2話
「おいおい、電気つけっぱじゃねえの……って、あれ、誰かいんのか」
予想だにしない声に、右代が文字通り飛び跳ねた。心臓が爆発しそうなほどの鼓動が右代をけたたましく叩く。
右代がおそるおそる入口の方を振り仰ぐと、声の主は照明のスイッチに手をかざしていたところだった。
「せ、先生」
右代がばつが悪そうに言葉をひねり出す。視界に映ったのは担任の奥川だった。
「おう、右代か。んでそっちのは、左野か」
「な、なにしてるんすか」
「なにって、見回りだよ、見回り。そろそろ下校時刻だぞ」
奥川が指さす時計を見た。17時48分。下校時刻の10分前に迫っていた。
「つーか、”なにしてるんすか”はこっちのセリフだろ、こんな時間まで二人でよ」
よくお前からその言葉が出たな、と奥川が眉を顰めた。ごもっともな指摘に返す言葉もなく、右代は大人しく説明を始める。
「俺はその、忘れ物取りに来たら左野さんが寝てて、起こそうとしたけどなかなか起きなくて、身体揺すろうかなって思って、近づいたらちょうど先生が来て――」
正確に説明しようとするほど、出てくる言葉が言い訳じみてきて、息を継ぐよりも前に次の弁明の言葉がでてくる。
奥川は茶々を入れることなく黙って聞き終えると、淡白な相槌を打った。いまの説明で何を思ったのだろうか。表情からは読み取れなかった。
もしかして。右代の頭に嫌な予感がよぎる。
もしかして、眠らせて襲おうとしたとか思ってるんじゃ――
「な、なんですか!?違いますからね!?」
「いや、なんにも言ってねえんだけど。急に何?」
「えっ、あっ、なら大丈夫です!」
思い過ごしに右代がほっと胸を撫で下ろす。奥川は右代を不思議そうに眺めていたが、すぐに発言の意図を察して悪い笑みを浮かべた。
「まぁでも、寝込みを襲うのは感心しねえぞ」
「だから、してないです!」
右代の声が裏返る。疑ってないって言ったくせに二言目にはこれだ。この担任、完全に俺で遊んでやがる。
「だいたい俺と左野さんが、そんな関係なわけないです」
「そうかぁ?そんな意外な組み合わせでもねえけど」
「やめてください……左野さんに失礼です。そういうの」
「左野さんに失礼、ねぇ」
奥川が右代を見つめた。
普段の奥川からはあまり聞かない、淡白を通り越して無機質な声。興味なさげなようでいてまっすぐ刺すような視線。右代は思わず目をそらした。
課題を忘れた生徒の言い訳を聞くとき、奥川はこういう表情を見せる。
あまり自分に向けられることはなかったが、いざやられると心の奥底をまさぐられているようで、少し苦しい。
「お前ってさ」
奥川が切り出した。
「自分の気持ち隠すの上手いよな」
「そうですか?」
「おう、やめた方が良いぞ、その癖。自分の感情の出どころを他人に押し付けやがって」
思っていない角度からの指摘に拍子抜けする。別に隠したい感情もないし、嘘もついていないのだが。
「ま、なんでもいいんだけどさ」
奥川が笑い、机に突っ伏した左野に目を向けた。
声色はいつものトーンに戻っており、顔も普段生徒に見せる気さくな先生としてのそれであった。
だとすると、いま自分に見せた冷たい顔はなんだったんだろう。
「こんなにうるさくしてやってんのに起きねえのな」
とんだ眠り姫だな、と奥川は楽しそうに言った。そこでようやく、今までの騒がしい会話が左野を起こすためのものであったことに気が付く。
常にふざけてるようで、気配りができる。この担任はそういう人だ。
毎回授業に遅刻する怠慢教師の癖に。それでいて生徒のことはけっこう見えている。こういうところが人気な所以なんだろう。
「そうなんです、全然起きなくて困ってて」
「とりあえず、起こしてみっか」
「言っときますけど、マジで起きないすよ」
「まあ見とけって」
そう言うと奥川はチョークを手に取り、黒板をカッカッと叩き出した。
何をしているのかと右代が呆気にとられていると、奥川が左野の方を向き直る。
「じゃ、この問題を……左野!」
「んん……」
「左野!」
奥川が追い打ちのように2回、チョークを叩く。
なるほど。右代は内心舌を巻いた。たしかに、苛立った教師のそれに聞こえなくもない。
「おーい!左野!この問題!」
「へっ!?はぁい!!」
三度目の名指しで、左野ががばっと顔を上げた。完全に授業中だと勘違いしているのだろう。それまで寝ていたとは思えない背筋の張り具合だ。対照的に唯一起きていないのが目で、こちらは固く閉じたままだ。そのちぐはぐな姿に右代と奥川は笑いを堪える。
