第12話
「次だな」
「ああ」
信二と大気は静かに席を整える。昼食を食べ損ねたが、そんなことはどうでもよかった。目の前に広がる舞台、そこでこれから行われる千沙たちの演奏を見届ける。それだけが二人の関心事だった。
舞台の照明が落ち、第二甲府高校吹奏楽部が静かに入場してくる。白いライトがステージ上にスポットを落とし、整然と並ぶ彼らの姿が浮かび上がる。千沙もいる。その姿に、信二の視線が吸い寄せられる。
ちらりと隣の大気を見る。彼は前をじっと見据えたまま、何の反応も示さない。普段の大気なら何か一言言いそうなものだが。その沈黙が信二の心に小さな不安を芽生えさせる。
アナウンスが響き渡り、場内がさらに静まり返る。そして、指揮者がタクトを構えると同時に、千沙たちの演奏が始まった。
課題曲が終わり、自由曲の演奏が始まる。
土橋の指揮棒が振り下ろされると、ティンパニーの深いソロが響き渡り、第一楽章『レント-アレグロ・リトミーコ』が幕を開けた。その音楽は、愛する人を失った悲劇を描いていた。
金管楽器と木管楽器が重なり合い、絶望を象徴するような音色を作り出す。それは、悪夢の中に迷い込んだかのような錯覚を覚えさせた。低音楽器の響きが会場を満たし、その深さが胸の奥まで迫ってくる。
千沙の頭の中には、あの日の記憶が鮮明に蘇る。
あの夕焼け。こんなに美しい夕日を見たのは久しぶりだった。大気とのデート、偶然が重なって実現したその時間は、忙しい日々の中で得た貴重なひとときだった。それが、絶望への一歩とは知らずに。
信二からの電話。受話器越しに聞いた言葉が何か、今でもしっかりと覚えている。そして、胸の奥から湧き上がったざわめきも鮮明だ。その不安が現実となり、病室で見た大気の姿。もう動くことのないその手。
「なんで……なんで、なんで……!」
低音楽器が重層的に押し寄せる音が、お腹に響く。その重みと、心を引き裂かれるような記憶が重なり合い、千沙は目の前が真っ暗になるような感覚を覚える。
ティンパニーの力強いリズムが打ち鳴らされる。命が尽きるその瞬間を象徴するかのような一打。それは、千沙自身が体験した「終わり」と重なるものであり、彼女の心を深く揺さぶった。
音楽が一瞬の静寂に包まれ、第一楽章は幕を閉じた。しかし、千沙の心の中では、その余韻が強く鳴り響いていた。
パーカッションが神秘的なメロディーを刻み始める。それは夜空に広がる星々の瞬きのようで、耳元で囁くささやかな祈りのようでもあった。
第三楽章『メスト「ナタリーのために」』。その旋律は、作曲者が亡き娘の温かな思い出に浸りながら綴った音楽だという。
千沙の中で、音楽が思い出の扉を次々に開けていく。
大気を失ったあの日、彼女はすべてを失ったような絶望に打ちひしがれていた。涙が枯れるほど泣いても、世界の色は失われたままだった。それでも、時間が経つにつれ、少しずつ前を向くことができた。そのきっかけをくれたのは、紛れもなく信二だった。
「そして夏の日々……」
頭の中に、甲子園を目指して練習に明け暮れた野球部の日々が浮かぶ。泥だらけになりながら必死に走り、投げ、打つ。その合間に交わした何気ない会話や、笑い声の響くグラウンドの風景。そして、県大会での熱戦の記憶。どれもが彼女の中で鮮やかに輝いていた。
「甲子園……」
まさかそこで吹けるとは思っていなかった。信二、そして大気が中学から追い続けた目標。その舞台に立てたこと、その瞬間の喜びは、何にも代え難いものだっただろう。何より、信二と大気があんなにも嬉しそうにしている姿を見られたことが、千沙にとっての宝物だった。
メロディーが柔らかな木管楽器の音色から、金管楽器の力強い響きへと移り変わる。第三楽章は静かな始まりから徐々に盛り上がりを見せ、その広がりは千沙の心の奥深くまで届いた。
