踊り子の夢

猫煮

夢の女

 闇だ。自らが前へと伸ばした手の指先すらも見えぬ深い闇。己が真に手を動かしたのかもあやふやになる静けさの中では、己と闇の境すら曖昧になる。あるいは、己とは現実あったものであろうか。闇が見た夢ではなかったろうか? いや、己はここに居る。鈴の音だ。このいまいましい鈴の音を厭う心が、己が迷い子のごとく立ち尽くして居るのだと嘲笑う。


「リンシャンキン」


 前方から近付いて聞こえる鈴の音。この音を己はよく知っている。幾度、この景色を観ただろうか。次に起こる事もよく知っている。それ、来たぞ。闇の内、鈴の姿が浮かび上がる。輪に連なった鈴は弧を描いて踊りながら、歩くよりも遅くこちらへと寄って来るのだ。二つの輪は低い位置を忙しなく複雑に、もう二つの輪は高い位置を緩やかに整然と。


「リンシャンキン」


 そうだとも、輪がひとりでに飛ぶはずがない。あれを操るものが居るのだ。足輪に鈴をつけて地を跳ね、反物に刺繍をして空を裂くものが。やがてその姿がしじまから浮かび上がる。最初に輪郭が、次にくすんだ色あいがその内を満たすと、瞬く間に鮮烈さを増して色付く。体の線からして女だろう。東の砂漠の縁に住むグルタの民族衣装を纏い、背から脇を通して腕に巻き付けた一疋の赤い反物を振り回す、亜麻色の髪の女。そのあまりの長さに、宙を舞う反物は女の周囲を幾重にも包んで、その表情を遮っている。布の壁の隙間からのぞく女の肌はこの世のものと思えぬほど白く透き通っていて、胸と腰に巻かれた赤い布には緑の輝石が白い糸に飾られてあしらわれていた。


「リンシャンキン」


 女の仕草、あの舞はグルタの厄払いだ。己の幼い頃に一度だけ見た覚えがある。反物を覆い尽くして刺繍された金糸の模様は、彼らの信じる神を称えているのだと言う。そして、複雑な足踏みは悪霊たちへの警告と共に、行く先の万難を踏み砕いて道を平らげているのだと。そのつま先は立ちふさがる敵対者の血で染まっていると示すために、紅で塗られているのだ。


「リンシャンキン」


 ところがである。近付いてくる女、そのつま先は紅ではなく黒に染められていた。白い肌よりも赤い布よりもなによりも際立って目を引くその色は、グルタの踊りと同じ動きで舞う。そして地を踏むたびに白い蓮の花を咲かせ、その花はすぐに溶けて落ちると白い道となって女の歩んだ道を形作る。光もなくひとりでに輝く玉砂利が砕ける音は悲鳴も似ていて、聞くに耐えない。だが、この身体が己の意思では何一つ動いてはくれない。


「リンシャンキン」


 牛の歩みで、しかし確実にこちらへと伸びる女の道。闇の中で女とその道だけが色彩を持っていた。そして、道の奥。闇の向こうから色のない影が歩んでくる。それは天使だ。色のない天使、戦装束のそれらが口から嵐を吐き出し、炎を足にまとい、瞳の奥に星空を湛えて歩む。女の敷いた玉砂利の白い道は天使たちの嵐で整えられ、炎で焼き固められ、星空がその平坦な道を照らしていた。


「リンシャンキン」


 忙しなく踏まれる女の足と、それに伴って啼く鈴の声、そして回転を続ける赤い布のとぐろ。お前が己にもたらすのだ。この堪えられぬ恐怖、神の仕事に震えるほかない無力さを。来るな、止まれ、見逃せ、どんな言葉を言おうとしても、言葉にならぬ叫びをあげようとしても、己の声は闇に溶けて響かない。ああ、そうだ、何故。なぜこんなにも激烈な景色を目に前にして尚、こうも深い闇と静けさを感じるのか。


