第11話
野球部を引退して、もうすぐ一か月。受験勉強が生活の中心に置き換わると、何だかんだで日々の楽しみが薄れていく。
先に部活を引退していた松田や須賀たちは、「ウェルカーム!」と手を叩いて喜んでくれたが、やっぱり体を動かせる時間が減るのは寂しいもんだ。
とはいえ、ありがたいことに都内の大学から声をかけてもらえたおかげで、受験はあるけど心に少し余裕がある。けど、その話をした瞬間、松田が「お前、マジでふざけんなカス」と睨み、須賀は「てめえ、ぶち殺すぞ」と無表情で言ってきた。冗談だと思う。たぶん。
そんな彼らは置いといて、俺のクラスは受験ムードまっしぐら。今や授業はほとんどが自習になり、みんな黙々と机に向かっている。俺も静かに机に向かいながら、ふと時計に目をやった。
「千沙たちは、そろそろ学校から出発した頃だろうか」
そんなことをぼんやり考えていると、ポケットが微かに震えた。スマホのバイブレーションだ。一瞬、隣の席の伊藤が顔を上げてチラッとこちらを見たが、何も言わずにまた過去問へ集中していった。俺も気まずくなりながら、マナーモードにするのを忘れていたことを後悔する。
急いでポケットからスマホを取り出すと、新着メッセージの通知が画面に表示されていた。送り主は、大気。
なんだと思って開いてみると、その内容を見た瞬間、思わず「は?」と声を漏らしてしまった。さっきまでの静寂が嘘みたいに、周囲の視線が一斉に俺に突き刺さった。
今年の西関東大会は群馬県の前橋市で行われる。出場するのは、山梨県をはじめ、埼玉県、群馬県、新潟県から選ばれた代表校たち。全国大会への切符は、この高校A部門で3校に絞られる。
ここ数年、埼玉の御三家と呼ばれる学校がその座を独占しているが、私たちはまずこの大会に出ることを目標にやってきた。そして瑞希の言葉で、さらに良い演奏を目指すことに決めた。
お祭りの後、3年生だけで改めてミーティングをすることになった。まず全員が、それぞれ本音を話すことに。いや、これが意外と多種多様で驚いた。3年間も一緒にいたのに、やっぱり本音って簡単には出てこないものなんだな。
でも、そのぶつかり合いがあったからこそ、さらに話し合いは深まった。どうすればみんなが納得して、満足して終われるか。正直、難関大学を目指す子たちは「受験も大事」と言っていた。そりゃそうだ。でも、それ以上に「このまま引退するのもなんだか嫌だ」ってつぶやく声も多かった。
その声を聞いた途端、瑞希が突然涙を流した。人前で涙を見せるなんて彼女にとっては初めてのことだ。驚きと同時に、3年生全体で何かがまとまったような気がした。
その後の全学年ミーティングでは、これまでの経緯を正直に話し、後輩たちに謝罪した。隠し事は一切なし。きっとこの子たちも、この学校の特性上、いつか同じような壁にぶつかるだろうと思う。そして、その上で「後悔しない演奏をしよう」という方針を全員で確認し合った。話し合いがまとまり、空気が和らいでいく中、ふと見ると土橋がどこか嬉しそうにこちらを見ていた。
もちろん私の個人的なことも色々進んだ。お祭りの後、時間を許す限り、私は大気と一緒に遊んだ。甲府駅の周りや、愛宕山の方、強歩大会で行く千代田湖にも遊びに行った。正直、練習と受験勉強、そして家が遠いこともあって、時間を作るのは難しくて限られていた。それでも、その時間こそが特別で、宝物のような思い出になった。
そして今。大会のため、今日は前泊で群馬県内の温泉宿に泊まることになった。学校をお昼前に出発し、長野県経由で向かう。
大会直前に別のホールを借りて練習することもできるが、今回はそうせず、敢えて早起きして、午前中に学校でみっちり練習をしてから向かう。楽器をトラックに載せ、バスに整列する。
今日は金曜日で、他の生徒たちは授業をしている。大会のため、吹奏楽部は免除され、部活の半日練習のスケジュールとなっていた。正直見送りが無いのは寂しいけど、とりあえず今は大会に集中したい。