大気との時間は、失った日々を取り戻すようなものであり、どこか奇跡のようだった。甲子園での再会、清里で見た高原の絶景、再び愛宕山で見たプラネタリウム、そして何より、夏祭りのあの夜。提灯の明かりに照らされた笑顔、花火の音に負けないくらいの笑い声。彼との思い出は、どれも色鮮やかで、手放したくないものばかりだった。
しかし、心のどこかでずっと理解していた。
「大気には、タイムリミットがある……」
音楽が高鳴る。第三楽章のクライマックスが訪れ、ウインドオーケストラ全体が織りなす壮大な響きが会場を包み込む。その中で、千沙の心は揺れながらもひとつの結論に辿り着く。
「何かを失うことで、何かを得ることができる。それが人生なんだって、やっと分かった」
彼がいてくれたからこそ、私はもう一度前を向けた。そして、今はもう大丈夫だと、そう思えるようになった。
「大気、本当にありがとう。本当に大好きだった。でも、もう大丈夫だから、安心してね」
音楽が次第に静まり返る。盛り上がりを過ぎ、静寂の中で穏やかに旋律が消えていく。その音の余韻が、千沙の心に深く刻まれる。
大気との最後の思い出に、そっと別れを告げるように。
瑠璃たちのホルンの力強い音色が響く。その旋律は、まるで厳しい寒い冬から、希望に溢れる春に移るように。第四楽章『フィナーレ/アレグロ・ジョコーソ』。
木管や金管が次々に旋律を受け渡し、曲のトーンは一気に明るくなる。トランペットがメロディーを奏でると、それは彼女自身の人生そのもののように思えた。失った悲しみや絶望を抱えながらも、それを乗り越え、前を向いて進んできた彼女の姿が音楽に重なる。
「まさに集大成だな……」
大気はそう思いながら、千沙の姿に目を留めた。その真剣な眼差しと、一心不乱に音楽に没頭する姿。そのすべてが眩しく、胸が熱くなる瞬間だった。
「俺って、まじで結構幸運だよな」
事故で一度死んだはずの命が、こうして戻ってきた。それ自体が奇跡であり、感謝すべきことだと思っていた。けれど、生き返った後の現実は厳しく、自分の居場所を見つけるまでには多くの葛藤があった。
死者に本来居場所はない。いくら周りの人が思ってくれても、死んだ者の存在は、時間の中で薄れていく。それを痛感するたびに苦しんだ。けれど、その苦しみの中でも、得られたものがあった。
俺は少しずつ自分と向き合おうとした。朝のランニングで、生前の実家の前を通るようになったのもその一環だった。最初は素通りするだけだったが、やがて母が気づき、声をかけてくれるようになった。そして第二甲府高校への転校を伝えると、母との会話は次第に増えていった。
「甲子園から帰った日、母がこう言ったんだ。『もし良かったら』って」
初めて生前の家の中に入ったその日、俺は仏壇の前に通された。
その仏壇には自分の名前が刻まれていた。自分が死んだのだと改めて実感し、同時にどれだけ愛されていたかが伝わってきた。その場で涙が止まらなくなった。母は困惑しながらも、優しく「ありがとう」と言ってくれた。その一言がどれだけ大きな救いになったか分からない。
楽章は中盤の讃美歌の部分へと進み、大気の心に深い感動をもたらした。
「俺って、こんなに愛されていたんだな……」
涙が止まらない。感謝の思いが胸の奥から湧き上がってきた。信二に対しても、心からの感謝を伝えたいと思った。
「信二、ありがとう。お前は最高のバッテリーだよ。俺はお前以上の相棒を知らない」
そして千沙へも。
「千沙、本当にありがとう。迷惑ばっかりかけたけど、お前は最高だ。お前の前向きな姿を見ていると、俺もやっと自分を許せる気がする。
それでも、やっぱりお前はすごいよな。どんな困難があって、苦しんでも、それでも前に進んでいく。こうやって、今仲間と共に最高の演奏をしている。きっとそれは、見えない努力があってだろう。だからこそ、これからも見守っているから。だから、無理しないで、自分のペースでね」
曲は最高潮の盛り上がりを迎え、ウインドオーケストラ全体が熱気に包まれる。その中で千沙は、前を向く。
