唐揚げレモン殺人事件

三坂鳴

第1話 夜の居酒屋に響く悲鳴

「鈴乃屋」は下町の一角にあるこぢんまりとした居酒屋だ。

店に入ると、活気ある笑い声やジョッキ同士がぶつかり合う乾杯の音がすぐに耳を打つ。

カウンター席では常連客らしき中年男が店主と世間話をし、奥の小上がりでは会社帰りのサラリーマンたちが出来たての唐揚げをつまみながらビールをあおっていた。


店内はいつも通りだが、そう見えたのは一瞬だけだった。

やけに張り詰めた空気が突然生まれたのだ。男の怒鳴り声が、にぎやかな雰囲気を一瞬でかき消した。


「唐揚げにレモンかけんな!」


声の主は、やせ型の中年男。

テーブルを挟んだもう一人は頬を赤らめており、こちらも挑発的に言い返す。


「なんだと? おれが好きにかけて何が悪い」


注文が立て込んで忙しそうだった店員が、慌てた様子で二人の間に入ろうとする。

しかし、その瞬間にテーブルの上の小皿が倒れ、揚げたての唐揚げが床に散らばった。

やせ型の男は椅子を蹴って立ち上がると、一気に体ごと相手に向かっていく。

乱暴な音がして、テーブルが揺れ、周囲の客が驚いたように身を引いた。


「落ち着いて下さい、誰がレモンかけようが――」


店員の言葉は最後まで続かなかった。悲鳴が上がり、そこから先は大混乱だった。

カウンターの客が「おい、まじかよ!」と立ち上がり、店主は電話をつかむ。

何かが床に倒れ込む音がしたあと、血がにじむような気配が広がり、店内は恐怖と混乱に飲み込まれる。


警察の到着は意外に早かった。

通報を受けたらしいパトカーが店先に横づけされ、若い警官が店の奥へ駆け込んでいく。

店長の説明によると、犯人はまだ酔いの抜け切らない様子でそこにうずくまっていたが、あっさり確保されたという。

被害者は客たちが必死に抱え、店の隅で倒れている。

いずれも顔は蒼白で、さっきまでの和やかな空気がうそのように張り詰めていた。


現場検証が始まったころ、黒いジャケットを羽織った刑事が店に入ってきた。

相楽――こう呼ばれるその男は、長年刑事をやってきた人物という雰囲気を漂わせている。

いつもは捜査に没頭する前に「とりあえず一服だ」とたばこに手を伸ばすのが習慣だそうだが、

この場ではそうもいかなかった。目の前には荒れ果てたテーブルと、割れた醤油差し、そして半分ほど搾られたレモン。

傍らではビニールシート越しに被害者が救急隊に運ばれていく。


相楽は店主と店員に矢継ぎ早に確認を取り、まわりの客にも状況を尋ね始める。

すると、驚くほど多くの人間が同じことを口にした。


「こいつ、勝手に唐揚げにレモンかけんなって大声でキレてたんです」


「それで、被害者が『いいじゃないか』って言い返したら、急に刺したみたいで……」


「店員が慌てて止めに入ったんですけど、もう手遅れで」


相楽はめまいを覚えたように眉をしかめている。

店員の女性が畏縮した声で言葉を継いだ。


「本当に、ただそれだけで争いになったんです。あの人、何度も“唐揚げにレモンかけるなんて最悪だ”って叫んでました」


「レモン……かけることが原因、か」


相楽は店の奥に目をやった。

そこにはしゃがみこんだまま動かない男がいる。

警官が声をかけてもぼんやりと宙を見つめ、自分の拳をじっと握りしめていた。

相楽は深いため息をつき、部下の若い刑事に尋ねた。


「状況はどうだ?」


「犯人はすぐに取り押さえられたんですが、正直動機がよく分かりません。周囲の証言では、唐揚げにレモンをかけたことが引き金になったという話が一致してます。そんなくだらない理由で人を殺すなんて信じられませんけど」


「くだらないかどうかはさておいて、事実は事実ってところか」


相楽は首を振りながら現場を一通り見回した。

テーブルの上には食べかけの唐揚げがあちこちに散らばり、血痕と混じって異様な光景を作り出している。

やりきれない事件だ。

だがその後ろめたさはどこから来るのか、自分でも答えが出ない。


外ではパトカーのサイレンが遠ざかり、誰かが「マスコミが来たぞ」と声を上げる。店員たちには急いで事情聴取しなければならない。

残された客たちも口々に「いや、そりゃレモンぐらいかけるだろ」「でも人の皿に勝手にかけるのもどうかと思うぞ」と妙な議論を始めていて、もうどっちが正しいのか分からない様相だ。


相楽は小さくため息をつくと、低い声でつぶやいた。


「どうやら、これが動機ってことなんだろうな」


これまで無数の事件を見てきたつもりだったが、“唐揚げにレモンをかけた・かけない”が原因の殺人など、耳にしたことすらなかった。

相楽の表情からは戸惑いと、ほんの少しのあきれが混ざったような色が消えない。

そのまま店先に控えていたパトカーのほうへと足を向けると、逮捕された男の顔を一度、まじまじと見下ろした。

男はぼう然としたまま、ぽつりと呟く。


「レモンなんか……ありえないんだよ、ありえない……」


そう繰り返しながら、もはや相手の言葉に耳を貸そうともしていない。

相楽は大きく息をついてから、部下に視線で合図を送る。

事件としては始まったばかりだ。

どういうわけか、店中の視線がいまさらのように唐揚げの皿を気にし始めていた。

もともと人気メニューだったはずの唐揚げが、血の色と混じって息苦しい存在になっている。


捜査を続けるために店をあとにする頃、相楽の頭にはひとつだけはっきりとした疑問が残っていた。

いったい何が、男をそこまで苛立たせたのか。

レモンの酸味がそんなに彼の気に障ったのか。

にわかには信じられないが、客や店員の言葉は皆おしなべて同じである。

唐揚げにレモン……それがすべての発端だというのだから、始末に負えない。


夜の熱気がまだ残る外の路地に出ると、相楽の頭の中には事件のイメージがちらついた。

無邪気に盛り上がっていたはずの食卓と、店内に散らばる唐揚げ。それが動機とはにわかに理解できないまま、彼は現場を後にした。

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