第3話 浮かび上がる“罪の意識”
相楽は昼下がりのうちに「鈴乃屋」を再訪した。
昨夜の騒ぎが嘘のように、店内はまだ開店前の静けさに包まれている。
広くない店の奥には、雑巾掛けを終えた店主が立っていた。
相楽を見つけると、彼はふかぶかとおじぎをし、「どうぞ、こちらへ」と小上がりの席を勧める。
「昨夜は、本当に大変でした……あんなことになるとは思ってもみなくて」
店主はうなだれるようにして言葉をつなぐ。
相楽は汚れの落ち切っていないテーブルを見つめながら、静かにうなずいた。
テーブルには、事件後に乱暴に片付けられた跡があった。
ささくれだった木目にシミがしみこんでいるのは、血痕の残りだろうか。
それだけでも胃のあたりが重たくなる。
店主の話では、犯人の芳賀と被害者は初対面ではなく、どうやら同じグループの一員として来店していたらしい。
会計表を確かめると、ふたりは同じテーブルで注文をした形跡がある。
ビールと唐揚げの追加オーダーを何度も繰り返していたのは、数字からも明らかだった。
「店員の証言だと、犯人は“レモンなんて絶対にかけるな”と、最初からずっと言っていたとか?」
相楽が問いかけると、店主は申し訳なさそうに首を横に振る。
「ええ、まだ酔いが回り切らないうちから、唐揚げに関する語りが始まってましてね。『どうして酸味なんてものを混ぜる?』とか『フライはフライのままで完成されている』とか……最初は“変わったこだわりをお持ちですね”くらいに受け流していたんですよ。まさかそこまで本気だとは思わなかった」
店主が声を落とすと、小上がりから顔を出した若い女性店員が、気まずそうに顔を見合わせながら続けた。
「私も止めに入ったんですが、全然聞いてくれなくて。『レモンは健康にもいいし、油っぽさを抑える効果もあるんですよ』って言った途端、ものすごい剣幕で怒りだしたんです。“唐揚げに脂っこさがあるのは当然。そこに敬意を払わず酸味でごまかすなんて最悪だ”って……」
「具体的にどういう言葉を?」
相楽が確認すると、店員は少し思い返すように目を伏せた。
「“レモンは邪道だ、唐揚げの本質を踏み躙る行為だ”と。香ばしさや肉汁といった『一体感』こそが大切だと力説してました。こちらが何を言っても“酸味で上書きされる味は唐揚げとは呼べない”って……正直、あんなにこだわる人、初めて見ました」
相楽は書き留めたメモを見返す。被害者は別段そこまで強く反論する気もなく、「ちょっとくらいいいじゃん」と笑い混じりに返しただけだった。
だがそのひと言が引き金になり、たちまち芳賀が手を出してしまったのだ。店内の他の客が「からかうような口調ではあった」と証言している点から見ても、それほど重大な挑発には思えない。それなのに、芳賀は“台無しにされた”と思い込んだのだろう。
「それで、最後まで止まらなかったんですか?」
相楽が改めて尋ねると、店員は明らかに嫌な記憶を呼び起こすように口を引き結ぶ。店主が代わりに首を横に振って答えた。
「はい。周りの人が必死に説得しても、まったく聞き入れず。『鶏肉が泣いてるぞ』とか訳のわからないことまで言い出して……こちらも困ってしまいました。うちは、唐揚げにレモンをかけるかどうかはお客さんの自由ですからね。誰にどう食べてもらっても構わない。でも、あの人にとってはそれが我慢ならなかったようです」
「被害者の方も、“嫌なら見るなよ”と返したみたいで。あのやりとりを聞いていたほかのお客さんが教えてくれました」
相楽は客から集めた証言を思い出した。
被害者の言葉はほんの一瞬、悪態をついた程度だが、芳賀にとっては最大の冒涜として受け取られたのかもしれない。
唐揚げを崇拝に近い形で捉えている者にとって、レモンをかける行為は“神聖なる領域への侵害”でしかなかったらしい。
