神々の果実

鱗青

神々の果実

 それは淡い紫色をしているという。

 一目見た瞬間、唾液が湧いてくるような。

 口に含めれば、香りは馥郁ふくいくとして…

 咀嚼の後、どんな魚や肉よりも胃袋を刺激し、果物よりも甘く鮮烈な風味を醸す。

「『神の果実フルート・デ・デウス』!──ご大層な名前ネーミングやなぁ。そない未知の食べ物が存在するンかねえ?地球が狭ぅなったっちゅう、このご時世に」

 そう尋ねてきたのは、パラソルを刺したカクテルを片手に振りながら跳ね上がり降り掛かる水飛沫をものともせず、高速船の舳先に据えたデッキチェアにその身をだらしなく預ける中年肥りの男。

 私のボス──エドソン=シルバ。日当たりの良い場所に陣取った快適な寝椅子からのけぞると、撫ぜたらつるりと気持ちよさそうな禿げ頭に加えサングラスがアニメのようにキラリッと反射した。出っ腹をはみ出したアロハに短パンを穿いているので、どこぞの成金かチンピラに見える。

「こんなご時世だから、かもしれませんよ。じつのある情報や有益な事実は悉く裏側に隠される。それをルオ社長みたいな大金持ちに売りつけるために」

 私は地図を持ちながら、エンジン音に負けじと大声で操舵室から答えた。首にかけたタオルでうなじを拭うが、ねっとりと濃密な赤道直下のアマゾンの空気に触れた肌にはたちまち次なる汗の粒が生まれてくる。果てしなく続く熱帯の大気浴。私はうんざりとため息を漏らす。

 隣にはせばまってきた水路に真剣な顔をしている漆黒の肌の老境の船長。英語、それも訛った下町米語ブロークンアメリカンしか話せないボスに代わり、私はナビと通訳で大忙し。

 現地ガイドと合流する目的地、アマゾンにありがちな辺鄙な村へ辿り着くまであと僅か。宿どころかまともな商店すら無いという田舎だ。せめて今夜は柔らかなベッドとは望めないまでも、シャワーを浴びて眠りたいところ。

 私、斉藤早苗十八歳。日本の高校を飛び級し、アメリカ本土の大学で言語学と比較文化論を専攻した努力型の秀才。

 周囲からすれば場末の便利屋ハンディマン事務所に就職するなんてどんな悲劇か運命の悪戯かと詮索したいところだろうが、私にとっては象牙の塔で研究に打ち込んだり大企業のビジネス戦士となってあらゆる国々を駆けずり回るよりも、単純に胸躍るような体験をしたかっただけだ。

 冒険マニア、といえば気性を理解してもらえるだろう。

 今回の依頼は、アマゾンでレアメタルを長年採掘してきた資源開発会社の社長のルオ=ウェンリーからのものだった。曰く、

「美味珍味と呼ばれるものは何でも口にしてきた。それこそ倫理の壁を突き崩すような真似をしてもな。私の他にもいるそんな輩が噂しているのだ──食すれば天国に至る、謎の“果実”の事を」

 詳細な情報なら百万ドル。入手に成功、ルオ自身が食すことが叶うならば一千万ドル──

「狂気の沙汰も金次第、ってわけね」

 私のなんとなしの独り言を、しかしボスの地獄耳がピクリと動いて叫んでくる。

「まぁ正気じゃでけへんやろ。おまけに絶対秘密、口外厳禁ときた!自分てめぇの女房子供にも齧らせもしねぇつもりなのかねえ」

 私は思い出す。子供の頃、楽しみにしていたアイスクリームを兄に食べられて号泣したことがあったっけ。あれは…辛いとかいうレベルではなく、一生忘れはしない。しかしそれは食べ物を分け合わない、というのとはまた別の問題だ。

「ルオ社長はこの辺のレアメタル鉱山事業における強引な開発と地上げ、低賃金のブラック雇用で四方八方から恨みを買ってますから。吝嗇ケチここに極まれり──ですね。あっ、そこの水路に入って」