「起きた……こんな簡単に……」
「真面目ちゃんは楽で助かるねぇ」
背筋を張りながら揺れる左野に、二人は口々に言った。
すると、左野の方からろれつの回っていない声が聞こえてきた。
「先生ぇ、寝てましたぁ」
「なに、寝てたぁ?授業中だぞぉ」
「ごめんなさぁい」
「じゃあ左野、ここ解いてくれ」
奥川の指示に左野は「はぁい」と元気よく返事をした。しかしその直後、左野の身体が力を失った。右代のいる方へと倒れ込むのをとっさに反応して受け止める。
「っぶねぇ……」
「ナイスキャッチ、右代」
「ナイスキャッチ、じゃないです!」
とうとう教卓に突っ伏して笑い出した奥川に後ろは顔をしかめた。逆側に倒れてたらあやうく大怪我だったんだ。少しは危機感を持ってほしい。
「あー面白いもん見れた。寝ぼけすぎだろあいつ」
「――って、左野さん寝ちゃったじゃないですか」
「んなもん、一回起きれば大丈夫だろ」
奥川はひーひー言いながら涙を拭った。
「右代、あとは任せるわ」
「任せるって」
「なんだ?こんなフラフラな生徒を一人で帰らすわけにもいかねえだろ」
「それは、そうですけど」
右代が不満げに返す。
「でも、俺じゃ起こせなかったっすよ」
「ストレスかけてあげるんだよ、俺がやったみたいにさ」
トマトと一緒だよと奥川が笑った。トマトと一緒ではないだろう、どう考えても。
「右代さ、人と深く関わるの苦手だろ?練習だと思ってやってみなって」
無理そうだったら俺が起こすからさ、奥川が優しい口調で付け加えた。
悔しいけれど、本当によく生徒のことを見ている。いいように言いくるめられてる気もするが、肯くことしかできなかった。
「じゃあ決まりだな。かっこよくエスコートしろよぉ」
奥川はそう言うと、手をひらひら振りながら隣の教室へと消えていった。
カッコつけやがって。アシストパスでも決めたつもりか。
すると、抱えた手のひらにもぞもぞとした感触を覚える。
間一髪で受け止めたとはいえ、倒れた衝撃は大きかったのだろう。左野は「んん……」とうめき声をあげ、眩しそうに眼を開けた。
「お、おはよう」
「んー……おはよぉ……」
左野が答えた。重たそうに頭を上げ、両手両足をぴんと突き出す。欠伸をする猫みたいだった。
「ごめん、起こしちゃったね」
「んーん……」
「左野さん、起きよっか」
迷子に尋ねるような語り口に、左野は「んー」と力なく頭を横に振った。抱えている手に髪が擦れて、柔軟剤っぽい甘い香りが鼻腔をくすぐる。
手をつたう髪の毛の感触に女性っぽさの漂う微香。純朴を地で行く右代にとってはどちらも致死量の刺激だった。
「これ、まっず――」
――起こさないと、こっちが持たない。
左野の上体を起こし、右代が急いでスマホを取り出した。スマホを左野に向け、シャッターを切る。パシャ。
「ん~」
「おはよう、左野さん」パシャ
「あ〜、右代くんだぁ」
「ども、右代です」パシャ
「おはよぉ〜……」パシャ
「うん、おはよう」パシャパシャ
「……」パシャ、パシャ
シャッター音の効果は絶大だった。撮るたびに左野の視線が絞られていく。
左野は「あっ」「えっ」だの声にもならない声を上げながら、それきり動かなかった。
とりあえず落ち着くのを待ってみると、左野が右代の目を捉えた。そのまま右代に詰め寄り、ぐいとブレザーの衿をつかんだ。
「……右代くん?」
「ハ、はいッ!」
「……いったい、なにをしてるのかな?」
「……スミマセン」
まったく笑っていない笑顔とあまりの言葉の冷たさに、右代は謝罪の言葉しか出てこなかった。
左野の目元にはうっすらと涙が浮かんでいた。起こすためだったとはいえ、怖がらせてしまったことへの罪悪感が沸き上がってくる。
「っていうか消して!写真!右代くん!なんでここに!?ってかなんで起こしてくれなかったの!ねえ!最ッ低!」
「待って!消す!消すから!一個ずつ答える!って痛ッ!痛い!」
取り乱した左野が右代の首根っこをぶんぶんと振り回すので、答えようにも答えられない。どこからこんな馬鹿力を出しているんだ。答えたら答えたで、二の矢三の矢が即座に返される始末で収拾がつかない。
その後、騒ぎを聞きつけた奥川から説明されるまで、左野は鎮まらなかった。
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