董卓の杯

風馬

第1話

夕刻の薄明かりが洛陽の城壁を覆い尽くす中、董卓の宮殿では喧騒が始まろうとしていた。豪奢な宴の準備が進められる音が、廊下にまで響き渡っている。今日の宴は董卓自身が発案したもので、彼の名を冠した「董卓の杯」と称される酒宴だった。李儒はその廊下の隅に立ち、帳簿を片手に溜息をついていた。


「李儒!」

背後から重々しい声が響く。振り返れば、そこにはどっしりとした体格の董卓が立っていた。彼の頬はすでに赤く染まっており、今夜の宴を待ちきれない様子がうかがえる。


「今夜の準備は整ったのだろうな?」董卓が尋ねる。

「はい、全て問題ありません。」李儒は冷静に答えた。しかし、その声にはどこか重みがある。彼の内心は、目の前の男がこの宴でまたどれほどの無茶をするのかという不安でいっぱいだった。


董卓は満足げに笑い、彼の隣に歩み寄る。「よしよし。李儒、お前の采配にはいつも感謝しているぞ。」

「恐れ入ります。」李儒は頭を下げたが、その口元は引きつっていた。


「だがな……」董卓の声が少し低くなる。「今夜の宴では、特別な趣向を凝らしたいと思っておる。」

「特別な趣向、ですか。」李儒は眉をひそめた。


董卓は満面の笑みを浮かべると、傍らに控えていた侍従に指をさした。「酒池のことだ。ついに完成したのだぞ!今夜こそその壮大さを披露する時ではないか!」

李儒の顔は硬直した。酒池——董卓が己の歓楽のために作らせた巨大な池だ。その中には水ではなく、酒が満たされているという。あの馬鹿げた計画にどれほどの資金と労力が費やされたことか。


「酒池に女たちを泳がせ、さらに我が兵たちに酒をすくわせて飲ませるのだ。」董卓は胸を張り、豪快に笑った。その姿は豪傑と言えば聞こえはいいが、李儒にはただの酔狂にしか映らなかった。


「大人しく飲むだけではつまらんではないか。酒池を眺めながら歌舞を楽しむ。李儒、お前も少しは楽しめ。」

「……承知しました。」李儒は何とか平静を装って答えた。


それでも彼の脳裏には、宴の結末が思い浮かんでいた。酔った董卓が暴れ出し、下手をすれば貴族や臣下がその無茶に巻き込まれる。最悪の場合、また犠牲者が出るかもしれない。


「では準備に戻らせていただきます。」そう言って李儒は礼をし、その場を去ろうとした。しかし背中越しに聞こえた董卓の声が、彼を引き止めた。


「李儒、お前がいなければこの宴も、そしてこの俺も成り立たん。お前には感謝しておるぞ。」

振り返った李儒は、一瞬だけ言葉を失った。その言葉には、ほんのわずかながら真心が込められているように聞こえたからだ。


「光栄です。」李儒はそれだけ答え、足早にその場を立ち去った。


宮殿の奥深くに戻ると、李儒は再び溜息をついた。彼の頭の中では、この先どう董卓の無茶を抑え込むべきかが渦巻いていた。


「もし董卓がこのまま暴走を続ければ、いずれその杯が満たされるのは酒ではなく、血だ。」

彼は呟き、帳簿を閉じた。宴の始まりまで、もう時間はない。


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董卓の杯 風馬 @pervect0731

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