 船は地上なら隘路に当たる、茂みと茂みの間の水路へと滑り込んだ。

 間を置かず、右手に素朴な建材の屋根が幾つか見えてきた。それは小さな丘にへばりつくように煉瓦の家が身を寄せ合う、割合人口の多そうな開拓村だった。

 岸に降り立つ。ボロボロのスニーカーを履いたカフェオレ色の肌の子ども達が、私達をまるで動物園に到着した珍しい生き物を眺めるように我先に群がってきた。ただし、遠巻きで。

「ウタキ村へようこそ。歓迎ッス!」

 軽薄な調子の低い声で子らの輪を割って現れたのは、髪を短く刈り込んだ精悍そのものといった長身の青年だった。こざっぱりした開襟シャツにジーンズ、それにやはり年季の入ったスニーカー姿だ。

「どもっす!俺ダヴィ=アベいいまして、日系五世ッス。この村は全員、昭和時代に移住してきた日本人の子孫なんスよ。そっちのヒトは中華?コリア?」

「どうも宜しく。私は斉藤早苗、日本生まれの日本人よ。綺麗なポルトガル語ね?」

「俺高校まで行ったッス。それに爺ちゃん警官で、公用語は厳しく叩き込まれたッス。日本人が来てくれるなんてスゲ嬉しッス!」

 鼻の下をこすりながら笑う。年齢は僅かに上だろうが、父親を素直に誇りにするあたり人柄も信用できそうだ。

 そう、この稼業について日はまだ浅い私だが、最初に身に染みて思い知ったのは人品骨柄を見極める・・・・・・・・・大事さだ。それが無かった初めての仕事では、インドの都会の寺院の陰であやうく暴行致死・・・・の遺体になるところだったのだ。

 彼が現地ガイドなら安心だ。宿泊させてもらう彼の家へ案内される道すがら、村の中には簡単な商店もあり飲食店すら存在するという事までが分かった。

「酒はあるのか酒は!えー、あー、あるこーりか?」

「あるッスよ?でも度数高いから、外国のヒトにはキツいかもッスけど」

「構へん構へん、気持ちよう酔えたら満足や」

「ボス、せめて荷物置いてからですよ。あと出かけるなら私に一声かけてから!」

 うるさそうに手であおぐ。このオヤジはなにかというと酒、ギャンブルそして女とダメ人間の中央道を突っ走るんだから…

 ダヴィの家は丘の中腹にある、一際立派なコンクリートの二階家だった。年代物であるのはあちこちの壁のひび割れや床の穴が証明するものの、一応電気やガスが使用できる。真水は雨水を貯めるタンクが丘の高台に設置されているが、使用は極力控えめにという事だった。

 ちなみに私の寝床は二階の角部屋。ブラインド付きの窓から緩やかに村の風景が見下ろせる。子供は元気に駆け回り、老人達は忙しく手作業をし、大人は農作業や魚の日干しに精を出す…古い日本の風景といってもいいものがそこには広がっていた。

「どッスか?足りないもんとかないス?」

 気がついたら背後にダヴィが佇んでいた。少々驚きつつ、充分に快適だと返す。

「調査も早速始めたいの。この辺の集落は他には?」

「ン〜…船でサッと廻れる範囲なら五、六ぐらいッスねえ。それ以上になると相談しなきゃいけないス」

「相談?」

 こくりと頷き、ダヴィは音量を落とす。

「この辺りには反政府勢力とかマフィアとか、そいつらの息のかかってる集落もあるんス。そういう場所とこに迂闊に入り込まないようにッスかね」

「そう。ちなみに私、これでも空手三段合気道五段。銃も扱えるわ」

「スゲッス!頼もし格好いいスね」

 整った顔がニコッと笑むと、象牙色の揃った歯並びが溢れた。コーラのCMかな?

 大体の男は、私が強いと知るとドン引くか興味を失ってそっけなくなる。でも、ダヴィは違うみたい。

 え?私何考えてるの?こんなアマゾンの奥地でラブロマンス?