「これが最後の演奏。だから、後悔はしない。この先待っている美しい未来のために、後悔したくない」
千沙の瞳には涙が光っていたが、それは悲しみではなく、新たな一歩を踏み出す覚悟の涙だった。音楽が終わりに近づくにつれ、その涙は笑顔に変わっていく。
音楽の最後の一音が響き渡り、会場に静寂が訪れる。その瞬間、大気は千沙にそっと微笑みかけた。
「千沙、未来へ」
そして千沙も微笑み返した。その笑顔には、もう迷いも未練もなかった。未来への一歩を確信した者だけが持つ、強さと輝きがあった。
「すげえ演奏だったな」
信二は呟くように言った。気が付くと、自分の頬を涙が伝っていた。それに気づきながらも、止める気にはならなかった。舞台の千沙の表情を見ると、満足感に満ちた穏やかな顔をしていた。その横で、大気も泣いていた。いや、号泣していた。
「あの」
大気が声をかけてきた。
「ん?」
「ティッシュ持っていますか?」
大気の涙声混じりの問いかけに、信二は一瞬驚いたが、すぐに肩を震わせて、泣きながらも笑いそうになった。それでも、なんとか顔を保ちながらポケットを探る。
「ああ、使え、馬鹿」
ティッシュを取り出して、光にそっと渡した。その瞬間、信二は心の中で確かに感じた。
「これで大気とも心の中で別れを告げられた」
ありがとう、大気。お前が戻ってきてくれて、俺たちはまた前に進めた。そして、これからも進んでいける。
ティッシュを受け取った光が、泣きじゃくりながらもお礼を言う。信二はその様子を見ながら、自分の胸がじんわりと温かくなるのを感じた。
三人の間に流れる特別な時間。それは何かが終わり、また新たな何かが始まる予感に満ちていた。
記念撮影中、土橋はずっと号泣。なかなか珍しく、演奏を聴きにきていた卒業生たちは爆笑していた。そしてその近くを見ると、瑠璃に慰められる熊谷君を見て、意外にかわいいところもあるなと感じた。
「千沙」
振り返ると、今日は満面の笑みの瑞希が立っていた。
「どうだった? 満足した?」
「もう、最高!」
瑞希はきっと、純粋に音楽を楽しめたのだろう。近くにいた、言い合いになった部員に誘われ、自撮りをする。その様子が、本当に微笑ましかった。
「先輩!」
隣の雪ちゃんが何かを見つけたように呼び掛ける。そこには、信二たちがいた。
その後急いで片付けをし、信二たちと外へ出た。
夕方の空が目に飛び込んでくる。その色合いは、まるで絵画のようで、儚かった。
夕陽は地平線に沈みかけ、橙色の光が辺り一面を染め上げている。空の端には紫がかった雲が広がり、夏の湿った空気を吸い込むたびに、夕暮れ独特の匂いが心を満たす。風は穏やかで、日中の暑さを少しだけ忘れさせてくれるようだった。
そんな空の下、信二たちが千沙の前に並んでいた。信二がふと空を見上げて口を開く。
「いい夕焼けだな。何か、特別な日って感じがする」
その言葉に、千沙自身も頷いた。信二の目には、夕陽が映り込んでいて、どこか遠くを見つめるようだった。
千沙は大気の方に向き直り、小さく微笑む。
「工藤君」
名前を呼ぶ声が静かに響いた。彼は少し驚いた顔をしたが、すぐに真剣な眼差しを向けた。
「本当に今までありがとう」
夕焼けの中、その言葉は静かに、しかし確かに伝わった。
工藤君は一瞬視線を落としたが、すぐにその言葉の真意を理解すると、顔を上げた。
「こちらこそ、本当にありがとうございました」
その声には、未練を隠しきれない切なさがあったけれど、どこか吹っ切れたような響きもあった。
千沙は夕陽に照らされた彼の表情を見て、そっと微笑んだ。その横顔に漂う寂しさもまた、この夕焼けに溶け込むようだった。
空は刻一刻と色を変え、オレンジから深い紫に移り変わっていく。別れの瞬間を包み込むように、夏の終わりを告げる風がそっと三人を撫でた。
2026年4月6日