相楽としては、大半の人間にとって普通の食べ方であっても、芳賀にとっては断じて容認できない“邪道”だったとしか言いようがない。
店から出て、捜査本部に戻ったころ、相楽の部下が新たな調査結果を報告してきた。栄養士や調理師免許を持った専門家に話を聞いたところ、「唐揚げにレモンをかけることでビタミンCの吸収率が上がる。油分が中和されて食べやすくなるのは事実」とのことだった。
加えて、フライ全般にレモンを添えるのは広く浸透している食べ方だという。
一般的な見解を揃えれば揃えるほど、犯人の怒りがいかに異端なのかが際立つ。
「要するに、栄養面でも悪いことじゃないのに、一切受け入れない姿勢みたいですね」
部下が資料を広げながら苦笑いする。
相楽は資料を眺め、「そうか」と呟いたあと、どこか遠くを見るような表情になった。
芳賀があそこまで強固な態度を崩さない背景には、単なる“酸味嫌い”以上の執着があるとしか思えない。
何かトラウマのようなものがあるのか、あるいは彼の独自の価値観が、料理の世界を歪めて捉えさせているのか。
「前にも言ったけど、こいつはただの頑固じゃ済まされないな。ある種の狂信だ。唐揚げのアイデンティティを守るためには、どうしても酸味を排除しなきゃならない。そう思い込んでいるとしか……」
相楽は腕を組んで、深い溜め息をつく。
今回、被害者が本当に罪深い行為をしたのだろうか。一般常識をもってすれば、“ただの味付け”に過ぎないのに、犯人は殺意さえ生むほどの執着を発揮した。
「店員の話だと、あのとき犯人は“わざわざフルーツをかけるなんて、鶏肉に対する冒涜だ”とまで言い切ったらしい。何度も止めるように声をかけたのに、全然聞かなかったそうだ」
部下が証言メモを読み上げる。
相楽はそれを一語一句胸に収めるように聞き終えると、革靴の底で床をコツコツと叩いた。
事件としては異常だが、厳然たる事実として人が死んでいる以上、真相を究明しなければならない。
芳賀が抱える“罪の意識”は、世間一般の感覚とはかけ離れている。
だが、彼にとっては“唐揚げを守る”ことが絶対の使命なのだろう。
そう考えると、相楽はまたしても複雑な気持ちになる。
被害者の落ち度があったとは言えない。
店員たちも押しとどめようとした。
にもかかわらず、芳賀は引き返せないほどの確信を持って唐揚げの“純粋性”を主張し続けた。
その結果が惨劇を生んだのだ。
部下に資料を返しながら、相楽は呟いた。
「“異質な酸味こそがフライ料理を冒涜している”か。ここまで固執する理由が、まだ見えてこないな」
部下が首をかしげる。相楽も答えは出ないまま、目の前の書類を再び手に取った。そこには芳賀の取り調べ調書に添付された新たなメモ書きがあり、“レモン否定論”をとうとうと述べる彼の言葉が続いている。
どうやら今後も、芳賀のこだわりはさらに過激な主張として表面化していくことになりそうだ。
世間の常識からかけ離れているとしても、彼は一切の妥協を許さない。
相楽は眉間に力を込め、事件の先行きに思いを馳せた。
唐揚げをめぐるこの異様な争いは、まだ終わりそうにない。
被害者が軽い気持ちで口にした一言が、ここまで大きな波紋を呼ぶとは誰が予想しただろうか。
レモンをかけるか否か、そんな取るに足らない話で人が死ぬなど、本来あってはならない。
それでも、唐揚げという料理が“最大級の神聖さ”を帯びている以上、芳賀の“罪の意識”はどこか別の次元にあるのかもしれない。
そんな不可解な結論だけが、相楽の頭の中にいつまでも重くのしかかった。
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