第2話 取り調べと「唐揚げ論争」の開始
取り調べ室には古い蛍光灯の灯りがぶんぶんと唸るように点っていた。
壁際には机がひとつ、そして向かい合わせにふたつの椅子。
そこに座るのは、昨夜の事件で逮捕された男・芳賀。
うつむいているのかと思うと、ふいに顔を上げる。
ぐったりした様子ではあるが、視線だけはぎょろぎょろと動いて落ち着きを感じさせない。
相楽が書類を確認しながら声を掛けると、芳賀は意外なほどはっきりと口を開いた。
「唐揚げは、鶏肉そのものの旨味を最大限に引き出す調理法だ。それを下味や衣や油の温度管理で仕上げている。そのバランスを崩すものをかけるなんて、言語道断なんだよ」
声音は低いが、どこか憎しみを含んでいるように聞こえる。
相楽は正面に座り直し、資料を一瞥してからあえて穏やかに促す。
「つまり、酸味が嫌いだった……ということか?」
「酸味が嫌いなんじゃない。酸味が混ざることで唐揚げ本来の旨味と香ばしさが台無しになる。それが許せないんだ」
芳賀は机の上に手を組んで、まるで講義でも始めるかのように話を続ける。
取り調べ室で見慣れない姿だが、彼の中では明確な“正しさ”があるらしい。
「レモンの果汁は、フライの油分を分解してあっさりとした味に変えてしまう。そうすると衣の香ばしさや鶏肉のジューシーさは減る。香りだって、シンプルな塩や醤油の風味に酸っぱい香りが混ざる。それは、唐揚げに敬意を払っているとは言えない」
「そんなことより、どうしてそこまで怒った? 勝手にかけられたら嫌だって程度の話で、殺すまでやるか普通」
相楽は書類に目を落としながら問いかける。
無論、すでに事件としては「人を刺した」という重大な結果があるわけだが、そこに至るまでの感情の爆発が読めない。
それは防犯カメラの映像や証言では分からない、本人の内面の問題だ。
「みんなは分かってないんだ……唐揚げを口にするときは、唐揚げと自分が一対一で向かい合わなきゃいけない。言うなれば、おれは鶏肉に敬意を払っているんだよ。どうあっても、勝手に酸味なんか加えてほしくない。それを無視して、他人が好き勝手に味を変えるなんて暴挙だ」
「でも、ただの食事だろ。人には好みがあるし、ましてやあんたの皿でもない。そこまで激昂するものか」
「簡単に“好み”で済ませられる話じゃない。唐揚げは料理の完成形なんだ。余計なものを加える必要がない。油っぽいなら別の方法で食べればいい。わざわざあの酸味で誤魔化すのは裏切りに近い」
芳賀の言葉は熱を帯びていく一方だ。
相楽はさすがにあきれたように息をつき、「そりゃあ分かった」と肩をすくめる。
そのまま刑事の定番ともいえる追及に移ろうとしても、芳賀は話をそらすかのように更なる持論を展開する。
「おれはずっと唐揚げを研究してきた。ほかの料理とは違う。外はカリッと、中はジューシーで、余計な調味料を足さなくても完成される。わざわざレモンをかけるなんていう行為は、邪道以外のなにものでもない。一度レモンを絞ったら最後、もう衣は酸っぱくなって元には戻らないんだ」
相楽はここが取り調べ室であることを忘れそうになるほどの勢いに、思わずカップに注いだ冷えたお茶をすすった。
通常は「黙秘します」「弁護士を呼んでください」という反応を想定していたが、今回の被疑者は違う。
まったく止まる気配がない。
同じ頃、捜査本部では相楽の先輩刑事にあたる小早川が、資料を手に溜息まじりに言葉をこぼしていた。
「芳賀って男、相当なグルメ通らしいぞ。ネットでも、自作の料理写真を公開して有名だとか。自費出版で“究極の唐揚げ”って本を出してたらしい」
「殺人事件の容疑者とは思えない経歴だが……しかし唐揚げへのこだわりってのは、本当みたいだな」
部下がファイルをめくりながら口を挟む。
小早川は机にファイルを放り出し、呆れたように苦笑する。
「本気すぎるだろ。やれ下味の塩加減が大事だとか、衣の配合を数グラム単位で調整するとか、油の温度を二段階で変化させるとか……ここにはそんな記述ばかりだ。こんな執念をもっと別のことに活かせなかったのかね」
「真面目な話、これが犯行動機なんでしょうか。単にレモン嫌いってだけで刺すか?」
「本人は嫌いだから許せない、じゃなくて、唐揚げの本質を損ねたことへの怒りだと言っているらしい。どうやら“おれの研究を踏みにじられた”という感覚なんじゃないのか」
部下の言葉を聞き、小早川は「馬鹿馬鹿しい」と吐き捨てるようにつぶやいた。
そのまま書類を閉じて椅子を引き、机の上のどっしりした灰皿を片付けようとする。喫煙者が減ってからは灰皿の存在意義も薄れたようで、雑然とした部署の中で取り残されている。
この事件そのものが、そこにぽつんと放置された灰皿のように奇妙に浮いているように見える。
「相楽はどういう感想なんだ?」
「さあ……何と言うか、呆れてるようにも見えるし、分からなくもないって顔もしてる。基本的に相楽さんは“事件に大も小もない”が口癖ですからね。それでも、今回はだいぶ面食らってるみたいです」
部下は苦笑いを浮かべ、再び資料に目を落とす。
ページをめくるたびに飛び込んでくるのは、芳賀が料理学校に通っていた履歴やグルメ番組に一度だけ出演したことなど。
そこには彼なりの食への飽くなき探求心が散りばめられていた。
「こいつ、本当に食事へのこだわりだけは本物だな」
小早川は閉じたファイルを指先でとんとんと揃え、眉間にしわを寄せる。
殺人容疑者であることは間違いないが、犯行の強い動機がそこにあったのかといえば、やはりしっくりこない部分が残る。
しかし、店の客や店員の一致した証言を無視することもできない。
芳賀は“レモンをかけられた”という一点だけで怒りを爆発させたように見える。
「そこまで言うなら、唐揚げにレモンをかけるのがそんな大罪なのか、いっそおれも教えてほしいよ。実際、事件が事件じゃなけりゃ、ちょっと聞いてみたくもなるが……」
小早川は静かに椅子から立ち上がり、部下と目を合わせる。
相楽の取り調べがどう転がっているかはまだ分からないが、いずれ芳賀の過去についてより詳しく調べる必要があるだろう。
彼がこれまでどれだけ“唐揚げ”に人生を注いできたのか。
それを知ることで、何か別の真相が隠れていないとも限らない。
捜査本部の外に出ると、廊下から一瞬だけ殺風景な窓の景色が見えた。
相楽が戻ってきた様子はない。小早川は休憩室の前で足を止め、どうにも腑に落ちないという顔で天井を見上げる。
たかが“唐揚げにレモン”で人の命を奪うような激情が生まれるものなのか。
そこにはまだ答えの出ない“こいつ、本気で唐揚げのレモンを許せないらしい”という不可解な一点だけがやたらと強く残っていた。
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