山梨県は相変わらず、人口減少が進んでいる。それでも最近は少しずつ明るい話題も増えてきた。
県内では、お笑いの大きなイベントが立ち上げられるらしく、地元メディアはちょっとした騒ぎだ。その仕掛け人が一番上の姉の高校時代の同級生だったと聞いて驚いたけど、どうやらそこまで親しくはなかったらしい。
そんなことよりも、私は自分の新しい一歩を控え、心を弾ませていた。そして、この物語を書き終えたことが、どこか区切りをつけた気持ちにさせてくれる。
一番上の姉が吹奏楽部だった影響もあるのか、私は自然と芸術や表現に興味を持つようになり、中学では文芸部に所属した。ある日、部の課題で家族の話を題材にしたノンフィクションを書くことになり、姉を題材にすることにした。
今回の作品を書きあげるために、色々な当事者にも話を聞いた。面白い事実もいくつかある。
まず甲斐学院の古橋、樋口は、どちらもプロ野球選手となった。しかし高橋は結果が出ず、引退。だが、樋口は粘り強く努力を積み重ね、今年とうとう一軍デビューを果たした。遅咲きではあるが、彼なりに決意が強かったのだろう。
また、輿水大気を殺した死刑囚について。弁護士を通じて、話を聞くことができた。どうやら最初はやってやったという気持ちで粋がっていたが、自分の妹が悲しんでいることを知り、段々と気持ちが冷めていった。そして今では反省し、事件を起こした当事者として、その経験を語り、若者への事件防止への協力を惜しみなくしていると言う。
そしてそんな当事者の中でも工藤光が一番印象的であった。彼は元々、その容姿のせいで、女性トラブルになったという。しかもその女性が野球部の先輩の妹だったため、いじめられてしまった。そのいじめは、かなり陰湿で、いじめの中心生徒の親が教育委員会の一人であったため、教師も知らんぷり。そのため自殺しようとしたが、夢の中でとある不思議な体験をし、そのまま夢を見るように第二甲府高校の生活を見て来たという。その中で、何度か輿水大気と会話することもあり、彼から投球術やら野球理論やら叩きこまれ、非常に勉強になったと言う。
「春?」
部屋のドアが軽くノックされる音がする。顔を出したのは、教師として働く一番上の姉だった。
「何?」
「もうそろそろ寝たら? 明日入学式でしょう?」
「もう寝るー」
姉は呆れ顔でドアを閉めたけど、どうせ私が夜更かしするってわかっているんだろう。
姉は今年27歳。ついに結婚が決まり、幸せそうだ。
それに関して言えば、実は生前、輿水大気は工藤光にも、三浦信二にも、どちらともとある約束をしていたと言う。今回の結婚は、その約束を守った形のため、二人ともなかなか義理堅いと感じた。
ただ、結婚指輪を見せてもらったときは少し驚いた。思いっきり子どもっぽいデザインで、一瞬おもちゃかと思ったけど、宝石だけは本物らしい。姉曰く、「思い出が大事」なんだとか。私はまだそんな感覚がよくわからないけど、いつかそういうのが素敵だと思える日が来るのかな。いや、やっぱりハリー・ウィンストンの指輪がいいな。
だんだんと眠気が襲ってくる。机の上のタブレットを閉じながら、私は静かに息を吐いた。
「これで、終わり」
明日から私は高校生になる。正直姉と同じ高校に、さらに教師として姉のいる高校に行くのは、かなり恥ずかしい。けど、新しい友達、部活、学園祭、そして何気ない日常、どんな青春が待っているのだろう。期待と不安が入り混じる中で、胸が高鳴る。
限られた時間だからこそ、大切に生きたい。そして、最高の思い出を作りたい。どんな出会いがあるだろう。きっと素晴らしい日々が待っている。
「おやすみ。そして、ありがとう」
窓の外では、夜の空に春の匂いが漂い始めている。それはまるで、新しい物語の幕開けを告げているようだった。
17の夏 夏坂ナナシ @natsuzaka0810
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