「どしたスか?」

 わ、顔を近づけると睫毛長いのが分かる!眉も剃ってないのに形が良くて、汗臭さより何か柑橘系の爽やかな匂いが漂って──

「おお〜い。俺はここに残って情報収集するから早苗は近隣をあたれ〜!」

 遠くから発射されたボスのダミ声が見事にいい空気をぶち壊してくれた。ダヴィが肩をすくめ、

「それじゃ行きまスか」

 と苦笑したので、私は慌てて頷いた。

 自分が軽い女だとは思わない。けれど、ダヴィにはどこか研究室のうらなりインテリギークや裏町の荒くれ者マッチョどもとは違う、背中を預けられそうな不思議な魅力がある。

 チャーターした高速船を存分に使い、周辺を回っていく。何せ噂の段階止まりの品だ。薄い桃色、形容し難い味わい、そして『神の果実』という名前の他に手がかりはない。ポルトガル語も話せない本物の原住民ネイティヴ相手にダヴィを仲介にしてあれやこれやと聞き出すのは並大抵の手間ではなかった。

 緑したたる密林の放出する霞の彼方に太陽が滲むように落ちていく頃、半分がたの集落を回って村に帰ってきた。

「陽が落ちると危険な生き物が出ても対処しづらいッス。また明日、残りの集落を回りましょう!」

「そ、そうね。時間はあることだし」

 植物の根を越えて上下の激しい道なき道を進んだ結果、私の膝は笑いっぱなしだった。ジムで鍛えてい本物の野生の環境には太刀打ちできないな。

 ダヴィの家に近づくと、迫る夕闇の中喧しいほどの人声と音楽が聴こえてきた。

 家の中にはラジカセから音楽が流され、こんなに人間がいたのかというほどの人数で溢れ、大皿にたくさんの料理があちらこちらへと運ばれていた。

「な、なんなのこのどんちゃん騒ぎは?」

「あー、ウチの村にお客さんが来るなんて久しぶりッスから、歓迎会開いてんスね」

 そう、ボスはベロンベロンに酔いながら村人と誰彼構わず肩を組んで歌を歌って踊っていた。

「よぉ早苗、おかえりやっしゃ〜」

「おかえりじゃないでしょ!なんなんですかこの騒ぎは!」

 ウ〜ィヒック!と喉を鳴らすボス。顔がすっかり赤らんで、服も更に乱れている。これで頭にネクタイでも巻けばいにしえの由緒正しき酔っ払いだ。

「怒らんといて〜や〜。せぇっかくの美人が台無しやんかぁ〜」

「私は従業員として勤勉に業務をこなしました。ボスはどうなんですか?返答次第ではただではおきませんよ」

 睨みつけてやる。と、ぬっへへ…と笑いながら耳打ちしてきた。うう、酒臭い…

「手がかりや。例の『果実』な、どうやら村の禁忌タブーらしいねん」

「え?どういう事ですか?」

 ちと離れるぞという仕種しぐさに従い、私はボスと家のそばに植えられたオレンジの樹の陰に入った。

「あんな、この村、やけに子供が多い思わんか」

「それは…まあ貧しいから」

「うん、それもある。けどここの数は異常や。いや…バランスが合うてへんのや・・・・・・・・・・・・

 何が言いたいのだろう?私は首を傾げた。

「つまりな。老人と子供ばっかで大人が少ないねん。それも男に限ってや」

「出稼ぎとか?」

 ボスは首を振る。酒をしこたま呑んで脂ぎった頭皮がテカついているが、双眸に宿る光はもっと強く推理の鈍色にびいろを放っている。

「いや。話ぃ繋いでプロファイルするとそない単純なモンやない。もっと深刻で、重大な何か・・が隠されとる気配がするんや。それこそ犯罪にまつわるような何かがな」

 私は唾を飲んだ。普段は中年ダメオヤジだが、こういう時のボスは切れ者なのだ。

「ええか。この村には女は子供から婆さんまで揃っとる。その数も状態も不審な点はない。しゃあけど男、それも三十代から四十代にかけてがゴソっと消えとる。村に帰ってきた気配が無い。そう、行方不明といってもええくらいやな」