「リンシャンキン」


 叫べ、叫べ、叫べ。なにかを叫べ、女が私の前へと至る前に、踏み砕かれて白磁の道へと塗り込められる前に、叫べ。


 叫べ。


「あぁ!」


 叫び声をあげると同時、体がバネ細工のように飛び起き、毛布が勢いよく跳ね除けられる。荒い息を収めようとする間に、全身に書いた寝汗が冷えていった。疲れた頭からモヤを晴らすようにゆっくりと首をふる。気だるさと戦いながら窓を見てみれば朝日が差し込み、小鳥たちの愛の歌が響いていた。この不快感さえなければ大層心地よい寝覚めとなっただろうに。あの手紙を見つけてからは毎朝こうだ。


「痛い」


 よほどこわばって寝ていたのだろうか。寝台から降りようとすれば体中の筋が悲鳴を上げ、思わず眉根に皺が寄った。ため息を吐くと、覚悟して立ち上がる。動いていればいくらかは楽になるだろうか。耐えつつ身支度を整え、部屋を出てダイニングへと向かう。


「おはようございます、お父さん」


 侍女のシャーリが私の席へと配膳するのを横目に、食後のコーヒーを飲む父へと挨拶をする。父は一度新聞から目を上げて「おはよう」と言ったが、すぐに視線を戻した。シャーリのよそったオートミールを食べながら、今朝の悪夢の色を努めて薄れさせる。この麦粥はお世辞にも美味しいものではないが、それ故にいっそ現実感を増して、心をこの世に繋ぎ止めてくれた。


 食事に集中する振りをしつつ、目線をちらりと父の斜め横に座る女性を見ると、彼女もこちらを伺っていたようで目が合う。女性、ヒルダ婦人は、ご自身の髪と同じ色の黒曜石の瞳をわずかに揺らすと、小さく微笑んだ。それに私も黙礼で返すと、余計なことだったと反省しつつ食事に専念する。そうして朝食を手早く済ませ、席を立とうとすると父が私を呼び止めた。


「ヨハン、お母様にも挨拶をしていきなさい」


「あなた、良いじゃありませんか」


 ヒルダ婦人が父にとりなすも、彼は首を振る。自分の表情から色が抜けていくのを感じた。これも父なりの家庭の保ち方なのだと理解はしているが、心が従うかは別の話だ。とはいえ、心のままに振る舞うほど幼いままではない。


「おはようございます、お母様」


 精一杯に笑顔を作って言うと、ヒルダ婦人の反応を見ないように足早にダイニングを出た。後ろからは父と婦人が何事か話しているのが聞こえたが、中身に注意を払うことなく、身支度を整えに向かった。


 姿見の前で装いを整えながら、ぼんやりと自らの顔を眺める。鼻や口、耳は父のものだ。しかし、顔の輪郭と青い瞳、そして亜麻色の髪は母の血が色濃く出ていた。母、ルッルウはグルタの首長の家から当家へと嫁いできた人だった。透き通るような美しい色白の肌と、緩やかにカーブを描いたグルタらしい亜麻色の長髪を後ろでまとめていた母、私は彼女を子として愛していたし、母も、嫁がされた身にも関わらず私を親として愛してくれていたように思う。私は父の目が届かぬところで母が耳打ちしてくれたグルタの伝統や伝承についての話が好きだったし、母もその時ばかりは普段の粛々とした姿を捨ててオアシスでラクダを駆る少女の顔に戻っていた。父が忙しい人なのもあって、私の肉体の半分はグルタの血によって作られていたし、私の精神の多くは母の血で作られていたのである。


 しかし、それも私がミドルスクールへと上がるまでのことだった。母が病に倒れたのだ。グルタの風土病だというその病に罹った母は、発病から一月と経たずにこの世から消え、その後に父が迎えたのがヒルダ婦人である。貴種の血を薄く引くという彼女のことを憎んでいるわけではない。しかし、ハイスクールに上がった今、私の精神がこの国の社会へと適応し始めた今でも、私にとっての母はルッルウその人なのだ。


「行ってくるよ」


 感傷的な気持ちを切り替えて、家を出しなに庭師のヒッグへ声を掛ける。「いってらっしぇ」と西武訛りの挨拶を聞き流しながら門をくぐると、ちょうど自動馬車が光の尾を引いて前を通り過ぎていった。自動馬車とは珍しい。グルカとの交易路が確立したことで、結晶機関(クリスタル・エンジン)も普及はしてきたが、馬車を動かすほどの高出力のものは値段も相応である。私の住むこの地域は裕福なものが多いが、それでも珍しいことには変わらなかった。


