第4話 追いつめられる森山

夜更けに帰宅した森山健二は、自宅の郵便受けを何気なく覗いた。

薄暗い玄関灯の下、彼の名を宛先にしたハガキが一通だけ差し込まれている。

差出人の記載がない。

胸に重い気配を抱えながら裏面を見ると、そこに見覚えのある着物姿の少女があった。

他の被害者たちのもとへ届いた版画と同じ少女。

しかも、瞳から鮮明な赤い涙をこぼしている。


「まさか、俺のところにも…」

声が裏返りそうになるのを必死でこらえながら、森山はハガキをしっかり握りしめる。

いつもなら冷静な彼が、心臓の鼓動が乱れるのを止められない。

あの版画に目を奪われていると、少女の瞳がわずかに動いたような錯覚に襲われた。

まるで“次はお前だ”と告げるかのように。


翌朝、警視庁のオフィスに出勤した森山は、ひどく憔悴していた。

眼の下に隈が浮き、顔色も優れない。

工藤彩音が訝しげに顔を覗き込んだ。

「大丈夫?まるで眠れてないみたいね」

森山はためらいがちにハガキのことを打ち明ける。

工藤の目は瞬時に険しくなったが、声色を落ち着かせて言う。

「そのハガキ、見せてもらえる?」


森山がハガキを手渡すと、工藤は息を呑んだ。

赤い涙を流す少女の姿は、被害者たちに届いたものとまったく同じ。

ただ一つ違うのは、少女の目元の赤が一段と濃く、まるで現実の血液のように際立っている点だった。


捜査本部では相変わらず、人為的な証拠が集まらない状況に苛立ちが募っている。

工藤は森山を守るように間に立ち、上司の追及を何とかかわすが、二人が本気で追っている“版画の呪い”の線は誰も相手にしてくれない。

結局、森山自身が受け取ったハガキのことも口外できないままだ。

「こうなったら、私たちで動くしかないね」

工藤は昼休みに森山を屋上へ呼び出し、そう静かに告げる。

森山はうなずきかけたが、やはり戸惑いを隠せない。

「もしこのまま何もわからなければ、俺もあの人たちみたいに……」

言葉が途中で切れる。


その夜、森山は自宅のリビングにこもり、散らかった捜査資料を睨んでいた。

少女の版画を封印するための手段が何かないか。

怪しい民間伝承や古文書の断片まで引っ張り出しては目を通すが、どれも根拠が乏しい。

強引に焼却すれば何とかなるのか。

だが、どの被害者もハガキを破ろうと試みる前に死んだ可能性が高い。

森山は頭をかきむしる。


「私が知っている限り、版画の呪いを解くなんて聞いたことがないわ」

電話越しの瀬川美樹が、いつになく神妙な声を出している。

工藤が事情を伝え、なんとか情報を得ようと連絡を取ったようだ。

「とりあえず、そのハガキを痛めないように保管してみて。適当に処分すれば、かえって何が起こるか……」

瀬川の言葉が途切れる。

森山は受話器を握りしめ、そこにかすかな絶望を感じ取った。

工藤のため息とともに電話が切れる。


眠りに落ちても、森山の頭には版画の少女のイメージが強烈によみがえる。

瞼を閉じるたび、少女が泣く。

泣きながら怨嗟の言葉を口にしているようにも見える。

目覚めると、心臓が荒い鼓動を刻んでいた。

時計を見ると明け方の四時。

この数日、満足に睡眠を取れた覚えがない。


出勤前、鏡を見ると自分のやつれた姿に驚かされる。

このままでは正気を保てなくなる。

玄関で靴を履こうとしたとき、不意に視界の片隅に赤い滴が映ったような気がした。

振り返るが何もない。

生唾を飲み込みながらドアを開け、朝の冷たい空気を吸い込む。

少女の版画が自分を追い詰めるかのように、じわじわと日常を侵してくる気がしてならない。


工藤と顔を合わせたとき、彼女は言葉を選ぶようにゆっくり話し始めた。

「しばらく休むのも一つの手かもしれないわ。あなたが倒れたら、誰もこの事件をまともに追えなくなる」

森山は少しの間まぶたを閉じ、冷たい空気を吸った。

「仮に休んでも、この呪いが止まるわけじゃない。このまま調べ続けるしかないよ」

工藤は森山の腕にそっと手を置いた。

「わかった。私も一緒にやるから、無理しないで」


二人の決意とは裏腹に、事件の全容は霧の中だ。

少女が生前、屋敷でどれほど悲惨な仕打ちを受けたのかを突き止めれば、何か解決策が見えてくるのだろうか。

谷口が語った“酷い目に遭って、逃げ場を失っていた”という娘は、親から虐げられたとも、下男たちの暴力に晒されたとも伝わる。

その苦痛の果てに、彼女の目からは血がにじみ、息絶える寸前には泣きながら助けを求めていたという。

誰にも救われることなく、孤独な死を迎えた少女。

森山は想像するだけで胸が締めつけられる思いだった。


少女がその恨みを版画に宿している――そう考えるのは簡単だ。

だが、どうすれば彼女を解放できるのか。

それを探し出す時間は、もうあまり残されていない。

森山の中で、あの赤い涙が静かに広がっていくような感覚が絶えず脈打っていた。

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