「そんな⁉︎そんな大人数が拉致されたら、さすがに警察が」

 ボスは低い鼻をフンと鳴らす。

「問題にならん場合があるやろが。お前、ちゃんと調査したんか?」

 そうか。ダヴィが反政府勢力やマフィアの存在を示唆していたじゃないか。

「間違いあらへん。この件はかなりヤバい。人死にが出るゆうくらいな」

「で、でも」

 カサ、と葉擦れの音がした。私とボスが振り返ると、家の明かりに半身を照らされたダヴィがいた。

「あ、話の邪魔だったスか?」

 途端にボスはヘニャヘニャの酔いどれ面に戻った。

「う〜んにゃ?この村はええとこやぞ言うてたところや。ダヴィ君も混ざるかぁ〜?」

「え、いや、俺は」

 ボスはふらふらと去っていく。それはもう見事な千鳥足。半分は芝居なのだろう…大したものだ。

「あの、早苗サン」

「はいっ?」

 いけない、もっと自然にとぼけなきゃ。私は強張りかける肩の力を抜く。

 ダヴィは両手に提げたビールの瓶を持ち上げた。意図を汲んで、最大限の笑顔を作り一本受け取った。

 乾杯!と瓶を打ち鳴らし、私は味のしないビールを喉に流し込む。ジッと横目にしていたダヴィが意を決したように言った。

「早苗サンとボスサンは、恋人なんスか?」

「…」

 脳が拒絶して、私は一瞬ポカンとした。それから思いっきりビールを噴き出してしまった。

「──はぁ⁉︎なっなっなっなんで私が⁉︎あの中年と⁉︎」

「違うんス?」

「そりゃそうよ見れば分かるでしょ⁉︎無理あり得ない生理的に受け付けない‼︎」

 へー…と、長い返事をするダヴィ。

「そっスか。なら俺、望みを捨てないス」

 ん?それはどういう…

 私が問いかける前にダヴィは家に戻っていく。その後で私は二階の自室に戻り、走り回る子供やなぜかいる犬や子豚を追い出して鍵をかけた。

 ダヴィの初々しい態度は正直、かなり、いや滅茶苦茶に感動的だった。こんな状況だというのに、私は早いビートを打つ心臓に手を当てる。

 こんな状況。

 そう。

『神の果実』が禁忌なのだとしたら、ダヴィは何故それをおくびにも出さなかったのか?

