそが彼の原動力であり、一部の者が抱く“料理へのこだわり”というレベルをはるかに超えている。
結果はほぼ動かない。だがこの男は、最後まで自分の信念を曲げるつもりはないようだ。
法廷を包む沈黙の中、芳賀は一瞬だけ裁判官を睨み、再び小声で何かを呟いた。
それは弁護士にも聞こえないほどの声量だったが、「なぜ、みんな分からない……唐揚げは……」という断片的な言葉だけがかすかに聞き取れた。
押し黙る傍聴席には、笑いも同情もない。
あまりにも異質なこの裁判は、すでに結末に向かって動き出している。
だが、芳賀の頭の中ではまだ、“レモンを掛ける罪深さ”が終わりなく燃えさかっているようだった。
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