 朝から良いものを見たと機嫌が良くなったが、それもすぐに台無しになる。校門──私の通うこのハイスクールは珍しく寮制でない──の前で、苦手な顔を見つけたからである。


「よう、ヨハン・ヴェーラー」


 しかも、悪いことは続くもので。その大柄で野卑な男、テオドール・キリングは目ざとく私を見つけると、ニヤケ顔で近寄ってきた。


「まさかお前が歩いて登校しているとはな。グルタ人のように空を飛んでくるものかと思っていたよ」


 この男はどうも私に突っかかってきて、面倒である。とはいえ、ここで同じ土俵に経って言い返せば、まるで間抜けの見本市だろう。


「やあ、キリング。人間の言葉を話せるようになったのは大した進歩だが、今の発言にはロースクールでこれから君が学べば明らかに誤りだと解る部分がいくつかあるぞ。早く自分の教室に行くんだな」


 そして、私は基本的には間抜けなのだ。言ってから余計な口だったかと悔いたが、もう遅い。キリングは顔を怒りに染めると、拳を握りしめる。思わず半歩引いて腰を落とすが、キリングはしばし震えたのち、「混ざり者め」と吐き捨て、校舎へと大股で歩いていった。


「災難だったな」


 朝から流血沙汰にならずにホッとしていると、後ろから声がかけられる。振り向けば、丸メガネの級友、オットー・エンデが肩をすくめて見せていた。


「キリングの奴、親父さんが軍人なもんで、気が立ってんのさ」


 確かに、昨今のグルタ情勢はきな臭い。グルタの小国はいがみ合い、我々の国と親しい国々と、我々の国を追い出したい国々がやりを喉元に突きつけ合っているような状況だ。父親がグルタに派遣されているキリングとしては確かに私の血に苛立ちもするだろうが、この場合はもっとシンプルな理由が主だろう。


「いや、この前のテストで全教科、また私に負けたのが一番と見たね。成績は悪くない奴なんだがな」


「おいおい、事実を言うことがいつも正しいとは限らんぜ」


 もちろん、オットーの方も結局はキリングを好ましく思っていないのだ。そうして笑い合うことで憂さを晴らした私達は、談笑しながら自分たちのクラスへと向かうことにした。


 午前のカリキュラムは数学と修辞学、そして地理だった。地理のフーベルト先生が抑揚のない口調で淡々と教本を読み上げるのを聞き流しながら、窓越しに外の景色を眺めた。昨今の情勢を鑑みて、というわけではないだろうが、グルタの地理について先生が話している。砂漠の周辺に小国が乱立し、それぞれが統廃合を繰り返しながら支配者だけが流動的に移り変わる、経済的には有用な地域。確かに我が国から見ればその通りである。しかし、グルタの景色を一度でも見たことがあれば、フーベルト先生ももう少し表現を変えたことだろう。


 あの砂漠のオアシスに原色があふれる町並みと、よほど集中しなければ一人の言葉を抜き出せないほどの音の嵐、そして果物と羊肉と魚の干物とその他の物の匂いが人間の体臭に混ざって漂うあの景色。清潔だが灰色がかったこの街とは真逆の景色を思い浮かべれば、先生の表現は簡素に過ぎた。その証拠に、このクラスにはよく船頭が現れては船を漕ぐのである。私も思わずその仲間入りを果たしそうになるが、ガラス越しで少しくすんで見える青空と、そこに放牧された羊雲の群れを眺めることで意識を保った。


 蹄が見えないから、これは俯瞰の視点だろうか。そんな益体もないことを真面目に考えていると、ようやくベルが鳴る。それを知らせとして此岸へとこぎつけた船頭たちが顔を上げるのにも構わず、先生は「今日はここまで」とそっけなく言うと、なんの気負いもなしに教室から出ていった。と、同時。にわかに騒がしくなる教室内。今日は週の締めで週末が楽しみだというのは理解できるが、この熱気とは異なった活気には今でも慣れない。それでも、開放感に息を吐くと、目の端に赤い何かが舞う。