 様々な感情と今日一日一緒にいた彼の横顔が頭に渦巻く。私は勢いよくベッドに飛び込み、無理矢理瞼を閉じた。

 次の日、残り半分の集落を回った。ボスは二日酔いが酷いと呻いてついてこなかった。

 最後の集落を特になんの収穫もなく後にした。高速船の舳先に腰掛けていた私の横に、ダヴィが自然な感じで座る。

「今日もあまり確かな話は無かったスね。明日からは距離を伸ばして遠くの村や町も当たってみまスか」

「そうね」

 ドッドッドッ。高速船は小気味良く進む。ここで静かに話すぶんには、操舵室の船長にも聞かれまい。

「ねえダヴィ」

「何スか?」

 キラッキラした目で見られると、余計に言い出しづらい。でもこれも仕事だ。あくまでそう、仕事なのだ。

「『神の果実』は貴方の村と深い関係がある事、どうして私に黙っていたの?」

 ダヴィの表情が凍った。ああ、嫌な予感が当たってしまった。

 しかし次の瞬間、それが見当違いだったと分かった。

「伏せるッス!」

 いきなり甲板に押し倒された。同時に、ジャアアアア、という小刻みな金属音が響いた。

 船体の横っ腹、先から中ほどでに斜めに銃痕が走った。続けて、アッという船長の悲鳴。

「マシンガン⁉︎」

「正解ッス!中に隠れるッスよ!」

 え、という間もなく私を抱き抱え、甲板を蹴ってダヴィは操舵室に飛び込んだ。

「きゃっ!」

 操舵輪にもたれかかった船長の死骸が、血の筋を何本も床に垂らしている。それを無言でどけるダヴィ。

「停船したら狙い撃ちでやられるッス!そうできないよう往復するッスよ‼︎」

 操舵輪を慣れた調子でぶん回す。船体がずおおお、と大波を立てて旋回し、水路を逆方向に進みだす。

「操舵、頼むッス」

 ダヴィは操舵室の後ろに保管していた護身用の拳銃をとっ捕まえ、再び甲板へ飛び出した。私はワタワタと操舵輪に取り付いて、ひえええと情けないへっぴり腰で岸にぶつからないにすることにだけ集中する。

 ダヴィは拳銃を口に咥え、身軽に操舵室の上によじ登った。

 そこから周囲に目を配り、先ほど銃撃してきたあたりを通過する前に叫んだ。

「このまま止まるなッス‼︎」

 ダンダンダンダンダン──射撃場で聞くのとは違う、リアルな殺意を込めた銃声が森林の大気を叩いた。

 とても長く、長く感じた…

「もういいッスよ早苗サン、左に接岸してくださいス」

「せつ?接岸?て、どうすればいいの?」

 待っててくださいス、いま行きます…想像した通りの困り笑いを浮かべたダヴィが、操舵室の屋根の縁に指を引っ掛けて鉄棒選手のように降りてきた。

 それから岸にぴったりつけて停泊し、茂みの中をあらためた。四人およそ警察とも軍人とも思えないファッションの男達だった。どれも心臓か頭、あるいは両方を撃ち抜かれ絶命していた。

「この辺りの者じゃないッスね。マフィアだとしても都会の人間ス」

「でも凄いわダヴィ。映画のスナイパーだってこうはいかないんじゃない?」

 ダヴィは硝煙のついた指で鼻の下を掻きながら、

「俺根っからのハンタースから、都会のならず者なんか銃が効くだけマシ・・ッス」

 と謙遜した。

 しかしこれで死体が五つである。どうするのかと思いきや、ダヴィはマフィアは全員水路に蹴落とし、船長のみ丁重に荷物にかける布を畳んだ上に両手の指を組み合わさせて横たえた。

 曰く、

「水路には獰猛な肉食の魚がいっぱいいるんスよ。これが正しいやり方ッス」

 だそうだ。まだまだ私も甘いんだな…

 ダヴィの家に戻ると、丁度彼の祖父とボスとが庭先で将棋ジャパニーズ・チェスを指していた。

 襲撃と船長の死を伝える。ボスは険しい顔をし、ダヴィの祖父は悲しげな顔をした。そして何事かをダヴィにそっと囁くと、まだ勝負の途中だったらしい盤をそのままに鶏小屋の方へと歩いていく。

