3話
「本ッ当にごめん……!!」
「いや、大丈夫だから!おかげで目は覚めたから!」
昇降口へと向かう際、右代が何度目かの謝罪をした。同様に何度目かの慰めが返ってくる。
横を歩く左野もわかりやすく落ち込んでいた。寝顔を見られたのも、寝起きにさんざ暴れたのも今になってダメージとなっているのだろう。
ちなみに写真は消された。一つ残らず。
はぁ~。左野からため息が漏れる。
こちらの起こし方が悪かっただけだから、左野さんが恥じることはないような気もするけれど。そのあたりは男子と女子で大きく違うのかもしれない。
かける言葉が見当たらず、目をそらす。
窓の向こう、排水の悪いグラウンドは湖と化していた。テスト期間の校舎は廃墟のように静かで、かび臭くて冷たい空気のなかを二人で突き進む。
そういえば、と右代が切り出した。
「昨日は徹夜でもしてたの?」
「してないよ?」
左野がどうして?といった風に右代を覗いた。
「その、ものすごく気持ちよさそうに寝てたから」
左野は少し考えたのち、「あー」気まずそうに頬をかいた。
「わたし、低気圧だと頭痛がひどくてさ。昼休みに頭痛薬飲んだんだった」
「つまり、副作用?」
「そうだね~、かなり眠くなるやつだったみたい」
効き目が強いのも考え物だねぇと、左野は困ったように笑った。
「それより」と左野が右代に訊く。
「その、大丈夫だった?」
曖昧な質問に首を傾げると、左野が俯きがちに続ける。
「わたし、いびきとか立ててなかった?」
「いびき?そりゃ少しくらいは……」
そこまで言いかけて慌てて口を噤む。
左野の両耳がみるみるうちに赤くなっていったためだ。自分で聞いておいてそりゃないだろと思ったが、いま左野にそれを言ってしまってはとどめになりそうだった。
「……少しくらいありそうなもんだと思ってたけど、マジで静かだった」
「本当に?」
「本当!本当!」
首をがくがく振ってうなずくと「ならいいの!」と言って、それから左野は一転して上機嫌だった。
もし、これが女心だとするのなら、俺に恋愛は無理だ。右代はそう思った。
*
“こんなフラフラな生徒を一人で帰らすわけにもいかねえだろ”
昇降口に着いたところで、奥川に言われたことを思い出す。
「そういえば、この後一緒に帰ってもいい?」
「いいよ~!暗いし助かる〜!」
心底嬉しそうな声色の快諾に、身体の緊張が解ける。
こういう言葉を躊躇せずに受け取ってくれるのは素直にうれしい。
「じゃあさ、せっかくだしコンビニで買い食いしよ!なんか奢ってあげるよ!」
「いいけど、奢りじゃなくていいって」
「え~、つれないな~」
左野が唇を尖らす。楽しげな顔から不機嫌な顔へ、コロコロと変わる表情が子供みたいで愛くるしい。
というより、あれだけ恥ずかしい目に遭わせたんだから、むしろこっちが奢らせてほしいぐらいなのだけれど。
「そんな奢られるようなことしてないから」
「いやいや~……」
言ってから、左野の声が少し焦りを帯びていることに気が付いた。
気になって振り向くと、左野はきょろきょろとあたりを見渡したり、不思議そうに唸ったりと、しきりに何かを探しているかのような、落ち着きを失っている様子だった。
「左野さん?」
「右代くん、わたし終わったかも」
左野が笑い混じりに肩を竦めた。
どういうこと、右代が聞こうとしたが、傘立てを前に呆然とする左野を見れば事態を察するほかなかった。
「傘がね、ない――」
震え混じりの声は、言い終わるより前に雨音にかき消された。
*
「誰かが間違えて持ってったんなら、似てるやつ使って帰るとか?」
「っとね、青色で、骨の多いやつなんだけど――」
傘立てに目を向けると、傘立てにはビニール傘が数本と、黒の傘と薄ピンクの傘が一本ずつ。
左野さんの傘とはまず間違えようのない面々だ。まごうことなき傘パクである。
