ただしい傘の使い方
ヶ浦
1話
なんとなくかっこいいし、モテそうだから――そんなぼんやりとした下心で入った弓道部は想像以上に運動部の様相だった。
新しい環境・一段とレベルが上がった学業・ハードな部活によって右代の高校生活はあっという間に最初のテストを迎え、かと思うと高3の先輩方が引退し、部活の合宿をしたと思ったら夏休みが終わっていた。
それどころか、周りを見渡せば皆して冬服の装いである。入学前の自分が思い描いていた高校生像がいかに実態とかけ離れていたかを思い知らされる今日この頃だ。
しかし、そんな日々に満足しているのもまた事実だった。
彼女はいないけど、楽しく話せる友達はできた。顧問は厳しいけれど、先輩は優しいし、一緒に打ち込める仲間もいる。
中3の春休みに思い描いていた
一日の流れが速いのは、充実の裏返しであり、そんな爆速の一日一日を卒業までの間、駆け抜けていくのだろう。
このときの右代はそう信じて疑わなかった。
*
昼過ぎから降りだした雨は勢いを増す一方だった。
10月上旬――定期テストを控えたこの時期の学校は、普段であれば真面目な生徒たちが居残っているものである。しかし、大雨注意報だの土砂災害警戒情報だのが一帯に出たとあっては、校内は閑散とするほかなかった。
「お~い……」
雨の教室に右代の声が小さく響いた。その弱弱しさは目の前の女子に届かないことを確信しているかのようだ。
「そろそろ起きてくれ~……」
相変わらず声が届く様子はない。右代が困ったとばかりに頬をかいた。
事実、ほとほと困り果てていた。彼女の眠りは深く、起きる気配がない。そもそもそんなに気安く起こせるほどの仲でもない。
かといって――右代があたりをきょろきょろと見渡す。他に頼れそうな人も見当たらなかった。
行き詰まった右代は逃避がてら、目の前の状況を整理していく。
本当に、どうしてこんなことになったのだろう。
*
この日、弁当箱を忘れたことに帰ってから気がついた右代は、すれ違う友達からのダル絡みを躱しながら学校へと向かった。
次忘れ物をしても通学路だけは絶対に避けよう――そんな決心をしつつ学校に到着。そして教室に入って数歩、目に入ってきた光景に右代が足を止めた。
「左野さん……?」
それは、机に臥して微動だにしないクラスメートの
左野葉月。
小柄な体格に短めの一つ結び、くっきりとした目が特徴のクラスメート。部活は書道部。
性格はおしゃべり好きで快活。可愛らしいルックスも相まって男女問わず絶大な人気を誇っている。
右代はこれまで接点らしい接点はなかったが、夏休み明けに行われた席替えで隣の席になった。以来、彼女との世間話は日々のささやかな癒しとなっている。
そんな左野さんがだ。
放課後の教室で寝ている。
それも一人で。
右代はしばらくの間呆然としていたが、思い直したように自分の机にかかっている弁当箱をトートバッグに放った。元はと言えばこれを回収しにきたのだ。
回収を終えた右代はそのまま自分の席に座り、隣で眠る彼女を眺めた。
見たところ普段通りの左野さんだが、ヘアゴムは手首にくくられ、いつもは後ろでくくってある黒髪が机に垂れていた。
膝にはブランケットがかけられてあり、まず寝ているとみて間違いはなさそうだった。
机には何も置かれていない。「勉強途中にうっかり寝落ちしてしまった」というよりは「寝ようとチャレンジした結果寝ている」という印象だ。
「起こすか」
当たり前のことを言い聞かせるように呟いた。本人的には見られたくなかった姿だろうけれど。見てしまったからには起こすしかない。
おーい。雨の教室に遠慮がちな声が響く。おーい、左野さん、起きろぉ、左野さん、風邪ひくぞぉ――
*
そんな経緯で始まった呼びかけが数分経過し、今に至る。
左野さんは依然として起きなかった。穏やかな寝息が自分の試みの無意味さを如実に表しており、少し悲しくなってくる。
右代はため息をついてから、おーいと彼女を起こしにかかった。その声もどこか投げやりだ。
手応えがないわけではない。声をかけられた左野さんは何回かに一度、身体をもぞもぞと動かせる素振りを見せる。しかし数秒後にはその運動も停止し、再び穏やかな寝息を立て始めるのだ。
起きそうなモーションが見えるだけに性質が悪い。右代が食らう無力感もひとしおだった。
右代がお手上げといった様子で天を仰ぐ。時計の針は17時半をゆうに回っていた。
そんな右代の隣で、左野さんがふへへ……と緩みきった笑みを見せた。よほど良い夢でも見ているのだろうか。思わず右代も笑みがこぼれる。
この寝顔も起こせていない原因の一つだ。いっそ息苦しそうにうなされてでもいれば、こんなに躊躇うことなんてないのだけれど。
「よし」
右代が椅子を左野さんに寄せた。赤の他人が触ってよいものかと及び腰だったが、こうなりゃ揺すってでも起こすしかない。
左野さんはいたって穏やかな微笑を浮かべていた。あまりにも起きないから体調不良も疑っていたが、そういうわけでもなさそうだった。
「よし、起こすぞ」
左野さんの肩に手を伸ばす。しかし、むやみに掴んでは折れてしまいそうな華奢な身体を見た途端、その意志にブレーキがかかった。
果たして、左野さんは嫌だったりしないだろうか――
そんな考えても仕方のない不安を起点に、思考がずんずんと暗い方向へと進んでいく。もし、いや、でも、俺なんかが――次第に呼吸が浅く細かくなり、手先が痺れてくる。
いや、よそう。
すんでのところで顔を叩き、荒れた呼吸を整える。そういうのは、もうやめだ。
もう一度深呼吸をしてから、左野さんを揺り起こしにかかった。肩に手をかけ、力を込める。
――その時だった。誰かの足音が聞こえたのは。
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