 ダヴィは私達を家の中に誘った。一階のリビングでテーブルに着くと、プラスチックのコップに何か熱い液体を注いで配られた。

 ふんわり香るスパイス。舐めてみる。懐かしい味が舌に広かった。

「生姜湯ス。ウチの爺ちゃん特製の。んで…」

 深い縹色の瞳が窓の外の夕焼けに向く。

「──俺の父親の好物ッス」

 訝しげな表情でコップをチビチビ啜っていたボスが、顔を上げた。

「その言い方やと、死ンどるんか」

 ふう、と息を抜いて、ダヴィは唐突に頭を下げた。

「黙っててすみませんス!俺本当は、お二人の探し物知ってるんス!」

 私はむせた。熱い液体が喉に停滞し、食道が灼ける。

 ボスは腰を浮かせ、喜色満面でガッツポーズ。

「よぉっしゃぁ!ボーナス確定!ついでに休暇も貰えっかもな‼︎」

 私のむせ込みがようよう落ち着くと、ダヴィはおもむろに立ち上がった。片膝を持ち上げ、足首をもう一方の膝に乗せる。

 スニーカーを脱いだ。

 そこに現れたのは足の甲から包帯にぴっちり包まれた爪先だった。

 さらに包帯をほどく。それは白い蛇のようにくねりながら、木の床にトグロを巻いていく。

 そして現れたダヴィの足趾。

 天井近くにかけられた壁時計の秒針が、ゆっくり止まった気がした。

 様々な人種の血縁と、赤道の太陽に灼かれた濃密な彼の肌。

 だのに、つま先桃色珊瑚にそっくりの淡い色合いをしていた。さらに五本の指全てが丸く変形し、果実…そう、葡萄のようになっていた。

「この村の人間、赤ん坊の頃からこの辺の物を飲み食いして育った男だけつま先がこうなるんス。女には出ない男だけの特徴スね」

 それで合点がいった。この村に足を踏み入れた時から感じているなんともいえない違和感の正体。

 どうせすぐ傷むしむしろ履いていないほうが楽なのに、さほど豊かでもなさそうなのに子供達全員がスニーカーだった。

 あれは爪先を隠す為のものだったのか…

「触ってみても…?」

 勿論だ。と言わんばかりに私に足を差しあげてくる。片足で立っているのに体幹の軸がぶれていない。なんて鍛えられた肉体だろう。

 少し指が震えた。私は恐る恐る彼の薄紫色の爪先の、親指から順繰りに触れていく──冷たかった。更に握り込んでみるとすべすべしていて、確かに生物のものというより何か植物の皮だと言われる方がしっくりくる感触だった。

「もういいッスか」

「え?あ、そうね」

 手を離す。足を下ろした彼の頬が、なんとなく紅潮している気がした。

「ボスさん早苗サンが探してる“神々の果実”。それは、こうなった爪先のことッス」

「…ちょぉ待てや。それじゃあ、まさか」

 ボスの眼差しが固くなる。ダヴィは腰を下ろして続けた。

「十年前、レアメタル鉱山で落盤があったんス。何人も坑道に閉じ込められたんスけど、ルオ社長は救出の手立てを何も打たなかったッス。走行するうちに数日経ち数週間が経ち、やっと事故現場まで掘削できた時には生き残ってたのは僅か二人だったんス」

 村の男達の全員がその鉱山に働きに出ており、うち数名が不幸なことにその事故現場に居合わせた。

「生き残った二人は村の人間じゃなかった。そいつらは喰ったんス。この村出身の男を」

 その二人が生還後、夢見心地の陶酔した様子で訴えた。あの薄紫色の足の指はまるで天国の果実のように美味だった。あの味が忘れられない。あれを二度と味わえないと思うと気が狂いそうだ…

