第5話 赤い涙の怨環
森山健二は、散らかった捜査資料の上に置いてある赤版画のハガキをじっと睨んでいた。
少女の瞳から流れ落ちる赤い涙はいつ見ても胸を締めつけるような不快感を呼び起こす。
彼は汗ばんだ指先でハガキを持ち上げ、硬い表情を浮かべる。
「もうこれを破壊するしかない」
声に出した瞬間、自分の中で何かが決壊したような衝動に突き動かされる。
これまでためらってきたのは、被害者たちの多くがハガキを処分できぬまま命を落としているからだ。
それでも、このまま少女の呪いに押し潰されるわけにはいかない。
夜遅く、工藤彩音がまだ帰宅していないらしいのを確認すると、森山は机の引き出しから小さなハサミを取り出した。
息を呑みながらハガキに刃をあてる。
硬い紙の切れ味が意外なほど重く感じられて、躊躇いが生まれる。
「助けて」
まるでそんな声が聞こえた気がして、思わず手が止まる。
けれど、このまま放置すれば自分の命をも奪うかもしれない。
刃を入れた瞬間、激しい目眩に襲われた。
空気がねじれたように感じられ、ハサミを床へ取り落とす。
四つん這いになった森山の目の前で、少女の瞳が急に赤黒く染まり始める。
それはまるで生きた血液が版画の中を流れているかのようだった。
痛みが頭を突き抜け、視界がぐらぐらと揺れる。
「やめろ…」
思考が混乱する中、手を伸ばしてハガキを引き裂こうとするが、指先が言うことをきかない。
そのとき、少女の瞳から赤い液体がぽたぽたと溢れ出るのが見えた。
版画に描かれた涙が、まるで部屋の床を濡らしているように感じる。
目を背けようとしたが、瞼が痙攣してうまく閉じられない。
血がのぼったような熱さを覚えた次の瞬間、森山の両目から何かが滴り落ちる。
顔を覆う手が湿った感触を伝え、思わず身震いした。
赤い色が視界を覆い尽くし、部屋の景色がぼんやりと霞む。
「くそっ…」
声にならない叫びが喉の奥で震えたが、そのまま床へ崩れ落ちてしまう。
ハガキを破ることはできないまま、意識が遠のいていく。
玄関を開けて駆け込んできた工藤彩音は、真っ先に森山の姿を探した。
テーブルの上に散乱した捜査資料と、床に倒れ込んだ森山。
両目を血で染め、うつ伏せになっている。
胸の奥が締めつけられるような衝撃に襲われながら、工藤は震える声で彼の名を呼ぶ。
しかし、その呼びかけに応えることはなかった。
破りかけのハガキが彼の手元に残り、少女の瞳からはまだ赤い筋が垂れているように見えた。
ほどなく瀬川美樹も駆けつけ、救急を呼んで蘇生を試みるが、森山の鼓動は戻らない。
鑑識が調べても、明確な外傷も毒物反応も見つからなかった。
ただ、彼の周囲には赤い涙を流す少女の版画があり、下半分ほど切れかけているだけ。
警察は公式に“原因不明の死亡”と結論づけたが、連続殺人との関連を示す決定的な証拠は得られず、事件は未解決に終わる。
森山の葬儀後、工藤は森山の遺品の整理に追われていた。
それから数日後、彼女は自宅のポストに入っていた一枚のハガキを手に取る。
見慣れない文字で彼女の名が書かれており、森山に届いたハガキと同じ嫌な匂いを感じ取った。
恐る恐る裏面を見ると、中には少女がはっきりと赤い涙を流す版画が収められている。
その瞬間、工藤は声にならない悲鳴をあげてハガキを床に落とす。
拾い上げようとして、少女の唇がかすかに歪むのを見た。
冷たい空気が背筋を撫でていく。
部屋の中は静まり返っているのに、どこかから押し寄せるような気味の悪い圧迫感がある。
工藤は震える手でハガキをつまみ、テーブルの上に置いたまま身動きできなくなった。
まるで、そこにいるはずのない少女が、工藤をじっと見つめて笑っているかのようだった。
血涙の少女 三坂鳴 @strapyoung
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