今回は甲子園の時と違って、瑠璃と隣の席だ。瑠璃は「楽しみね」と浮かれつつ、バスはゆっくりと動き出す。その瞬間、ラインの通知が鳴った。「応援しているね」と、大気からのメッセージ。心が少し温かくなった。
バスに揺られながら、高速道路に乗る。瑞希の指示で、歌合奏が始まる。私は何度も楽譜を確認しながら、まじまじとその曲に向き合っていた。
渋谷での演奏を聴いた後、ロビーで偶然出会った土橋の教え子、武山さんというティンパニー奏者と少し話をした。彼女はなんと、かつてバーンズ本人が指揮する演奏を聴いたことがあるらしい。あるウインドオーケストラの客演指揮者として来日していたそうだ。
武山さん曰く、遠くから見たバーンズは白髪が印象的な外国の紳士で、特にそれ以上のイメージは持たなかったとのこと。ただ、彼女が言うには、「君たちが勝手にイメージを作り上げるのではなく、作曲者自身がどんな思いで曲を書いたのか、もっと考えてみるのも大切かもしれない」とのこと。その言葉が妙に心に響いた。
もちろん部全体でも行ったが、再度個人的に調べることにした。
しかし、情報は限られていて、どこまでが正しいのか分からない。曲の解釈のサイトも英語ばかり。それでも、そのサイトに書かれていたことを翻訳し、第一楽章と第三楽章の理解はある程度イメージ通りであったと分かった。
だけど、第四楽章に関しては大きく違っていた。私たちの解釈では、ただ前に向かって進むというイメージだったけれど、そのサイトによると、バーンズ夫妻に新たな子どもが生まれたことが影響していると書かれていた。それが、前に向けて「明るく」進むということに、さらに深い意味が込められているのではないかと考えた。
そこで私は、ただ「明るく」進むことと、お祭りで感じた、何かが犠牲となりながらも、それにぬくもりを感じ、人生の新たな希望を得て「進む」ことの違いについて考えた。正直、今の演奏では「明るく」前に進むということはできているけれど、それだけで良いのか? 本当に後悔しない演奏とは何か。それが私の心に残る疑問となっていた。
ふと気づくと、歌合奏は終わっていた。八ヶ岳のサービスエリアを越えて、もうすぐ長野県に入るところだ。明日の大会では、おそらく私の吹奏楽人生も一つの大きな節目を迎えるだろう。心の中で、後悔しない演奏をしたいという気持ちが強くなった。
夕食後、私たちは温泉を楽しんだ。ここは群馬県の川原湯温泉。草津温泉の近くにあり、古くからの歴史を誇る温泉地だという。しかし、八ッ場ダムの建設により、この地の温泉街は移転を余儀なくされた。新しい場所で生まれ変わったこの宿は、モダンなデザインが目を引き、伝統的な温泉地の面影をどこかに残しつつも、とても洗練されていた。
第二甲府高校の卒業生で、宿の若旦那と友人だという人のつながりで、私たちは特別な計らいを受けていた。おそらくかなり高級な宿なのに、部員全員が泊まれる破格の値段で提供してもらったらしい。60人という大所帯のため、宴会場も寝室に早変わり。それぞれの部屋はぎゅうぎゅう詰めだったけれど、みんな楽しそうに過ごしていた。
けれど、私はなかなか眠れなかった。心が落ち着かない。宿の中で静かにしているのも辛くて、外に出てみることにした。すると、瑞希がこっそりついてきた。
「寝られない。大会前だもんね」
彼女は苦笑いを浮かべた。どうやら同じ気持ちらしい。
瑞希とはあの後、すごく距離が縮まった。もともと瑞希自身、かなり私のことをリスペクトしてくれていたようで、本当はもっと仲良くしたかったらしい。けど、人間関係はかなり不器用で、3年間をかけて、ようやく本当の友達のように話ができるようになった。そのことが、ただただ嬉しかったが、どんだけ不器用なのかと笑ってしまった。
二人で宿を抜け出し、外に出ると、夜の空気は冷たく澄んでいた。気が付くと、この辺りは既に秋なのかもしれない。周りにはダム建設に伴う工事の名残があちこちに見られる。日中はどこかせわしなく、人の気配や作業音が響いていたこの場所も、夜にはすっかり静まり返り、月明かりだけが淡く辺りを照らしている。遠くに見える八ッ場大橋が、闇の中にぼんやりと浮かび上がっていた。