 さすがのボスも沈黙を守っている。私の手の中で生姜湯がじんわりと熱を失っていった。

「その後、二人は鉱山へ働きに出てた村の男を皆、殺したッス。爪先を切り取って喰う為ス」

 そしてその二人もその後体調を崩して亡くなり鉱山は閉ざされ、幻の美味の噂だけが残った。

 たった二人の狂人が、この村の男全員の命を奪ったというのか。それも食人という異常な欲望を満たす為に…

「俺の父もやられたッスよ。だから二人の探し物がそれだと分かってたのに協力を怠ったんス。マコトにマウシワケないッス‼︎」

 潔く頭を下げる。うーん、ポルトガル語に突然ぶち込まれる日本語の何とも言えないマッチ感。

 いやいや感慨に耽ってる場合ではない。今回はあくまでルオ社長の依頼。品は手に入らない、情報も出ないときたら、あの凶悪なワンマン社長がどういう手段に出るか…

 ボスも私の物言いたげな眼差しに気付き、苦虫を百ポンドくらい噛み潰した顔で吐き捨てる。

「幾らワイでもなぁ、人間の部位・・なんてよう売らんわい」

 じゃあ、と訊きかける私を手で制す。

「皆まで言うな。あの業つくばり社長は裏で闇勢力とも繋がっとる。事務所に戻らんでこのままトンズラこくど。暫くは表道を歩けん賞金首ブラックリスト確定や…糞ったれ!」

 私は綻びかけた口許を慌てて隠しながらボスに背を向けた。こういう不器用なところは嫌いになれない上司である。

 こんな私達のやりとりを、ダヴィは深刻に鼻の下に指を当てて聞いていた。

「ちょっと、待ってて下さいス」

 そうして席を立つこと十分間。たったそれだけの時間だった。

 次にリビングに現れたとき、彼の手には青いビニール袋が無造作に握られていた。

「一応軽く血抜きしてから二重に包んで保冷剤入れてあるッス。これを持ってって下さいス」

 そう言って微笑む彼の両足は明らかに爪先が無くなっており、痛々しくも血塗れの包帯が巻かれていた。

 私は飛び上がり、ボスも色を失い口をへの字に曲げる。

「な、なんで⁉︎」

 ダヴィは早く受け取れ、とばかりに両腕を突き出した。

「俺と早苗サンを襲った連中、多分そのルオ社長に雇われたんスよ。どこからかこの村にヒントがあるって事を聞きつけたんでしょう。このままじゃ村の子供や年寄りが狙われるんス。終わらせるには、実物を渡して依頼を遂行するしかないッスよね?」

 なんで。なんでそこまでするのよ。それも、そんなに簡単に…

 己の手でおのが身を切り刻み持ち運びやすくした上で差し出すダヴィの姿に動けない私に舌打ちし、ボスはビニールを引ったくると玄関に走る。

「ワイはこれを空輸便してくる!早苗、お前ジブンはダヴィ君の手当てをしっかりしてやれ!そのままやと最悪敗血症になるさけな!」

 言われるまでもない。私は目元を手の甲で強く拭い、ダヴィに向かってはっきり言った。

「私、これでも応急手当てと看護は一通りできるから。肩貸して。二階に上がって、消毒からやり直しましょ」

 二週間後。ダヴィの包帯を替えていた私の耳に、階下で彼の祖父が聴いているラジオの公共放送ニュースが届いた。

『…北米を代表する資源開発企業の会長、ルオ氏が先日亡くなりました。死因については公表されていませんが、最近の氏の異常行動から…』

 さも当然といった私の様子に、ダヴィが不思議そうに驚かないのかと尋ねた。

「多分こうなるんじゃないかと思ってたの。貴方達村の人のつま先の変形・変色はね、多分シガテラ毒による物なのよ」

「シガテラ?」

 私は頷く。

 長年廃水などの解毒処理をろくにされず採掘されてきたレアメタル。その金属類のどれか、或いは未知の元素がこの村一帯の水源や土壌を汚染し、そこに暮らす村人の体に堆積して発現した。だから採掘以前の老人には見られない。採掘が止まった今となってはもう、子供達にも起こらないだろう。

 ──尤も、毒である以上、その方が良いのだ。

「直接影響を受けてきた人には何ともない。けれど、それを他の生物が食べると恐らく中枢神経系を冒して狂わせる…脳をつぶさに調べない限り分からないでしょうけど、そんな事遺族が許さないでしょうね。ま、自業自得の見本よ」

「お陰で危うくギャラ取りそびれるとこやったで」

 顔を上げる。部屋の入口にアロハに短パンのボスが額サングラスで寄りかかっている。

「いや〜とんぼ返りはかなんわ。ちゅうか奴さんの親族が総がかりで毒殺やないかって騒いだってなぁ。秘密にしとったのが功を奏したわい」

「そうですか…まあ暫くは帰国しないほうが良さそうですね」

「せやな。早苗の個人的にもそン方がええやろ?」

 私は思わずダヴィを見た。彼の方も私を見つめた。二人の視線がぶつかり、ボスの言葉の匂わせが着火剤になって私達は赤面して俯く。

「金はたっぷりせしめたさけ、え義指も探したるわ。ご祝儀やな!」

 ひゃっひゃっひゃ。ボスの豚のような笑い方も、今日はちょっとだけ愛嬌があるように感じられた。

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神々の果実 鱗青 @ringsei

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