 たまらず振り返るが、それらしきものは見当たらない。あんまりの退屈さに目を開けたまま眠っていたのだろうか。心の中でふざけてみるが、不快感は飲み込むことも吐き出すこともできなかった。そして、何が契機となったのか、それからと言うものしばしば目の端で何かが踊るようになったのである。音はない。しかし、どこでどの音がなるのかはすっかりと身にしみて覚えていた。黒いつま先が持ち上がり、「リン」。つま先を勢いよく打ち付けて跳ねれば、「シャン」。あの布が翻って向きを変える度に、「キン」。私の現実はついに己の悪夢に侵され始めたのである。


 赤い踊り手は、常に目の端に居る訳ではなかった。むしろ居ない時間が長いのだが、その存在をふと忘れた頃にいつのまにやら目の端に現れ、「リン」とつま先を持ち上げるのだ。


 そんなことが続けば、精神もまいるというもの。一週間も経てば、私の目の下には立派にクマが育っていた。


「ヨハン、ひどい顔だな。風邪か?」


 今日に至ってはとうとう、教室で出会ったオットーに心配されてしまう始末である。


「ああ、いや。最近特に夢見が悪いのさ」


 ついおざなりに答えてしまうが、オットーは気にした風でもなく思案顔になる。


「夢というと、あの踊り子の夢か?」


 そう言えば彼には以前話したこともあったか。


「鮮やかな踊り子に勇ましい天使たちと、聞いた限りでは良い夢に思えるがね。まあオレが見ている夢でもないから何も言ってやれんが」


 そうだろうとも。あの恐ろしさは見た者にしかわかるまい。ことさら言い立てても仕方がないので曖昧に微笑む。しかし、このやり取りが聞かせようと思っていなかった者にも聞こえていたらしい。


「おやおや、ヨハン・ヴェーラー殿は踊り子の夢をご覧ですか」


 嘲るような声にげんなりしながら振り向けば、キリングがいやらしいニヤケ面で後ろに立っていた。


「キリング、口が臭いぞ」


 不愉快さを抑えながら、努めて冷静に返す。普段ならば、キリングはあれで場をわきまえる男だ。悪態の一つもついて引き下がるところだが、今日に限っては弱みに食いついて離すまいと言葉を続ける彼。私の肩に置かれた手を払いのけようとするが、体格差と態勢もあって振りほどけない。目の端で踊り手が「リン」とつま先を持ち上げる。


「知ってるか、ヴェーラー。精神解析学者の間では、夢というのは欲望の現れだそうだぜ。踊り子に天使、随分と艶やかじゃないか」


「おい、キリング。やめとけって。本当に調子悪そうだ」


 オットーが眉をひそめて忠告するが、キリングは鼻を鳴らして私の耳元で囁く。


「浅ましいグルタ人らしいな」


 その言葉を聞いた瞬間、気がつけば私は自分の頭でキリングの顔面を打ち据えていた。怯んでたたらを踏むキリングと、級友の誰かの悲鳴、そして好機の歓声。それぞれの音の意味を理解してようやくまずいことをしたと思い至ったが、その頃にはキリングは痛みを怒りに変えて私に掴みかかっていた。


 怒号と悲鳴、そして煽る声援が響く中、床で取っ組み合う私とキリング。オットーを含めた何人かの生徒は止めようと手を出すが、キリングの体格もあって目的を達さない。馬乗りになられるのだけはなんとか阻止しつつ、お互いに殴り合い、転げ合っていくうちに私は徐々に不利になっていく。そして、追われては逃げを繰り返すうちに教室の壁へとぶつかり、その衝撃がよほど強かったのか壁にかかっていた結晶機関製のランプが私の頭の横へと落ちた。割れたガラスの破片と、内部の結晶機関に使われている小さなクリスタルが目に留まる。


 私は割れたランプへと手を伸ばし、クリスタルを握りしめて拳をキリングの胸元へと押し当てた。


 その瞬間、私の視界は鮮明となり、灰色の景色の中紅蓮の血の色を纏って冷たい炎のごとく踊る女が、「シャン」と爪先で跳ねるのを見た。


「『征服せよ』」


 自分で何を口にしたのかは解らない。しかし、結果としてキリングは唐突に体を震わせると、糸が切れたように私の上へと倒れ込んだ。


 静かだった。先程までの喧騒、祭りじみたその熱気は瞬く間に覚め、私を囲む輪の中の誰もがナマズのように息を潜めている。小石の一つでも投げ込んでやれば、先程までと趣の異なった怒号と悲鳴が響くことだろう。しかし、誰も──私も──その小石を投げ込もうとはしない。


「まじないだ」


 誰かが言った。


「グルタのまじないだ」


 と。


 その言葉は部屋中へと瞬く間に伝播し、押し殺したささやき声が私を囲む。ここに至っても私は自分が何を行ったのかについて理解できずにいた。私に覆いかぶさるキリングは、肩が規則的に動いているのを見るに、失神しているだけだろう。しかし、何故?


