後編

 ピュリタニアの東部に位置する難山タイダルクレストは、切り立つ崖と深い森が連なり、かつて誰もがその険しさに心を挫かれたと言われる。山道にはいくつもの仕掛けがあり、魔獣や魔竜が獲物を狙い、迷い込んだ登山者達が命を落としてきた場所であった。


「<モーンリス>はここのどこかにある……」


 アグナスは険しいタイダルクレストの山中深くまで足を踏み入れていた。ここに人狼の一族が住む隠れ里がある――だがどこにあるかはわからない。これまで多くの冒険家を偽る密猟者が入り込んでいったが、這う這うの体で帰るか、そのまま遭難して行方不明となるしかなかった。


「何かを知ることができるかもしれない。不思議とそんな気がしてならない」


 腰に帯びた白鋼の剣に手を触れた。その刀身は相変わらず淡い光を脈動させ、まるで導き手のように鼓動している。アグナスの心には微かな恐れもあったが、それ以上に進むべき道を信じる確固たる意志があった。それに何故か不思議で懐かしい感じがする。


「この感覚は何だ……」


 アグナスは摩訶不思議な気持ちになるも険しい山中を進み続ける――すると周囲の霧が次第に濃くなり、視界を遮った。霧の中からは低く唸るような音が聞こえ、それが魔物の気配であることを彼はすぐに察した。


「何かが来る」


 腰から剣を抜き警戒する。鋭い聴覚を頼りに、周囲の音を慎重に聞き分ける。そのときだ、霧の中から現れたのは人のような姿をした影が現れた。しかし、次第に近づくにつれてその影が獣じみた輪郭を持っていることが明らかになった。銀色の毛が霧の中で輝き、黄金色の瞳が暗闇を切り裂くように輝いている。


「人間……お前がこの地に足を踏み入れるとは、命知らずなことだな」


 現れたのは齢四十半ばの人間であった。アグナスとよく似た髪の色をしているが、鮮やかな銀色に輝いており、神話の時代を記した伝記に登場する人物のような威厳をまとっていた。しかし、服装はボロの装いでもあり、どこかこの地の険しさを象徴するような姿だった。


 彼の体は堂々としており、人間の姿でありながら、どこか獣じみた威圧感を放っている。その目には鋭い黄金色の光が宿り、まるで相手の本質を見抜くかのようにアグナスを見つめていた。


「私はこの地の者でザラストラ、フェルニアスの血を引く者の一人だ。人間よ……お前が恐がらぬよう今は同じ姿をしている」


 ザラストラと名乗った男はアグナスの持つ剣をじっと眺めていた。彼は黄金の瞳を持ち、アグナスの腰に帯びた白鋼の剣に鋭く注がれる。その視線にはただの興味ではない。深い怒りと哀しみ、そして愛情が入り混じっているようだった。


「その剣……それが我が妹のルナリエの骨で作られた剣か」

「どういうことだ」

「魂の声でわかる。そうか、お前が鍛冶師オリンの息子か」


 アグナスは剣を握る手に力を込めながら、目の前の男――ザラストラの言葉に耳を傾けた。


「父を知っているのか」

「よく知っている。彼奴は旅の鍛冶師として、また密猟者として、この世で最も強力な剣を作るなどという下らぬ夢を追い続けていた」


 アグナスの眉がピクリと動く。


「密猟者だと? 父がそんな人間だったとでも言うのか!」


 ザラストラの黄金の瞳が鋭く光る。その瞳に凝視されたアグナスは二、三歩後退した。このザラストラという男は構えを取らぬとも、強き獣の威圧感を放っていた。


「お前の価値観ではどうか知らんが、我々フェルニアスの一族にとっては明確に『密猟者』だ。我らを鉱物と同じとして見ている他の人間達と変らない」

「まさか父は……」

「そう、我らフェルニアスを狙っていた。欲する同じ仲間と手を組み、我々が住む里を目指してタイダルクレストに入ったのだ。しかし、お前の父は仲間とはぐれ、山中に迷い込んでしまった。そうして運命的に我が妹ルナリエと出会ったのだ」