「この静けさ、ちょっと不思議だね」
瑞希がぽつりとつぶやいた。
「昼間の喧騒が嘘みたい」
「うん、ほんとに」と私も応じた。
「でも、この場所の人たちにとっては、きっと複雑な気持ちなんだろうね」
実は宿に泊まる際、若旦那から何となくこの町の歴史を教えてもらっていた。だからこそ、今見える景色が少し違うように見える。その中を私たちはゆっくりと歩きながら、自然と曲の解釈について話し始めていた。
第三楽章の名前には、「ナタリー」という、亡くなった作曲者の娘の名前がつけられている。作曲者は、第三楽章にその亡くなった娘への想いを込めているとは分かる。
「ねえ、若旦那の話じゃないけど、もし自分の住んでいた土地がなくなるって分かったら、どんな気持ちになると思う?」と瑞希が尋ねた。
「たぶん、最初は悲しいと思う」と私は答えた。
「失ったものへの喪失感が大きい。でも、時間が経てば、懐かしさとか、感謝、愛着の気持ちも出てくるのかもしれない」
瑞希がうなずく。
「それって、第三楽章の解釈に少し似てない? 失ったものへの悲しみと、その思い出を懐かしむ感情。どっちもあるのかも」
その言葉に、私はふと考え込んだ。大気を失った時、私はとにかく悲しくて、自分を責めてばかりだった。
でも、大気が久しぶりに目の前に現れた瞬間、付き合った頃の楽しかった日々が一気に蘇ってきた。懐かしくて、嬉しい気持ちが込み上げてきた。その一方で、今目の前にいる大気と新たな思い出を作っていることにも、喜びと感謝が溢れてきた。それは、その過去の楽しい思い出があるからこそ、より格別に感じられたことなのかもしれない。
やがて、私たちはダム湖の予定地にたどり着いた。今はまだ水がない広大な土地が、月明かりの下に広がっている。その景色を眺めながら、私はふと思った。
もしかしたら、第四楽章はそうした感情を乗り越えた先にあるのかもしれない。第三楽章で娘への思い出が一区切りとすれば、第四楽章はその悲しみを背負いながら、新しい世界へ前進する姿を描いているのだろう。過去を背負いながらも、それでも未来に向かって進んでいく。ただ明るいわけではなく、重荷を感じながら、勇気を持って、それでも前に進む。この温泉地のように。
私は土橋のアドバイスを受けて、大気と再び出会えたことが、まるで第四楽章の喜びのように感じていた。しかし、そうではない。その先には、もっと深い喜びが待っている。しかし、それは実質、大気との別れを意味する。いつか来る別れを受け止め、その上で前に進む。それが分かっているからこそ、第三楽章の音色にも、もっと工夫が必要だと感じた。
私は第四楽章ばかりに気を取られていたが、そうではない。この曲は交響曲だからこそ、それぞれの楽章が独立しながらも、全体として成り立っている。そのことが、ようやく腹落ちした。
その時、ポケットの中でスマートフォンが震えた。ラインの通知。「ちょっと、千沙と瑞希、どこにいるの?」と瑠璃からのメッセージ。
それを瑞希に見せると、苦笑。
気がつくと、私たちは川原湯温泉駅の近くまで来ていた。
高崎線の車内、窓の外に広がる群馬の風景が流れ去っていく。
「うぉ、初群馬だ。」
大気が目を輝かせて外を眺める。
信二は軽く笑いながら、「お前、本当にのんきだな」と呟くが、その表情にはどこか緊張が滲んでいた。今日は吹部の西関東大会当日。
「お前さ、新体制始まっているのに、部活休んで来ていいのか?」
信二が軽く窘めるように言うと、大気は肩をすくめてみせた。
「監督からちゃんと許可取ったってば」
「へぇ、意外と素直だな。何て話したんだよ?」
「全て」
その一言に、信二の表情が変わった。
「全てって……どういう意味だ?」
信二の問いかけに、大気は目を細めながら静かに答えた。
「俺、もう分かっている。時間が、あんまり残ってないってこととかもね」
一瞬、車内のアナウンスが響く。
「次は高崎~、高崎~」
しかし信二の意識は、目の前の友の言葉にすべて集中していた。