 グルタの人々は、確かに結晶機関の助けなしに同様のことを行うことができる。呪文とクリスタルの助けのみで、明かりをともすことも、羽を浮かせることもできるだろう。事実、母も父の目を盗んでクリスタルの力を使っていたし、私も真似をして遊んだものだ。しかし、空を飛ぶような大それた事はできないし、そもそも技術あってのこと。このような効果を持つ呪文を私は知らなかったし、そもそも母が死んでから何年も使わずにいた技である。


「結晶機関にもサプレスぐらいあるさ。オレ達だって内部の結晶回路ぐらい知ってるだろ、そんな目で彼を見るな」


「ヨハンは結晶機関を持っていなかった」


 オットーが輪の中から進み出て私を弁護するが、反論に言い返せずに押し黙る。自分の手を開いて見てみれば、確かに結晶回路が描かれているようには見えなかった。


「シャイターン」


 誰かがこぼしたその単語に、思わず肩がはね、手からクリスタルがこぼれ落ちる。結晶質が床に跳ねる音が響くと同時、人の輪がそれぞれ一歩分広がった。落ち葉を舞わせて遊ぶ私を母が見る温かい瞳とは逆の、異端者を見る凍った瞳が四方から向けられる。


「おい、侮辱するのか」


「良いんだ、オットー。もう良い」


 呟いた男に掴みかからんばかりのオットーを押し留める。寸刻振り返った彼の瞳に、凍った恐怖が宿っていたからだ。ちょうどその時フーベルト先生が現れ、人の輪を押しのけてやってきた。


「これはどういうことだ。誰か説明しなさい」


 しかし、誰もが口をつぐむ。先生は待つ内に業を煮やして、私にも同様に問いかける。


「私がキリングをノしました」


 私は簡潔に答えると、「それは」とオットーがなにか言いかけたが、後が続かない。代わりに、誰かが「グルタの呪術で」と囁くと、先生の目が細められる。そして、キリングが息をしていることを確認すると彼の体を転がし、私の手を引いて立たせて言う。


「誰かテオドール・キリングを医務室につれていきなさい。授業の開始は二十分遅らせる」


 それから、先生は私の腰を押して同道するように促す。後ろでオットーが手を伸ばしかけていたのが見えたが、その瞳を見る気にはなれず、先生の導く通りに、静かなままの教室を後にした。


 その後もまた、静かだった。教官室に私を連れきたフーベルト先生は、近くにいた教員に二言三言囁くと、授業へと戻ってしまう。私を押し付けられた教員は私をソファーに座らせると、店からファイルを取り出して何かを確認してから、送受信機で信号をうち、そのまま仕事に戻った。それが私の父への連絡だとわかったのは、一時間ほどして父が教官室へと入ってきてからである。それまでの間、私は少しの居心地の悪さと、言いようのない虚脱感に悩まされていたのである。


 そして、その後もしばらくは静かだった。今日は帰宅するようにと言われて乗った馬車の中、向かいに座った父は無言であり、私もことさら話そうとしなかったからだ。庭をいじっていた庭師のヒッグは私の顔を見て驚いた表情を浮かべたが、気遣わしげな目を向けるだけで何も声をかけはしない。扉の向こうで迎えてくれた侍女のシャーリも「まあ」と言ったきりで、父と目線を交わした後は頭を垂れて下がってしまった。父は「部屋に居なさい、夕飯は抜きだ」と伝えると、そのまま書斎へと入ってしまう。とにかく無気力な内にあった私は、言われるがまま部屋へと入ると、服を脱ぎもせず寝台へと横たわったが、目を閉じずにいた。私はあまりにも孤独だった。