 ザラストラの語りには、どこか哀愁と苦しみが滲んでいた。アグナスは剣を握りしめながら、じっと彼の話を聞いていた。


「ルナリエはお前の父が怯えぬよう人間の姿を借りて命を助けた。我々も人間の姿を借りて暫く彼奴の様子を見た。彼奴をどうするか<モーンリス>では論争が起きたが、ルナリエはオリンを救うことを主張し続けた。理由は単純だ――ルナリエは彼奴に惹かれてしまったのだ」

「人狼の一族が? 馬鹿な……」

「太古の昔からの言い伝えだ。人間と人狼の種は同じであったが進化の過程で異なる道を歩んだ。我らフェルニアスの一族は人間と同じ心があり、愛し、悲しむ感情も同じだ。ルナリエも例外ではなかった。彼女がオリンに惹かれたのは、心根に持つ純粋なまでの『強き剣』を求める子供のような感情に共鳴したからだろう」


 ザラストラの言葉にアグナスは驚きを隠せなかった。人狼がかつて人間と同じ起源を持っていたという考えは、これまで聞いたことがなかったからだ。


「オリンもまた、ルナリエを人狼ではなく一つの魂として愛した。だが、それは一族の掟によって許されるものではなかった。フェルニアスの一族は外部との深い絆を禁じている。過去に幾度も人間との関係が悲劇を招いたからだ」


 ザラストラの声には、哀しみと怒りが入り混じっていた。彼の言葉が進むたびに、アグナスの胸中は複雑さを増していった。まさか、このルナリエという人狼こそが自分の――。


「我々はオリンを罰するか、禁忌を犯したルナリエを罰するか、それとも二人とも罰するか――里では数十日の議論を重ねた結果、長の提案でまとまった。二人とも条件付け、ここから汚らわしい外の世界へと追放することにしたのだ」

「条件?」


 ザラストラはこくりと頷いた。


「一つ、<モーンリス>のことは他言しないこと。二つ、ルナリエは一生人間の姿のままで暮らすこと。三つ、ルナリエが死んだ場合はその遺骨を<モーンリス>へと弔うためにオリンが戻ることだ。一つでも約束を破った場合は我らの一族から刺客を送り込み、闇へと眠ってもらうことにした」

「ならば……父は……」

「禁忌を犯した、彼奴は三つ目の約束を破ったのだ」

「そうか……私の母は……」


 アグナスは己にフェルニアスの血が流れていることを悟り、手に持つ剣を見つめた。その刀身は淡い光を脈動させ、まるで彼に語りかけるかのように鼓動している。幼き時にいなかった母はずっと彼の成長を見守っていたのだ。その瞬間、アグナスの心には嵐のような感情が押し寄せる。


 彼の目の前にある剣――それは、単なる父オリンの遺した武器ではなく、母であるルナリエの魂そのものだった。その現実を受け入れるには時間が必要だった。しかし、剣を握る手から伝わる温かな感覚――それは、まるで母ルナリエが自分に語りかけ、慰め、支えてくれているかのように感じられた。ザラストラはアグナスの様子を見守りながら、静かに語りかけた。


「そうだ、ルナリエはお前の母親だ。禁忌を犯した罪を背負いながらも、最後までお前の父を愛し抜いた。彼奴は最後に言った、ルナリエの最期の願いは『子を護る剣』になることだと。強き剣を求めたオリンは、最後には護る剣を作ろうと決心してその願いを叶えた……だが、それが我らの掟に反する行為だったことも否めない」


 胸に広がるのは怒りと悲しみ、そして愛情の入り混じった複雑な感情だった。アグナスは剣を見つめたまま沈黙する。その刀身は微かに脈動し、彼の心情に呼応しているかのようだった。母ルナリエの魂が自分を守り、支えてきたという事実――それは彼の心を強く揺さぶった。


「……母が、俺を見守り続けていた……」


 その言葉を口にすると、アグナスの胸にこみ上げていた感情が一気に溢れ出した。彼は剣を握りしめ、その冷たさの中に宿る温かさを感じた。それは、ただの武器ではなく、母の愛そのものだった。ザラストラはその姿を見守りつつ、低く穏やかな声で続けた。