「お前、それって……」
信二の声は途切れ、大気の言葉を待つ。
「甲子園の頃も、記憶が少しずつ混ざり始めていた。千沙のおかげで戻ったけど、やっぱりダメみたいだ。最近じゃ、中学のことも、去年の夏の大会のこともぼんやりしていて、代わりに工藤光の記憶が流れ込んでくる」
「そんな……」
信二は信じたくないように目を伏せた。だが、大気の言葉は止まらない。
「俺はもともと異物だ。この体は工藤光のもの。優しくしてくれる光の家族を見ていると、申し訳ない気持ちになる。でも同時に、そろそろ返すべきだなって思うんだ」
信二は深く息をつく。思いの外冷静に語る大気の姿に、どうしても感情が追いつかない。
「だから、俺が輿水大気としていられるうちに、やるべきことを全部やるんだ。監督にも話したよ。事故は監督のせいじゃないし、俺は幸せだったって。それだけ伝えたかった」
信二の心に浮かんだのは、千沙のことだった。彼女は知っているのか? 怒りと焦りが入り混じる中で、信二は思わず声を荒げた。
「千沙には? 言ったのか、それ全部」
「うん、祭りの後に、しっかり話した。でも、千沙はちゃんと前を向いて歩き始めている。今日は、千沙の姿を見るだけでいいんだ」
大気はそう言って微笑むが、その表情には微かな不安が見え隠れしていた。
「次は、新前橋~新前橋~」
電車が減速し始める。信二は大気を見つめながら、覚悟を決めたように頷いた。
「分かった。でも、最後まで俺はお前の味方だからな」
その言葉に、大気はほっとしたように笑い、窓の外へ視線を戻す。流れる景色の中で、二人の会話は静かに途切れた。
「いやー緊張します」
隣の雪ちゃんがぶるぶると震えている。いつもは頼りになる雪ちゃんだが、こういう場面では緊張しやすいのが少し可愛らしい。そして、意外にも熊谷君まで顔が引きつっているのを見て、私は小さく笑ってしまった。
ここ、群馬県民会館が今日の西関東大会の舞台。午前の部が終わり、午後の部が静かに始まろうとしている。
「まあまあ、大丈夫よ」
自分自身に言い聞かせるように雪ちゃんを励ますが、私だって内心はかなり緊張している。
チューニング室の中で、最後の音合わせを終えると、土橋が前に立った。その瞬間、誰もが演奏を止め、自然と注目が集まる。
「今日の演奏についてだが……」
土橋の声が部屋の中に響く。いつも通りの淡々とした口調だが、少し違った何かを感じさせた。
「よく、『音楽だから、音を楽しもう』って言うけど、俺は正直、それは無理だと思っている」
突然の発言に、一同は少し驚く。
「特に大会ってそういうものだ。緊張もプレッシャーもある。だからこそ、『楽しむ』じゃなくて、演奏に没頭してくれ。それがいつか振り返った時、楽しかったと思える瞬間につながるから」
土橋にしては珍しい、感情のこもった言葉だった。
「そして、3年生」
その言葉に、三年生の背筋が自然と伸びる。
「この3年間、苦しかったな」
土橋の声は静かで、それでも深いものがあった。
「西関東大会に行けたのも、この一回だけ。それは俺自身の力不足だったかもしれない。でも、お前たちは最後まで必死に食らいついてきてくれた。本当に嬉しかった。ありがとう」
そう言って、土橋が頭を下げる。その姿を見た瞬間、数人の3年生が涙をこぼしているのに気付いた。
教師という仕事は、きっと仮面を被ることも多いのだろう。言いたいことが言えなかったり、生徒に誤解され、嫌われたりすることもあるだろう。それでも、生徒を導こうとする姿に、私は改めて感謝の気持ちを抱いた。土橋は、不器用ながらも私たちを支えてくれる存在だ。
「時間です」
係員の声が響き、私たちは一斉に立ち上がる。これが最後のステージだ。
「さあ、フィナーレを飾ろう」
足を一歩踏み出すたび、胸の鼓動が高鳴る。舞台袖に向かい、緞帳の向こうから聞こえる静寂に耳を澄ませる。いよいよだ。最後まで、全力で演奏しよう。
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