 それからどれほど経っただろうか。窓の外がすっかり暗くなった頃、扉の下からにわかに明かりが差し込み、扉が開く。しかし、最初の数拍、私はそこに人がいるように思えなかった。扉を開けた者が黒い髪に深い藍色のネグリジェを纏っていたため、夜がその奥に続いているように見えたのだ。扉を開けた者、オイルタイプの照明を手に下げた女性は、ヒルダ婦人だった。


「ヨハンさん、昼間のことはお父様から聞きました」


「そうですか」


 順当に会話をしながら、私は無力感が私を支配しつつあるのを自覚した。婦人は何をしに来たのだろうか。家名を汚したと責めに来たのだろうか。あるいは、私の中の半分のグルタを蔑みに来たのだろうか。教室でみた氷の瞳を思い起こしたが、なんの感慨も浮かばなかった。私は、誰かに責められたい気分だったのである。しかし、婦人は予想から外れたことを言い出した。


「ヨハンさん、お辛いでしょうね」


「いいえ、そのようなことは」


 まるで慰めでもするような口ぶりである。彼女の善性を疑ってはいなかったが、今日ここに限ってはその気遣いが煩わしい。


「わたしにはあなたと同じ血は流れていませんが、血によってもたらされる視線については知っています」


「そうですか、お気遣いどうも」


 苦労したという話は聞いて知っている。だから、あなたも知っているというのならば、今は私に触れないでほしい。疲れている、疲れているのだ。気のない返事を続けると、婦人は目を伏せて、「おやすみなさい」と言って後ろに下がる。そして、出しなに言った。


「わたしに頼ってくれて構わないのですよ」


 そう、温かい瞳で言われた時、倦怠感の雪で覆われた心が溶け、嵐のように跳ね狂った。


「何のつもりだ!」


「わたしはこの家の女亭主。あなたを守りたいのです」


 飛び起きて言った私に婦人は目を見開いてたじろいたが、すぐに凛とした顔になって応える。誇りをもって語られる言葉の内に、優しさを感じながらも認めたくない感情が私の制御から逃れようとするのを必死で抑え込む。


「母親にでもなろうと? 私にはあなたの血など流れていない、あなたも言っただろうに」


「それでも、あなたのお父様の妻です」


「私の母はルッルウだ!」


 耐えられなくなった私は、サイドテーブルにしまってあった護符を乱暴に引き出すと、握りしめて言った。


「『閉ざせ』!」


 その言葉通り部屋の扉は勢いよく閉まり、部屋の中に暗がりが戻る。肩で息をしながら、ドアの下の明かりが無言で去っていくのを見送ると、私は護符をテーブルの天板に起き、それをしまっておいた引き出しから灰の入ったガラスの小瓶を取り出した。


 震える手でその小瓶を抱くと、寝台にもたれて瞳を閉じる。思い返すのは、この小瓶に入った灰が手紙だった頃に書かれていた文章だ。その手紙は母が私の叔父へと書き、出されなかった物だった。その手紙の中で、母は私をこう呼んでいた。「悪魔(シャイターン)」と。


「お母さん。どうして私を」


 呟いてみるが、答えは出ない。代わりに、先ほど扉が閉まる際のヒルダ婦人が浮かべていた、瞳の中の炎が思い起こされた。


「リンシャンキン」


 そんなことをしているうちに眠ってしまったらしい。気がつくと、己はまた闇の中、あの夢を見ていた。いつものように女が闇から浮かび上がり、鮮烈な赤を纏ってこちらへと歩み寄る。黒に染められたつま先が闇の中で際立って目に付く。いつもと同じ夢だ。ただし、私が無力感で恐怖すら感じないことを除けばだが。


「リンシャンキン」


 そうしているうちにも女と天使の行進は私に近付いてくる。その時、私は気がついた。女のつま先の黒、あれはやはり魔除けの紅だったのだ。ただ、万難を踏み砕き、敵と己の血で染まった紅が重なって黒く見えていたのだ、と。玉砂利の砕ける音は真実誰かの悲鳴だったのだろう。ならば、あの行進は何をもたらそうとしているのだろうか。元の踊りの通りに難を退け安寧を与えるのか、私が今望む通りに責めを追わせ、救おうとするのか。


「リンシャンキン」


 間近に迫った女と布の壁の隙間から目が合う。そこには己と同じ青い瞳が燃えるような炎を宿していた。

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