「ルナリエの愛は純粋だった。そしてオリンも、その愛に応える形で剣を鍛えた。それは許されざる禁忌だったかもしれないが、お前にとってそれが何を意味するのか……」


 アグナスは剣を握る手に力を込め、ゆっくりと顔を上げた。そこには人間の姿ではなく銀色の毛並みを持つ人狼が立っていた。


「お前の父を殺したのは私だ。斬るならば斬るがよい」


 アグナスはザラストラの言葉を聞き、目を見開いた。目の前に立つザラストラは、その身体全体から静かな覚悟を纏っている。同胞の血、妹の血、愛する者の血が流れる人間の気が住むのならそれでよいという決心である。


 仲間を連れず、一人でアグナスの前に現れたのは事実を伝え、アグナス自身の判断に委ねるためだったのだろう。ザラストラはその黄金の瞳でアグナスを真っ直ぐに見据え、静かに立ち尽くしていた。その姿は覚悟と贖罪である。


 剣を握りしめたままアグナスは、内なる葛藤に苛まれていた。父を殺した男が目の前にいる。それを斬ることが当然の報いであり、正義であるはずだった。しかし、この男が語った真実の重み――父オリンの苦悩、母ルナリエの愛、フェルニアスの一族の掟に縛られた運命――すべてがアグナスの怒りを複雑な感情へと変えていた。


「……俺がこの剣を振るう理由は復讐だけではない。父の遺志を継ぎ、母の魂を宿すこの剣の本当の意味を知るためだ」


 アグナスは剣をザラストラの喉元に突きつける。白刃が面前に迫るザラストラは目を閉じ、覚悟を決めている様子であった。


「お前が父を殺した罪を赦すつもりはない。だが真実を知った今、この剣をただの復讐の道具にはしたくない――」


 アグナスの声には怒りだけでなく、深い悲しみと覚悟が混じっていた。彼は剣をゆっくりと下ろし、鞘に収め、ザラストラへと差し出した。


「――父に代わり約束を守ろう。母の魂を弔ってやって欲しい」


 その言葉にザラストラの瞳がわずかに揺れた。その黄金色の目には驚きと敬意、そして深い慈しみが宿っていた。彼は暫しの間、アグナスの顔と差し出された剣を交互に見つめ、やがてその大きな手で剣を受け取った。


「……オリン、いやルナリエの息子よ。この魂は受け取ろう」


 その剣をザラストラ優しく抱えた。まるで赤子をあやすように――。


「<モーンリス>の奥深くにある<魂の泉>に、この剣を連れて行こう」

「<魂の泉>だと?」

「我が一族の安寧なる寝床となる場所の名だ。その地でルナリエの魂は解放される」


 アグナスは深く息をつき、ザラストラの言葉に頷いた。


「……一緒に行ってもいいか。母の魂が安らかに眠れるその瞬間を、自分の目で見届けたい」


 ザラストラは頷くと、再びその厳しい顔に微かな柔らかさを宿らせた。


「よくぞ帰ってきた――我が同胞よ、家族よ。オリンとルナリエの息子ならば、里の者達も歓迎するであろう」


 ――王国ピュリタニアの東部に位置するタイダルクレストには、昔より伝説が息づいている。この山には人狼フェルニアスの一族が住むとされる隠れ里<モーンリス>がある。


 そこには<フェルニアスの剣>があるとされ、その剣は白絞色の刃軸を持ち、月の光に射されるたび、凝りつくことなき光の緋箔を放つという。この剣は太古の鍛冶師オリンとその息子アグナスが打った剣で魔獣の肉を断ち、龍の骨を断ち、鉄を容易く裂く威力がある名剣であったという。


 <フェルニアスの剣>――その剣に込められた物語は時を越えて、今も民話の一つして語り継がれている。また王国ピュリタニアの空には、満月の夜になると淡い光が山間に漂うと言われる。その光が、<フェルニアスの剣>に宿る魂の輝きだと信じる者もいるという――。

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フェルニアスの剣 理乃碧王 @soria_0223

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