「……ないね」
「治安どうなってんだ、うちの学校」
「ねー」
左野は顔を掻きながら力なく笑った。
「親は今日遅いし、詰んだわ〜」
左野さんは勉強道具を持っているので、やすやすと濡れるわけにもいかない。対してこちらは手ぶら同然だ。
そうとわかればやることは決まっていた。右代が手に持っていたビニール傘を差しだす。
「左野さん、これ使って」
左野がえっ、と言葉を詰まらせる。
「右代くんの傘は?」
「俺の荷物弁当だけだし、濡れてもたいしてダメージないからさ。だから、遠慮しないで好きに使って」
右代が傘を握らせようとする。
しかしそれを左野は手で制した。
「いや、なんか、それはズルい」
「ズルいかな」
「ズルい!」
遠慮するかもなとは思っていたが、ズルいというのは全くの予想外だった。
「だって、右代くんが濡れちゃうじゃん!荷物も!」
「そりゃあ濡れるけど、荷物は弁当箱と定期ぐらいしかないし、左野さんの荷物が濡れるより全然マシだって」
「でも、服が」
「乾かすし、乾かなくても明日の2限体育だからジャージで登校するよ」
「いや、右代くんは濡れちゃう……」
「オレ、男子高校生。男子高校生、バカ。バカ、風邪、引カナイ」
左野の懸念事項をひとつずつ潰し、傘を握らせる。
それに対し左野は「う〜ん」「でもなぁ」と唸る。
一応理解はするけれど納得はしていない、そんな様子だった。
「じゃあさ、この傘、本当に好きに使うよ?いいの?」
「うん」
「文句言わない?」
「言わないって」
度重なる念押しに、右代がきっぱりと返すと、その言葉を聞いた左野が微笑んだ。
「じゃ、はい」
左野が傘の持ち手を突き出した。何を言われたのか要領を得ない右代に、左野が恥ずかしそうに叫んだ。
「右代くんの傘に私も入る!!それでいい!?」
「いや、なんでそうなる!?」
「好きに使っていいって言った!今さっき!」
「いや言っ……たわ……、言ったけど!でもそういう意味じゃない!」
「お願い!」
「無理無理!俺が持たないってそんなん!」
頑なに傘を拒み続ける右代に、左野が視線を落とした。
「ねえ、右代くん」
そう言うと、左野は右代の手のひらに傘を握らせ、顔を見上げた。至近距離の左野と目が合い、心臓が小さく跳ねる。
「実は副作用まだ効いててさ。こう見えてフラフラなの」
相合傘、ダメかな?左野が小さく笑う。しかし、その大きな瞳は不安げに揺れていた。
そうか――揺れる瞳を見て右代はようやく気づいた。
左野さんは、自分の傘がないとわかってから今まで、ずっと不安だったのだ。
帰る途中に倒れたりしたら、誰が助けることができるだろうか。目の前にいる友人、右代大輔こそが、唯一の頼みの綱だったのだ。だから相合傘なんて提案までして、なんとかして一緒に帰る人を作ろうとしたのだ。俺が相合傘に難色を示しているときも、彼女は不安で押しつぶされそうだったに違いない。
にもかかわらず、俺は一緒に帰ろうと言っておきながら、左野さんの事情を考えようとしないで、格好つけて傘を押し付けようとしたのだ。
自分の気の回らなさが情けなくて仕方なかった。
「左野さん」
「ん?」
右代が傘を開き、改めて左野の方を見る。「ほら、入って」――なんてスマートに言うことはできず、「ごめん」という言葉を出すのが精いっぱいだった。
左野は気にしてないよという風に笑いながら、あたかもそこが定位置だったかのようにちょこんと隣に収まった。小動物のような可愛らしい仕草に、たまらず顔を逸らす。
「ズルいのはどっちだよ」
隣に聞こえないよう、小さく呟く。
右代大輔、高校1年にして初の相合傘であった。
ただしい傘の使い方 ヶ浦 @oaiso
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